あなたの労苦には報いがある

2006.1.29(SUN)
新城教会 上條 実師

旧約聖書 エレミヤ書31章15節〜17節
主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。

ハレルヤ!今日皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを心から感謝します。我が家のためにいつもお祈りいただき感謝します。特別アメリカに行っている次男のためにお祈り下さり感謝します。三月の初めに一度目の学びを終えて帰ってきます。そして数ヶ月後にもう一度行きたいと言っていますのでお祈りいただければ幸いです。

 私たちの人生にはいつ、何が起こるかわかりません。今年もすでに一ヶ月が経ちます。その中で二回の葬儀をさせていただきました。一月五日にN姉のご主人が亡くなられ、七日に葬儀をしました。また先週の月曜日に豊橋から来られているN姉のお父さんが亡くなられました。水曜礼拝に二年ほど来られていました。二四日の火曜日に、葬儀をいたしました。お二人ともイエス様を信じて、天の御国に帰られました。ぜひご家族に慰めと祝福がありますようにお祈り下さい。

さて先ほど読んでいただきましたエレミヤ書三十一章十五節から十七節をもう一度読んで学んで行きたいと思います。

『主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

とあります。このみことばは二〇〇五年の最後の集会で、私がこの教会と私のために与えられたみことばとして語らせていただいた箇所です。二〇〇六年はこの御言葉が教会と私の中で現実のものとなるように祈っています。ある人は「真剣に祈っているのに、なぜこんな状況になるのだろう?」とか「なぜこんなに苦しい状況になってしまうのだろう」と問題のただ中にある人がいるかも知れません。このエレミヤ書三十一章は、イスラエルにダビデ王、ソロモン王が支配した後、ダビデとソロモンの罪の結果として、ソロモンの死後イスラエルは南北に分離されてしまいました。このときは北王国イスラエルは既に滅び、また南王国ユダもバビロニア帝国に攻撃され、紀元前六〇五年と五九七年の二回に渡り多くの攻撃を受けました。イスラエルの国は壊滅状態になり、王宮も民家もバビロン軍により、火が放たれて国が壊滅状態となってしまいました。指導者たちのほとんどはバビロンに捕囚として連行され、もうイスラエルという国は成り立たない。崩壊してしまったとラケルが泣いていると書かれています。ラケルはヤコブの妻です。その当時は生きてはおらず「ラマ」という地に、ラケルの墓があり、ラケルはイスラエルの母と呼ばれる人物ですので、「イスラエルはもうこれで終わりだ、滅亡だ。将来がない。続いての子孫は生まれない」と嘆いたのです。ラマはバビロンの国に捕囚となる、イスラエルの指導者たち、男も皆一度集められ、そこからバビロンに連れていかれるという場所です。イスラエルの民にとって、ラマとはとても辛い場所であり、恐ろしさと絶望感に襲われるような場所でした。「ラマ」と聞くと、イスラエルの人が恐れて絶望感を味わうように、皆さんの中にまさに今「ラマ」に集められている状態の方もいらっしゃるかも知れません。そこから抜け出すことができない、「神様はわかっており、救い主であり、全能の神であることは知っています。しかしいざ自分の事となると、できないと考えてしまいます。不信仰の固まりになってしまい、そこから抜け出ることができない。と涙を流し、絶望感に見舞われている状況です。しかしみことばは「あなたの労苦には報いがある」と言っています。神の計画時に勝利を与えてくださること言うのです。この教会も思い出したくないラマのような状態がありました。十数年前に新城の教会で一緒に礼拝していた方々が別のところで礼拝をするようになってしまいました。分裂がありました。いつももう一度回復させて下さいと、悔い改めつつ祈っています。またある方の病がいやされるように真剣にお祈りしましたが癒されず、悲しい思いをしたこともあります。亡くなられて天に帰られたのを見ると、神様は私たちの祈りに答えてくださらないのだろうかと思ってしまいます。そんな事は絶対にない、御言葉は確かだと信じています。しかし現実はだめでした。日本の状況を見ても、誰も希望を見いだせない状況にあると思います。二〇〇四年の統計では、なんと三万二百二十七人の人が一年間に自殺してしまいました。その人たちは、自分の「ラマ」があり、苦しんだあげく希望を見いだすことができずに、自分から命を投げ出してしまいました。こんな多くの人が自殺するというのは、この日本は異常ではないかと思います。家庭崩壊、幼児虐待、薬物中毒など色々なニュースがあります。日本のために祈っていながら、祝福をもらえないのです。

 今日滝元順先生とフェルナンド先生はコロンビアという国のカリという町に出かけていってご奉仕しています。聞くところによるとその地域は以前は、危ない地域、今の日本のような状態でしたが、トランスフォーメション。町ごと神様によって変えていただいた町だそうです。フィジーも占いや降霊術の中にありましたが、国ごと変えられました。私たちもこの日本のために祈り続けていますが、全く変わりません。兄姉の問題が勝利するように祈っていますが、あまり変わらないどころか、悪くなっているような気がします。

しかし今日御言葉を覚えてください。エレミヤ書三十一章十六節から十七節、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

