この水がはいると

2005.11.27(SUN)
新城教会 滝元 明師

旧約聖書 エゼキエル書 47 章1節〜 12 節
彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 ハレルヤ!おはようございます。今朝、皆さんといっしょに御言葉を学ぶことができて感謝します。今日は「この水がはいると」というテーマで学びます。このエゼキエル書の記事は、エゼキエルという人物がバビロンの捕囚の時に、一つの将来に対する幻を見せられたことを記録しました。紀元前五七三年にこの幻を見たと言われています。この預言は、将来イエス様が再臨され、千年王国が来る時にエルサレムの神殿から水が流れ、水かさが増え、海に流れ込むというものです。しかし、今の状況から見るとエルサレムの神殿から水が出るというのは、不可能なことです。けれども、やがて水が流れ出て、死海の方に入ります。死海は塩が多くて浮いてしまうところです。聖書の注解書によると、この水がはいる時、すなわちイエス様が来られる時には、死海は淡水になると言われています。淡水ということは、塩がなくなるというのです。そして死海の水が地中海に流れていくというのです。地形的に見ると非常に難しいことですが、イエス様が来られる時には起こされると預言しています。

 黙示録には、天のエルサレムについても書かれています。天国にも同じように水があり、木の実があり、素晴らしい祝福があることが書かれています。やがて私たちも、何年後かわかりませんが、いつかこのような光景を見ることができると思います。

 しかしこの箇所は、霊的な意味もあります。水が流れて川を渡ると水が足首まで、ひざまで、腰まで、そして泳げるほどになったとあります。これはある意味で、今の時代に合わせて見ることができます。それは「聖霊様の流れ」だと思います。それが流れ出て素晴らしい祝福を受けることができると教えています。エルサレムから水が流れたということは、イエス様が二千年前にこの地上に来られ、十字架につけられ、死人の中からよみがえって天に帰られ、五旬節の日に聖霊が注がれました。その聖霊が流れて世界中に拡がり、今はその流れがこの新城にもあります。使徒の働き二章四十一節から四十七節に書かれています。

『そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。』

とあります。聖霊が注がれ、ペテロの説教で三千人がバプテスマを受けました。これは足首まで水が浸かっていた状態だと思います。教会に来て聖霊に促されてバプテスマを受けます。今日ここにおられるバプテスマを受けられた方々は、ある意味で流れの中に一歩踏み込んだ方々です。そして次には四十二節に、

『そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。』

とあります。足首までではなく、ひざまで水が浸かったという状態は、バプテスマを受けただけではなく、もう一歩深みに入ったということです。「使徒たちの教えを堅く守る」ということは、礼拝に来て神様の言葉を学び、ともに祈り、御言葉をつかまえることです。そして「交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。バプテスマを受けただけではなく、もう一歩進んで礼拝を守ることです。神の御言葉を学び、聖餐に預かるだけではなく、膝までということは、ひざまずいて祈ることだと思います。また四十三節から四十五節に、

『そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。』

とあります。これは非常に深い領域です。「いっさいの物を共有にしてした」とあります。これは所有物に対する解放です。貧しい人たちにも互いに分け合い、皆、豊かになりました。

 腰までということについては色々な解釈がありますが、一人の牧師がこのように話されました。「だいたい男性は腰のところに財布が入っています。腰まで水に浸かった人は、それを喜んでささげる人」と話されました。教会に来て金をとられると言う人もいます。聖書は、「宝を天に積みなさい」とあります。ささげることが嬉しくてたまらないという人は腰まで水に浸かった人です。また四十七節に、

『神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』

とあります。恵まれてイエス様のことを伝えたいという思いで、人々に伝道できる人は泳げる程に水に浸かった人だと思います。また、毎日賛美に満たされている人だと思います。いつでも皆に福音を伝えるという祝福が記されています。「この水がはいると、そこの水が良くなる」とあります。

 この教会で、一九九二年に素晴らしい聖霊の注ぎがあり、それ以来聖霊の流れがあります。「この水がはいると、そこの水が良くなる」とあります。聖霊の注ぎがあってから霊的な戦いが始まり、よくとりなしの祈りに行きました。この教会の近くにある中学校は、一九九一年頃、暴力や喧嘩がたくさんありました。中高生の集会の前に、中学校近くにある神社へとりなしの祈りに行きました。そして、その背後に働く悪魔に対して、打ち砕きの祈りをしました。その後、中学校に暴力や喧嘩がなくなりました。聖霊がはいると水がよくなります。もしも皆さんの家庭が聖霊に導かれたら、あなたの家庭から争いがなくなり、平和になります。また、犯罪がなくなります。

