「わたしはある」

2006.1.8(SUN)
新城教会 滝元 順師

旧約聖書 出エジプト記3章13節〜15節
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 ハレルヤ!新年が明け、すでに八日目になりますが、主とともに一年間歩んでいきたいと願います。
 今日お読みした御言葉は、今年の為に、与えられた言葉です。「わたしはある」という方が、ともにいてくださる人生は素晴らしいものです。人生はちょっとしたことで大きく変化します。どちらに転ぶかで将来が変わってしまう、不確定なものです。しかし「ある」という方とともに過ごすならば、決して失うものはありません。
 聖書を読むときに、キーワードを念頭において読むとわかりやすいです。出エジプト記三章十三節から十五節。

『モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。』

 この箇所は、「わたしはある」がキーワードですが、もう一つのキーワードがあります。それは「遣わされた」という言葉です。
 私たちはモーセと同じように、「遣わされた者」です。「ある」と呼ばれる方とともに、特定の領域に遣わされるのです。その最も大きな領域が「家族」だと思います。
 主を信じるときに、家族の救いは保証されています。使徒の働き十六章三十節から三十二節に、

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。』

 『「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」』とあります。家族の中でだれか一人が救われるのは、たいへん重要です。なぜなら、その人が「家族の中に遣わされる」からです。家族に救いが及ぶことを約束しています。三十一節の御言葉を宣言しましょう。
 『「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」』
とても素晴らしい言葉です。ヘブル書十一章七節に、

『信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。』

 ノアは大洪水の前に大きな箱船を造りました。箱船は家族の救いに関する旧約聖書中の預言的現れでもあります。家族のメンバー一人が救われることは、家族の救いの為の箱船となるのです。創世記七章一節は、

『主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。』

 当時、あまりにも悪い時代になったので、神は人類を滅ぼそうとされました。しかし神はノアという一人の人物を見逃すことはできませんでした。ノアが正しかったので、神はノアに箱船を造らせました。そしてノアの家族八人全員が救われました。「船」という文字は、舟の横に「八と口」を書きます。
 ここに大勢の方が来られていますが、ほとんどの方々が、家族との関わりの中で生きておられます。そこからも救いが一人ではなく、家族の中に遣わされていることがわかります。
 しかしある家族は、福音を伝えてもなかなか受け入れようとはしません。しかし、今年与えられている御言葉の中に、「エゼキエル書三章九節と十一節」がありました。

『わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。・・・さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」』

