御心にかなう人

2005.12.18(SUN)
新城教会 滝元 明師

新約聖書 ルカの福音書 2章8節〜16節
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 ハレルヤ!おはようございます。今朝皆さんと共に御言葉を学ぶことができ、感謝します。今日は「御心にかなう人」というタイトルで学びます。イエス様はイスラエルのベツレヘムでお生まれになりました。その時に羊飼いたちに御使いが現れて、

『「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」』

 ベツレヘムは昔ダビデ王が生まれた場所なので、「ダビデの町」と呼ばれています。イエス様がお生まれになった時、御使いたちが現れ、賛美してこのように語りました。

 皆さんは天使がいることを信じていますか?私は信じています。見たことはないのですが信じています。一九九三年に甲子園球場で集会をしたときに、多くの子どもたちが「天使を見た」と言っていました。私が武道館で話していたときに孫たちが、「おじいちゃん、おじいちゃんが話していた時に、御使いがすぐ側に立っていたよ。」と言っていました。私は話しながら見えないのは残念ですが、「心の清いものは幸いです。その人は神の国を見るからです」とあります。私は心が曇っているから、見えないのかも知れません。

 私が大阪で集会をしていた時に、心の目が開かれている人が来て、「先生がメッセージをしていたときに、イエス様が会場にいる人たちを祝福しながら歩いていました。」と言われました。

 御使いが、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と言いました。クリスマスはイエス様の誕生日です。世界中で祝われています。世界にクリスチャンが約二十一億人いると言われます。イエス様は神様であったのに、神の栄光を捨てて一度だけ人類を救うために、神が人となられた方です。そして、十字架に付けられて三十三年の生涯を終え、死の力を打ち破られて三日目によみがえられた方がです。

 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」イエス様が来られたことによって、サタンのわざは打ち砕かれ、素晴らしい栄光をイエス様が天において受けられました。その時に、「地の上に平和が」と言われました。それはクリスマスに対しての素晴らしい御言葉です。地の上に平和です。今戦争や犯罪が絶えません。しかし、今年のクリスマスは、地の上に平和が訪れるように祈っていきましょう。

 また「御心にかなう人々にあるように。」とあります。平和、祝福は神様のみこころにかなった人々に訪れるようにというメッセージです。ですから、今日、神様のみこころにかなったら必ず祝福されます。皆さんも神様の御心にかなった人になって下さい。

 現代訳聖書で、ルカの福音書二章十節から十二節に、

『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。さあ、私は、すべての民に与えられるすばらしい喜びの知らせを持って来たのです。今日ダビデの村ベツレヘムで、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ待望のキリスト様です。あなたがたは、幼子がみすぼらしい布にくるまって、飼葉おけの中に寝かせてあるのを見るでしょう。あなたがたは、余りにも貧弱な格好のキリスト様だと思うかも知れませんが、これが救い主の印なのです。』

 天の神様が人類を救いに来られたときに、王様の宮殿に来られたのではなく、馬小屋に生まれました。マリヤとヨセフはナザレの村に住んでいました。人口登録をするために、自分の故郷であるベツレヘムに帰って行きました。するとユダヤ中から皆が帰って来たために旅館はいっぱいでした。そこで産気づいたので、一軒の馬小屋を持っている人にお願いし、そこでイエス様はお生まれになりました。世界の王の王が、みすぼらしい布にくるまって飼葉おけに寝かされていました。イエス様はへりくだって人類を救うために、この地上に来られたのです。