 今度の日曜に、フィジーから牧師先生が来られ、御言葉を語ってくださいます。フィジー島には解放のわざが起こり、国が良くなりました。犯罪がなくなり、国が良くなり、素晴らしい事が起こされています。神学校でも講義してくださいます。

 この新城市も水が良くならなければなりません。教会があり、イエス様を信じたことにより、新城市には犯罪がなくなり、交通事故がなくなり、喜びと愛と平和の町になるという祝福を受けなければなりません。

 そして「あらゆる生物が生きる」また、「非常に多くの魚がいるようになる」とあります。聖霊の働かれるところには、必ず祝福があります。人々が生かされます。そして非常に多くの魚がいると書かれています。

 朝早く私は家内とともにお祈りをしました。九十三年の甲子園の集会のことから思い出し、二人で話し合い、感謝しました。詩篇の「主よ。私の敵はなんと多いことでしょう。」という聖書の御言葉を読みました。そのころの事を思い出しました。私は県民の森によく入って祈りました。ある時に県民の森で山頂に行き、誰もいないと思って「主よ。私の敵はなんと多いことでしょう。この敵の力から、どうか救ってください」と祈っていました。すると三人程が私の祈りを聞きながら通っていきました。当時は激しい霊的戦いがありました。団体から追い出されたり、非難されました。その時に問題になったことは、新城教会に聖霊の流れがあり、霊的な戦いが始まったことでした。その時、百人近い人たちが教会から出て行きました。そして全国の教会で、「新城教会は三年以内につぶれる」という噂もありました。しかしここにおられる多くの兄弟姉妹が祈って支えてくださったので、つぶれることもなく、多くの方が集まり、祝福されています。以前はブラジル人やペルー人の方々と一緒に礼拝をしていましたが、しかし今、インターナショナルの人たちは土曜日に百名以上が集まられて礼拝をしています。この教会に、毎週、五百名程の方が集まられていることは、素晴らしい祝福です。

 この水がはいると、多くの魚がいるようになるとあります。私は考えました。この教会に色々な種類の魚がいると思いました。ひとりひとりが神から選ばれた魚だと思います。「非常に多くの魚がある」と書かれています。この教会には魚を捕る人がいます。牧師、伝道師、スタッフがいます。また、赤ちゃん、子ども、中学生、大学生、大学院生、教師(保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、神学校)、青年、壮年、実業家、また自動車の修理工場、販売などをされている方もいます。水がはいったので生き生きして増えています。また法律家もいます。行政書士、家屋調査士などがいます。また医者もいます。シンガポールでは、医者の五十パーセントがクリスチャンだと言われています。いつかこの教会は医者だけでもいっぱいになると思います。看護師、薬剤師、接骨師、助産婦など。また建築家でも設計士、大工、土木工事・水道工事に従事する人、印刷業(デザイナー、インテリアなど)、農夫(農業や林業)、政治家、労務者、音楽家がいます。この教会は音楽に恵まれています。ピアノを弾く人、ギターを弾く人、ベースを弾く人、ドラムを叩く人、バイオリンを弾く人、サックスを演奏する人など色々あります。また芸術家もいます。

 今日から教育館の二階で展示会があります。絵や写真が展示されています。また陶芸家もいます。サラリーマン、スポーツマン、塗装業、畜産業、外交の人、施設で働く人、公務員(警察官、自衛官など)、美容師、運送業、清掃業、レストラン経営者、消防士、保険の仕事をされている人、茶道・華道をされている方々など、素晴らしく種類があります。この水のはいるところには、多くの魚がいると書かれています。これは祝福です。そして「漁師たちはそのほとりに住む」とあります。

 この教会を考えると、水が流れていると思います。日本の平均礼拝出席者は三十七人といわれます。新城教会には、教会、プレイズ出版、リバイバルミッションという三部所があり、そこで働いている人だけでも四十人ほどいます。漁師たちは、そのほとりに住みつきとありますが、多くの方がこの近くに住んでいます。これも聖霊の恵みです。

 しかし聖書を見ると、「しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のまま残る。」とあります。リバイバルの水が流れても、それを反対する人がいます。「聖霊」と聞いただでシャットアウトすることがあります。どんなに素晴らしい水が流れても、祝福されないところもあります。しかし私たちは、聖霊様を歓迎しましょう。エゼキエル書四十七章十二節に、

