クリスマスメッセージ

2005.12.25(SUN)
新城教会 滝元 順師

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 メリー・クリスマス!クリスマスおめでとうございます。今年は、教会にとって良い日程が続いています。十二月二十五日が日曜日で、来週の一月一日も日曜日です。このまま固定制であったら、良いと思うような日程です。
 イエス様が十二月二十五日に生まれたということは、聖書のどこにも書かれていません。これはかつてローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、それまでローマで行われていた太陽礼拝の日を、イエス様の誕生日に置き換えたことに起源があります。ですから12月25日は聖書的根拠に基づいたものではありません。
 しかし、イエス様がお生まれになったのは、一年、三六五日中のどこかであることは事実です。ですから、イエス様の誕生を祝うことは良いことだと思います。今日はイエス様のお誕生が全世界で祝われています。
 電車の中でギャルたちが話していたそうです。「イエス・キリストはクリスマスなんかに生まれちゃって運がいいね。」クリスマスは、イエス様の誕生日だと知らない人が多いようです。
 イエス様のお生まれについして記している箇所は、「マタイの福音書」と「ルカの福音書」です。そこではイエス様のお生まれの模様や経緯について、記しています。しかしヨハネの福音書では、霊的側面でイエス様誕生の意味について教えています。

『すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。』

とあります。「この方」とは、イエス様のことです。天地宇宙はイエス様によって創られたとヨハネは証言してます。
 コロサイ人への手紙一章十五節から十七節に、

『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』

 「御子」とは「イエス様」です。この地球も、宇宙も、私も、あなたも、皆、イエス様によって創造されのです。その創造者が、人の姿をとって地上に現れてくださった、それがクリスマスです。天地宇宙を創られた神様が、この地上に生まれてくださったのです。しかし世はそのことを知らなかったというのです。
 キリスト教は「啓示宗教」です。啓示とは、人間が神を求めて「これが神かも知れない・・」と見つけたのではなく、神がご自身を人類に明らかにされた事を意味します。したがって、キリスト教は人間側からのものではなく、神側から「わたしが神だ」と現われて下さったものです。けれども、キリスト教は宗教だと言いますが、キリスト教は宗教ではありません。
 今日、初めて教会に来られた方は、「宗教的集まりに来てしまった」と思わないでください。宗教とは、人間側から神を求めたものです。しかし、神側から人間に近づいてくださったのは、宗教ではないのです。神が人を創られたのならば、「わたしが創りましたよ」と明らかにしても、何も悪いことではないはずです。
 親が子どもたちに「私があなたを生みましたよ」と告げることは、ごく普通な事です。同じように、神様が人間を創り、天地宇宙を創り、「わたしがあなたの神ですよ。」と伝えるのは宗教ではなく「事実」です。神が私たちを創ってくださったならば、その方を信じ、共に生きていくことは宗教でも何でもありません。クリスチャンになって、宗教に入ったと思わないで下さい。
 神様は、いくつかの段階に分けて人類にご自身を啓示してくださいました。啓示の最初は、「自然啓示」です。自然界を見るなら、神がおられることに気付くのです。皆さんが座っている椅子を見たら、それを作った人を推測できます。またマイクを見たら、マイクを作った人がいると、製作者を認めることができます。同様に、素晴らしい自然を眺めて、それが偶然にできたと思う方が不自然です。詩篇十九篇一節に、

『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。』

とあります。豊かな自然を眺める時、神がおられると判るのです。しかし、自然啓示は完全ではありません。なぜならば、人々は自然を見てどのように評価しているでしょうか。日本は四季がはっきりしており、自然豊かな国です。それを見て人々はどのように感じているでしょうか。それは、自然そのものが神と考えています。雄大な山を見て、山そのものが神と考えています。新城市の北側に雁峰山がありますが、人々はそれを神体として拝んでいます。また、西には本宮山があり、豊橋には石巻山がありますが、それらを神として拝んでいます。山自体が神という考えでとどまっています。日本人は「物の中に霊が宿る」という考えに支配されています。自然啓示は、私たちに神の存在を告げ知らせますが、完璧ではありません。
 そのため神は「特別啓示」である「神の言葉」を人類に与えました。「特別啓示」を通して、「自然啓示」が初めて生きるのです。聖書の言葉により、私たちは神を知る事が出来ます。イエス様が生まれる七百年前、預言者イザヤはイエス様の誕生を見事に預言しました。彼は神の霊によって、イエス様の誕生を預言しました。皆さんの誕生はどうでしょうか。ある人は「あんたは間違って生まれてきた」とか言われます。私は昔ある人から、「あんたは橋の下で拾われた」と言われたことがあり、心配した時期がありました。私たちの誕生は、ある意味で偶然のようなところがあります。しかしイエス様は違います。生まれるべくして、生まれたお方です。イザヤ書七章十四節に、

