黙れ、静まれ!Part2

2005.12.11(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 マルコの福音書  4 章 35 節〜 41 節
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 ハレルヤ!今朝はロン・ブラウンさんたちが来られて、素晴らしい賛美を聞くことができて感謝します。

 私は十月にアメリカに行きました。その時、ロンさんから「祈って欲しい」というメールがありました。それは、「マキーダさんがガンかも知れない、たくさんの腫瘍が発見さた。手術をしなければならないから、ぜひ祈って欲しい。来日は難しいかも知れない」というものでした。私はそのことをアメリカでの奉仕の最中に聞き、神の前に「助けてください。私たちの想像を超えて働いて下さい。」と真剣に祈りました。

 多くの場合、長い祈りの中で、主が私たちに語ってくださるように思います。しかし短い祈りの中で、主は私に御言葉を語ってくださいました。それが詩篇二十篇でした。

『苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。』

 この御言葉が心に響いてきました。そのことをロンさんに電話して告げました。そしてロンさんがマキーダさんに、話してくださいました。彼女はとても驚いたそうです。なぜならば、私が受け取った御言葉をもう一人からも受け取っていたからです。それで彼女は、「神が祈りに答えてくださる」という確信を持ったようです。

 私たちの人生には、大嵐がやってくるような時があります。揺れに揺れて、あわや沈没するかも知れないというような事があります。しかし、私たちの舟の中に、イエス様が乗っていてくださるならば、イエス様は波と風に向かって「黙れ、静まれ!」と命じてくださいます。「風がやみ、大凪になった」とあるように、イエス様は人生の問題を解いてくださる素晴らしいお方です。

 今日も私たちのただ中に、イエス様がおられます。イエス様が共におられることを感謝し、主の御名をあがめましょう。

 今年のクリスマスは、主が新城教会に素晴らしいクリスマス・プレゼントを与えてくださっていると思います。先週はフィジーからブニアニ先生が来られ、フィジーのリバイバルについて語ってくださり、この日曜日には、ロンさんの一行が来られ賛美によって祝福してくださいました。昨晩もコンサートがあり、三百数十人の方々が来られました。今晩も多くの方が集まられる予定となっています。この小さな町を主が哀れんで下さっていることを、心から感謝します。昨日は、新しい新城市長さんが来てくださいました。嬉しい事です。教会がどのようなものかを見てくださったと思います。やがてこの町が、主をたたえる町になることを、心から願っています。

 人生はちょうど小舟に乗り込んで、未知の対岸に乗り出していくようなものです。次の瞬間、何が起こるのか全くわかりません。皆さんも人生という小舟を、未知の対岸に向けて、進めておられると思います。海はある時は鏡のように静かで、平安の象徴のようにも見えますが、一度風が吹いて荒れ狂うと一瞬にして悪魔と化します。

 人生も海に似ています。途中で大嵐になり、あわや沈みかけるようなことも起こりえます。しかし私たちにとって必要なことは、「イエス様が舟の中に乗っておられること」です。イエス様を信じているならば、小舟の中にイエス様が乗ってられます。もしも、まだあなたの舟中にイエス様が乗っておられなかったら、今日、イエス様に乗っていただくことが幸せの条件です。

 クリスチャンになったら、すべての問題から解放され、自由になると言いたいところですがそうはなりません。いくらイエス様を信じても、大揺れに揺れるようなこともあります。この箇所は、そんなことが起こり得ることを教えています。

 弟子たちはイエス様のアイディアで、向こう岸に出かけていきました。しかも、イエス様が舟に乗っていたのにもかかわらず、舟は大揺れに揺れていました。人生が何事もなく、問題もなく進んで行けたら、どんなに楽しいだろうかと思います。しかし、何もない人生は楽しそうに思えるかも知れません。しかしそれはあまり、エキサイティングな人生ではないと思います。色々なことがあるからこそ、メリハリを持って生きることができるのだと思います。定年になって、仕事がない、何の責任もないといわれる方もおられるかも知れません。そのような方々には、たっぷり時間があって、何でも自由にできるのかも知れません。けれども、そのような立場になって考えることは、未来のことよりも、過去、忙しかった時のことや、風が吹いて大変だったこと、また、それらをどのようにして乗り越えて来たかなど、思い出を中心に話します。案外、波風が立っているときこそ、人間は力強く生きれるのかも知れません。そんな中で、主のみ業を見ることができます。

