神の家族

2006.2.19(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 ヨハネの福音書 1章12節
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。
 皆さんのお祈りに支えられ、健康で喜んで皆さんと共に賛美し、主を礼拝できることを感謝します。
 今日はヨハネの福音書一章十二節から、「神の子どもとなる」ということについて学んでいきたいと思います。

 数日前、滋賀県で園児が殺されたという事件がありました。子どもを守るべき親が、子どもを殺してしまったというこの事件に、やるせない思いです。容疑者として捕らえられている女性は、自分の子どもがいじめられていると思いこみ、それは周りの子が悪いからだと決めつけて、自分の子どもの目の前で、ふたりの子どもを刺して車から放りだしたと報道されています。安全に送り迎えするためにとられていた方法が、こんな悲惨な事件を引き起こすなど、誰にも想像ができなかったことでしょう。
 私が子どもの頃は、この辺りはとても平和で安全なところでした。毎日、道草をしながら帰ってきたことを覚えています。今の時代は、帰りが夜遅くなったなら、それこそ大騒ぎになりかねませんが、私が中学、高校の頃には、たとえ帰っていかなくても、心配されることがないような時代でした。親は、私が帰っていようといまいと、玄関の鍵をかけてしまい、私は家に入れず、教会に泊まったことが何度となくありました。朝、家に帰っていくと「あれ!昨日、帰ってこなかったの?」と言われるような、のんきな時代でした。しかし、残念ながら、最近はこの辺りでものんきには暮らせなくなっています。
 では、安心できる場所とはどこでしょう。一つは、家族、家庭であると思います。大勢子どもがいるのは楽しく、にぎやかですが、大変だなろうと思うこともあります。私も子どもがふたりいますが、今はふたりとも外に出ているので夫婦ふたりで生活しています。いずれにしても、帰る家があるのはホッとします。家族があり、血のつながりがあるというのは、本当に安心できることだと思います。
 家族は、何でも言い合えるという特権があります。他人と話すのは気を遣います。何人かでどこかに食事に行くときに、他の人が何を食べたいかと考えます。私は食べることにあまりこだわらないので、「決めてください」と言われると困ります。また、車に乗っている人が寒くないか、トイレに行きたくないか、などと考えてしまいます。家族であれば、トイレに行きたければ言うし、食べたいものがあれば食べたいと言うので、気を遣う必要がありません。家族の中には、そのような自由があります。時にはお互いに気を遣うことも必要ですが・・・。
 親は子どもを愛しています。子どものためには、何でもしてやりたいと思います。私も親ばかだとか、甘すぎるとか言われますが、多くの親たちが自分の子どもを「目の中に入れても痛くはない」と、子どもを愛し、自分を犠牲にしてでも子どものためにしてやりたいと思っているでしょう。しかし、親はそれを犠牲だとは思っていません。子どもの頃、わがままを言って親を困らせたこともありましたが、親は、私のわがままを受け入れ、いろいろなことをしてくれました。私も親になってみて初めて、親の愛を知り、感謝の思いで一杯です。

 今日は、そんなすばらしい信頼関係を持つことのできる「家族」という形を見ながら、本当の幸せについて考えてみたいと思います。
 ルカの福音書十五章十一節から二十四節に放蕩息子の話があります。

『ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。』

 ある人に二人の息子がいました。雇い人の大勢いる裕福な家庭だったと思います。しかし、弟息子は、こんな田舎でこのまま埋もれてしまうのは嫌だと考えていたのか、ある時、「お父さん、私に財産の分け前をください」と言いました。お父さんの本意ではなかったかも知れませんが、弟の受ける分をあげました。それがどれだけであったかは書かれていませんが、今で言うなら何千万というお金だったことでしょう。そしてそれを持って、弟は幾日もたたないうちに遠くの国に旅立っていったと書かれています。遠くの町に旅立ち、「これで自由にできる。ここで一花咲かせてやろう」と考えたと思います。しかし湯水のように財産を使い果たしました。金があるうちは、多くの友達が近くに寄ってきたと思います。しかしお金は使ったらなくなります。何もなくなったときに、たくさんいた友達も去っていきました。そして、ちょうどその頃その国に飢饉が起こり、彼は食べるのにも困るようになりました。そこで、ある人の家で豚飼いをすることになりました。
 先日私は養豚の仕事をしているクリスチャンの方に会いました。私は事業をしている方に会うと、すぐに「儲かるんですか」と聞きたくなります。その方は、「去年は二、三百頭の豚が病気で死んでしまった。でもそんなことがなければ、おもしろいほど儲かりますよ」と言われました。「儲かる」という言葉にも心惹かれましたが、死んだ二、三百頭もの豚をどうするのかということも気にかかりました。今でこそ豚を飼うといっても暗いイメージはありませんが、この時代においては豚飼いの仕事は一番身分の低い仕事でした。 彼はよほど、お腹をすかしていたのでしょう。十六節にはこんなことが書いてあります。

『彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。』

 私は、いなご豆でも腹を満たすことができたらいいいではないかと思いました。しかし、よく調べてみると、当時のいなご豆というものは、人間が口にできるような食べ物ではなかったようです。そんなものでも食べて、腹を満たしたいほどになった時、彼はふと思いました。

『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。』(十七節)

 彼は、父親のところに帰っていきました。一方父親は、弟息子が家出してからいつも門のところで待っていました。財産を食いつぶしてしまうような子どもはどうでもいい、というのではなく、「いつ帰ってくるか、無事だろうか」とずっと心配し、息子が帰ってくるのを毎日待ちわびていました。そんな弟息子が帰ってきたときに、父親は遠くにいる弟息子を見て走り寄って抱いて口づけしたのです。息子は、「私はお父さんに対しても神様に対しても罪を犯しました。だからもう息子として呼ばれることはないけれど、雇い人の一人としてほしい」と申し出ました。しかし父親は、こう答えました。

『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(二十二節〜二十四節)

 喜んで彼をもう一度迎え入れたのです。この物語は、ある親子の愛を紹介しているだけではなく、身代を食いつぶした放蕩息子は、私たち一人ひとりを指しているのです。

 教会では一月から三月まで、月に一度サンデースクールをやっていますが、今回私に与えられたテーマは創世記です。創世記は聖書の中でも、読みやすくておもしろいところです。聖書の一番初め、創世記一章一節には、こう書かれています。

『初めに、神が天と地を創造した。』

 すべてのものは神によって造られ、神様は永遠から永遠に存在しています。一章は、『初めに、神が天と地を創造した。』ということばから始まり、神の創造のわざについて書かれています。光とやみを区別し、大空と海、植物、太陽と月、魚と鳥、そして獣を造ったり、私たちが今見ているすべてのものを神は六日間で造られました。そしてすべてが整った後、神は愛の対象として人間を造られたとあります。
 初めに造られたのは、アダムでした。そしてアダムのあばら骨を取ってエバが造られました。ここに一つの家族、幸せな家庭が誕生しました。そこにはいつも喜びがあり、笑いがありました。
 しかしそんな祝福を妬んだサタンが蛇を使って誘惑し、幸せを崩壊させました。
 神様は人間・アダムとエバに、「この園にあるものは何でも食べてよい。しかし、園の中央にある善悪を知る木の実は食べてはいけない、食べたら必ず死ぬ」と言われました。蛇はエバに近づき「エデンの園のどんな木からも食べてはいけないと、神は、本当に言ったのか」と聞きました。エバは、「何でも食べてよいけれど、園の中央にある木の実は、あなたがたが死ぬといけないから、食べてはならないと言われた」と答えたのです。蛇に「あなたがたは決して死にません。それを食べたなら神のようになる」と言われたエバは、誘惑に負け、食べるのによく、目に慕わしいその実を食べてしまいました。そしてエバは夫にも食べさせました。それによって、人間に罪が入り、エデンの園から追放され、家庭が崩壊しました。そのような状況の中で、人類は増え広がっていきました。
 次に、アダムとエバから生まれたカインとアベルが、神様にささげ物をしたことが書かれています。神様は、アベルのささげ物を喜ばれ、カインのささげ物には目を留められなかったので、カインはひどく怒りました。カインの心には、憎しみ、怒り、嫉妬、様々なものが渦巻いていたのでしょう。その結果、アベルを殺してしまったのです。ここに最初の殺人が起こりました。
 今の時代も同じです。本来、一番愛し合い、信頼するべき家族でありながら、妻が主人を殺したり、子どもが親を殺してしまうような事件が相次いでいます。そんなことが珍しくない時代になってしまいました。多くの罪が蔓延し、人類は堕落し、神から遠く離れた存在になっています。
 放蕩息子は自分の力で何とかできると、父親から離れていきましたが、結果的には何もできないまま、無力さを感じ、どん底まで落ちていきました。私たちも同じです。自分の力で生きていると思い、自分は何でもできると思っているかも知れませんが、そのままでは滅びが待っているだけです。しかし、放蕩息子が父親のところに戻ったように、私たちにも戻るべきところがあります。
 罪を持ったままでは、人間は天国へ行くことはできません。放蕩息子を父親が待ち続けていたように、天の父なる神様は、どうしようもない、このままでは永遠の滅びへ行くべき私たちを救いたいと願われたのです。そして、今から二千年前に、もう一度交わりを回復し、素晴らしい家庭を築けるようにとの願いをもって、神のひとり子イエス様をこの世に人として遣わしてくださったのです。イエス様は、人として生活し、最後には私の罪のために、皆さん一人ひとりの罪のために、十字架にかかって死んでくださいました。当然地獄に行くべき私のために死んでくださいました。それはちょうど、母親が子どものために命を投げ出してでも救いたいと願う愛情であり、また子どもに、何とかしてもう一度帰ってきてほしいという願うのと同じです。
 放蕩息子が戻ったとき、死んでいた子が生き返ったのだから…と大喜びで息子を迎えたように、神様は私たちに手を差し伸べ、私たちが神様の元に戻るのを待っておられることを覚えてください。
 もし、私たちが神の元に戻るならば、『神の子どもされる特権をお与えになった』と最初に掲げた御言葉にあるように、神の子どもとされ、神様との交わりをもう一度回復することができます。神の子どもとなるということは、永遠の滅びから永遠の天国への道に方向転換されるということです。そのような恵みがあることをぜひ覚えてください。