 御心にかなう人とは、「へりくだった人」です。イエス様が低いところにお生まれ下さったように、神はへりくだった人に目を留めてくださいます。イザヤ書五十七章十五節に、

『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』

とあります。神様の御心にかなう人は、「心砕かれた人」とあります。高慢な人は神様は嫌いです。神様は心を砕かれた人の所の所に来てくださると教えています。

 昨日、一人の人から電話がかかって来ました。「先生、相談する人がいないので先生に相談したいです。」と言われました。そして話を聞いていると、「クリスチャンは偽善者ですね。」と言われました。その方は教会で誰かに裏切られたのか、何かを言われたのかもしれません。それを聞いて、私はどういうふうに返事をしようかと考えました。そして、「日本人は悪い人ばかりではないですよ。悪い人もいるし、良い人もいる。またアメリカ人もそうです。クリスチャンも同じです。たまたま、あなたが出会った人が悪い人だったので、偽善者だと思うかもしれないけど、全部がそうではないですよ。私も教会に行く前は、そう思っていましたよ。クリスチャンなんて偽善者だと思っていましたよ。」

 偽善者とは、うわべだけはいい顔をし、陰では人を騙す二重人格者です。だけど私がわかったことは、クリスチャンが偽善者ということではなく、私自身が偽善者だとわかりました。正しく生きたいのに、正しく生きられないし、きよく生きたいのにきよく生きられない。結局人を騙すのではなく、私は自分を騙すような生活をしている。

 「私は自分が偽善者だとわかりましたよ。」と話しました。そう話すと、先生が書いた『われ土方なれど』を読んだから知っていると言われました。「どんなに悪口を言われても赦さなければ祝福されない。だから赦して、祝福することが大切なことですよ。」と言いました。すると、「赦さないと赦されないと聖書に書かれていますね」と言われました。

 私は「傷が癒されるまで時間がかかるかも知れないけれど、イエス様を信じて悪口を言った人のために祝福を祈ってあげなさい」と言いました。

 私は初めて教会に行ったときに、私もクリスチャンは偽善者だとか、悪口を言ったけれど、教会に入ったときにクリスチャンがあまりに綺麗で嬉しそうな顔をしていたので、私は何と汚い人間だろうかと思いました。人のことでなく、自分は汚れている。憎しみ、妬み、汚れた思いと、心がどろどろしていました。しかしクリスチャンは綺麗だと思いました。私は友達と一緒でなかったら、泣いて帰ったかも知れません。クリスチャンって何て綺麗なんだろうか。私もあんなふうになりたいと思いました。そして次の週に教会に行き、悔い改めてクリスチャンになりました。

 イエス様がこの地上に来られたとき、パリサイ人や律法学者、サドカイ人たちはイエス様に抗議しました。パリサイ人は、高慢で人ばかり裁いていました。「あなたたちは駄目だ」と人ばかり裁いていました。しかしイエス様が目を留められた人は、心砕かれた人でした。

 ある時にイエス様の所に体中に腫物ができ、人から隔離されて悲しんでいたらい病人が来て、「私を哀れんでください。お言葉できよくしてください」と懇願したときに、イエス様は、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。この人は、自分の顔が美しいとか、地位があるということではなく、自分が隔離された中で心が砕かれ、私のような人間は神の前に出る資格はない。人前にも出られない。しかしイエス様が来られたから、一度行ってみようと思いました。そしてイエス様に「私を直してください」と言うと、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。イエス様が素晴らしいことをされました。また詩篇五十一篇十七節に、

『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』

と記されています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい」とあります。神様が一番喜ばれることは、砕かれた心です。また「悔いた心」とあります。「砕かれたたましい」、「悔いた心」で神様の前に出ることができたら、その人は御心にかなう人です。詩篇三十四篇十八節に、

『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』

とあります。これはダビデ王が詠んだ詩です。彼は素晴らしい人でした。羊飼いであったのに、油注がれてやがてイスラエルの王になりました。彼は素晴らしかったですが、彼の人生の中にも失敗がありました。

