神の家族の使命

2006.2.26(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 12章4節〜12節
さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝を守ることができて、心から感謝します。先週は岡本信弘先生が「神の家族」というタイトルで御言葉を語ってくださいました。私は先週、山梨で奉仕していましたので、そのメッセージを聞くことができませんでした。しかし、今はインターネットでメッセージを聞くことができ、また読むこともできます。私もそれを読み、恵まれました。今日はそのメッセージに続き、「神の家族の使命」というタイトルで学んでいきたいと思います。
 私たちはイエス・キリストを信じたことにより、一般にはない神の共同体、教会を形成しています。それは子どもたちからお年寄りまで、集まって礼拝をささげる、目に見える組織のようにも感じるかも知れません。しかし教会は目に見える現実ではなく、目に見えない神の組織です。そして神の家族は、心を一つにして神の国の使命を全うするために生きています。
 コリント第一の十二章には一人一人に、各々、御霊の現れがあり、それぞれに霊的能力が与えられていると記されています。今日ここにおられる方々には全員、霊的な能力が与えられていて、神の家族の中で、使命を果たさせたいと願われています。その使命を果たすために、御言葉に述べられているように、「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言の解き明かし」というような、普段の社会では聞くことができない事柄が述べられています。神は創造のはじめから、人に霊的能力を与え、この世に生まれさせてくださいました。
 同時に、教会とは赤ちゃんからお年寄りまで、同じ仲間として共に生きる現実的部分もあります。家族は、悲しみも喜びも共有します。
 礼拝の中で祈りが導かれましたが、私たちが愛しているK姉が、先週から入院されています。ご一家はオーストラリアで働かれていましたが、Kさんは体調を悪くされて帰国していました。医学的には望みがないと言われ、心に痛みを覚えています。しかし私たち神の家族は、この地上だけの付き合いではなく、永遠のお付き合いです。たとえこの地上の命がなくなったとしても、私たちは天国において再会できる望みがあります。
 新城教会には色々な歴史とドラマがあります。歴史をとおして神が大きな祝福を与えてくださいました。
 今から二十数年前、安城市からK兄姉一家が来られるようになりました。二十数年前は、「安城市」と聞くと、「どこ???」と思うほど遠くに思える場所でした。最近は遠くからも多くの方が新城教会に来て下さっています。私は教会に来るのに、たったの二十秒程ですので、遠くから来て下さっている方々にはほんとうに申し訳なく、感謝しています。
 しかし礼拝は、教会に来る時間も、帰る時間も含まれていますので、近くに住んでおられる方々よりも、遠くに住んでおられる方々の方が、主を礼拝する時間が長いと思います。
 Kご一家がこの教会に来ることによって、主は素晴らしいことをなしてくださいました。なぜならば、そこに多くの中学生が集まったからです。Kさんは、自分の子どもたちにも、他の子どもにも分け隔てなく接し、愛をあらわしました。ですから皆、集まりやすかったと思います。それで中学生たちが、教会に連れて来られました。彼らは毎週、遠いところから来ているので、きっと段々教会に来なくなってしまうだろうと思っていました。しかし、そうではありませんでした。何と、その子どもたちがイエス様を信じて成長していきました。
 また、毎週のように、新城教会の家庭集会を安城で行いました。それを担当していたのが、若き日の岡本信弘先生でした。その家庭集会には、毎回、マルイチから揚げ物を持って行って夕食付きでした。そんな中、その多くがイエス様を信じ、既に結婚されて子どもたちが与えられ素晴らしいクリスチャンホームをつくっています。それはKさんの使命であったと思います。Kさんは神が与えられた使命を全うされたと思います。
 パウロは伝道者としての使命が与えられていました。伝道者としての使命をいただき、その中で御霊の賜物を使い、神の家族としての使命を果たしました。第二テモテ四章五節から八節に、

『しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』

 私たちもこんな人生を歩みたいです。一人一人に神様からの使命と、御霊の賜物があります。使命がある内は決してこの地上から去ることはありません。全うするまで主は用いてくださいます。
 ある意味で、K姉はすでに、地上での使命を全うされたのかも知れません。私たちは神の使命に生きるのです。
 今日まで冬季オリンピックが開かれていますが、オリンピックにも色々な競技があります。長距離、短距離、また、チーム対抗競技、格闘技などの選手がいます。人生も同様かも知れません。ある人は長距離ランナーとして、長い人生を歩みます。またある人は、少し短距離走の人もいるかも知れません。人間側では、この人は短命、この人は長い命と言うかも知れませんが、本当の評価は永遠の国に入ってからでないとわかりません。
 今、冬季オリンピックが行われていることを、教会の女性スタッフの一部は知りませんでした。私が、「今日は眠い。昨夜オリンピックを見てしまったから…」と言うと、彼女たちは、「えっ、オリンピック?今やっているの?」と言っていました。彼らはまさか、人間のオリンピックとは思っていなかったようです。なぜならば、「トリノ(鳥の)オリンピック」だからです。
 何れにしても、オリンピックには色々な競技があります。フィギア・スケートで日本が金メダルをとりました。私の父は、金メダルが取れるように真剣に祈ったと言いました。日本がメダルを取ると嬉しいです。
 しかしよく考えてみると、別に滑る氷の上であんな曲芸ができなくても、生活には全然支障はないのです。けれどもあのような競技を見ると、なぜか共感するものがあります。なぜならば、「フィギア社会学」のようなものがあるからです。それは同じ人間によって、非現実的なことが氷上で起こるからです。クルクルと何回転もしたり、すごい勢いで走り回るからです。同じ人間なのに、非現実的な世界を演出してくれるのです。そういう姿を見て、「私も辛いけれど、きっと頑張れる」と勇気を得るのだと思います。「私も人生でクルクル回っているけれど、やがてうまく着地して金メダルを取れるかも・・・」と期待を持つのです。
 人間は一般的に、一人では生きていくことができません。誰かの励ましによって生きていくものです。最近メッセージの時に映像を使っています。その写真を楽しみにして、「先生、今週使った写真をメールで送ってくれませんか。」と言われます。
 今週はこんなものを見つけました。ある大学の生協での質問カードの写真でした。それは「一言カード」という物でした。右上に、「生協へのご質問をお寄せ下さい」と書かれていました。こんな風に質問と答えが記されていました。
 「一人暮らしで淋しいので、話し相手になってくれたり、ご飯を作ってくれたりする便利な美少女ロボットが欲しいです。西尾ケンイチ」
 そうしたら、生協のおばさんの白石さんが面白い答えを書いています。
 「生協ではそのようなロボットを購入することはできません。恐らく生協以外でも購入は難しいでしょう。しかしこのような願望に依存しないで大学生活を送っていただくことを強く望みます。お名前欄をお見受けして感じたことですが、もし本名でこのようなカードを提出する度胸があれば、この先どんな困難でも乗り越えられる気がしますよ。」

 人間は互いに励まし合いながら生きています。そんな中、最も大きな励ましは、神からの励ましと、また神の家族からの励ましです。
 第一コリント十二章二十七節に、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

とあります。キリスト教的人間の位置づけが教育の中で語られるようになったら素晴らしいと思います。この世の中では、強い者に価値があるという価値観が中心です。誰かより一歩でも強くならなくてはいけないと思います。今も受験のシーズンですが、よくできた人から入学が許可されます。勉強はできない人に教えるものなので、できない人から入れてくれる広い心を持った学校が一つくらいあっても良いのではないかと思います。「リバイバル聖書神学校」はそのようなところがあると思います。聖書を勉強したい方はぜひ来てください。
 聖書は強い者に価値があるとは教えていません。第一コリント十二章二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