『川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。』

とあります。黙示録二十二章二節に、

『都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。』

とあります。天国にはたくさんの木の実があります。

 私の母は、八十二歳でイエス様を信じ、九十二歳で召されました。召される前に昏睡状態になりました。私の兄嫁が言いました。「母もぼけて変なことを言うようになった」というのです。しかし私から見るとぼけてはいませんでした。私の母親が昏睡状態の時に、天国に行ってきたというのです。私にはわかりました。「あのな、素晴らしいところに行ったよ。川があって木の実がたくさんあって、素晴らしく綺麗な所で、歩いても足が痛くなかった。あんな所に行けると思うと嬉しくて仕方がない」と言いました。私の母は天国を見せてもらったと思います。天国に行くとたくさんの果物があります。キウイ、りんご、ぶどう、みかん、キンカン、ポンカン、デコポン、夏みかん、甘夏、オレンジ、スウィーティー、柿、いちじく、なし、びわ、あんず、桃、栗、あけび、ぶどう、バナナ、ドリアン、マンゴスチンなどもあると思います。だから私たちも天国に行くことを楽しみにしたいです。

 しかし聖霊の水に浸かると、今度は霊的な実をたくさん結ぶことができます。ガラテヤ書五章二十二節から二十三節に、

『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

美味しい果実がありますが、聖霊に満たされると「霊的な実」を結ぶことができます。『愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』とあります。イエス様を信じることは修養ではありません。信仰によって飛び込むことです。聖霊に満たされれば満たされるほど、良い実を結ぶことができます。これは人間の努力ではなく、聖霊によってです。

 喜びがありますか。平安がありますか。クリスチャンが持っているものは、御霊の実です。「愛」と書かれていますが、愛をどのくらい与えられているでしょうか。第一コリント十三章四節から七節に、

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』

 聖霊によって愛がいっぱいになっており、愛という実がたくさんできたら良いです。「愛は寛容」とあります。

 私は先週失敗をしました。私はジネンジョ(山芋)が好きです。私はジネンジョのくずを買います。安物を買いました。くずなので細いのです。すっていると折れたりして面倒くさいです。だから私はミキサーで作ろうと思いました。ジネンジョをミキサーにかけていたら煙が出てきました。またやろうと思うと、動きませんでした。仕様書を見たら、水を入れるようにと書かれていました。ミキサーは壊れてしまいました。私は家内に「株で人生を駄目にする人がいるけど、ミキサー一つくらい壊しても大したことじゃない」と言うと、私の家内は「そうねぇ。三千円くらいのことだから大した事はないね」と言って責めることはありませんでした。家内は寛容で嬉しかったです。その時にもし、「あんた、何で仕様書も見ないでやったのよ。水を入れなかったの?バカねぇ」と言われたら、落ち込むと思います。家庭の中にも寛容があることは素晴らしいです。

 また「愛は親切です」とあります。かつて田中先生がこんな話をされました。ある時に名鉄に乗って座っていると、隣にとても厚化粧した女性が座ったそうです。田中先生は嫌だなあと思っていたそうです。すると突然優しい声で、老人をいたわって、「どうぞ。こちらに座ってください」と言う声を聞いたそうです。誰かと思うと、その女性だったそうです。田中先生は、「人は顔かたちで見るけれど、あの人は素晴らしい人だった。」と悔い改めていました。電車の中で席を譲ることは親切です。

 「人をねたみません。」とあります。人間は葬式の時には一緒に泣きます。しかし誰かがクラスで一番になると、なかなか喜べません。誰かがもうかったり、成功するとなかなか喜べません。

 「愛は自慢せず、高慢になりません」とあります。神様の恵みを感謝しましょう。

 「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。」とあります。時々人の悪を思いますが、「赦します」と祈ります。

 「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」とあります。聖霊によって素晴らしい実を結ぶことができるように。良い実を結び、神の栄光を現すことができるように祈りましょう。

 難しいことではありません。「この水がはいると、そこの水は生きる」とあります。聖霊様がおられます。イエス様に心を開いて、「イエス様。私の所に来てください。お願いします」と飛び込みましょう。今日、くるぶしだけと言われる方は、一歩踏み出してください。

 「ひざまで」、祈れない方は、祈る人になって下さい。「腰まで」、ささげる事の苦手な方は捧げてください。ささげたら天の窓を開いて祝福してくださいます。

 また「泳げるほど」、伝道、賛美など聖霊に満たされた人生を皆さんと共に歩んでいきたいと思います。この新城に素晴らしいことが起こされて、素晴らしいリバイバルが起こされることを信じます。信じたら祝福です。自分は駄目だと思っても駄目ではありません。聖霊様はあなたに祝福を与えてくださいます。良い実を結ぶことができますようにお祈りしましょう。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』

 愛が増し加えられるように、聖霊の良い実を結ぶことができるように。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実を結ぶことができるようにお祈りしましょう。一言お祈りします。


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