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

とあります。
 イエス様が生まれる七百年前に、「救い主が生まれる。そこにはしるしが与えられる。処女がみごもって男の子を産む」と語られました。普通の法則から全くかけ離れた方法で生まれるとイザヤは預言しました。それは言葉の中に啓示されていました。旧約聖書は、ある意味で、神の言葉だけが聞こえていた時代と言えるのかも知れません。
 時々、電話だけで話していて、姿を見たことがない人がいます。私の所に色々な方から電話があります。数年に渡り、よく電話を下さっても一度も顔を見たことがない人がいます。「先生。祈ってください」と祈りの課題をよく言われます。しかし一度も、その人は姿を現したことがありません。私は家内と話しています。「この人は、この声からすると何歳くらいかなあ。」「結構若いかも知れない。」「いや、年かも知れない。」と予測します。ただ声だけが聞こえるのです。
 最近は携帯電話にテレビ電話が付いています。私が持っている携帯電話は、海外でも使え、テレビ電話が付いています。私は時々、息子夫妻にテレビ電話をかけます。美味しい物を食べに行くと、自慢してテレビ電話をかけます。今の時代は画像が送れるような時代です。
 旧約聖書の時代は、ただ神の声だけが聞こえました。しかしクリスマスは、言葉だけで示されていた神が、人として姿を現わされた日でした。ヨハネ一章十四節に、

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』

 旧約聖書で述べられていた神が、人の姿をとって現れてくださいました。言葉が人となって現れたのがクリスマスです。
 初めは「自然啓示」だけであったのが、「特別啓示」が与えられ、やがて、その言葉を語っていた本人が地上に現れてくださいました。これがクリスマスです。現代の私たちは、イエス様がこの地上に現れてくださったいう事実を受け、同時に、特別啓示である聖書を読む事が出来る時代です。ゆえに、信仰を持って持って歩むことができます。また、イエス様がこの地上に来てくださったのは、いたずらに「俺が神だ!」と言って姿を現わされたのではないのです。
 最近はひどい事件が多く起こっています。日々ニュースで報道される事柄は、祈らずにはいられないことばかりです。昔はこんなことはなかったと思います。特に最近、子どもたちの世界が狙われています。事件は悲惨なものばかりです。なぜ、こんな時代になってしまったのだろうかと思います。
 私はつい最近まで中学生でした(とは言っても四十年以上前のことですが)。人生は早いものです。自転車で東郷中学校に通っていた思い出があります。二キロ以内は徒歩通学でしたが、あえて自転車で通って先生に怒られました。三年C組十三番でした。また、小学校時代を思い出すこともできます。このように考えると、人生は短いです。小学生たちがここにいますが、六年間が終わると中学三年間はあっという間です。また高校の三年間は更に加速度を増します。大学四年間もあっという間に過ぎてしまいます。
 私の小学校時代には、朝、この辺を馬車が通っていました。私たちはいつもその馬車に飛び乗るのが日課となっていました。おじいちゃんが馬で丸太を運んでいました。私は隠れて馬車に乗っていました。
 また、学校帰りは走れば三分くらいで帰れるところを、二時間くらいかけて帰ってました。道草を食いながら、途中、秘密基地に立ち寄って帰ってきました。しかし今は二時間もかけて帰ったら、捜索願が出されてしまいます。これからはもっと悪い時代になってくると思います。
 先日アメリカの教会に行き、牧師と話すとアメリカの教会は大変だと言われました。特に、礼拝中のベビーシッターが大変だと言われました。新城教会も礼拝の時間に並行して、子ども礼拝が行われており、ベビーシッターの部屋もあります。だから皆がゆっくりと礼拝できます。
 アメリカ教会ではベビーシッターにたいへん気を遣うというのです。ベビーシッターの部屋には窓があってはいけないというのです。なぜなら、外から子どもが見えると、悪い人が入ってきて連れて行ってしまうことがあるようです。だから子どもを預かるには、たいへん気をつかうようです。そして必ず、保険に加入しなければできないというのです。最近では、保険に加入する条件も厳しくなったようです。奉仕する人の過去の履歴を調べ、犯罪がないか、幼児虐待などないかなどを細かく調べて、大丈夫なら保険が認可されるようです。ボランティアで奉仕する人も嫌がってしまうそうです。アメリカは大変だと思いましたが、この調子でいくと、やがて日本も同じになると思います。日本はアメリカに追従しているところがあります。
 新城教会にも多くの方が来てくださるので、最近は礼拝中、教会を警備をするようになりました。スタッフが警備員として見回っています。何かがあるとすぐに対応できるようにしています。なぜこのような時代になったのか、そこには原因があります。第一ヨハネ五章十八節から二十一節に、