 ある家庭の人々は、福音に開かれています。しかしある者は堅く、火花が散るような家庭の中にあるかも知れません。しかし、御言葉は、どんなに反逆しているような家でも、「恐れないで、ひるまないで」語るようにと励ましています。相手がどうあっても、「イエス様のことを話題にする」ことが大切です。それは後になって、大きな意味を持つからです。
 今まで、家族の中で、イエス様を信じないで亡くなった人がいるのも確かです。彼らは死後、どこに行ったのだろうと心配されるかも知れません。それらは、神が決められることです。しかし、良きにつけ、悪しきにつけ、イエス・キリストについて、家族に告げることが大切です。迫害や反発があったとしても、イエス様のことを話題に乗せることが、ある意味で、家族の為の箱船造りとなるのです。天国に行ったら、「あんたがイエス様のことを語ってくれたから、私は反対していたけれど、死ぬ寸前にイエス様が現れて、天国に来ることができた」と言う人がいると思います。ですから、現在、受け入れてくれない状況があっても、今年はイエス様のことを家族の話題に乗せてください。
 先週は新城教会に集われている方々のご家族二人が亡くなられました。お二人とも、ご高齢でしたが、突然亡くなられたので私たちも吃驚しました。教会には第一報が飛び込んでくるので祈らされます。Kさんから、「母親が今倒れました。意識がないです。今病院に向かっているので祈ってください」と言われました。しかし前日、Kさんとお母さんの間で教会のことが話題になったそうです。また、お母様が亡くなられる前に、私たちは真剣に祈りました。イエス様が、Kさんのお母さんの魂を天国に連れて行ってくれたと信じています。
 Nさんのご主人は、何回も教会に来られていました。昨年十一月には私の両親の所に来て、「今年からは教会に来たい」と言われていたそうです。
 けれども先週、エレベーターの中で突然亡くなられたのです。周りにとってはとても動揺する亡くなり方ですが、本人は一瞬にして苦しまずに天に帰って行ったと思います。Nさんのご主人は、地域で活躍されていた方でしたので、葬式には数百人の方々が来られました。それも歴々とした男性が集まられました。私はいろいろな所でメッセージをさせていただきますが、一番使命を感じるのが葬儀での司式です。なぜならば、葬式は皆が真剣に福音を聞いて下さるからです。「やがて私たちもここに横たわります」と語る事があります。いずれ私たちは、その瞬間を迎えなければなりません。この地上で人生は終わりではない、永遠の希望があると話します。人生は長いようで短く、はかないものです。ある意味で人生は、永遠を選択する場所です。
 「あなたは神を信じますか。どちらかを選択してください。そうしたら行き先が変わります。」
 私はこの礼拝が終わってから、大分県に出かけます。旅をするには、目的地までの切符を買わなくてはなりません。私は午後、豊橋まで出て、新幹線に乗ります。新幹線も、上りと下りがあります。大分県に行くためには、下りに乗らなければなりません。人生はプラットホームに立っているようなものです。上り電車も、下り電車も入ってきます。新幹線は上も下りも全く差がありません。下りだからということで道を下るわけでもなく、ずっと同じです。中では車内販売があり、車掌もおり、座席のデザインも同じです。しかし時間が経つと結果が出ます。上りに乗っていたら、「東京」という放送が流れ、「あれっ?私は九州に行くはずだったのに…」ということになってしまいます。九州に行くためには、下りの電車に乗らなければなりません。
 同様に人生も、イエス様を信じても信じなくても、ある面では状況は同じかも知れません。人生の内容はあまり変わらないかも知れません。しかし、上りの電車であるイエス様を選択したら、電車は天国行きです。この上り電車に乗るように、誰かが教えなければなりません。その為に遣わされるのがクリスチャンです。家族の救いのために箱船を造る使命をいただいた遣わされた者たちなのです。
 ここにおられる方々は、皆、家族に遣わされています。それも「ある方」とともに遣わされているのです。「あると呼ばる方」とは、イエス様です。
 今年は皆さんの家族が救われるように祈ってください。家族が福音に反逆するような態度であっても、恐れたり、ひるんだりしてはいけないと教えています。ぜひ、イエス様のことを話題にしてください。そうしたら「あると呼ばれる方」が助けを与えてくださいます。エゼキエル書三章九節と十一節の御言葉を覚えてください。「こんなことを言うと変だと思われる。教会のことを悪く言われるのでは…」と思わないでください。イエス様のことを話題にするのが、救いの為の箱船造りです。やがて天国に入ったとき、「なぜあなたがここにいるのですか?」という人と多く出会うでしょう。「あるという方」にこころを留め、今年は遣わされる者になることを願います。

