| ハレルヤ!明けまして、おめでとうございます。新年は連続した時間の一区切りです。新しい区切りがあるのは、素晴らしいことだと思います。一年は三六五日ありますが、この季節にあえて新年がくるのは、西暦においては「クリスマスから数えて八日目」を新年と定めているからです。
ユダヤ教の習慣において、男の子が生まれて八日目に割礼という儀式を施しました。その日から子どもの名前が正式に呼ばれました。クリスマス十二月二十五日から数えて八日目が一月一日と定められています。この日から「イエス」と呼ばれるようになりました。
日本は西暦を採用しているので、一年は「イエス・キリストの名によって」始められていることになります。年の初めに初詣に行くのは矛盾しています。今日、皆さんは教会に集まって新年を始めていますが、イエス様の名によって一年を始める意味でも、たいへん素晴らしいことです。電話をかけるとき、一桁でも番号が間違っていたら他人にかかってしまいます。本物の神様に通じるためには、「一つの名前」イエス・キリストしかありません。イエス様の名前によって祈るとき、祈りは天地宇宙の創造者である、神の元に届き、そこから答えが来ます。一年の最初の日に、イエス・キリストの名によって始めを宣言することは、とても重要です。
教会は、人生に神からの指針を提供する場所だと思います。昨晩、十二月三十一日、夜九時から十二時過ぎまで、礼拝がありました。そこでは、私を除いた新城教会の牧師、副牧師六名が、二〇〇六年に対する主からの御言葉を語りました。昨晩来ることができなかった方々は、ぜひ文書をお読み下さい。
最近は「カーナビ」というシステムが発達し、多くの車にカーナビが搭載されています。新車として売り出されている、ほとんどにカーナビが付いています。カーナビがあると、行ったことがない場所でも、スイッチ一つで自動的に案内が始まり目的地に辿り着くことができます。設定された道路から外れて、他の道に行ったとしても、また元の道路に戻してくれます。たいへん便利なものです。
聖書はちょうどカーナビのようです。神が目的地をセットしてくださり、それは未知の目的地かも知れませんが、イエス・キリストとともに歩むならば、目的地に向かって正しく進むことができます。時には道から外れてしまうことがあっても、神様はもう一度正しい道に戻してくださいます。
私もカーナビを使いますが、カーナビが時々、迷走し始める事があります。自分は道路を走っていますが、カーナビは海の上を走っていたり、どこかの家の屋根の上を走っていたりと、メチャクチャな動きをする事があります。それは、ナビが電波を受信できていないときに起こります。カーナビはサテライトから電波を受け取り、自分の位置を特定します。しかし何らかの理由で、電波を受け取ることができないと、表示が狂ってしまいます。
私たちも同じです。日々の生活の中で、神からの指針を受け取らなければ、人生は狂ってしまいます。カーナビの電波に似通ったものが、「聖霊の注ぎ」です。イエス・キリストを信じると、神の霊により、日々変化する状況に対応できるのです。今年も一年間、神によって目的設定され、神が決められたルートを正しく走れるように祈ります。聖霊の注ぎを受けて、人生を導いてくださるように祈っています。
「新年礼拝」には、一つの目的があります。それは二〇〇六年に対する、神の指針を受け取ることです。毎年主は、キリストの体を通して、ある指針を与えて下さっています。
二〇〇五年にも、主は教会に様々な指針を与えてくださいました。それは預言的な神からの指針でした。今日私が語るメッセージも、二〇〇六年に対する預言的メッセージとなるように願っています。
昨晩、六人の先生方が語ってくださったメッセージを、少し分かち合いたいと思います。毎年、誰からメッセージを語り始めるかについて、祈ってからくじを引きます。昨日のトップバッターは、インターナショナルの働きを導いている「公畑フェルナンド先生」でした。
新城教会では日本人だけでなく、海外から来られた方々のためにも礼拝も持っています。毎週土曜日に、二百人ほどの方々が集まり母国語で礼拝を守っています。
ヨシュア記六章二十節から御言葉を語りました。
『そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。』