 ある時、エルサレムの城壁で散歩していたときに、美しい女性が水浴びをしていました。それを見て、彼は情欲が燃え、使いを送りました。「あれは、ウリヤの妻・バテシバです。」ウリヤは兵士でした。しかし王様は権力があるゆえに、彼女を呼びました。そしてご主人が留守の内に、その女性を呼び、関係を持ちました。しかし何ヶ月かが経った時に、バテシバが来て、「王様、あなたの子どもができてしまいました。」と言いました。そこで王は考えました。彼はその主人を戦いの前線に出して殺し、彼女を自分の奥さんとして迎えました。

 するとある時、預言者ナタンが来て言いました。「王様、聞いてください。ある貧しい人が一頭の羊を持っていました。その人はその羊をかわいがり、自分の娘のように、ご飯を食べるときも同じ茶碗から食べるほど愛していました。しかしある日、隣の大金持ちの家に旅人が来ました。そこには羊も牛も多くある家でした。しかしこの金持ちは、自分の家の羊を料理してご馳走するのは惜しいと思い、隣の貧乏な家の一頭の羊を奪い取って料理しました。」と話しました。

 それを聞いた王は非常に怒りました。「そんな奴は死刑だ。四倍にして償え…」その時預言者ナタンは、「王よ。それはあなたです。」と言いました。

 どんな悪いことをしても、神の前に隠れるものは何一つありません。その時に王は何をしたでしょうか。彼は悪いことをしましたが、彼は神の前にへりくだって、「神様、赦してください。おっしゃるとおり死ぬべき人間です。赦してください。」と泣きながら罪を心から悔い改めました。

 時々人間は自分が罪を犯しても、「あの人のせいで…」と自分の悪いことを正当化します。しかしダビデは、「私が罪を犯した」と心砕かれました。その時に、神様がダビデを赦しました。その時に作った詩がこの詩です。

『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』

 彼はへりくだりました。初めにできた子どもは死にました。しかし次にできた子どもは、ソロモンでした。聖書に、『主はソロモンを愛された』と書かれています。

 時々教会に来ていても失敗する人がいます。しかしクリスチャンも人間ですので、失敗をします。しかしどんなに失敗しても、悔い改めてへりくだったら必ず神様は祝福してくださいます。「私は悪いことをしたことがない!」と威張っている人よりも、砕かれたたましいを神様は祝福してくださいます。もし皆さんの中で、失敗した人がいたら、神様の前に「失敗しました。赦してください」と心から祈ったら、神様は赦してくださり、祝福してくださいます。

 今朝、私は聖書を読んでいました。そのとき、神様には弱いところがあると思いました。それは、「悪かった」「赦してください」と言う言葉に神様は弱いのです。

 聖書にイスラエルの国のことが書かれていますが、今までの中でこんな悪い男はなかったと記されている王がいます。それは「アハブ」という王でした。なぜかというと、彼の奥さんが悪かったのです。結婚する時は良い奥さんを選ばなければなりません。妻であるイザベルが、アハズ王をそそのかして悪いことをしました。そうしたら、ついに神様は我慢できなくなり、預言者エリヤを遣わして、アハブにこう言いました。「アハブ。神様はあなたの家をさばき、子どもたちも殺されて肉を犬に食べられ、あなたの奥さんもそうなる。あなたの家にわざわいが来る」と言いました。

 その時アハブは、自分の着物を裂き、荒布を着て泣きながら、「私が悪かった」と断食をしてとぼとぼ歩いているときに、神様はそれを見てエリヤに言いました。「エリヤ。アハブのへりくだっている姿を見たか。わたしも心を変えよう。彼が生きているときにはわざわいを下さないことにする」と言われました。神様が負けました。どんなに悪いことをしても、神の前に己を低くしたら神は祝福してくださる方です。

『「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」』

とあります。神様は砕かれた人の所に来てくださり、素晴らしい祝福を与えてくださいます。心砕かれたへりくだった人になりましょう。イエス様はこの地上に来られたときに、ご自分のことをこのように言われました。マタイの福音書十一章二十八節から三十節に、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