 ある活き魚を運ぶ業者がありました。日本人は残酷にも、活き魚を食べます。和歌山港から大阪に活き魚を運ぶ業者でした。どんなに工夫を凝らしても、商品の魚が死んでしまいました。どうしたらすべてを生きたまま、市場に届けることができるのだろうかと悩み、水に工夫を凝らしたり、エアー・システムに工夫を凝らしたのですが、なかなかうまくいかず、いくつかは途中で死んでしまったそうです。

 しかしある日のこと、魚が一匹も死なないで、全て生きていたそうです。驚いて調べてみると、一つのことがわかったそうです。なぜ全部の魚が生きていたかというと、その日に限って、魚の中に天敵であるタコが一匹混ざっていたそうです。タコは魚たちに襲いかかり、攻撃をしかけていたそうです。魚たちは食われては困るので、真剣にタコから逃げ回っていたのです。そうしたら、魚は死ぬのを忘れたようです。全部の魚が生きていたそうです。それからその業者は、毎回、魚を運ぶときに天敵のタコを一匹入れるようになったそうです。それから全て生きて、市場に届ける事が出来るようになったそうです。

 時々、神様は私たちの人生にも、タコのような存在を投げ込みます。私たちは敵がいると苦しいのですが、真剣に神に叫ぶのです。

 マルコの福音書四章の記述の中にも、弟子たちが沈没しそうになって、どうにもならなくなったとき、イエス様は舟の中ですやすや眠っておられました。ここからイエス様の性格を知ることができます。

 人間には色々なタイプの人物がいます。火事があっても、地震があっても全く起きないような人と、かすかな音で起きてしまうような人と色々います。私はどちらかと言うと、何があっても起きない性格の持ち主です。家内は繊細で、メールの着信音でも起きてしまうようです。「夜はマナーモードにして」とよく言われます。マナーモードにするとバイブが鳴るようになっています。机の上に置いておくと、振動で起きてしまうようです。「毛布でくるんでおいて」と言われます。私は地震があっても寝ています。「昨夜地震があったって本当?」と言うようなものです。イエス様は大嵐になっても、眠っておられました。ここを読むと私は安心します。人となられた神がマナーモードで起きるくらいでは、ちょっとたよりなく不安です。しかしイエス様は大嵐の中でも眠っているような、図太いお方でした。だから私たちは信頼できるのです。そんなイエス様を弟子たちは、「イエス様、イエス様、起きてください。私たちが溺れそうでも、何とも思わないのですか。」と言いました。この言葉からも、弟子たちは、本当にパニックしていたと思います。イエス様はそんな弟子たちの要請に答えて起きたようです。

 起きあがって「黙れ、静まれ!」と叫ばれると大凪になりました。私はこの御言葉が大好きです。「順先生はどの御言葉が好きですか?」と聞かれるときに、最近は「黙れ、静まれ!という言葉が好き」と答えます。

  眠っているイエス様を起こすとは、「祈り」を表しています。私たちの人生の中に色々な問題が起こったときに、私たちはいても立ってもおられなくなり、イエス様を起こさなくてはならなくなります。それは祈りです。人間だけが祈る動物ですが、なぜ人間だけが祈るのでしょうか。それは祈りを聞いてくださる対象がおられるからです。

 あなたにとって、一番祈りが心に湧き上がってきたのはいつでしたか。それは、人生に波風が立った時だったと思います。祈りは、小舟に一緒に乗っておられ、眠っておられるイエス様を起こすことです。

 「イエス様。起きてください。私たちは溺れて死にそうです。起きあがってください。」と叫ぶのです。イエス様を起こすならば、イエス様は立ち上がって私たちと共に戦ってくださいます。