この御言葉から、「占領する時が来ました」というメッセージを語ってくださいました。主は、新城教会に多くの働きをゆだねてくださいました。特に、祈りの領域において多くの働きがゆだねられています。日本のリバイバルのため、また、日本を勝ち取るために、霊的戦いや、解放の祈りが与えられました。しかし、この二〇〇六年は、「占領する時が来た」と語りました。そして、城壁が崩される年となると語りました。
皆さんの人生の中にも、色々な城壁が立ちはだかっているのかも知れません。今まで一生懸命祈ってきたけれど、全くビクともしなかったかも知れません。しかし、二〇〇六年は、その城壁が崩れる年であると信じてください。
城壁が崩れたら、「民は残らずまっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取らなければならない」とあります。攻め取るとは、「福音を伝える」ことです。霊的壁が崩されたら、福音を伝えるようにというメッセージでした。
第二番手は、「滝元開先生」でした。エゼキエル書三章九節から十四節の御言葉を通して語りました。
『わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家
だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの主の栄光はほむべきかな。」という大きなとどろきの音を聞いた。それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。霊が私を持ち上げ、私を捕えたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。』
タイトルは、『彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。』でした。彼は昨年から刑務所で賛美するようになり、受刑者たちに賛美を届ける働きが開かれました。「滝元開夫妻、歌謡ショウ」と紹介されたことがあったそうです。そこで賛美をすることは、ある意味で戦いです。なぜなら所長が、刑務所の中にいる人たちを強制的に集めて賛美を聞かせるからです。皆が好んで聞きに来るのではないのです。毎回、霊的戦いを感じるようです。しかしそこで、「ひるんではいけない。恐れてはいけない」と主から語られたそうです。
時々私たちは、居心地の良い場所で働くことを望みます。しかし何かとたいへんな場所に相対すると、恐れたり、ひるんでしまうことがあります。今年も恐れたり、ひるみそうになる事があるかも知れません。しかし主は、「恐れてはいけない。ひるんではいけない」と言われます。なぜならば、「主がともにおられる」からです。三章十四節には、『主の御手が強く私の上にのしかかっていた。』とあります。主の御手が皆さんの上に強く臨んでいるがゆえに、あなたは決して恐れることはない、ひるむことはないと主は語られます。主がともにおられるので、「恐れることなく、ひるむことなく」歩んでいきましょう。
三番目に「滝元明先生」が語りました。彼らが新城に来て伝道を始めたので、現在この教会があります。今回は、エレミヤ書五十一章十一節から十九節までを引用して語りました。十一節から十四節に、
『矢をとぎ、丸い小盾を取れ。主はメディヤ人の王たちの霊を奮い立たせられた。主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは主の復讐、その宮のための復讐である。バビロンの城壁に向かって旗を揚げよ。見張りを強くし、番兵を立てよ。伏兵を備えよ。主ははかりごとを立て、バビロンの住民について語られたことを実行されたからだ。大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」』
『矢をとぎ、丸い小盾を取れ。主はメディヤ人の王たちの霊を奮い立たせられた。』とあります。この記述の背景は、メディヤ人の王たちとは、イスラエルから見ると敵方の存在であり、異教の神々を信じる王たちでした。彼らによってイスラエルは苦しめられました。しかし主は、異教の神々を礼拝するただ中で、王たちが真の神に触れられ、国全体が偶像の神々ではなく、真の神に立ち返ったのです。その結果、国が真の神を礼拝するようになり、さらには、ユダヤ人達は自分の国に帰還できたのです。神の霊がメディヤ人の王たちに触れたとき、国が瞬間的に変えられたという記述から、日本について語りました。
