聖霊の油注ぎを受けよ

2006.2.12(SUN)
新城教会 滝元 順師

新約聖書 ヨハネの手紙 第一 2章27節
あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

 ハレルヤ!おはようございます。皆さんとともに御言葉を学ぶことができて感謝します。私にとって二月は印象深い月です。なぜならば、一九九二年の二月十三日に、愛知県民の森で「甲子園ミッション」の前、主を求めている時に、強く主が訪れてくださったからです。一九九二年以降、聖霊様が私たちの教会に訪れてくださってからは、この教会は変えられました。新城教会には、九二年以前から集われている方もおられ、またそれ以降の方もおられます。以前から集ってくださっている方々は、ほんとうにご苦労様です。感謝しています。聖霊様が働かれていない時期もありましたが、頑張って祈り続けてくださいました。また、それ以降、来られた方々は幸せです。私自身も、本当に変えられました。聖霊様に触れていただくことは、とても重要です。

『あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』

 初代のキリスト教会は、今のような情報化時代の中にはありませんでした。印刷技術もなかったので聖書もなく、電話も郵便もなかったのです。しかし今私たちが信じている信仰の基礎は、すべて初代教会の中で整えられました。情報がない中でも、私たちが信じて決して疑うことがない神の御言葉が整えられたことは、聖霊の油注ぎがあったからです。油注ぎがあなたを教えるから心配しないでください、この御言葉は励ましています。これは昔も今も変わらない原則です。現代は情報が多過ぎて、何が真理であるかを選択するのがなかなか難しい時代です。しかし聖霊油注ぎは、私たちに正しい道を教えるのです。私たちが聖霊を求め、その油注ぎの中に生きていくことは、混沌とした世の中において大変重要なことと言えます。
 使徒の働き十九章一節から六節には、パウロがエペソの教会を訪れたときの挨拶が記されています。

『アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』

 エペソの教会はパウロが訪れる以前も、熱心な教会で霊に燃えた教会でした。特にアポロという人が働き、人々の心は燃えていました。しかし一つ足りないものがありました。それは聖霊の力をまだ体験していなかったということです。私たちはイエス・キリストを信じるならば既に聖霊の注ぎがありますが、さらにもう一つ聖霊の油注ぎという領域に入れていただく必要があることを教えていると思います。
 私の家は去年四月に新しくなりました。皆さんのお祈りとご協力により、今は快適な生活をしています。朝起きて赤いコックをひねると、すぐにお湯が出て寒い冬も快適に顔を洗うことができます。しかし古い家の時は時々、赤いコックをひねっても五分経ってもお湯が出ないときがありました。寒すぎるからかと思いながら、ふっと気付きました。私の古い家のガス湯沸かし器は、時々種火が消えてしまいます。それが消えていると、いくらコックをひねってもお湯が出ません。その時には外に出て、火をつけてからもう一度赤いコックをひねるとお湯が出ました。お湯が出るための必要最小条件は種火がついていることです。しかし種火だけでは百年経ってもお湯が出ないのです。もう一度コックをひねって大きな火にしなければなりません。私たちもイエス様を信じたときに、ある意味で種火がつきます。しかし、もう一度コックをひねっていただかなければ、熱いクリスチャンとして、また勝利の人生を歩むことができません。
 イエス様は十字架にかかられ、三日目によみがえられ、四〇日後天に帰られる前に弟子たちに言葉を残されました。マタイ二十八章十八節から二十節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 イエス様は弟子たちに、「父、子、聖霊によってバプテスマを授けなさい」と言われました。パウロがエペソの教会の信徒たちに、「あなたがたは信じたときに聖霊を受けましたか。」と聞くと、信者たちは、「私たちは聖霊があるなんて聞きもしませんでした。」と答えました。パウロが「どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えました。その時、エペソの信徒たちは主イエスの名によってバプテスマを受け、続いて、聖霊が降ったと書かれています。これはイエス様が言われた、「父、子、聖霊の御名によるバプテスマ」を意味しています。
 既に教会は、「父、子、聖霊によってバプテスマを授けます」と宣言してバプテスマを授けますので、聖霊のバプテスマを受けているはずです。しかし案外私たちはその理解がありません。本当に信じたときに聖霊のバプテスマを受けたのだろうかと考えます。主は、聖霊が強く望まれることを印象づけるために、特殊な体験を与えられることがあります。私たちが聖霊の油注ぎをいただいた確信を持つと、人生が変えられます。
 新約聖書は旧約聖書とともにあります。私たちが旧約聖書を読むときは、新約的な視点と共に読むことが大切です。旧約聖書の出来事は、やがて新約聖書で起こる陰でした。イエス様が天に帰る前に、弟子たちに、「父、子、聖霊によってバプテスマを授けなさい」と言われましたが、それが旧約聖書中の一つの出来事とともに、預言的に表されていました。それはエリヤとエリシャという、二人の預言者の記事の中に見られます。第二列王記二章一節に、