『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』

 私たちが住んでいる世(全世界)は、悪い者の支配下にあるのです。悪い者とは人間ではなく、「霊的存在」です。すなわち、悪魔が全世界を支配しているので、放っておくとどんどん悪くなっていくと告げているのです。
 人々は何らかの回復のために働いています。学校の先生は、今日よりも明日、明日よりも明後日、もっと子どもたちを良い子に育てたいと願います。また自動車修理工場ならば、車を直すことに専念します。また医者ならば患者さんを健康にしてあげたいと願い治療します。皆、回復のために働いています。しかし世界は破壊的になっているのです。なぜなら、人間以上の存在が世界を支配しているからです。そのような悪しき力は、人間の罪を根拠として、人々の間に働きを展開するのです。教会とは、悪魔の働きの温床となる罪に対して、警報を出すところです。「これが罪ですよ。気をつけて下さい。」と警報を出すところが教会です。
 先日、大雪警報が出ました。先週は少し礼拝に来られる人数が少なかったです。なぜならば、名古屋方面からの方々が来られなかったからです。名古屋は五十八年ぶりの大雪でした。先週の木曜日も大雪でした。ちょうどその日には「レッツプレイズ」という中高生のクリスマス集会がありました。中高生は自転車が交通手段ですから、不安になり真剣に祈りました。雪空に向かって、「黙れ、静まれ!」と祈りました。すると雪にも関わらず、二百人近い中高生が来ました。その多くが自転車で来ていました。
 今回の雪も、降る前から警告がありました。警告を無視すると平安な生活ができません。それは霊的な世界においても同じです。
 今から二十数年前、東名高速道路の日本坂トンネルで大事故が起こりました。それは日本の経済にも、大きなダメージを与えました。日本の大動脈が寸断され一年以上トンネルは使用不能となりました。
 事故が起こりトンネル内で火災が発生しました。その時すぐにトンネルの入り口に、「トンネル内火災発生。進入禁止」と表示されたそうです。しかし人々は無視して、どんどん中に入っていったのです。それでトンネル内にぎっしりと車が詰まり、全部焼けてしまったのです。トンネルから逃げ出し、助かった人々にインタビューしました。「あなたはなぜ、トンネル内に入ったのですか。表示を見なかったですか。」すると多くの人が答えました。「表示は見ました。しかし、前の人が入って行ったので、私も行けると思って入りました」警告を無視して入るのでひどい目に遭うのです。
 かつて世界最高の豪華客船、「タイタニック号」は、絶対に沈まないというキャッチフレーズで、金持ちたちが多く乗り込んで処女航海に出発しました。人々は豪華な船上パーティーを楽しんでいました。そんな中、タイタニック号の航路上に多くの氷山が流れているとの情報が寄せられたのです。「航路上に氷山あり。気をつけるように」しかし通信士はそれを見て、「この船は絶対に沈まない船だ。」と言って注意を怠り、船長に伝えませんでした。その結果、彼らがどんちゃん騒ぎをして、幸せを味わっているただ中、船は氷山に衝突し多くの人が犠牲となりました。これも警告を無視した結果です。タイタニックという映画が上映され、大変有名になりました。今もその船は大西洋に沈んでいるようです。
 警告を無視することは、決して良いことではありません。聖書は私たちに対して警告しています。罪を犯すと悪魔の支配下に陥ってしまうと警告しています。特に、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と警告しています。聖書が強く警戒警報を発令しているのは、「偶像礼拝」に対してです。日本人は手で作った神々を礼拝することをなんら疑っていません。「それは誰でもやっていることだ」と言っています。偶像礼拝をしなければ付き合いもできないというのです。しかし聖書は、偶像礼拝に対して警告しています。偶像礼拝によって、悪魔の手に落ちると警告を与えています。その警告を聞いて、偶像礼拝から離れるならば救われるのです。
 また、罪に陥って、悪魔の手に渡った人々を救い出すために、イエス様はこの地上に生まれて下さいました。悪魔の手に渡されて奴隷となってしまった人類を救い出すために、イエス様は神の座を捨てて、この地上にお生まれ下さったと教えています。イザヤ書九章一節から七節に、