この国にはクリスチャンが少ないです。人口比から言うと、一パーセント以下です。この正月三賀日は、多くの国民が神社仏閣で初詣をします。その数、八千万人と言われます。日本には多くの神社があります。その中で一番大きな神社が「伊勢神宮」です。伊勢神宮は神社の総元締めです。しかし、それよりもある意味、位の高い神社とその神社を司る神主がいます。それは、普通の人は入ることができない場所にあります。それが、皇居内にある「宮中三殿」です。そこに「賢所」という場所があります。その神社の宮司は、天皇です。天皇の役割は、正月に手を振るとか、国体の時に祝辞を読むことが主な仕事ではありません。働きの中心は、国民の代表として神道の神々と契約を結ぶ役割です。今朝は朝五時前に起きて「四方拝」と呼ばれる、全国にある主要な神社を皇居から遙拝(遠くから拝む)したはずです。それも、国民の代表としての働きです。日本は偶像礼拝の国です。しかし、もしも天皇がイエス様を信じて、「私はイエス様を信じました。神道の神々ではなく、イエス様が本物の神であることが分かりました。」と宣言したら、日本は大きなショックを受けるでしょう。そして大変な事態となるでしょう。
聖書に記されている、メディヤ人の王たちとは、当時の大国の王たちでした。今で言う、アメリカ大統領や日本の首相といった、世界をリードする存在でした。そんな王たちが、瞬間的に変えられた歴史を聖書は記録しているのです。
神は日本にも同じ事が出来るので、期待して祈りましょうと語りました。日本を見るときに、多くの人が真の神を知らずして、偶像礼拝をしていますが、神はこの国を一瞬にして変える力を持っておられます。エレミヤ書五十一章十四節に、
『万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」』
とあります。日本においても、やがて多くの人が集まってきて、主を礼拝する日が来ることを信じましょう。それが今年であると信じ、国のために祈っていくことを教えられます。
四番目に「四元雅也先生」がイザヤ書五十一章一節から語りました。
『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』
彼は今までの統計を示しながら語りました。新城教会の歴史は、今年で、五十六年目です。両親が新城市で開拓伝道を始めた時、私は二歳でしたのでほとんど覚えていませんが、初めの教会は、今の新城中学校前の四軒長屋の片隅にありました。教会と言っても、普段は私たちの生活空間でした。日曜日になると母親が、「あんたたちどいて!」と言って掃除をし、数人が集まって細々と礼拝していました。そんな所から新城教会は始まりました。その時は、こんなに多くの方が集まるとか、大きな教会堂が与えられるなどとは思っても見ませんでした。しかし一握りの人たちが、新城のために祈り始めたとき、神が働いてくださり、現在のようになりました。それを見るとき、神が生きておられることが分かります。
今、日本に七千八百程の教会があります。そして一つの教会の礼拝平均出席者数は、三十六名です。しかし新城教会では、その十倍以上の人々が集まっています。この片田舎に、このように人々が集められているのは、人間わざではなく、神が働かれている証拠だと信じます。
しかしある時をもって、新城教会は大きく変えられました。それが「一九九二年二月十三日」の出来事でした。愛知県民の森で祈っているときに、突如として天が開かれ、聖霊が注がれました。雅也先生は、聖霊が注がれる「前・後」を比較して語りました。一九九二年前後で全く変えられたと語りました。新城教会の掘り出され穴、切り出された岩とはどこにあるのか、それは、「聖霊の油注ぎ」と「霊的戦い」であると語ました。そして、「そこから離れてはいけない」と語りました。私たちが常にそこに関心を払い、歩んでいくならば、偉大な勝利を今年、主は与えてくださいます。
主は新城教会に、「聖霊の油そそぎと霊的戦い」という柱を与えてくださいました。その柱を壊していけません。中心軸から離れずに行くならば、必ず、勝利を与えてくださると語りました。
次に、「上條実先生」がエレミヤ書三十一章十五節から十七節をテキストに語りました。
『主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなった
ので、その子らのために泣いている。」主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。』
「あなたの将来には望がある」というタイトルで語りました。同じ箇所を「リビングバイブル」から引用しました。