とあります。イエス様が『地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』と言われたのは、イエス様ご自身が優しく、柔和で心へりくだった方ですから、心のへりくだった人に素晴らしい祝福を与えることがでるのです。へりくだって神様の前に、誰かではなく、私を赦してくださいと祈りましょう。

 ある女性が十二年間長血をわずらっていました。その女性は「もう私の病気は治らない。しかし、イエス様が来られたら、癒すことができるかも知れない。しかし長血をわずらっているなどとは言えない。そうだ、イエス様が来られたら衣の裾にでも触ってみよう。そうしたらきっと癒される」と思いました。

 大群衆が集まっていました。女はイエス様の裾に触りました。その途端、イエス様の力が出ました。イエス様が、「誰?今わたしに触ったのは誰か。」と言いました。弟子たちは、「先生。こんなに人が集まっているのに、誰かが触ったなどとなぜ言うのですか。」と言いました。しかし女性は隠すことができないと思い、「すみません。私です。イエス様の衣の裾に触るだけで癒されると思い触れました。」と言いました。するとイエス様は彼女を誉めて言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。今日イエス様はここにおられます。『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』とありますので、病気の方は駄目だと思わないで、今朝「イエス様、私に触れてください」とへりくだって求めて下さい。そうしたら必ず素晴らしい祝福を与えてくださいます。

 またどういう人が御心にかなう人でしょうか。それは、「憐れみ深い人」です。イエス様はこの地上に来られたときに言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」と言われました。神様は憐れみ深い人を祝福してくださいます。クリスマスの時に憐れみ深い人になりましょう。イザヤ書五十八章六節から十一節に、

『わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。』

とあります。クリスマスにプレゼントをもらいます。私もプレゼントをもらうことが大好きです。しかし『飢えた者にはあなたのパンをわけ与え…』とあるので、クリスマスの時に誰かにプレゼントをしてください。持ってないようで持っている人もたくさんいますが、実際に貧しい人を探して、プレゼントしてください。お世話になった人にプレゼントをすることも大切ですが、貧しい人にプレゼントをしてみてください。

『飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』

とあります。『うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』とあります。
 御心にかなう人となり、心の傷ついた人を慰めて、貧しい人にプレゼントをし、また苦しんでいる人に神様の愛を伝えることは祝福です。
 私は日本で尊敬している人がいます。昨日、ゴスペルクワイヤーが浜松の聖隷病院の施設で賛美をしました。私は時々聖隷病院に見舞いに行きます。田中先生も召される前に浦川から運ばれました。また中村先生も入院されています。聖隷病院は祝福されています。病院の創立者は、長谷川保先生です。この教会にも昔来られて、説教をしてくださいました。かつて先生は病院施設を私に案内してくださいました。しかし、先生と奥さんが住まわれていた家は小さな古い家でした。
 先生が私に言ったことは、「先生。あそこの施設は身体に障害を持っている方たちが入っているところです。間もなくイエス様が再臨されます。復活の時には、障害を持っている人たちが始めに復活すると私は信じています。」と目を輝かせて言われました。長谷川先生は愛を実践された方です。彼は長寿を全うされて亡くなりました。
 私たちの小さな頃、一番恐い病気は結核でした。感染するということで皆から隔離されました。私の友達も大勢結核で亡くなりました。結核になると、家族も人々も寄りつきませんでした。
 ある時に、一人の人が長谷川先生の所に来て、「私は身を置くところがありません。結核です。」と言われました。そのとき長谷川先生は考えて、「そうだ。こういう方々のお世話をしよう」と、十年間ほどお世話をしました。三方原の松林の中に小さな小屋を作って、肺病の人たちを集めて世話をしました。しかし村人は先生たちを迫害しました。「この村に肺病が蔓延するから出て行け!」「この病院があったら、桃やぶどうが売れなくなる!」「土地が安くなる!」「家に嫁ももらえず、婿にも出せない!」と言って迫害しました。村人の襲撃もありましたが、先生は一生懸命になって世話をしたのです。先生夫妻は肺病患者に食べさせた残りを食べて生活されていました。
 先生が書かれた本を昨日再び読みました。『夜も昼のごとく』という本です。あるクリスマスの時に奥さんが亡くなった結核患者が残した着物を着て、汚いみすぼらしい格好をして歩いていました。それを見て先生はかわいそうに思い、こっそり奥さんにプレゼントを買いました。そうしたら奥さんは怒りました。「あんた、堕落したの。私たちは自分のものを何も持たないで人のために生きることを約束したじゃない。どうしてこんなことをしたの。返してきて!」と言ったそうです。彼らは夫婦喧嘩をしたことがありませんでしたが、その日だけは喧嘩をしたと書いてありました。奥さんは徹底していました。
 しかしある日、昭和十四年のことでしたが、ついに行き詰まって食べ物もなく、借金もあって一晩中、二人で泣いたそうです。「もう止めよう。神様の御心かも知れない。この結核患者のための仕事はやめよう」と泣いていたそうです。「明日は皆に言って解散しよう。どうすることもできない。」と言って、夜眠ることができないで二人で泣いていると、警察が来ました。
 「長谷川さん、今県庁から連絡がありました。明日九時までに、静岡県庁に来てください。」と言って去っていきました。明日は解散しようと思っている時でした。なぜ呼ばれたのだろうか、と考えていました。すると再び警官が来ました。「長谷川さん、絶対に遅れないで九時までに来てください。来るときには礼服を着てきてください。」と言われました。
 次の日、お兄さんに礼服を借りて、静岡県庁に行きました。すると知事がうやうやしく、「このたび、天皇陛下から御下賜金が出されました。」と言われました。「聖隷保育農園。今般その事業の成績、顕著なるを趣して示され、特に金一封を下賜候こと。」と書いてあったようです。あなたに金一封を上げるというのです。百円を五十枚くれたとありました。
 昔の十円とはすごいお金でした。私は修学旅行に行きました。初めて海が見えると言うので嬉しくて一晩中喜んでいました。「明日は海に行ける」と喜んでいたら、親に怒られました。「うるさいから小遣いを減らす」と言われました。私は五円もらうのを、三円にされました。当時、百円を五十枚もらうとは相当な額です。天皇が肺病病院を認めて御下賜金をくれたということで、十年間の迫害は終わったと書かれていました。
 現在、病院が祝福されているのは、先生夫妻が精魂込めて人を愛し憐れみをかけ、御心にかなったからです。彼は人のために、人生をささげました。
 自分が権力者や金持ちになることは悪くはありません。しかし与えられた富は、貧しい人に分け与え、イエス様が来てくださったように、私たちもへりくだって人生を送るときに、御心にかない平和が訪れます。
 今病気の方はある、意味において、御心にかなっていると思います。それは、「自分は健康だ」と思っていたのが、「自分は弱い」とわかったら、自分の弱さを認めて神様の所に行くと触れてくださいます。ですから不可能だと思わないでください。
 今朝、賛美をしていたときに春木昌美姉が歌っていました。先日、腫瘍でお腹が大きくなっていたのが、一晩で癒されました。彼女は泣いていました。「自分は死んでしまう。神様、助けて!!」と泣いて祈ったので、神様が目を留められ癒されました。ですから今日は病のある方は、癒されますように。心の傷がある方も癒され、これからは御心にかなった歩みをし、誰か近くに貧しい人や苦しんでいる人がいたら、その人を助け、素晴らしい人生を歩いていきましょう。

 御心にかなう人になることができるように、心の汚れをきよめていただきましょう。時々人の悪口を言ったり、私たちは失敗をします。人を見下げたり高慢になっている罪を赦していただきましょう。そして神様に憐れみをいただく祈りをしましょう。一言お祈りします。


[バックナンバー]