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』

とあります。九章六節には、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

 これはイエス様ご自身についての預言です。旧約聖書は、イエス・キリストが生まれる前に書き上げられた書物です。イスラエルの国立博物館には、紀元前の聖書が展示されています。このイザヤ書も展示されています。それはイスラエルの家宝のように、保存されています。そこにこの言葉が記されています。この言葉はイエス様についての預言です。イエス様は来るべくして来られたお方であり、確かな神の預言に基づいて地上に来てくださったことがわかります。イエス様が来られた目的について、イザヤ書九章一節に書かれています。

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。』

 イエス様が宣教の中心として選ばれたのは、「ガリラヤ湖周辺」でした。数々の奇跡を行われ、多くの人に神の国の福音を宣べ伝えられた拠点が、ガリラヤ地方でした。なぜイエス様はガリラヤを選ばれたのでしょうか。それは偶然ではありませんでした。そこには、預言的な意味合いがあったのです。
 かつてガリラヤ地方には、ゼブルン族、ナフタリ族が住んでいました。しかしアッシリアが攻めてきて、ゼブルンもナフタリも捕虜となって連行されました。また残された人々はアッシリア人と混血し、辱めを受けたのです。「ガリラヤ地方、そんなところから何の良いものが出るだろうか。最悪の人々が住んでいるところだ」と噂されていました。しかしイエス様はその地を拠点とされました。それは、「苦しみがあった場所に闇がなくなるため」であると預言されていました。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。』

 闇が濃く、苦しめられ、虐げられていた人々のただ中で、イエス様は働かれました。現代は暗闇が覆い、希望がない世界ですが、そんな場所がイエス様の働かれる現場だというのです。時々暗闇が覆いどうしたら良いかと思います。しかし闇があった所、苦しみがあったところに、イエス様が来られるのです。その闇は単なる物理的な闇ではなく、霊的な闇です。悪魔の支配という闇があるただ中に、イエス様は来てくださり、闇を蹴散らしてくださるのです。
 今日皆さんの中に何らかの闇があったら、そここそ、イエス様が生まれてくださる場所です。苦しみのある所、そこがイエス様が生まれてくださる現場です。八方塞がりのような時がありますが、イエス様がお生まれ下さるのは、決して王宮の羽根布団の上ではなく、汚い飼い葉おけの中に生まれてくださるのです。
 このことを感謝して受け止め、「イエス様、私の暗闇のまっただ中に生まれてください。そこで働きを開始してください」と祈りましょう。イエス様は喜んで来てくださいます。かつてイエス様がガリラヤで働かれたように、そこで多くの奇跡を成されたように、イエス様は「闇の最も濃いところで働きましょう」と語ってくださいます。