 聖書には「ない」というテーマはありません。なぜなら、「ある」という方が中心におられるからです。人間はあるようで、ない者です。今日はあるが、明日はどうなるのかわからない者です。しかし神は永遠に、自己存在されているお方です。その方と私たちはおつきあいをしています。
 先週、「至上最も危険な概念、ゼロ」について話しました。私たちが何気なく無批判で使っている事柄の中にも、結構危険な概念があります。日本人は「干支」を気にします。「干支」がどこから来ているのかご存じでしょうか。それはバビロンから始まり、中国で「十二支」となって日本に渡って来ました。それは、ヨーロッパにも流れ、木星が十二年で太陽を一周することを基準にし、「黄道十二宮」と呼ばれる占いになりました。
 星占いとはたいへん危険な行為です。イエス様の誕生を最初にかぎつけたのが、「東方の博士」たちでした。「博士」とは「星占い師」でした。星占い師たちがイエス様の誕生に気づき、イエス様の居場所まで探し当てまし、家まで特定しました。
 しかしその後、ヘロデは二歳以下の子どもたちを殺してしまいました。彼らがいなければ、二歳以下の子どもたちが殺されることもありませんでした。もちろんそこには預言の成就も関わっていますが、星占いはとても危険な行為です。
 バビロンから東洋に廻ってきた星占いが「十二支」です。それは深い悪霊の力とのつながりがあります。今年は戌年ではありません。「イエス様の年」です。イエス様が生まれる前を「B.C.」と表し、生まれてからのことを「A.D.」と言います。それは「Anno Domini」の頭文字をとったもので、「主の年」という意味です。そもそも「元旦」とは、神道的な意味合いがありますが、イエス様が生まれて「八日目」を西暦は新年と定めています。決して今年は戌年ではありません。「主の年」です。
 先週は「戌年」というテーマで、とりなしの祈りをするように主から導かれました。「西北西」が戌年の方角と言われ、人々はそちらの方向を拝むのです。先週はどこかに犬のテーマがあるような気がして出かけて行きました。作手村のある神社に行きました。そこに変わった狛犬がありました。狛犬は通常、獅子のようなものですが、その狛犬はなんと耳がたれた犬でした。主の導きを感じて、悪しき力を打ち砕く祈りをしてきました。犬をペットとして飼っている方は、守りを祈る必要があると思います。ペットは神が人を慰め助けるために与えてくださっていますが、悪魔もペットを狙います。ペットに害を与えるなら、人が害を受けるからです。ペットも飼えば家族の一員になります。だからペットの守りも祈りましょう。そして、今年は主の年であることを宣言しましょう。誰もが疑いを持っていない概念の中に、案外、危険が潜んでいます。
 日本の数字は「漢数字」です。皆さんの中で、家計簿を漢数字で付けている方はおられますでしょうか。またローマ数字でつけている人はいますか。普通は、アラビア数字を使います。アラビア数字はとても便利で、人類がゼロという数字を発見したことで、数字の扱いがとても楽になったと言われます。私たちは何気なく、数字を使いますが、そのマークの「ゼロ/0」はインドから来ました。アラビヤ数字ではなく、インド数字と呼んだ方が良いです。「ゼロ」という概念をヨーロッパでは、キリスト教的概念ゆえに、なかなか受け入れられませんでした。なぜなら聖書は、「わたしはある」と言われるからです。ゼロはかつてヒンズー教の中で礼拝されていました。仏教の一番の根底は空(くう)で、「空」とは、ゼロの概念です。
 「0」は、不思議な数字です。どんなに大きな数字にかけ合わせても、ゼロにしてしまいます。一億にゼロをかけると、ゼロになってしまいます。同時に割り算は、ゼロで割ると「エラー」になってしまいます。しかしゼロに限りなく近い、目に見えないくらいの数でも割り算が成り立ちます。その結果は「無限大」になります。だから無限大のマークはゼロが二つつながった「∞」です。インドにおいては、ゼロと無限大を神として拝んでいました。仏像は手を〇形にして座っています。私たちは数字を何気なく使っていますが、ゼロが礼拝の対象であったのです。りんごやみかんを数えるときには、一つ、二つと数えます。しかし年を数えるときにはゼロから始まります。生まれたとき人はゼロです。そして最終的に人は死んでゼロになると考えます。日本では多くの人が自殺をします。年間約三万人と言われます。それは死んだらゼロになれると思うからです。しかし決してゼロになることはありません。人には永遠の世界があるので、死んだらその続きがあるのです。悪魔は「お前はゼロだ」と言います。「お前の人生には何もない。ゼロだ…」と言います。その言葉を聞いてはいけません。
 今までに〇点を採ったことがありますか。私は小学生の時に、〇点を採ったことがあります。私の私の母は昔教育ママでした。小学校三年生くらいまでは一生懸命勉強を教えてくれました。そのうちあきらめましたが。ある時、先生から返された答案用紙に、零点と書かれていました。それは血の気が引くような、ショッキングな出来事でした。自分を全否定されたように感じました。〇点はとても辛いです。
 あるミッション・スクールでテストがありました。一人の学生は全くできなかったので、答案用紙にこのように書きました。「先生。この答えは神のみぞ知る。メリークリスマス!」新年が明けて、答案用紙が返ってきたそうです。ギリシャ語の最初の文字を「アルファ」、最後が「オメガ」です。先生はなかなかシャレており、答案用紙を返すときに、ゼロとは記さず、「神はアルファ、あなたはオメガ。新年明けましておめでとう!」と記入されていたそうです。
 生まれた時ゼロ才で、やがてゼロになる。人生には何もないと考えます。その声に惑わされはいけません。いくら〇点を取っても、心配しないでください。それがあなたの評価ではありません。エペソ一章三節から五節に、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』

