熱心に求めよう!

2006.3.5(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 第一コリント14章12節
あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

 ハレルヤ!おはようございます。今日も、このように御言葉を語ることができ感謝します。先週は、K姉妹と、東栄町で伝道していたN先生が天に帰られました。ご遺族のためにぜひ祈って支えていただきたいと思います。
 第二テモテ四章五節から八節に、
『しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』

 私たちクリスチャンは神の家族です。家族は、喜びも悲しみも分け合うものです。時には悲しいこともあります。しかし私たちは永遠について、しっかり理解されていることを感謝しています。また、人生とは神の使命に生きることであると聖書は教えています。パウロは世を去る寸前、この言葉を残しました。「私は走るべき道のりを走り終えた。信仰を守り通した」
 K姉とN先生の人生は、ある意味、伝道者として働かれた人生でした。K姉の葬式では、かつて彼女の家で行われていた家庭集会で救われた方々が賛美をしました。その数を数えると、三十名程でした。ひとりの人生によって、多くの実が結ばれました。
 またN先生は、東栄町で四十年ほど伝道していました。先生は新城市の出身です。四年間ほど病気で意識がありませんでしたが、先週の金曜日に天に帰って行かれました。走るべき道のりを終えて、勇敢に信仰を守り通した人たちでした。私たちも信仰の勇士に続いていきたいと願います。一度しかない人生ですから、神の使命に生きることができたら素晴らしいです。
 同時に、天に帰った人々は、天国の芝生で寝そべっているのではないようです。ヘブル十二章一節に、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

 オリンピックなどでは、多くの観客が競技を見守っています。同様に、私たちには観客がいます。それは、天に帰った人たちです。先に天に帰った人々が、地上でどのように神の国が前進するのかを、取り巻いて神の御座に近いところで祈っています。もしかしたら、一喜一憂しているのかも知れません。私たちの行動は一部始終見られています。ですから、「まつわりつく罪などを捨てて、信仰の戦いを走り抜こうではありませんか」と語られています。時々私たちは、「誰も見ていないから…」という誘惑がありますが、常に、神様は私たちを見ておられ、また、天に帰った聖徒たちも見ています。ですから私たちは、「見られている」ということを意識する必要があります。悲しみの中の方もおられますが、天に帰った人々は地上と分断されるのではなく、天から見ています。新城教会から天に帰った人たちは、今日もこの礼拝に注目していると思います。「今日、順先生は何を語るのだろうか。今日のジョークは何だろうか…」と応援してくれていると思います。ですから、私たちはこの地上の使命を全うしたいと願っています。
 また昨日は、結婚式が行われました。I兄とH姉が結婚されました。とても良い結婚式でした。通常、新郎は講壇裏手の倉庫から出てきますが、緊張して出てくる割には注目されません。しかしI兄は、新しい人生の始まりが倉庫からは嫌だ、ということで一人バージンロードを歩きました。今日はお二人とも礼拝に来られています。とても嬉しそうな写真があります。来週も結婚式があります。ぜひ皆さん、神の家族の祝いにご参加下さい。今日の週報では婚約の発表が記載されています。色々、神の家族の中には起こっています。神様は一人一人の人生に、目的をもって導いています。神の家族としての働きは、神の注目の中で進められます。
 しかし神の家族とは、単なるイエス・キリストを信じるという、考え方を共有する人たちの集まりではありません。今日のメッセージは、先週の続編となります。前回のメッセージは、私たち一人一人は、神の家族の中で各器官であると話しました。私たちはキリストのからだに属しており、各器官を構成していると話しました。そして、器官とは、御霊の賜物に対応しています。私たちは各器官ですが、その器官の本質は神様が与えられた霊的能力、御霊の賜物です。そして今日のメッセージは、賜物が豊かに与えられるように「求めなさい」ということです。
 第一コリント十四章十二節から十三節に、

『あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。』

 先週、弱く見えるような箇所がなくてはならないと学びました。私たちが弱さを感じるところが神が働かれる現場そのものです。教会に来られる方の背景は、九十パーセント以上、何らかの弱さを体験して来られる事が多いです。今から三十年〜四十年前は、弱さを体験して教会に来るというよりも、教会に行くと特殊な教育を受けることができるという期待で来られました。ある方は教会に行くと、英会話を無料で習えるということもありました。しかし今は教会に来なくても、駅前で英会話を教えています。今、教会に来る方は、何らかの弱さを体験して来ます。しかしその弱さの中に神様は働かれます。教会に来て賛美をしているのを見、「元気のよい所ですね。明るいところですね」と言われます。今日、初めて教会に来られた方も、パワフルで明るい賛美に驚いたかも知れません。しかし私はいつも話します。「ここに来られている方々のほとんどが、かつては何らかの問題があり、最悪の状況で教会に来られたのですよ」
 たとえば、九割の人々が最悪の問題を持っているグループに入りたいと思いますか。それは相当暗いグループだと思います。しかし教会が明るいと感じるならば、神様が問題を解決してくださったからです。また、解決の途上にあるからです。
 私たちは時々、人生の中で弱さを体験しますが、神様は弱さの中に働いてくださり、栄光を現してくださいます。人間の力ではどうしようもない問題に、奇跡的な解決を与えてくださいます。そんな弱さの中に神様は賜物を置かれています。
 けれども、先週、弱さにはもう一つ、別の意味があると話しました。人間のからだは色々な器官によって構成されていますが、それぞれ、正常に機能していなければ健康に過ごすことはできません。ということは、各器官にはそれぞれの役目があり、弱くてはいけないのです。正常なレベルで働いていなければなりません。ゆえに、機能の弱っているところは強められるようにと話しました。
 コリント教会には御霊の賜物がたくさんありましたが、弱い賜物もあったのです。彼らは異言の賜物を持っていましたが、異言の解き明かしの賜物に関しては、弱かったのです。ですから、今度は解き明かしの機能がしっかりと働くように祈りなさいと語られたのです。今日ここにおられる一人ひとりに、御霊の賜物が与えられていますが、それが豊かに与えられるように、強められるように熱心に祈りなさいと教えています。その結果は、「教会の徳が高められる」ということです。
 人生の中で、教会に加わるのもある一定の期間だけです。たった一度だけです。今このように過ごしていますが、それは一定の期間だけです。死んだら、天に行かなければなりません。
 教会とはどのような組織であるかについても先週、学びました。それは神の組織であり、本来はとてもパワフルなものであると学びました。エペソ一章十七節から十九節に、

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 パウロはある意味で、教会のすごさや信仰生活のすごさを体験していました。それでエペソの教会に手紙を送りました。「まだあなたがたは、そのすごさを体験していないから、体験できますように」という祈りです。

『神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 一度しかない信仰生活です。皆さんも神の偉大な力を知りたいと思いませんか。私は知りたいです。神様がどんなに偉大な方であり、どんなにパワフルであるかを知りたいと願っています。
 そのためにはどうしたら良いでしょうか。それは、イエス・キリストを信じている者たちが、「熱心に求める」ことです。熱心とは、「物事に心を集中すること」と辞書にありました。皆さんはすでに、イエス様に集中されていると思いますが、更に熱心に求めたいと願います。

『あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。』

 特に御霊の賜物に関して、熱心に祈って求めなさい。そうしたら教会の徳が高められると教えています。
 神様がこの田舎に「新城教会」をたててくださいましたが、これは神様の計画です。また、集められた一人ひとりにも責任が科せられています。その教会が死ぬも生きるも、そこに来ている人たちによって変わります。一人ひとりがキリストの体の各器官なので、熱心に御霊の賜物を求めるならば、教会の徳が高められます。それは、教会における神様の働きが強くなるということです。神の栄光を見ることができるのです。
 日本を見るときに、多くの苦しんでいる人や悲しんでいる人がいます。そんな人々の救いのために、教会がもっとパワフルにならないといけないと思います。どこにも望みがない人たちが教会に来て、望みを得ることができるならば、素晴らしいです。そのために必要なのは、先に救われた者たちが、「熱心に主を求め、御霊の賜物を求める」ことです。
 最近は株ブームです。株価は上がったり下がったりして面白いです。ライブドアの株に人気がありましたが、事件により一瞬にして株価が落ちてしまいました。株価は会社の調子が良く、内容が良ければ上がります。しかし悪いと下がります。
 ある意味で世界にある教会は、天国株式市場に上場されているようなものかも知れません。各教会の内容によって、天国株式市場が上がったり下がったりします。そのために重要なのが御霊の賜物です。各器官として、熱心に霊的賜物を求め祈るならば、神がその教会に投資して、賜物を付け加えてくださり、その教会は地域や国に使命を果たすことができます。
 しかし、そこに加わっている人々が、「まあ良いか。神様の働きはこんなものか…」と腰を下ろしてしまったら、天国株価がさがり、神の働きは弱められてしまうのかも知れません。
 一度しかない教会生活ですから、天国株価を上げていただきましょう。そのためには、真剣に主を求めていきたいと願います。
 賜物とはどのようなものであるかについて先週話しました。それは第一コリント十二章四節から十二節を通して学びました。八節から、

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。』

 賜物として、「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇跡、預言、霊を見分ける、異言、異言を解き明かす…」とあります。このような言葉は、新聞紙上には出て来ません。全く教会でしか使わない用語です。何と、それらが各器官に与えられている能力だというのです。そして、そのような領域が弱くてはいけないと教えています。
 案外日本の教会は、今日お読みしたような御霊の賜物についてはあまり語りません。そのような所はあまり強調しない方が良いと、あまり話題にしません。ですから霊的賜物の領域は日本教会全体から見れば、弱いと言わざるを得ません。しかしその弱い部分がなくてはならない所だと聖書は教えています。それが与えられるように、熱心に求めるように勧められています。
 多くの人が食わず嫌いで神の力を体験していないと思われます。私たちも案外、食わず嫌いがあると思います。本当は美味しいのに、味わっていないと言うことです。神様の働きもそうです。本当は素晴らしいのに味わっていないところがあります。
 最近コンピューターを使っている方々は、ウィルスが入ってきて情報が壊されることがあります。それは恐ろしいですが、「スパイウェア」は恐いです。それは、インターネットを普通に使っているだけで、自然に入ってきます。一度、「AD-AWARE」という無料ソフトをダウンロードして、自分のコンピューターにいくつくらいスパイウェアが入っているかチックしてみてください。近頃、コンピューターが遅くなったと感じている人は、スパイウェアのせいです。それが入っていると情報が盗まれてしまいます。
 先週、テレビで陸上自衛隊の隊員のコンピューターがスパイウエアに感染し、自衛隊の装備や演習内容など、機密に属するようなことが流出したと報道されていました。スパイウェアはまるで悪霊のようです。気付くといっぱいいるのです。私はよくスパイウエアをチェックしていますが、二日前にコンピューターをチェックし、今朝やってみると、なんとすでに九つ入っていました。情報を取られないようにしなければなりません。霊的世界でも同じようなことが起こっているのかも知れません。
 陸上自衛隊のレインジャー部隊の情報が盗まれ、それがネットに載っていたそうです。それは、レインジャー部隊の「ビックリ・サバイバル・レシピ」でした(これは秘密情報ではありません)。レインジャー部隊は、食糧がなくても一週間や二週間は虫を捕って食べたりして、生き延びる訓練を受けています。
 「カマキリは羽根をむしって煮ても良い。カブトムシの幼虫を焼いた物は、香りも良く一度食べたらやみつきになりそう。成虫は羽根や足が焦げる程度に焼こう。カミキリムシの幼虫は、テッポウムシと言い、生でもいけるし、焼いても良い。生の味は、刺身のトロに似ている。クモは足を取ってから食べる。味はチョコレートそっくり(チョコレートが好きな方はクモを一度味わってみてください)。シロアリは生の物が最高。太くて白い幹にはいっぱいいる。ムカデはあまり美味しくないが、唐揚げにしてみよう。サクラケムシは唐揚げがよい。エビの唐揚げのような味がして絶品。ウジは佃煮が美味しい。生でも美味しい」とありました。そもそも害虫と益虫は人間の主観ですので、案外食わず嫌いの物もあるかも知れません。
 「御霊の賜物」という領域も食わず嫌いの領域で、ある教会やクリスチャンはカミキリムシやクモのように考えているかも知れません。しかし聖書はその弱いところに、実際は一番パワフルな教会の徳を高める力が隠されていると教えています。それを熱心に求めてくださいと記しています。
 今日も午後から「県民の森で祈祷会」があるので、ぜひ出かけて祈ってください。特に御霊の賜物の弱いところが強められるように、一人一人に与えられている機能が強められるように祈ってください。それは教会の徳を高めます。すなわちそれは、教会が地域や国に対して奉仕するための力です。多くの苦しみや問題を持っている方々が教会に来て問題解決し、救われていただきたいと願っています。
 私は牧師として時々がっかりすることがあります。一生懸命いやしを祈っていながら、いやされずに天に帰られる方がおられます。もちろん、そこには神の御心があるので神様の御心に従わなければなりません。しかし、何らかの敵の介入を感じるときがあります。しかし力不足を感じ、主に赦しを求めるときもあります。また、ある時には華々しい神の奇跡を見て感謝するときもあります。
 どこに原因があるのでしょうか。その全容はわかりませんが、まず、一人一人に与えられている賜物が強められることを熱心に求めなければなりません。与えられている賜物がどんなものであるか、気づかないかも知れませんが、熱心に自分に与えられた使命と賜物が機能するように求めなければなりません。教会が神の霊によって用いられる時に、多くの人がいやされ、解放され、救われることができます。それは結果的に、あなた自身の祝福にもなります。そのために、私たちは熱心に求めなければなりません。
 第一コリント十二章一節から三節には、御霊の賜物を扱う場合に知っておくべき基本的な事柄について記されています。

『さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』

 一節を別の訳し方で見ると、「さて兄弟たち。霊に関することですが、ぜひ次のことを知っておいて欲しい。」となります。霊的な世界について理解するとき、それは神の世界と対立する、偶像の背後に働く悪霊の力を理解しなければならないのです。そのことを理解しなければ、賜物を扱うことはできないのです。
 私たちクリスチャンは、教会に来て神様のことはよく知ります。私はクリスチャンホームに生まれ、父母から神様についてはうんざりするほど聞かされました。私の父母は昔は厳格で、必ず食事の前に聖書を一章読みました。私は食前に聖書を一冊読んだ経験があります。詩篇は初めは良いですが、詩篇一一九篇は長くて大変でした。神様のことをたくさん聞いていました。それは神と自分との関係です。それは大切な事柄であり、信仰の基本です。
 しかし敵についての情報はほとんど聞いていませんでした。神様についてはよく聞いていますが、敵については全く眼中にないのです。しかし聖書は、「私たちの戦いは血肉に対する戦いではない」と教えています。神の領域についてしか知らなければ、問題が起きたときに、すべての原因が神にあると考えます。悪いことが起こると、人が敵になり、やがて最後には神が敵となりやすいのです。
 聖書は私たちの戦いは血肉に対するものではなく、霊的な戦いであると教えています。私たちは神の力を受けて、敵と戦うのです。
 すべての人間は神によって創られました。人生はすべて神が創ってくださいました。悪魔は神ではないので、決して新しいものを創造することはできません。私たちに与えられている資質そのもの、すなわち、御霊の賜物となり得る能力を悪魔は奪い、自分の目的のために使います。
 あなたの御霊の賜物はどこに隠されているのでしょうか。まずは、あなたがイエス様を信じる前、最悪と感じていた部分です。それはある意味で、御霊の賜物となり得る部分です。悪魔がそれを奪い自分のために用いていました。しかし神は取り戻し、そこに聖霊を注ぎ、御霊の賜物と変えられます。パウロという人物は、初めサウロと呼ばれていました。使徒の働き九章一節、二節に、