とあります。時々、私たちは強くて目立つところが大切だと思いますが、神の目はそうではありません。強くて目立つところが大切なのではなく、神の家族では、「比較的に弱いと見られる器官がかえってなくてはならない」と教えています。神の家族では、それぞれが各器官として位置づけられており、弱く見える所に実際は、大きな使命が隠されているのです。毎週ここには三百名以上の方々が集まっています。それぞれが各器官を構成しています。その器官は大変重要です。あなたがこの教会にいることによって、その機能が動いているのです。
 人間には多くの器官があり、体が構成されています。どの器官がどこに関連をもっているのかはよく知りませんが生きています。今、胃がどこにあるかわかる人はいますか。わかる人は胃が悪い人です。心臓が左右どちらかご存じですか。それを感じている人は、心臓の調子が悪い方かも知れません。盲腸はどこにあるのかわかりません。盲腸をとってしまったと言われる人もいると思いますが、それも大切な器官だと言われます。宇宙飛行士は盲腸がないとなることができないと聞きました。盲腸がないと宇宙では宇宙酔いをしてしまうそうです。宇宙時代を迎えて盲腸がない人は残念です。
 すべての器官が重要な器官であるのと同様に、私たちも神の家族の中で各器官として、キリストのからだに位置づけられており、使命を果たしています。
 「神の家族の器官」とはどのようなものでしょうか。それは、私たちの「御霊の賜物」にあるのです。
 一人一人に御霊の現れが与えられています。それは「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇跡、預言…」という、神からの能力です。それが、キリストの体の各器官であると教えられています。それらが一つになるときに、神の家族である教会は一人一人に与えられた御霊の賜物が一つになって完成するのです。
 コリントの教会には多くの霊的賜物が与えられていました。また、賜物について聖書が語っている箇所は、コリント教会、ローマ教会に対して多く述べられています。
 今日の午後はサンデースクールが行われますので、ぜひご参加し、聖書を詳しく学んでください。礼拝では語ることができない、御言葉の深みについて学ぶことができます。
 コリント教会の賜物においては、「霊的賜物」がおもに与えられていました。しかし、ローマ教会には、預言という賜物と共に、「奉仕、教える、勧める、分け与える、指導する、慈善を行う」という、見える形で人々に仕える賜物が与えられていました。
 日本に教会は八千ほどありますが、それぞれの教会には特徴があり、神が機能を与えています。教会の賜物が一つになるときに、日本教会は完成します。ですから神様は無駄に教会を作っているわけではありません。
 また、クリスチャンホームには、家族全体での使命が与えられています。家族全体で一つのことを成し遂げさせようと、家族で共有する御霊の賜物を与えておられます。ですから、クリスチャンホームの方々は、家族に与えられている御霊の賜物は何であるかについて祈って下さい。家族が、御霊の賜物によって一致することが大切です。
 私は先週、四日間冬休みをもらって家族旅行に出かけました。我が家は今までちゃんとした家族旅行がありませんでした。子どもが小さな時には家族旅行をしても、なかなか旅にはなりませんでした。また、大きくなってから家族旅行に行こうとしても、なかなか子どもたちは一緒に行きたがりませんでした。私も子育てをしてみて、一番大変な年代は「中学生時代」であったかと思います。息子はほとんど話しをしませんでした。「今日学校はどうだった?」「うんっ…」「何食べる?」「うんっ…」とだけ答えるのです。この子は一生話さないのではないかと心配しました。しかし今はよく話します。また娘は恐かったです。「お父さん、あっち行って…」と言われました。皆そのような時期があります。しかし、めげてはいけません。必ず、神様は目的の中で家族を用いてくれます。年代によっては明るくなったり、暗くなったりします。しかし神の使命の中に導かれていくならば、必ず祝福があります。
 昨年、息子が結婚したので、一緒に家族旅行に行こうと話しました。結婚してみて両親に感謝しようという気持ちがあるのかもしれません。また、娘もアメリカに行ってから私たちに感謝しているようです。それで、史上初の家族旅行を計画しました。私は前々からそれを楽しみにしていました。その日に向けて、飛行機のマイレージを貯めていました。一人二万マイルでグアムに行くことができます。私は十万マイルを貯めました。そうすると、五人分のチケットがタダになります。しかしその申し込みが少し遅れて、今は卒業旅行のシーズンでチケットがありませんでした。どうしようかと思いました。東京ディズニーランドにでも行こうかと思いましたが、思いつきで、「そうだ。韓国に焼き肉を食べに行こう!」と言いました。すると全員が賛成しました。東京から二泊三日でホテル付きで、一番安いツアーはなんと、一万五千円でした。しかしそれでは少し不安があったので、もう少し良いのにしました。
 先週は五人でソウルまで焼き肉を食べに行きました。今回はとりなしではなく、仕事でもなく、ただ、家族旅行、それも「焼き肉ツアー」と題して出かけていきました。
 しかし着いたホテルの前に、大きな寺がありました。変な所に来てしまったと思いました。寝ていると、朝四時に目の前の寺から、「ゴーン」と鐘の音が聞こえるのです。何とそれは一時間以上鳴っているのです。それで一家五人でその寺に霊的戦いの祈りに行くことになりました。仏教の背後の死の力が打ち破られるようにと祈りました。また、ソウルの街を地下鉄で巡って祈ってきました。結局、とりなしの祈りツアーになってしまいました。でも、おいしい焼き肉も食べて、良い休みになりました。
 私たちの家族には、霊的な戦いやとりなしの祈りという賜物が与えてられていると思います。それを使うことが、何よりも喜びであり、どんなところでも神様は目的を持って家族を存在させてくださっていると思います。
 さて、『からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』とあるように、一見して少し弱く見えるところ、弱さは重要な霊的賜物の存在する所です。
 この「弱い」という言葉の中には「子どもたち」という意味が含まれています。子どもたちは弱く見えますが、実は、霊的部分においては強い賜物を持っています。
 この教会で霊的戦いが始まったときに、神様は子どもたちに触れられました。子どもたちは、子どもたちの時代に果すべき使命があります。それが果たされるように祈ることが大切です。その賜物を使うときには、大きな神の業が前進します。
 子どもたちを見ると、一見、弱く見えますが実は強いと思います。教会でも移動は必ず駆け足です。一日中走っていても疲れません。子どもたちの中に、心配で眠れなかったという子はいないと思います。どんな事があっても、すぐに寝付きます。生きるのが辛いと思っている子どもはいないと思います。また死にたいと思っているような子どもはいないと思います。実は強いのです。人間はもともと、そのような強さの中に生まれますが、どこかでそれを失うときがあります。しかしイエス・キリストを信じると、一度失ったものをもう一度取り戻すのです。