 生活に寂しさを覚えている方、将来に不安を覚えている方、まだイエス様に出会っていない方に、この素晴らしい方をぜひ紹介してください。教会に来られたら毎日が楽しく生活できます。このことを確信し、皆さんにお勧めします。
 スーパーに行くと、その店独自の特典があります。教会に来たらどんな特典があるのでしょう。
 一つには、教会は皆が一つになることができるところです。子どもから大人まで、皆一緒に神様をほめたたえ、賛美できるところです。一人暮らしの方がいるかも知れませんが、ここには多くの兄弟姉妹がいて交わりがあります。
 もう一つに、教会には喜びがあります。私が教会に行っていることをクリスチャンでない人に話すと、多くの人は「教会はいいところだね」と認めてはくれますが、その後に、「でも、毎週教会に行かなきゃいけないのでしょう」と言われます。私はクリスチャンホームに生まれました。小さい頃は友達が遊んでいるのに遊びに行けず、友達からも、「今日も教会に行かにゃあならんだらあ(行かなきゃいけないんでしょう)」と言われ、日曜日のたびに、「今日も教会にいかにゃあならん(行かなくてはならない)」と思っていた時もありました。
 ここには、子どもたちが静かに座っていますが、心の中では、「早くメッセージが終わらないかなぁ。早く遊びに行きたいなぁ」と思っているかも知れませんが、いずれなぜ教会に行くのかがわかります。
 ここには浜松、島田、焼津や名古屋、知立、豊田といった遠くから、ある方は一時間、二時間かけてここに来てくださっている方が何人もいらっしゃいます。私は恵みによって走ったら二、三分のところに家があるので、遠くから来られている方は多くの犠牲を払っておられるなぁと思いますが、通っておられる方は、それが犠牲だとも、苦痛だとも思っておられないはずです。
 私の友人で毎週ゴルフに行っている人がいます。会社には行かなくてはならないと思っていますが、日曜日には喜び勇んでゴルフに行くようです。なぜですか。それは、楽しいからでしょう。教会には楽しみがあり、喜びがあります。私たちは毎週教会に来ることによって、恵みを得、一週間の活力を得ることができます。ですから、行かなきゃならないではなく、喜んで教会に集うのです。
 また、教会は、皆が愛し合うことができるところです。世の中では、本音と建て前があり、社交辞令があります。そして言っていることとやっていることが食い違っている人もたくさんいます。しかし教会は違います。
 年代も、生活環境も違いますから、話が食い違ったりすることもあります。親子でさえ、食い違いがあったりするのですから、当然です。しかし、クリスチャンはお互いを受け入れ、認め合い、一つになることができます。でもそれは、人間の力だけではなかなかできることではありません。神様の愛によって、お互い、愛し合うことができるのです。そして、互いに愛し合うことを神様は望んでおられます。これが教会です。
 