リビングバイブルで読んでみると、十五節から

『神様は私に、再びお語りになりました。 ラマ(バビロンの捕虜となったユダヤ人が集合させられた場所)で激しい泣き声が聞こえる。 ラケル〔ヤコブの妻。 イスラエル王国の母として象徴的に言われている〕は子供のために身もあられもなく泣いているが、どうしても慰めることはできない。 それもそのはず、子供がいなくなったからだ。しかし、神様は約束なさいます。 もう、泣かなくていい。 確かにおまえの祈りを聞いた。 おまえはまた子供に会える。 彼らは遠い敵の国から、おまえのふところへ帰って来る。おまえの将来には希望がある。 おまえの子供は生まれ故郷へ帰って来る。』

ラマに人々が集められて、バビロンに補囚されて行くという希望のない中で神様がエレミヤを等して「泣かなくて良い。もう一度イスラエルが再建する」と、語って下さっています。昨年は終戦六十年と言われました。日本の人々は必ず神風が吹き、勝利すると信じていました。しかし実際は日本は負けてしまい、泣き崩れ、これからどうなってしまうのだろうか?と苦しみと絶望感を味わいました。イスラエルもこの国は再建されない。と絶望の中で「泣かなくても良い、敵の国から帰ってくる」と神様は言っています。あなたも御言葉を握ってください。あなたのためにイエスキリストは十字架にかかってくださいました。あなたが滅びるところを、身代わりになってあなたを救って下さいました。あなたがクリスチャンとして信仰をもって、忠実に従って行くとき「あなたの労苦には報いがある」「あなたの将来には望みがある」と言われました。また一月一日は日曜日でしたので、早く起きて、主と交わりつつ聖書を読みました。するとエレミヤ書四十六章九節から十節の御言葉を語って下さいました。

『馬よ、上れ。戦車よ、走れ。勇士たちよ、出陣だ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引き張るルデ人よ。その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。』

特別『勇士たちよ。出陣だ。』という御言葉が心に飛び込んできました。リビングバイブルで読むと、

『馬と戦車、それに無敵を誇るエジプト兵たちよ、さあ、来い。 盾を取り、弓を引きしぼるエチオピヤ、プテ、ルデの人たちも来い。きょうこそ、天の軍勢の主の日、わたしが敵に復讐する日だ。 剣はおまえたちの血を十分に吸い、これ以上一滴も飲めないというまで働く。 きょう、天の軍勢の主であるわたしに、北の地ユーフラテス川のほとりで、いけにえがささげられるからだ。』

とあります。リビングバイブルだと少し血なまぐさい表現で書かれています。

『剣はおまえたちの血を十分に吸い、これ以上一滴も飲めないというまで働く。』とあります。今までも祈ってきましたが、もう一度戦いなさい。特に祈り続けていく、主から完璧な勝利をいただくまで祈りなさい。『剣はおまえたちの血を十分に吸い、これ以上一滴も飲めないというまで働く。』というのは、主から与えていただいた御言葉の剣によって、敵から完全勝利をいただくまで祈れと教えていただいた気がします。続いてエレミヤ書四十八章十節には、

『主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。』

リビングバイブルでは、

『モアブの血を流すのをいとい、剣を抜くのをひかえる者は、のろわれよ。 わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ。』

とあります。神が与えて下さっている仕事に手をつけなさい。祈りの課題があってもあきらめてしまい祈らないのではなく、必ず勝利を下さるから祈れと、主のために奉仕しなさいと教えて下さいました。だからもっと神様と交わること、また神様が頭で私たちは各器官ですから、神様が私に与えて下さった祈りの課題、問題、主が祈りなさいと重荷を持たせて下さった地域や国のため、人々のために働きなさい。奉仕しなさい。愛を注ぎなさいと教えています。ある方は自分の仕事で精一杯。自分の問題、ましてや他の人のために祈るということはできないと思っていらっしゃる方もいるかも知れません。しかし「神の国を第一に求めなさい」あるように今年は神を第一として神が私に与えて下さった仕事に手をつけましょう。あなたが教えられていることを行い始めるとき、主が現実の世界で働き始めるのです。

 先週私は一冊の本を読みました。アメリカの方が書いた本ですが、多くのクリスチャンは問題があると祈らずにすぐ教会の牧師やスタッフに祈ってもらう。自分から祈ろうとしない。確かに私たち教会の牧師やスタッフに祈りの課題を言って下されば、喜んでお祈りしますが、その本には「代理クリスチャン」と記されており、牧師に祈ってもらうことも必要ですが、あなた自身がファイティングポーズを取って祈り始めたら、戦い始めたら神の業がそこに現されると書かれていました。皆さんが旅行に行きたいと思う場所があったとします。しかし行くのに時間も、お金もかかる、だから行った人の話を聞いて、行ったつもりになれば良いと考えます。しかし実際に行かなかったらその場所のすばらしさがわかりません。行ったつもりで人からこんな景色だった。こんなおいしい食べ物だったなど聞いてもわかりません。あなたがそこに出かけたら全部わかります。また好きな人がいても、恋愛も結婚は面倒だ、代理の人に付き合ってもらおう、結婚してもらおうなどとは絶対思いません。どんなことがあってもその人と一緒にいたいはずです。誰かに代わって行ってもらったり、結婚してもらう事はしないように、「代理クリスチャン」で自分の祈りの課題を、他人にお願いするのではなく自分の問題をあなたがその敵と戦いはじめると、そこに勝利が始まるのです。祈りは他人任せだけでは駄目だというのです。一緒に祈ることも祝福ですが、あなたがファイティングポーズを取って問題に立ち向かうことが必要だというのです。今年は今まで動かなかった課題、苦しんだところ、涙したところに対してあなたが一歩出て祈り始めて下さい。あなたが祈り始める時、必ず祝福を下さるという約束です。ある時は忙しい時間であっても、自分の時間をストップして、その問題のために祈る必要があります。あなたが信じている神様は絶対者です。そして計画を変えることがない方です。