「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない」という記述は、さらに、もう一つのことを私たちに教えていると思います。
 第一コリント十四章一節に、

『愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。』

とあります。コリントの教会には、すでに預言の賜物がありました。しかし「パウロはもっと熱心に求めなさい」と勧めています。更に求めるように勧めた理由は、預言の賜物があるけれど、ちょっと弱いから、もっと強くなるように祈りなさいということです。
 人間のからだも、すべての器官が健康でないと、一つのからだとしての働きができないのと同様に、神の家族の使命として、一人一人に与えられている賜物の中で、弱い部分が強められ、また、付け加えられるように祈れと勧められています。コリントの教会は「愛」が少し欠けていたのかも知れません。だから、愛をもらい、賜物を運用するようにと語られました。また十四章十三節から十四節に、

『こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。』

とあります。コリントの教会には、すでに異言の賜物がありました。しかし解き明かしの賜物は弱かったのです。だから、解き明かせるように祈りなさいと勧めました。神様は、色々な霊的賜物を与えていますが、「弱く見える器官」、すなわち弱い賜物が強められることにより、働きは前進するのです。
 この教会に属する一人一人には、既に御霊の賜物が与えられています。しかし弱い部分が強められ、神が願っておられるレベルまで達するときに、使命が果たされます。

 前回、教会がどのような場所であるかを語りました。エペソ一章二十節から二十三節に、

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 からだを切ると血が出ます。どこにも血液が巡っているように、御霊の賜物の中には共通して、イエス様が満ちあふれてくださっています。教会はイエス様が満ち満ちた所であるというのです。この偉大さを知ることができるようにと、パウロは語っています。エペソ人への手紙一章十九節に、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 教会に与えられた御霊の賜物が成長するときに、そこに働く神の力がどんなに偉大であるかを知る、と語られています。しかしまだあなた方はそれを知らないと、エペソ教会に対してパウロは語っています。それを知ることができるようにと、パウロは願っています。
 一度しかない人生、また教会にも地上においてある一定の期間しか属することはできません。一度しかない信仰生活の中で、神の全能の力の働きがどのように偉大であるかを知りたいと願います。そのためには、一人一人に与えられている賜物が更に引き出されて、機能を発揮するように祈り続けることが大切です。
 そしてエペソ三章には「教会の使命」について書かれています。エペソ三章七節から十一節に、