『主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。』

 エリヤという預言者は死を見ることなく、天に上げられました。そしてエリシャはエリヤの弟子でした。天にエリヤが上げられる前に、「エリシャ、私は天に行くが何か欲しいものがあるか?」と聞きました。その時の答えが二章九節にあります。

『渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。』

 エリヤが天に帰る前、エリシャに「何が欲しいですか」と聞くと、エリシャは、「あなたの霊の二つの分け前を下さい」と言いました。これは、「あなたが受けた二倍の油注ぎがもらえるように主に祈ってください」ということです。
 私たちもエリシャの祈りを自分のものにしたいです。常に二倍の聖霊の油注ぎで満たされるようにと祈っていたいです。
 私たちは子どもたちの時から、聖霊の油注ぎを体験できるのを見ています。一九九二年に子どもたちに聖霊が注がれました。子どもたちに主が語りかけ始め、当時、少年少女であった子どもたちが今は青年になっていますが、その時、聖霊に触れられた子どもたちは誰一人として信仰から落ちずに教会に集っています。聖霊の油注ぎが、子どもの頃から与えられるならば、それは長い人生を導く鍵となります。この教会では子どもたちも一緒に礼拝を守っています。子どもたち全員が、油そそぎを受けて成長することを願っています。今の時代、子どもたちをどうやって導いていくべきか、難しい時代です。しかし聖霊の油そそぎが与えられるならば、子どもたちは順調に成長していきます。また子どもたちだけではなく、大人にも共通して言えることです。聖霊の油が注がれるときに、力が注がれ、人生は正しく導かれます。
 私は先々週コロンビアに行きました。飛行機の中で長い時間を過ごしました。コロンビアに行くために最初、ヒューストンまで行きましたが十二時間かかりました。飛行機の中では退屈なので、本など色々なものを持ち込みます。しかし最近気がついたことは、どれだけ持ち込んでも使うのはほんの少しだと言うことです。だから私は最近、少しだけ持ち込むようにしています。「アイポット」という音楽を入れる器械がありますが、それよりも小さな「アイシャッフル」というのを買いました。それは十二時間以上電池が持ちます。だから私はその中に、自分が今まで語ったメッセージや音楽などをたくさん入れます。自分が語ったメッセージを聞きながら、色々反省することがあります。それらを聞いていると、あっという間に目的地に着きます。色々な音楽を聞きながら行きましたが、一つの賛美でとても恵まれ、心燃やされました。それは『ざわめき5.5』に収録されている「僕らの欲しいのはただ一つ」という賛美でした。

僕らの欲しいのはただ一つ 油注ぎ 油注ぎ
僕らの欲しいのはただ一つ 油注ぎ 油注ぎ
そうさ僕らは 主の勇士 主の勇士 主の勇士
そうさ僕らは 主の勇士 主の勇士 主の勇士

僕らの欲しいのはただ一つ 聖霊の賜物 聖霊の賜物
僕らの欲しいのはただ一つ 聖霊の賜物 聖霊の賜物
そうさ僕らは伝道者 伝道者 伝道者
そうさ僕らは伝道者 伝道者  伝道者