 今あなたは聖書を手にしていますが、聖書の御言葉は一点一画変わりません。あなたのため十字架にかかられた神を信じて、神の権威をしっかりと握って下さい。御言葉は絶対に変わりません。マタイの福音書二十八章十八節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』

と記されています。権威を信じて祈り始める時、速やかに祈りが答えられます。私は神の祝福で自分の建物と土地が与えられています。しかし私の家に見ず知らずの人が押しかけてきて、ここは私の家だから出て行ってと言われたら、私は堂々と「そんなことはない、私の家だ」と言うことができます。なぜかというと自分の土地と建物を法務局に登記しているからです。いくらその人が以前ここに住んでいたと言ったとしても、その人を法務局に連れて行き登記している事項を確認させれば、どんなことを言われても、私のものと証明できます。それと同じように、いやそれ以上の権威のあるみことばを知っています。あなたの手に権利書である聖書があります。ですからあなたがこの聖書を信頼し、今まで悩み、苦しみ、泣いていた問題も、敵にこの権利書をもって大胆に祈り始めると、今まで不法に取られた部分を回復することができます。また交通事故に遭ったとき、任意保険に入っていれば、保険でまかなうことができます。保険証があれば、それで修理費や治療費などを支払うことができます。自分が支払うべきものを保険会社が支払ってくれます。あなたの手に最高の権利書である御言葉、証書があります。あなたが信仰を持って祈り始めたら、必ず問題が動き始めて勝利をいただくことができます。あなたには神の権威があります。また罪の赦しは完全であることを覚えて下さい。敵は既に赦されている罪を、あたかも合法的にまだ罪が残っていると過去犯した罪を攻めてきます。しかしヘブル八章十二節に、

『なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。』

とあります。またヘブル十章十七節には、

『「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」』

とあります。私たちがイエス様の十字架を信じたときに過去、現在、未来のすべての罪が赦されているからあなたは大胆に神の前に出ることができると記されています。またマタイの二十一章二十二節に、

『あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』

と記されています。ですから今あなたがどのような状況であっても、先ほどお話しした神の権威を持って祈り始めたら、新しいことが起こる。何でも与えられるというのです。

また主にあって大胆に告白してください。ほさなクラブという子どもの集会をしていて、よく賛美をしているとき、声が聞こえません。子ども達に「賛美してよ」と言うと「賛美しているよ」と言います。彼らは声が全く聞こえません。口からは賛美は出ていなくて心の中で歌っているのです。歌っているつもりになっています。今日実行して下さい。口に出して告白する事に大きな意味があるのです。第一ヨハネ四章十五節に、

『だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。』

とあります。あなたも「イエス様、あなたを信じ受け入れます」と祈ったときに救われました。告白したからです。ローマ書十章十節には、

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

とあります。またピリピ二章十一節に、

『すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』

とあります。ヘブル十章二十三節には、

『約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。』

とあります。「動揺しないで下さい。」告白したら、かなえられるのです。あなたがどんなラマのような状況下にあっても、将来になにも希望が見えなくても、あなたが告白したら、救われ、祝福をくださるということです。私はモーセのことを考えました。出エジプト記三章十節に、

『今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』

とあります。モーセは以前エジプトの皇太子でした。しかしある出来事によって山の奥で身を隠し、羊飼いをして四十年間した男でした。しかし神は、逃げ出したようなモーセを引き出してくださり、「お前をエジプトに遣わす」と言われました。その言葉を信じてモーセが立ち上がり出かけていきました。パロという王と戦い、何と六十万の民をエジプトから導き出し、紅海を分け、岩から水をだし、食べ物であるマナが降ってきたりと素晴らしい力ある預言者となりました。あなたも祈っても駄目だと不信仰を抱き、問題だらけの状況であっても祈り始めて下さい。どんなにラマのように希望のない場所にいたとしても、告白し、戦わせていただく、祈らせていただく時、神様はあなたに祝福をくださると最高の権利書である御言葉が与えられています。『今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。』と言われたように、あなたにも「今、行け。」と言っています。あなたがラマのような苦しんでいる問題も、勝利を収めてくださるという信仰を持ちましょう。お祈りします。


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