『神様は私に、再びお語りになりました。 ラマ(バビロンの捕虜となったユダヤ人が集合させられた場所)で激しい泣き声が聞こえる。 ラケル〔ヤコブの妻。 イスラエル王国の母として象徴的に言われている〕は子供のために身もあられもなく泣いているが、どうしても慰めることはできない。 それもそのはず、子供がいなくなったからだ。しかし、神様は約束なさいます。 もう、泣かなくていい。 確かにおまえの祈りを聞いた。 おまえはまた子供に会える。 彼らは遠い敵の国から、おまえのふところへ帰って来る。おまえの将来には希望がある。 おまえの子供は生まれ故郷へ帰って来る。』(リビングバイブル)
イスラエルの最も辛かった経験の一つは、バビロンへ捕虜として連れて行かれたことでした。その前に「ラマ」という場所に人質たちは集められ、バビロンへ連行されて行きました。「ラマ」という場所は、ユダヤ人にとって一番いやな響きを持った場所でした。なぜなら、そこから家族や友人たちがバビロンへと連れて行かれたからです。いくら泣き叫んでも、どうにもならない悲しみの場所が「ラマ」でした。しかし『神様は約束なさいます。もう、泣かなくていい。確かにおまえの祈りを聞いた。おまえはまた子供に会える。彼らは遠い敵の国から、おまえのふところへ帰って来る。』と約束されました。
皆さんにとっても「ラマ」があるかも知れません。それは皆さんの人生の中で最も大きな悲しみの場所かも知れません。しかし神様は今年約束してくださいます。「あなたはもう泣かなくても良い。確かにお前の祈りを聞いた。再び子どもに会える」と。
皆さんが祈った祈りの応答があるのが、二〇〇六年であると語りました。今年は、長年祈った祈りが聞かれる年であると信じましょう。
旧約聖書に出てくる偉大な人物はモーセです。彼は華々しい働きをしました。しかし彼は、四十歳の時、エジプトから荒野に逃げ出し、身をひそめた経験がありました。けれども、神は逃げ出したような人物をもう一度捕らえ、八十歳の時に回復されたのです。そして最も重要な神の働き、「出エジプト」のために用いられました。
時々クリスチャンでも失敗することがあり、逃げ出したくなるような状況もあります。自分の尊厳を失ってしまうようなこともあるかも知れません。しかし、そんなただ中にある人にも、主は回復を与えてくださるという預言的な言葉でした。この二〇〇六年は、今まで泣いていた人々が癒され、失敗した人たちが回復される年でありますように、というメッセージでした。
最後に、「岡本信弘先生」がピリピ二章十三節から十四節を通して語りました。
『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』
クリスチャン生活は、自分の描いた夢が実現ためにあると錯覚しがちです。しかし決してそうではありません。皆さんにも、色々な夢や目的があるかも知れません。それに向かって祈りつつ、神の助けに支えられながら進んでいくことも大切かも知れません。しかし、究極的には、それは正しい理解ではありません。人生は、「神の目的の実現」の為にあるのです。信仰が自分の夢の実現という価値観ではなく、神の目的の実現の為に働いていきたいと語りました。
時には、神の目的が実現するまでに、疑いやつぶやきが起こるかも知れません。自分にとってあまり快く感じないような、重荷に感じるようなことが起こるかも知れません。しかし、神から与えられたことを、つぶやかず疑わずに行っていきなさい、神は「神の目的を実現されることを願っておられる」と語られました。
『あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』とあるように、神の計画の実現が、自分の志となるように祈っていただきたいと思います。「自分の志が、イコール、神の目的の実現」となりますよう、祈りましょう。神は究極的に、あなたの人生を通して、神の目的が現されることを願っておられます。
さて、私も、今年の為に与えられた御言葉を紹介したいと思います。もちろん、これらを皆さんは吟味して、受け取っていただきたいと願います。
心に響いている御言葉の一つは、「出エジプト記三章十四節」です。
『神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」』
モーセは神様に、「あなたのお名前は何と言われますか。たぶんエジプトの人々は、私が信じている神の名前について聞くでしょうから、なんと紹介したら良いでしょうか。」と尋ねました。すると、神様は、モーセに自分の名前を告げられました。それは「わたしはある」と言われました。神様は「わたしはある」という名前だと言われました。