 聖書は章や節があるので、読みやすくなっていますが、もともとは章や節はなく、連続したストーリーです。もしも四章で風が強くて、舟が沈没して全員が死んでしまったとか、風が強すぎて港に戻ったとしたら、五章のストーリーはあり得ません。なぜならば、五章は舟がゲラサの地に着いてから始まるストーリーだからです。ということは、五章は、四章の風に打ち勝った結果として、記録されているストーリーなのです。五章一節から十節に、

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 四章で大風が吹き、イエス様が「黙れ、静まれ」と叫ばれたことにより、凪になりました。その結果として、舟はゲラサの地に着きました。その時、墓場の中から一人の男が出て来ました。そして、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」と言いました。この男は悪霊に支配されていました。その悪霊の名は「レギオン」と言いました。「レギオン」とは、固有の名前ではなく、ローマ軍の「大隊」を意味しています。六千ほどの兵士のグループを指す言葉でした。六千の兵士を配下に置いている、レギオンと言う組織がそこにありました。なんと、そのレギオンがイエス様の足もとにひれ伏して、「私たちを追い出さないでください」と懇願したのです。そして彼らの最も大きな要求は、

『自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 四章と五章をつなげて理解できるのは、風が物理的な風であったとしても、その背後に霊的な力が介入していたとしても、イエス様一行がゲラサに来ることがなかったら、レギオンは敗退しなかったということです。

 ということは、結果的に、「この風は妨害の風」でした。ヨブ記の関連性から見ると、悪魔や悪霊は、一つの限定された範囲の中で自然界をも操作する力を持っている事がわかります。(二〇〇五年十一月二十日メッセージ「黙れ、静まれ」参照)ヨブの家族が、悪魔によって殺されたストーリーがあります。それは、「風が吹いて」家がつぶれて死んでしまいました。ゲラサへ向かう途中の風は、レギオンという六千にも及ぶ、悪しき力が介入していたと理解してもよいと、私は思います。

 人生にも、時々大嵐が吹いて来るようなことがあります。私たちは、時々その現実だけを見て、「私たちは死にそうです」と言います。しかしイエス様は眠っていました。弟子たちは、ただ現実だけを見ていました。しかしイエス様は、現実というよりも、風の根源について理解していたのだと思います。

 クリスチャンになると何が変わるのでしょうか。それは、目に見える現実だけでなく、目に見えないところにある現実を知ることができるのです。同時に、目に見えない世界が、現実を支配するという原則についても気付かされます。見えない世界で勝利を取るときに、見える世界でも勝利を受け取ることができるという、原則を知ることができます。祈りとは、見えない世界に対して発せられている現実的な言葉です。その声は、見えない世界におられる神へと届き、戦いは見えない世界で行われ、見えない世界での勝利が、見える世界に結果として現されることです。

 私の人生にも、大風が吹いた時期がありました。それは、今から二十年以上前のことです。私は牧師の家庭に生まれ、何の問題もなく、すくすくと育ってきました。そしていつの間にか、私は皆から推されるようにして牧師になっていました。しかし私の一番嫌いな仕事は伝道でした。牧師で伝道嫌いなのは、致命傷だと思います。魚屋さんが魚を売るのが嫌いというようなものです。またもう一つ嫌いなものがありました。それが祈りでした。なぜならば、祈りに関してあまり良いイメージがなかったからでした。子どもの頃、我が家では、いつも食前に祈り会が持たれました。それは聖書を一章読み、それから祈ってから食事をしました。我が家は両親と兄弟七人、そしておばあさんの十人家族でした。食事をテーブルに並べて、聖書を一章読み、お祈りして食べるのです。その間、考えていることは、どれが一番分け前が大きいかということでした。しかし父は毎回、家族を集め、長い祈りをし、ツバを飛ばしていました。聖書も短いところは良いのですが、長い所もあります。私はいつも心配でした。詩篇はとても短いのですが、「一一九篇」だけは、とても長いのです。前々から交渉して、短くしてもらいましたが、私は祈りが大嫌いでした。牧師になってからも、祈りと伝道は大嫌いでした。