『私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

 神が万物を創造された計画について教えています。その奥義とは、「これは今天にある支配とに対して、教会を通して神の豊かな知恵が示される」とあります。
 「天」とは、神が住んでおられる天ではありません。神が住んでおられる天に、神の知恵が示されて、何の意味があるのでしょうか。この天とは、エペソ六章十二節にある、「天にいる諸々の悪霊」という「悪しき領域の天」です。
 「天にある支配と権威」とは、悪魔とその一味である組織について示しています。教会は天にある支配と権威に対抗し、神の知恵を示す場所なのです。
 現在、日本も生活の空間が徐々に狭められています。先日、私はコロンビアについて語りましたが、コロンビアだけが危険ではなく、日本もかつてとは違って、生活空間が徐々に狭められてきました。私たちの幼い頃は、学校に行くときはのどかな風景でした。四季折々の自然に触れながら、特に、下校時は時間をかけながら優雅に帰ったものでした。しかし今はそんなことはできません。子どもたちは家を目指してまっしぐらに帰ります。そして誰かが近づいてきたら、防犯ブザーを鳴らします。ですから最近は、子どもたちにおじさんが声を掛けることはできません。生活の空間が狭められてきました。なぜでしょうか。それは、この世界が悪魔の支配下にあるからです。社会がどんどん悪くなっているのは、悪魔の働きです。私は世界中の教会が、霊的現実をもっと知るべきだと思っています。教会がただの社交クラブや、仲良しクラブになってはいけないのです。
 教会に与えられた、御霊の賜物を集結して何をしなければならないのでしょうか。それは、天にある支配と権威に対抗しなければなりません。日本の警察が総力をあげても、悪霊一匹倒すことはできません。また、自衛隊の最新鋭の兵器を駆使しても、悪霊一匹、倒すことはできません。また、政治力、経済力、教育力を使っても、倒すことはできません。
 しかし、教会が立ち上がったら、たちどころに悪魔の力は打ち破られるのです!神の家族が使命を果たされなければなりません。そのためには、一人一人に与えられている御霊の賜物が引き出され、弱く見えるところは強められ、健康なキリストのからだが構成され、天にある支配と権威に対抗するのです。
 神様はそのために、私たちを選んでくださいました。ある意味で、教会は社会や国に対して責任を負わされます。社会が悪くなる、国が悪くなる根本原因は教会にあると思います。教会が天にある支配と権威に対抗して、使命を果たしていくならば、町は守られ、国も守られます。しかしそれを忘れるならば、自分たちの空間は狭められます。
 既に皆さんの中に御霊の賜物が与えられています。御霊の賜物を受け取ってない人は一人もいません。それが強められ、主が用いてくださるように祈りましょう。

 ある人には、知恵の言葉が与えられて人々を励まします。また、知識の言葉が与えられ神からの知識を語ることができます。信仰の賜物で前進する人もおり、また奇跡、癒し、預言という賜物が与えられている人もいます。
 私は癒しや奇跡の賜物がもっと成長して欲しいです。そうすれば、苦しんでいる人や悲しんでいる人、また、死の淵にいる人たちをもっと助けることができます。「それが教会の中にすでにあるので、もっと聖霊によって強め、引き出してください」と祈っています。
 この教会には、「霊を見分ける力」が賜物として与えられます。それはとりなしの祈りです。その賜物は国にある悪魔の策略を見抜くものです。異言を解き明かす力、異言の祈りも重要です。私は後から、語ったことを聞いて、もう少しこういう言い方をしたら良かったと思うことがあります。祈りもそうだと思います。神様にこれだけを伝えたいけれど、伝えることができないと思います。しかし異言の賜物は、聖霊自らが祈ってくださる完璧な言葉です。だから私は時々、異言で祈ります。それに解き明かしの賜物が付け加えられるように願っています。
 聖霊の油注ぎがある時に、必ず御霊の賜物が成長します。一人一人の御霊の賜物が成長し、神の家族の使命を果せるように祈りたいと思います。

 聖餐式は、聖霊の油注ぎを受けるときであり、また、罪の赦しをいただく時でもあります。また、イエス様の新しい契約を再確認する時です。この時に「私に与えられている使命をもっと引き出してください。御霊の賜物をもっと引き出してください」と祈りたいと願います。一言お祈りします。


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