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』(第一ヨハネ四章九節〜十一節)

 私たちは神様から永遠のいのちと同時に、多くの恵みをいただいています。それは、返すことができないほどの大きな恵みです。私たちは自分がいただいた恵みを互いに分かち合い、痛みも分け合い、祈ることができる。それが教会です。祈ることによって、多くの御利益をいただくことができます。
 日本人は神社や寺、御利益があると言われるところには労を惜しまず出かけて行き、御利益を求めています。実際、御利益があったと言われるかも知れません。しかし、気をつけてください。そこには大きな罠があります。皆さんを地獄に落とすための餌なのです。
 しかし、教会の御利益は、人々を幸福にしてくれます。それぞれの必要に応じて、いろいろなところへ行く必要がなく、すべてに対応できます。病気の人がいれば、皆が祈ります。そして癒しがあります。大学受験、就職試験などのためにも祈ります。そしてそこに合格があります。また問題を持っている人の解決のためにも祈ります。そして問題が解決します。ここに来て、問題解決された人がたくさんいらっしゃると思います。そのように、教会は多くの御利益があるところです。
 確かに、癒しがあり、解決があります。しかし、教会に来て祈っても病気が治らないかも知れません。また貧乏な人が、祈ったら急に金持ちになれないかも知れません。しかし、私たちは、目に見える部分の祝福以上の、霊的な祝福をいただくことができます。

 ただし、反対にその恵みを奪おうと、私たちを陥れようとしているサタンもいます。蛇がアダムとエバに迫ったように、攻撃が仕掛けられていることも覚えてください。しかし、私たちは戦っていくことができます。

 

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』(ペテロ第一五章八節から九節)

 私たちが、ただ和気あいあいと楽しみ、教会は平和ですとのんびり構えているなら、サタンは、容赦なく隙をついてきます。しかし、私たちがサタンに立ち向かい、神に信頼し、戦っていくなら『神が私たちの味方であるならば、私たちは圧倒的勝利者になる』とあるように、神が私たちに勝利を与えてくださいます。一人では戦えないかも知れません。しかし兄弟姉妹が共に祈り戦ってくれます。
 第一コリント十二章二十二節から二十七節には、私たちはキリストのからだであって、それぞれがその器官であると教えています。

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 人間は手だけでは生活ができず、足だけでは生活できません。ある人は手、ある人は足…と、それぞれの役割があり、それぞれに神様が賜物を与え、それが一つとなったときに大きな力となります。
 中には、私は教会に来て席を温めているだけで何もできない、と言われる方がおられますが、そうではありません。ある人は祈り、ある人はささげ、ある人は奉仕、ある人はとりなし、ある人は賛美する。それぞれの働きがあり、それが合体してこの教会が成り立っています。教会には一致があり、喜びがあり、祝福があります。イエス・キリストの愛があり、平安があります。

 もう一度ヨハネ一章十二節をお読みします。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 私たちは神の子どもとされています。そして子どもは、お父さんに何でもねだることができます。「お父さん、これが欲しい」、「今、問題があります。困っています。答えてください」と祈ることができます。父なる神様は、私たちの必要に応じて、その祈りに答えてくださいます。
 私の子どもも私に要求します。全部の要求に応えるわけではありません。できることとできないことがありますし、子どもに、必要なことと、そうでないことがあります。私たちの父である神様は、私たちが願った祈りに、最善の方法をもって応えてくださる方です。一人の願いには応えたけれど、ほかの人の願いは応えられない、というような方ではありません。私たちの天の父は、すべてを持っておられ、際限なく持っておられる方です。
 時には、私たちの願っていることと違う答えが来るかも知れません。しかし、私たちが神様に願い求めたら、私たちにとって、最善の解決を与えてくださり、必要なすべてのものを与えてくださる神様であることを信じてください。こんな素晴らしいところはありません。
 今教会に来られている方々の中にも不安を持っている方がいらっしゃるかも知れません。しかしあなたは主に愛され、兄弟姉妹に愛されいることを覚えてください。そして必要のある時は、牧師やスタッフまた、兄弟姉妹が祈ってくれます。また、お互いに祈り合うことができます。その時、そこに神様が働いてくださり、その問題の解決を与え、喜びを与え、祝福を与えてくださると信じます。

 お祈りします。


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