 しかしそんな者にも、祈らなければならない事件が起きました。それは二十数年前のことでした。まずは新城教会の中に、いくつかの事件が起こりました。それは、家内の一番の友人である奥さんのお腹が痛くなり、病院で見てもらうと「胃ガン」でした。

 そうこうしていたら、もう一人の若い奥さんがガンになりました。教会は皆で真剣に祈りました。そしてしばらくすると、今度は家内が体調を崩しました。

 ある日、家内は友人の見舞に行きました。その人がまだガンと診断される前でした。家内が友人の所に見舞に行き、病室から出てきたときに、「今、恐いことがあった」と言うのです。「話している時に、奥さんの後ろから黒い影が飛んできて、私に覆い被さったような気がした」というのです。私は「気のせいだよ。そんなの … 。あんた、いつも恐れがあるからだよ。」と言っていました。しかしその後、家内の調子が悪くなったのです。そして、わかったのが友人のガンでした。

 もっと真剣に祈りましたが、若い奥さん方は、相次いで亡くなっていきました。その時は悲しかったです。今まで「イエス様はいやし主です。」と叫んでいたのが、もう言えなくなってしまいました。「祈ったのに、死んだではないか … 」と思いました。家内の体調はさらに悪くなり、起き上がることができなくなり、やせ細っていきました。

 そうこうしているうちに、今度は、弟が病気になりました。彼はある時、変な咳をし始めました。そして段々痩せ始めました。病院に行って見てもらいました。すると、背骨の中に腫瘍があるかも知れないと言われました。それを聞いて私たちは、真っ暗になってしまいました。その時、私たちは非常事態でした。祈るのが大嫌いな私でしたが、祈るしかありませんでした。

 クリスチャンは素晴らしいです。どうにもならない時に、真剣に祈るという道が残されているからです。今、行き詰まっている方は、真剣に祈ってみてください。神様は、必ず、何らかの答えを与えてくださいます。私はそれを体験しました。

 ある時私は、決断しました。この近くに愛知県民の森があります。そこに行って、祈ろうと思いました。夜は皆が祈っていないから、神様は私の祈りを優先的に聞いてくれるのではないかと思いました。また、少しでも高いところならば、神に近くて聞いてくださるのではないかと思いました(神様は、どんな時にも、どんな場所でも、祈りに答える事が出来る方ですが)。

 真夜中に愛知県民の森の頂上で祈ることにしました。おにぎりを二つ作り、リュックサックに入れました。一月の寒い時でしたので、熱いお茶も入れました。そして、聖書を入れました。しかし、すぐに考え直し、どうせ真っ暗で読めないし、重たいのでリュック・サックから出しました。(笑)

 そして山に登り、真剣に祈りました。「このままでは、つぶれてしまいます。どうしたら良いのですか。助けてください!」と叫んで主に懇願しました。それまで私は霊的なことにあまり関心はありませんでした。悪霊についてなど、関心はありませんでした。

 「悪霊って何だろう。聖書の時代には生きていたけど、どこに行ってしまったのだろうか。イエス様が全部退治してくれたのだろうか。科学の発展にきっと悪霊はついて行けなかったんだろう・・・。」

 現代に悪霊がいるとしても、ノミのようなもので全く力のないものだろう、と思っていました。しかしそんな悪いことが連続して起こるので考えました。「もしかしたら・・・、これは悪霊的な働きかも知れない。」

 私はその晩、寒風吹き寄せる愛知県民の森の岩山の頂上に立ち、叫びました。イエス・キリストの御名によって悪霊は去っていくと聖書に書いてあるから、祈ってみようと思い、「イエス・キリストの御名によって命じる!今、教会や、我が家に働いているのがもしも悪霊ならば出て行け!!」と真剣に、怒鳴り飛ばしました。

 その瞬間、忘れられないことが起こりました。「悪霊よ、出て行け!」と言った瞬間に、自分の目の前に、何かが立ったような気がしました。それは、夢か幻かわかりませんが、真っ赤い顔をした天狗のような姿でした。私はその時、血が凍り付いたような感じで、その後、どうやって山を降りてきたのか記憶にありません。