『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。』

 彼は最初、クリスチャン迫害の活動家でした。今でいうテロリストのようなものでした。しかし彼がダマスコに行く途中、イエスさまと出会い、聖霊を受けました。その時に彼は変えられました。その後、彼の活動家としての資質は全く変わりませんでしたが、神の霊に捕まえられたときには、その資質は神のために用いられました。ここに驚くべき対比があります。使徒九章二十節に、

『そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。』

 同じ人物で、初めはクリスチャンを迫害する活動家でしたが、活動という賜物が取り戻されたとき、神のための活動に用いられるようになりました。
 かつて皆さんが色々問題を起こした点、弱かった所は、聖霊によって賜物として用いられる部分なのです。
 私は昔、とても冷たい男でした。私の性格は、とても短気で喧嘩っ早かったです。だから大変でした。牧師をしても、それが良くは用いられていませんでした。
 ある日、高校の前でチラシ配布をしました。先生が出てきて、「こんな所でチラシ配布をするな。あっちに行け」と言われました。私はむかついて、「おい、お前誰に話しているんだ。ちょっとこっちに来い。ここは公道だぞ。今お前俺になんて言った。校長を呼んで来い」と呼びつけて、「お前らは営業妨害をしている」と言って先生方をやり込めて、「すみません」と謝らせました。それを生きがいにしているような者でした。
 ある時はエホバの証人が「聖書の勉強をしましょう」と言って教会に入って来ました。私は、「ちょっとここに入れ。ここはどこだと思っているんだ…。ここに座れ…」と言って徹底的にやっつけました。その時、現場におられた方も何名かおられますが、そのエホバの証人は王国会館に戻り、「新城教会にはヤクザのような牧師がいるから、二度と行かないように」と言ったようです。それ以来、二十数年経ちますが、彼らは二度と来ていません。
 しかし、私の取った行動は、全く神の栄光になりませんでした。その結果、地域に悪い噂が広がったからです。私は本当に切れやすく、喧嘩が好きでした。喧嘩が好きな人は、すぐに相手を見極めます。「この喧嘩には勝てる!」というときには、とことん相手を攻撃し、絶対に負ける喧嘩には先に謝るずるいところもありました。私はそのようなものでした。
 しかし聖霊に満たされたら、喧嘩っぽいなくなり、柔和になりました。家内がよく言います。「あんた本当に丸くなったね」
 変えられました。しかし根源の喧嘩っぽい性格はそのままです。それは悪魔・悪霊に対して用いられるようになりました。性格は温存されても、決して人に向けてはいけません。私は悪魔と戦う勇士にさせていただいたように思います。
 私と同じような領域で失敗した人がいたら、主はそれを取り戻し、御霊の賜物として用いてくださいます。期待してください。「私はなぜ、こんなに性格が悪いのだろうか」と思わなくても良いのです。人に喧嘩を売るのではなく、悪魔に喧嘩を売ればよいのです。そのような人は「霊的戦いの賜物」があると私は信じています。
 また、人生の中で弱さを感じ、傷になっている部分をも取り戻し、御霊の賜物として用いてくださいます。
 イエス様の十字架を考えると、ある意味、弱さの極みのようでした。しかしそんな弱さの中、そこから素晴らしい救いといやしと解放が持ち出されました。イザヤはそのことを預言していました。五十三章四節から五節に、