人間はある意味で、あるようでない存在です。今日はあっても、明日はどうなるのかわからない生き物です。今年一年間、何が起こるのか不安があると思います。昨年は田中政男先生が突然天国に帰られました。明日は来ると信じていますが、明日が来るかどうかは実際、わかりません。最近報道されるニュースを聞いても、突如として起こった事件が多いです。先日も、山形県で電車が脱線して亡くなれらた方々がありました。電車に乗っていた人たちはそんなことが起こるとは、誰も予想していなかったと思います。人間は不確定な存在です。
しかし神様は「ある」という方だというのです。そのような神様と私たちは付き合っているのです。
先日、ある本を読みました。そこに史上、最も危険な概念について書かれていました。その本によると、「史上最も危険な概念はゼロの概念」とされていました。私たちはなにげなく数字を使っています。数字がなくては、生きることはできません。私は数学が好きでした。私の息子も二歳くらいから数字が好きでした。三桁、四桁の数の足し算ができました。それも最後に「円」を付けると、すばやくできました。数字がなくては生きることはできません。しかし、日本数字「一、二、三、四・・」には、ゼロがありません。ギリシャ数字、「T、U、V、W・・」にもゼロがありません。私たちが日頃使っている「ゼロ」というのは「アラビア数字、0、1、2、3、4・・」の中にあります。ゼロとは数字の一つ、数学的概念のように考えますが、実は、それは限りなく宗教的概念です。案外、私たちはそのゼロという概念に毒されているのではないでしょうか。ある数字にゼロをかけると、ゼロになります。そしてある数字をゼロで割ると、どうなるでしょうか。それは「エラー」になります。割ることができないのです。ゼロとは、「何もない」という概念です。
人類がゼロを会得したことにより、数字を扱うのが楽になりました。ゼロがあるので、一〇や一〇〇、一〇〇〇とすぐに表記できます。これをギリシャ数字で表記したら、大変なことです。ゼロによって数字の扱いが簡単になりました。しかしゼロは元々、数学的概念ではなく、宗教的概念であり、それはインドから出てきたものです。聖書の中には、「ゼロ」という概念はありません。なぜならば、神様は「わたしはある」と語っておられるからです。しかし私たちは普段、生活の中で常にゼロを起点としています。そのゼロがどこから来ているかというと、インドの霊的暗闇からわき上がっているのです。仏教の根源は「空」であり、すなわち、「ゼロ」です。仏教の根源は「ゼロ概念」です。
リンゴを数えるときには「一つ、二つ、三つ・・」と数えます。しかし、時間は何時から始まるでしょうか。それは午前「零時」から始まります。また、皆さんの年齢を数えるとき、どこから始めるでしょうか。生まれたばかりの子は、「ゼロ歳」です。すでに生まれているのですから、何もゼロから始めなくても良いと思います。しかし、人生も知らないうちにゼロから始められています。人生がゼロから始まるのはおかしいと思いませんか。それはあたかも、「あなたの人生はゼロですよ」という、悪魔のささやきです。神は私たちの人生の基準を、ゼロに設定されてはいません。なぜならば、私たちの神様は「ある方」だからです。エペソ一章三節から五節に、
『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』
とあります。私たちは生まれる前は「ゼロ」であり「何も無かった」と考えがちですが、聖書は決してそのようには告げていません。『神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』と記されています。この地球ができる前から、「あなたはあった」と記されています。決して、人生はゼロからではありません。「何もない、ゼロ」という概念に支配されてはいけません。
日本では、三万人以上の人々が自殺しています。また多くの人が精神的に病み、また多くの子どもたちが引きこもっています。その原点に、「おれには良いものが何もない」「ゼロだ」ということです。悪魔が置いた考え方、それが「ゼロ概念」です。
私たちは決してゼロの存在ではありません。神様の名前が「わたしはある」がゆえに、私たちも「ある」のです。人間とは、明日は無くなってしまうように感じますが、実はそうなりません。永遠の世界があります。