僕らの欲しいのはただ一つ 油注ぎ 油注ぎ 
僕らの欲しいのはただ一つ 油注ぎ 油注ぎ 
そうさ僕は 牧師 牧師 牧師
そうさは僕は 宣教師  宣教師 宣教師
いいえ 私は牧師夫人  牧師夫人 牧師夫人
そうね私は とりなし手  とりなし手 とりなし手
いやだ 僕はサッカーの選手 サッカーの選手 サッカーの選手
「ちょっと待って」 君だって伝道者  伝道者 伝道者
そうさ僕らは 大勇士 大勇士 大勇士
そうよ 私も大勇士  大勇士 大勇士

 皆さんも聖霊の油そそぎが欲しいですか。今日は、皆が聖霊の油注ぎに満たされることを願います。
 第二列王記はエリシャを中心に、聖霊の油注ぎと聖霊の働きについて述べられています。また第二列王記を読んで、エリシャを通して主が何をされたかを学んでいただきたいと思います。
 第二列王記四章一節から七節は、エリシャという預言者がやもめの家族の所に行き、油を増やすという奇跡を行った話です。これが新約聖書になると、油は聖霊様ご自身、また油が増えるとは、聖霊の力、聖霊の油注ぎとして置き換えられます。このストーリーから聖霊の油注ぎを受ける秘訣について学ぶことができます。

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 家族は主人を失って、窮地にありました。これ以上生活できない、どうにもならないという状況の中で、預言者エリシャが来て一つの奇跡を行いました。それはその家にあったほとんど油が入っていない小さな油壺から、多くの油を増やし、増やされた油によってやもめの家族が養われたというストーリーです。七節に、

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 私たちが聖霊の油注ぎをいただくならば、『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』とあるように、一生涯、決して窮することがない素晴らしい人生を送ることができると約束しています。
 このストーリーの中に油注ぎを受け取る秘訣が隠されています。四章一節に、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』