 次の日に私はスタッフたちに話しました。「昨夜、山で祈ったら天狗が出た」と言うと、皆が笑いました。「誰だって夜中に山に上がって、悪霊よ出て行けなどと言ったら、夜は恐怖心があるんだから、そういう気にもなるよ … 」と言いました。

 しかし私は、確かに体験しました。「悪霊よ出て行け!」と叫んだときに、天狗が出て来たのです。私はそのとき、負けたと思いました。悔しい気持ちになりました。それで、絶対にリベンジしなければならないと思いました。

 それで次の週、同じ場所に、一人では怖いので皆を誘って出かけました。するとその夜、天狗は出てこなかったし、とても恵まれた祈祷会となりました。それは月曜日の夜でした。二回目の祈祷会がとても恵まれ、皆も喜びました。「毎週月曜日の夜に、県民の森に祈りに行こう!」となり、今日まで「県民の森祈祷会」として、祈りが続けられています。

 皆で祈るようになってから、原因不明で苦しんでいた家内は段々良くなり、弟も色々な検査をしましたが結局原因はわからず、その後、元気になりました。

 その時、主が教えてくださいました。「風を吹かす原因となる存在と戦うように」と教えられました。そのことに気づかされ、見えない世界で勝利をとることを知りました。その結果、現実の世界に勝利が表されるのを体験したのです。

 イエス様が「黙れ、静まれ!」と叫ばれたのは、自然界に向かって叫ばれたように感じますが、風を吹かせている原因となっていたレギオンに向かって、「黙れ、静まれ!」と叫ばれたのです。

 その結果、墓場から人が出てきて、「私たちをこの地方から追い出さないでください」と言いました。

 日本人は「物の中に霊が宿る」言う考え方を持っています。日本人の物を大切にする習慣は素晴らしいです。しかし、物を大切にする精神にも、物に霊が宿るという考え方と共にある場合が多いのです。たとえば、クリスチャン歴が長くなると、聖書がボロボロになり新しい聖書に買い換えます。しかし、古い聖書をゴミ箱に捨てることができますか?聖書は神の言葉だし、行間に神の霊が宿っているのかも知れない、聖書をゴミ箱に捨てると、後から罰が当たるのでは・・・と考えます。日本人が偶像礼拝をする背後に、「物に霊が宿る」という考え方があります。

 しかしマルコの福音書五章を見ると、悪魔・悪霊は物に宿るものではない、物は必要ではないことがわかります。悪霊が人の中に入っているように感じますが、悪霊は地域全体を治めていたことがわかります。時々、体の中に悪霊がいるかも知れないと恐れる人がいますが、悪魔・悪霊は体の中には住みませんから、心配しないでください。なぜなら、悪魔・悪霊は物質を必要としない霊的存在だからです。体のような物体があっても、すり抜けてしまいます。レギオンは策略を持って地域を支配しているのです。このレギオンに立ち向かうことが、現実の勝利につながるとマルコの五章では教えています。

 特に、新城教会に主が教えてくださっていることは、リバイバルのためには地域を支配するレギオンに、「黙れ、静まれ」と戦いを挑むときに、墓場から人が出てくると言うことでした。レギオンが制せられたときに、ゲラサのどうにもならない男が出て来たのです。

 十三年前に、「地域を支配する霊を打ち破る祈りをしなさい」と教えられました。それから、ずっと地域のために祈るようになりました。それ以来、墓場から人が出てくるようなことがたくさん起こっています。誰にも手が付けられず、どうにもならないような問題を持って死の瀬戸際のような人たちが、教会に来られ、回復することが起こされてきました。

 地域のレギオンが打ち破られるときに、人は解放されるのです。今日もしも人生の小舟が揺れていたら、その背後に地域を支配しているレギオンが関わっています。それらに対して、イエス様と同じように、立ち向かわなければならないのです。