 先日、クリスマスコンサートがあり、マキーダさんが賛美してくださいました。十月にアメリカに行った時、マキーダさんは日本行きをキャンセルすると言われました。なぜならば、彼女に多くの腫瘍が発見されたからです。すぐに手術をしなければいけないと言われたそうです。ロン・ブラウンさんも落ち込んで「困ったことがあります。どうしましょうか。」と電話をくださいました。
 今年の九月、宇都宮でリバイバル・ミッションを行いました。その時ロンさんは足がしびれて、鎮痛剤を飲まなくては眠ることができませんでした。薬を飲みながら頑張って演奏していました。彼の趣味はウォーキングで、毎朝歩いていましたが、それもできない状況でした。彼と一緒に祈りました。もしかしたら、それは単に医学的問題だけではなく、霊的圧迫もあるかも知れないと感じて祈るよう導かれました。
 神様はいろいろな癒しの領域を提供してくださいます。医学を通して、薬を用いて、自然治癒力を通して癒しが起こります。しかしそれと共に、超自然的癒しがあります。手を切ってもかさぶたになって段々直ります。しかし、かさぶたになった時に、それをはがしたら直るのが遅れます。霊的にも同じです。私たちが病気になり、自然に直っていく過程で、背後に圧迫があるならば、なかなか良くなりません。教会の役目は、霊的世界を整理することだと思います。どこまでが霊的圧迫かわかりませんが、それが取り除かれるように祈る必要があると思います。
 私はロンさんに聞きました。「足が痛いと聞きましたが、時々、家系の中に同じような問題があります。どうですか。」するとロンさんは、「そう言えば、お姉さんも車いすだし、お母さんも足が悪い…」というのです。調べてみても足が悪い原因がつかめないそうです。私は彼と一緒に祈りました。家系的な暗闇が打ち破られるようにと祈りました。すると不思議に足が良くなりました。
 しかし、二日間は良かったのですが、また悪くなりました。それで、もう一度細かく一緒に祈りました。その後、ロンさんの足は完全に良くなりました。
 彼は喜んでアメリカで証をしました。そのような中、マキーダさんが手術をしなくてはならないと言われたそうです。私は、「マキーダさんの解放を祈ってあげてください。」と言いました。彼は、「僕で大丈夫かなあ」と言っていましたが、聖霊様が助けてくださるからできると勇気づけ、祈っていました。彼はマキーダさんのために、四時間位かけて解放を祈りました。私の甥である上條頌も一緒に祈ったようです。
 そして検査したら、ガンはありませんでした。それで今回来日することができました。感謝でした。皆さんの祈りもあり、神様の奇跡を見ることができました。
 ロンさんはそれで確信を持ちました。人生の闇に対して、解放を祈らなければならないことに気付きました。彼はテキサス州ヒューストン出身ですが、自分のお母さんやお姉さんのためにも同じように祈りたいと願い、地域をとりなして祈りたいと言われました。
 ある日、私に電話があり、テキサスとつないで一緒に祈りました。彼はお母さんやお姉さんのために祈りました。そこでまた不思議なことが起こりました。彼女らの足が良くなったそうです。しかし、二日間は良かったのですが、また悪くなったそうです。ロンさんは自分と同じだ、と言っていました。
 それでもう一度、テキサスに行って彼らのために祈りたい言いました。神様は一つの闇を打ち破られると、次から次へと闇を打ち破られます。
 イエス・キリストが生まれてくださったのは、あなたのためだけでなく、あなたの家族、親族、また、新しい世代のために生まれて下さったのです。
 私は一月に南米コロンビアのカリという街に行くことになりました。そこはリバイバルが起こった所です。DVD『トランスフォーメーションT』でカリについてレポートされています。リバイバルの中心となった教会の牧師が、アメリカのヤキマで大きな集会をしました。その先生と話していたら、「私の町に来てくれませんか。」と言われました。初めは私で良いのかなあと思いましたが、何か奉仕できることがあったら嬉しいと思いました。ぜひお祈り下さい。
 私は海外に行くときには、一番安いチケットで行きます。いかに安く、また、早く行けるかと考えます。同じ航空会社を選ぶとマイレージが貯まります。私の娘がアメリカを行き来しているのは、私のマイレージでただで行っています。私はコロンビアに行くためにチケットを予約しました。南米に行くときには、一度アメリカに入国してから行かなければなりません。私はどこを通っても、南米に安く行ければ良いと考えていました。
 先日、自分の予定を見ていました。アメリカで一泊するのがどこの街かと見ていました。すると、なんと、「テキサス州ヒューストン」でした。それで、ロンさんにそのことを告げました。そして、ロンさんと一緒にヒューストンのとりなしをすることになりました。神様のタイミングはすごいと思いました。そこでもきっと、素晴らしい主のみ業を見ることができると信じています。
 なぜ、神が今でも働いてくださるのでしょうか。それは、クリスマスの時にイエス様がこの地上にお生まれになったからです。それも、闇を打ち砕くために来てくださったからです。イエス様は、苦しみのあった場所に「闇がなくなる」ために生まれてくださったことを覚えましょう。
 イザヤ書十四章十六節から十七節に、

『お前を見る者は、まじまじと見つめ、お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ、国々を揺るがせ世界を荒れ野とし、その町々を破壊し、捕らわれ人を解き放たず、故郷に帰らせなかった者か。」』(新共同訳聖書)

 人類はやがて敵に気付くのです。しかし「やがて気付く」のでは遅すぎます。この霊的環境を打ち破るために、イエス様は来てくださったのです。共に御言葉の剣を受け取って、戦う者でありたいと願います。悪魔の餌となる罪を赦すために、イエス様は十字架にかかってくださいました。罪を悔い改め、イエス様の警告をしっかりと握って歩むことができるように、闇がなくなるように祈りましょう。

(祈り)

「イエス様。あなたの御名によって祈れることを感謝します。私たちのただ中に生まれてくださったことを、心から感謝します。闇があったところ、苦しみがあったところの闇をなくすために来てくださったこと感謝します。私のすべての罪を赦してください。特に、偶像礼拝の罪から、完全なきよめと勝利を与えてください。今、私の暗闇のただ中に、イエス様をお迎えします。赤子のイエス様ではなく、よみがえって生きておられるイエス様をお迎えします。働いてください、わざを起こしてください。闇がなくなりますように。暗闇の力を完全に打ち破ってください。勝利を宣言します。イエス・キリストの御名によって神に祈ります。アーメン。」


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