 やもめの家族は、ただお金がなくて生活に苦労していただけではありませんでした。その家族を狙っていた敵がいたのです。貸し主が来て、「金を返せ。借金が返せないのなら、形として子どもたちをよこせ」という脅しを受けていました。これはある意味で、私たちの人生そのものを表しています。私たちの人生にも、目に見えない敵がいると聖書は教えています。常に私たちを訴えている敵がいる、それに気付かないと私たちは悲惨な目に遭うのです。私たちは神の最高の計画をいつも求めています。しかし、もう一方のことをよく知らなければなりません。それは、悪魔も生きていてあなたに最悪の計画を立てているということです。時々私たちは、悪魔・悪霊はちょっとした影響を与えるかも知れないが、大した影響を与えることはできないと思っています。しかし悪魔は、あなたに対して最悪・最低の計画を持っているのです。そのことを知らなければなりません。
 しかし恐れることはありません。聖霊の油注ぎは、悪魔の最悪・最低の計画を打ち破るものだからです。クリスチャンになると、案外、悪魔の計画を気にしません。あたかもすべて神様の最高の計画だけがあるかのように錯覚します。しかし悪魔は、最悪の計画とともにクリスチャンにも近づいてくるのです。
 このやもめの借金は、亡くなったご主人が作った借金だと思われます。しかし借金の形を子どもに求めていました。悪魔の働きは、家系にあることを教えています。悪魔は家系の中に最低・最悪の計画を持ち込もうとします。同じ家系の中に、悪いことが同じようなパターンで繰り返し起こります。これは悪魔の働きの結果です。しかしイエス様はそこに勝利を与えられます。また聖霊の油注ぎは、そのような悪魔の最低・最悪の計画をすべて打ち破り、神の最高の計画に置き換えてくださいます。聖書は人間を羊に例えています。私たちはいつも牧場で草を食べているようなものですが、そこにオオカミが入り込むのです。実は、家族という羊の囲いの中に、オオカミが入り込んで来て、どれから食べようかと物色しています。しかし聖霊の油注ぎは、悪魔の最低の計画を打ち破ります。だから私たちには聖霊の油注ぎが必要です。
 エリシャはやもめの家族に、「何をしましょうか。あなたの家にはどんなものがあるのか言いなさい」と言いました。彼女は、「はしための家には何もありません。ただ油のつぼ一つしかありません。」と言いました。油のつぼ一つとは、私たちがイエス様を信じる事です。イエス様を救い主として信じたときに、一つの油のつぼが内側に置かれます。
 あなたは、イエス様を信じていますか?聖書は「誰でも聖霊によらなければ、イエスは主ですと告白することはできません」とあります。「イエスは主です!」と告白できたら、聖霊の油つぼがあります。「イエスは主です」と宣言しましょう。私たちクリスチャンが恵まれることは難しいことではありません。「イエスは主です!」と心から宣言するだけで、喜びで満たされます。
 やもめには一つの油つぼしかありませんでした。しかしエリシャはその油つぼを持ってきなさいと言いました。やもめは家の中に入っていき、小さな油つぼをエリシャの所に持って行きました。その次にやもめがとった行動は、何か、ばからしいように思われます。外に行き、「すみません。空の壷を貸してください」と言って、たくさんの空の壷を借りてきました。
 私たちが聖霊の油注ぎを受ける為の行動パターンは、ちょっとばからしいような、本当にそれで良いのか疑ってしまうような事もあるかも知れません。しかしそんな中に、神様のわざが隠されています。特に人生において、ばからしいと思われる行動の一つは「祈り」だと思います。祈りとは、目に見えないところに言葉を発することです。祈りは時間の無駄ではないかと思うかも知れません。しかしこの無駄に思えるような行為、祈りこそが私たちに聖霊の油注ぎを与える鍵となります。
 私たちも祈りに時間を割かなければなりません。それはある意味で空の器を集めるような行為かも知れませんが、主はそこに油を注いでくださるのです。
 この家族も窮地に立たされていました。「もう駄目だ。これ以上自分の力ではどうしようもできない」という時にエリシャが来て奇跡が起こりました。
 私は牧師をしていて、人々が祈り始めるときがどういう時かわかります。順調なときはあまり祈らないかも知れません。毎週、月曜日に愛知県民の森で祈祷会をしています。昔は十時に教会を出発して帰りは朝の三時、四時でしたが、最近年を取ったので八時に出て帰ってくると十二時くらいです。教会のスタッフを中心に、色々な方々が来てくださいます。時々、珍しい方が来られることがあります。「どうしたの?」と聞くと、「ちょっと祈りたいのです」と言われます。熱心になったと思っていましたが、そのうちにただ熱心になったというだけではなく、祈りに出てくるときは窮地に立たされた時である事が分かりました。「もう駄目だ。これ以上、自分の力ではどうにもならない・・・」と窮地に立たされたときに、多くの人が祈りに来ます。それで良いと思います。
 私たちが聖霊様に触れられたのは、一九九二年二月でした。それはちょうど甲子園ミッションの時でした。甲子園球場を借りて、六万人を集めて伝道集会をしようという計画のただ中でした。甲子園ミッションの案を出したのは私の父でした。甲子園球場を借りて集会をしようと言い出しました。私は長男として心配になりました。「甲子園を見たことあるのか」と聞くと「ある」というのです。「いつも見ている」と言うのです。それも、テレビで見たと言うのです。そこで、それではいけないと、皆でマイクロバスに乗って甲子園球場を実際に見に行きました。行ってみるとたいへん大きくて驚き、父も立ちすくんでいました。それを見て、私はきっとあきらめるだろうと思っていました。しかし、一緒にやろうというような人々も出てきて、その計画が進んでいきました。しかしそのうち、色々な問題が起こり始め、私は落ち込みました。どうにもならなくなって、残された道は、祈りしかありませんでした。
 九二年二月、心暗くして新城教会のスタッフに言いました。「一週間徹夜で祈ろう」と言いました。一日の仕事を終え、夜十時頃に愛知県民の森に出て行き、真剣に祈りました。きっと神様は私たちを憐れみ、何らかの答えをくれるだろうと期待して祈っていました。二日、三日と真剣に祈っていましたが、四日目には疲れてしまいました。いくら祈っても何も起こりませんでした。しかし、決めたことだったので最後まで頑張りました。
 最終日が二月十三日でした。その日祈祷会のリーダーは私でした。リーダーには特権があります。リーダーの心次第で、集会を長くも短くもできます。その時私は、三十分で終わろうと思っていました。暗い思いで祈り場までとぼとぼと歩いて行きました。誰も話しませんでした。祈祷会を始めた当初、三十人くらい集まっていたのですが、一人減り、二人減り、三人減り最終日には八人になっていました。私たちは丸くなって、祈っていました。しかし三十分くらい経ち、「これで十分、帰ろう」と思ったときに、生涯忘れることのできない経験をしました。祈っている所から少し離れた場所から音が聞こえて来ました。それは津波のような音でした。すると皆が声を上げて祈り出しました。祈っている所に波が入ってきたように感じました。その瞬間、堅いコンクリートの上に、皆が瞬間的に倒されてしまいました。それまで人が倒れるのは、病気以外見たことはありませんでした。一週間も祈っていたので、疲れで心臓麻痺でも起こしたかと思いました。しかしそれは聖霊様の力強い訪れでした。そしてその時に聖霊の油が注がれたことから、教会の中にも同じようなことが現されていきました。いっぱい困難があり、どうにもならない状況がありましたが、聖霊の油注ぎによって困難が全て打ち破られました。そして、甲子園ミッションは成功しました。
 それから今年で十四年目になります。ずっとこの働きが継続されてきたことは、人間の働きではなく、聖霊の働き以外に何ものでもないと思います。聖霊様が訪れてくださるときに、私たちは変えられます。しかしその前に、飢え渇きが出てきます。それが空のつぼを表していると思います。今何らかの困難に直面していたり、祈らなくてはいけないというのは、あなたにとって「空のつぼ」です。もう既に油のつぼはありますが、今度は空のつぼを集めなければいけません。飢え渇いて祈り始めるときに、主はそこに油を注いでくださいます。
 しかしその時エリシャは一つの条件を出しました。四章四節に、