とあります。「神は世界の基の置かれる前から、私たちを選んでくださった」とあります。私たちはよく、「神は無から有を生じさせた」と表現します。しかし神は元々存在されたので、元々すべてがあったのです。私たちは地の基が置かれる前から、選ばれていたのです。更に、エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

と記されています。「私の人生に良いものは何もない」と言われる方がありますが、それは嘘です。神様は私たちに「良き行いをもあらかじめ備えてくださった」とあります。私たちには良いものがあるのです。今年私たちは「ある」と言われる方とお付き合いします。ですから、すべてのものが備わっていると信じましょう。今年はどうなるだろうか、経済的に大丈夫だろうか、お金がなくなってしまうのではないか、私のポジションがなくなってしまうのではないか、健康がなくなってしまうのではないか…と、いろいろ不安になります。しかし神様の中に、すべてが「ある」のです。あなたの経済的祝福もすでに創造済みです。健康もあります。人生の良きもの、すべてが創造済みであると教えています。だから、あなたに決して、ゼロはないのです。この地上から出て行っても、ゼロになることはありません。第二コリント十二章一節から四節。

『無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。』

 パウロはある時に特殊な体験をしました。それは、後に私たちに知らせるために神がこの体験を許可したのでしょう。ある時パウロは迫害され、石打ち刑を受け一度死にました。人々は彼を城壁の外に引き出しました。しばらくすると、パウロは起きあがって城内に入ってきました。人々はとても驚きました。たぶんその時の体験ではないかと言われますが、彼は肉体のままであったのか肉体を離れてであったかわからないが、第三の天にまで行ったと語っています。「第三の天」とは「天国」です。パウロは肉体から魂が抜け出て、瞬間的にパラダイスに行ったのです。彼は死にましたが、自分で手足を意識していたのです。臨死体験をした人々がいますが、死んだ瞬間、自分の体が見えると言われます。周りの人が泣きついている姿や、医者が死亡宣告をしている姿が見えると言います。死んだ瞬間どうなるかと言うと、第三の天に引き上げられるのです。第三の天は物理的距離感のある場所ではなく、瞬間的なもののようです。きっと、次元が変わるのです。
 生まれる前から神によって選ばれ、人生の中身も良きものが備わっており、地上の歩みを終えたら、瞬間的に天国に入ることができるのです。素晴らしい恵みです。
 先週、二人の方々が天に帰っていきました。突然死でした。彼らは気がついたら、瞬間的に天国に移されていたと思います。天使から、「あなたは死んだのですよ」と言われて、驚いたかも知れません。「私は死んでいませんよ。」と言うと、天使が、「下を見てください。あなたの亡骸がありますよ。」と言います。一度、第三の天に入ったら、もう二度と地上に戻りたいとは思わないのです。
 昨日の葬式で「死とはどのようなものか」を語りました。ヤゴはトンボの幼虫です。ヤゴの住処は汚い水の中です。ヤゴには、ヤゴ社会があるのかも知れません。
 ある時、ヤゴのじいさんたちが集まって、ゲートボートボールをしていました。ゲートボールをしている最中、一匹のヤゴが「ちょっと気持ちが悪いから…」と言って出て行きました。皆が見ていると、水中に生えている芦の茎に捕まって上っていくのです。やがて彼は水面に出ました。「あいつは何をしているんだ…。まあ、そのうち戻ってくるよ。」とヤゴたちは話します。そうこうしていると、ヤゴじいさんは芦の先端にまで達し、途端に体が堅くなって動かなくなり、背中にミシミシと筋が入り羽根がはえ出てトンボになり、大空に飛び立つのです。トンボは二度とヤゴの世界には戻りません。死とはそのようなものだと思います。この地上に置いていく亡骸は、抜け殻のようなものです。ヤゴがトンボになっても、抜け殻は風に揺れる芦のてっぺんに揺れているでしょう。しかしそこには実態はありません。
 私たちも、やがてその時が来ます。第三の天に上る日が来ます。あなたは永遠に「ある」ものです。今年、決して「何もない」という考えに支配されないでください。イエス様がある方ですから、あなたもあるのです。
 ある方が私たちに語られます。「あなたを家族の所に遣わします」そして「福音を伝えなさい」出エジプト記三章十五節に、