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

 イエス様が十字架にかかられ、傷を受けられたことによって、私たちはいやされたとあります。イエス様がある意味で弱さの極みを体験してくださったゆえに、いやしが提供されると教えています。今日弱さを感じている方、病や色々な問題で苦しまれている方、イエス様があなたの咎のために苦しみを受けて下さったこと、十字架にかかって下さったこと、それゆえに、私たちはいやされるのという御言葉を受け取りましょう。そして弱さの中から、神は賜物を引き出して下さるのです。そこに聖霊様が訪れて下さるときに、今度は御霊の賜物として用いられます。
 弱さを体験した方は愛があると思います。私は車酔いした事がありません。私の一つだけの自慢は、中学生の時に一度だけ吐いた記憶がありますが、それ以来、吐いたことがないということです。しかし私の家内はすぐに車酔いをします。少しでも走りながら助手席でカーナビを操作したら、気分が悪くなります。私は寝ころんで聖書を読んでも何ともありません。だから、気持ちの悪い人の心がわかりません。しかし私の家内は愛が深いです。同乗者に、「車酔いをしませんか…」と気遣いをします。私が激しい運転をすると、「そんな運転してはいけない!」と言います。私は車酔いをしないのでわからず、あまり配慮がないところがあります。しかし弱さを体験すると、そこに聖霊の力が注がれ、弱さから賜物に変化します。かつては弱くてどうにもならなかったところが、多くの人の弱さを担う、ちょうどイエス様の十字架と同じような素晴らしい賜物が引き出されると信じます。
 同時に、長所として感じているところも、神が与えてくださっているところです。それも聖霊の力によって引き出されると、ただの長所ではなく御霊の賜物として用いられます。ある人は一生懸命にもてなす賜物、助ける賜物があります。面倒見の良い方、分け与える方などあります。亡くなられたK姉はそのようなことをよくされていました。それは、与えられた賜物なので自然にできます。これが御霊の賜物でなければ、ただの人道援助にしか過ぎません。しかし御霊が注がれると実を結び、神の国の進展のために用いられます。実際に彼女の働きにより、三十名以上の方々が救いに導かれ、今も実として残っています。皆さんの短所、長所、弱さなど含めて、神の御霊を注いでキリストのからだの器官として下さいます。弱い所も強いところも、すべてが神様によって取り戻され用いられるように祈りたいと思います。
 そして最後に、私たちが熱心に求めるべき、究極的な事柄はホセア六章三節に記されています。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

とあります。私たちは御霊の賜物を熱心に求めます。しかし私たちはそれらの賜物ばかりに目を留めてはならないことも教えています。私たちが求めるのは、究極的には「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」とあります。主を知ることを切に追い求めると、その結果として夜が来たら必ず朝が来るという百パーセントの確率、また、イスラエルには二回の雨期があり、百パーセントの確率で雨が降るように、主を求めることによって御霊の賜物を与えて下さいます。御霊の賜物を真剣に求めるのと同時に、その中心は主ご自身求めることです。主を求めるときに「後の雨のように地を潤される」とあります。聖霊の恵みが私たちに注がれることを教えています。今日ここにおられる一人一人が各器官として、重要な役割と担っています。それが機能するように祈りましょう。神が願っておられるレベルにまで引き上げられ用いられるとき、キリストのからだとして機能し、それが教会の徳を高め、多くの人の救いといやしのために用いられます。
 私たちは一度しかないクリスチャン人生、与えられた教会が、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないような素晴らしい神の栄光を現す教会として強められるように祈ります。パウロが語ったように、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 先週素晴らしいことを聞きました。それは夢の話です。ある方が夢を見たそうです。それははっきりした夢だったそうです。その方は夢の中で、新城駅前の富永神社の前に立っていたそうです。参道を歩いていくと、神社を通り過ぎる群衆がいたそうです。群衆は、口々に「新城教会に行く…」と言って歩いていたそうです。だからその人も後について行ったそうです。そうしたら会堂は満員で、通路にも人が座っていたそうです。そして耳慣れた声が聞こえたので振り返ると、自分の家族もいたという夢であったそうです。
 これは預言的な夢だと思いました。富永神社は新城市の中心的神社です。それに見向きもせずに通り過ぎて教会に向かう、これはリバイバルのサインではないかと思い、熱心に主を求めて祈らなくてはならないと思っています。

 そのことが起こると信じますか?「アーメン!」信じて祈りましょう。お祈りします!


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