神がともにおられるならば、私たちも「ある」と宣言できます。あなたには、すべてが備わっています。今年はそこから始めて下さい。二〇〇六年、あなたはゼロではありません。あなたはあるのです。神はあなたの全てを満たしてくださいます。今年、どんな社会的変化が起こるのかわかりません。不安もあると思います。特に、ゼロを起点としているならば、不安があります。しかし神が共にあるならば、決して恐れることはありません。第一テサロニケ五章一節から八節に、
『兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。』
時代は永遠に続くものではないと聖書は教えています。今の時代は終わりの時代で、突如として何か起こるのか、わからない時代です。しかし、光の子どもであるクリスチャンは恐れることはない、心配しなくても良いと教えています。なぜならば、あなたがたは闇の中にいないから、「その日が盗人のように襲うことはない」と告げています。この時代を、突如として問題が襲うかも知れませんが、あなたは光の子どもなのでその問題に巻き込まれることはないのです。私たちはある方と共に生きているのです。私たちは、常に目を覚まし、慎み深くするように教えています。
また、第一テサロニケ五章七節から十一節に、
『眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。』
今年私たちは、光の中に生きる者、「ある者」として、『私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。』
更にもう一つ、主が今年教会に与えてくださった御言葉として、私が信じているのが、マラキ書三章十二節です。
『すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』
周りから、「あなたは幸せ者だ」と言われるようになると主は語っておられます。
最後に、六人の先生方が昨晩語った、二〇〇六年に対するメッセージを、預言的にまとめてみました。皆さん自身で吟味して、受け取っていただければ感謝です。
(二〇〇六年に対するメッセージの預言的まとめ)
「いままで、わたしは新城教会に霊的戦いの扉を開き続けてきました。その扉は、国内に止まらず、海外までも開きました。しかし、今年は、いよいよ城壁が崩れるときです。壁が崩れたら、あなた方は攻め上り、敵陣を占領しなければなりません。「攻め上る」とは、福音を伝えることです。時には、福音に対して耳を貸さない人たちもいるでしょう。しかし彼らが聞いても、聞かなくても、恐れず、ひるまず、語り続けなさい。わたしは常にあなたと共にいます。
かつて、メディア人の王達の心を変え、ローマ帝国をわたしに向かわせたように、わたしは日本の権力者や、王的存在の心をも変えることができます。日本において、必ず、バッタのような大群の人が、わたしに叫び声をあげるようになります。
そのためには、あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴から目をそらしてはなりません。新城教会の歴史の中で、1992年を境に大きく変化した事をあなた方は知っています。それは「聖霊の油注ぎ」と「霊的戦い」によってもたらされたものです。それこそ、新城教会の切り出された岩、掘り出された穴です。
今年は激しく泣いていた人々の涙が、とどめられる年となります。エジプトから逃げ出したモーセを回復し、多くの民を連れ出させたように、今年は人々を回復し、わたしの為に用います。そして、あなたの将来には望みがあります。
クリスチャン生活とは、自分の描いた夢が実現することではなく、「神の目的の実現」であることを忘れてはなりません。ですから、すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。わたしは『ある』という者です。この世の「ゼロ」という概念に毒されてはいけません。わたしは「ある」がゆえに、あなたの全ての領域を満たすことが出来るのです。
光の子どもとして歩み、 信仰と愛の胸当てを着け、救いのかぶとをかぶり、慎み深くしていなさい。やがて、すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と呼ぶようになります。それは、あなたがたが「喜びの地」となるからです。」 |