『家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」』

 この家は単に経済的に窮しているだけではなく、敵が周りにうごめいていました。「借金を返せ。返せなかったら子どもたちを形にとるぞ…」と言っていました。家の中に油が増えるような奇跡が起こったらどうででしょうか。油は当時高価なものでしたので、敵が入ってきたら全部持ち去られてしまいます。だから家に入ったら「扉を閉めて」から、油を注ぐようにと言われたのです。
 私たちに主が訪れてくださった時に、一つのことが教えられました。それは、油注ぎを受け取る前に、「後ろの戸を閉じる」ようにと教えられました。それはどんな扉でしょうか。それは「敵に対する扉」でした。
 人類には敵がいます。敵は私たちを奴隷にしようとしています。特に、家系の中に敵が入り込んでいます。しかし扉を閉じるならば、決して油注ぎが取られることはないと教えています。
 聖霊の注ぎを受ける前にも、色々な人たちが新城教会のスタッフとして、働いていました。しかしいつも私は牧師として、スタッフの姿を見てがっかりしていました。ある時には信仰に燃えますが、ある時には落ち込んで立ち上がることができないような、波があるのを見ていたからです。私は、それは仕方がない。信仰は波があっても当然だと思っていました。信仰は波乗りのようなものだと思っていました。しかし聖霊が訪れたとき教えられたのは、「まず、家系の中にある敵の扉を閉じなさい」ということでした。
 私たち日本人は偶像礼拝の家系の中にあります。偶像礼拝は三代、四代ののろいと聖書は教えています。偶像礼拝は、家系の中に悪しき扉を開いてしまうようなものです。家系の中に同じ問題を繰り返す原因は、「家系の中で行われた偶像礼拝」にあると教えています。偶像礼拝が三代、四代ののろいであるならば、自分は偶像礼拝をしていなくても、父母や、祖父母が行った偶像礼拝ののろいの請求書が回ってくるのです。それが一番の敵の入り口になってしまいます。だからその扉を閉じるようにと教えています。私たちは主の前に出て、「神様、私たちの家系の罪を赦してください。偶像礼拝の罪を赦してください。敵に対して開かれた扉を閉めてください」という祈りに導かれました。
 不思議なことが起こりました。それから信仰の波が治まり、安定してきました。そしてそれまで繰り返し起こってきた問題は打ち破られていきました。皆さんの中にも、何らかの問題を繰り返し体験している方がおられたら、家系の偶像礼拝に目を留め、その扉を閉めることが最も重要です。そして神はそのことを私たちに実現したいと願っておられます。エリシャは「扉を閉めなさい」と言いました。その時、敵の侵入が阻止されました。そして油は、集めた器の分だけ満たされました。やがて、「もう器がない」という時に、油は止まりました。そして四章七節に、