『神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。』

 神様の永遠の名前は「わたしはある」です。この御言葉は、ヨハネの福音書八章二十四節と照らし合わせると、「ある」と言われる方が「イエス様」であるとわかります。
 そして、『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とあります。神様は家系の中に祝福を与えてくださると教えています。
 「私はクリスチャン一世で、まだ家族が救われていない」といわれる方は、あなたが祝福の源「アブラハム」です。次はイサク、ヤコブを生み出さなければなりません。神は千代に至る祝福を与えてくださいます。
 私はクリスチャン二世です。私の父・明がクリスチャンになったので、私はクリスチャンになることができました。また私がクリスチャンになったことによって、私の息子もクリスチャンになりました。三代、四代は悪魔が偶像礼拝の契約を使って、必死に引き戻そうとしますが、その後は手が出せなくなります。今度は千代に至る祝福というプログラムが動き出すからです。三代、四代までは、偶像礼拝ののろいと、神の祝福が混在している、ある意味で戦いの現場です。しかしそこを突き抜けたら、今度は「千代に至る祝福」に入ることができるのです。
 「ある」といわれる方は、家系の中に座を設けてくださる素晴らしい神です。私たちがクリスチャンになったら、次の代も、その次の代も、確実にクリスチャンにして天国に連れて行く使命を持って歩んでいきたいと思います。

 今日は聖餐式を行いますが、聖餐式はイエス様の十字架を意味しています。十字架はまさに「ある」ということを証明してくださった瞬間です。イエス様は十字架で死なれましたが、よみがえられたからです。イエス様が「ある」ことを証明した瞬間でした。聖餐式は「わたしはある」と言われた方と共に人生を歩き、また、私たちも「ある者」であると確認するひとときです。今日の聖餐式は、「私にはすべてのものがある」と宣言する時にしたいと思います。

 

<祈り>

「イエス様、今私はイエス様だけがある方、救い主であることを信じます。私の人生をある方に委ねますから、導いてください。私にはすべてが備わっていることを感謝します。ゼロから受けた傷を癒して下さい。ゼロの輪を砕きます。すべてを満たしてください。今年、霊的にも、魂も、肉体もすべての必要が備えられていることを、心から感謝します。聖餐式を通して、「ある」と言われる方と契約を結びます。イエス・キリストの名によって罪も赦し、きよめてください。勝利を宣言し、御名によってお祈ります。アーメン。」


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