 イエス様を信じることは、単に、「神様、助けてください」と弟子たちのように、「イエス様、起きてください」という側面もありますが、イエス様と同じように「悪魔に立ち向かう権威を授ける」と教えています。ルカ十章十九節に、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

とあります。私たちはイエス様を信じるときに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する権威が与えられると約束されています。私たちが人生という小舟に乗っていて時に風が吹いて大変なことがありますが、まずはイエス様が一緒に乗っておられるので心配せずに、眠っているイエス様を起こすことです。それは、祈りです。祈りの中でイエス様が立ちあがってくださいます。そして「黙れ、静まれ」と原因となっているレギオンの力に権威を発してくださいます。

 やがて対岸に着いたならば、イエス様から、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を受け取り、今度はイエス様と同じように「黙れ、静まれ」という働きをしなければなりません。

 クリスチャンは自分の住んでいる地域において、勇士となることが大切です。皆さんが住んでいる地域に、多くの墓場に住んでいるような人々、皆から拒否されて手が付けられないような、諸問題で苦しんでいる人々、悲しんでいる人々がおられるかも知れません。それはどこに原因があるのか?多くの人は「あの人たちが悪い」というかも知れません。そのような問題も少しはあるかも知れませんが、それよりも大きな原因はレギオンの勢力です。それに対抗して「黙れ、静まれ」と戦わなければ、人々は墓場から出てきません。その権威はそれぞれの地域に住むクリスチャンに託されています。クリスチャンたちが権威を受けとり、町に帰って権威を行使しなければなりません。そうしたら、地域を支配しているレギオンたちは働くことができなくなり、人々から手を放します。そして人々が墓から出てきます。そして主の元にひれ伏し、その人は変えられ、勇士となっていくのです。

 今朝もしも、イエス・キリストを信じておられない方がいたら、まずは人生の小舟の中にイエス様をお迎えしていただきたいと思います。そうしたら安泰です。

 同時に祈る者とならなければなりません。祈りによってイエス様が立ち上がられたら、今度はイエス様から権威いただき、権威を公使する者にならなければならないのです。

 今日、妨害の風が吹いていると感じている人は、イエス様を起こして、「黙れ、静まれ!」と祈りましょう。主は必ず勝利を与えてくださいます。目に見えない原因が打ち破られるときに、見に見える領域にも勝利がきます。

 私が天狗を見たときに、「なぜ天狗なのだろうか」と思いました。初めはわかりませんでした。しかしある時に教えられました。「あなたは偶像礼拝をしていないかも知れないけど、偶像礼拝は三代、四代の呪いとなるから、自分の家系についてよく祈らなければいけない」と言うことでした。

 私の父の家は津具村です。四軒しか家のない所でした。私は父の家がどんな偶像礼拝をしているのかを見に行く必要があると思いました。出かけていくと、父の家は津具村の入り口の家でした。橋を越えると大きな看板が立っていました。それは「天狗の里にようこそ!」という看板でした。父の家はかつて天狗礼拝をする修行場だったようです。主は私にそのことを教えたかったのだと思いました。そこで私は、「主よ、私の罪を赦してください。家系の罪を赦してください。束縛を解いてください」と祈りました。

 その時、主は私を解放してくださり、自由にしてくださいました。風は徐々に治まり、現在は祝福の中にあります。家系にある束縛が打ち破られるように祈りましょう。「黙れ、静まれ!」と命じて祈りましょう。

<祈り>

「今、私たちは心からイエス様を救い主として信じます。イエス様、私たちの舟の中に入って立ち上がってください。起きて下さい。

 風を吹かしている背後のレギオンに立ち向かって祈ります。イエス様も一緒に声を発してください。風を吹かせているレギオンよ。家系の中に働いているレギオンよ。よく聞け。黙れ、静まれ!

 イエス様、声を大にして叫んでください。風がやみますように。波が静まりますように。レギオンが打ち破られますように。勝利を与えて下さい。墓場から人々が出て来ますように。死の霊から解放してください。自由にしてください。イエス様の名前で祈ります。アーメン」


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