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 「あなたの負債を払いなさい」とは、敵が責め立てていた領域を油注ぎによって帳消しにしてくださるということです。また、「その残りであなたとあなたの子どもたちは暮らしていける」と教えています。この負債についてパウロは、「宣教」と捉えました。私たちも聖霊の油注ぎがないと伝道できません。聖霊の油注ぎがあるならば、私たちは伝道できます。私たちは主の勇士だと賛美しましたが、油そそぎがあると、不思議に勇士として用いてくださいます。
 去年の暮れに一つの出来事がありました。土曜日にインターナショナル集会が行われ、二百名近い方々が集っています。暮れに、この教会に来られているブラジル人の家族が豊川の町を走っていました。走っていると、目の前の車から男性がころげ落ちて、道路に投げ出されたそうです。すぐに車を止めて、その人を助け介抱してあげたそうです。しかしあまりけがをせずに守られたようでした。親切にその方を家まで送ってあげ、助けてあげたそうです。
 なぜその人が車から飛び出したかというと、車の中で夫婦喧嘩している内に道路に投げ出されてしまったそうです。一歩間違うと大変なことですが、ちょうど後ろにいたのがクリスチャンの家族でした。傷の手当てをし、家まで送ってあげたそうです。そしてその夫婦に伝道したのです。すると道路に落ちた夫妻が教会に来るようになりました。
 昨日私は初めて、その方々と出会いました。聞いてみると、正に家系の中に問題がありました。その家系は壊れており、同じような問題が繰り返しありました。私は話を聞いてあげて、家系の中にある敵に対して開かれた扉を閉じるように祈りを導きました。初めはご主人のために祈りました。続いて奥さんのためにも祈りました。両家とも、同じような問題がありました。そして夫妻のためにも祈りました。神様は不思議な方です。後ろの車にクリスチャンがいたことも不思議ですが、そんなことを通しても、教会に導かれ救われたのです。
 神様は一人ひとりを愛しておられ、解放しようとされています。私たちに聖霊の油そそぎがあるならば、「油を売ってあなたの負債を払いなさい。その残りであなたとあなたの子どもたちは暮らしていけます」とあります。今日私たちは聖霊の油注ぎをいただきましょう。そして主の前に出て行くときに、私たちの人生は守られます。
 第一歴代誌十六章十五節から二十二節に、

『覚えよ。主の契約をとこしえに。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ、あなたがたの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

とあります。これはイスラエル対して、主が語られていることです。それは同時に私たちクリスチャンに語られている言葉です。主はご自分の民を愛し、敵に対して宣言してくださいます。

『「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

 油注がれたものとして歩むならば、主は敵に対して宣言してくださいます。油のつぼはあなたのただ中にあります。もしもまだ、イエス様を信じていない方は、イエス様を自分の救い主として受け入れてください。飢え渇いて主の前に出るときに、主はそこに油を惜しげなく注いでくださいます。新約聖書では、聖霊の油注ぎを「無限」に与えてくださると概念が拡大しています。今日ひとりひとりが飢え渇いた心を持って、主の前に出て聖霊の油注ぎを求めましょう。

(祈り)

「イエス様。今私は、イエス様の御名を通して、父なる神様に祈ります。イエス様だけが私の救い主であることを、堅く信じ、宣言します。私の心に油つぼがあることを感謝します。今私は、心飢え渇いて主の前に出ています。油を注いでください。新しい油を注いでください。今日は新しい油注ぎを受けることができますように。その前に後ろの扉を閉めてください。家族の代表者として、家族の代表者として、偶像礼拝の罪を赦してください。そこで結ばれている、敵に対する悪い契約を断ち切ります。扉を閉めます。二度と油を奪われることがないように守ってください。勝利を宣言します。イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。」


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