ゆとり

2006.3.12(SUN)
新城教会牧師 滝元 明師

旧約聖書 詩篇4篇1節
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

 ハレルヤ!おはようございます。今朝は「ゆとり」というテーマで聖書の御言葉を学びます。詩篇四篇一節に、

『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。』

とあります。ダビデ王が苦しんでいる中、神様の助けによってゆとりが与えられました。「ゆとり」とは辞書によると、「空間や時間、気持ちの余裕。また自由にできる部分があるゆとりのある態度」と書かれていました。ゆとりのある人生を送ることについて学びます。
 今朝の新聞に、「新幹線にもゆとり」という記事がありました。新幹線ののぞみは時速三百キロで走ります。新大阪から博多まで二時間二十一分で走ります。しかしそれが二分延び、二時間二十三分でゆとりができたと書かれていました。
 私たちの人生には色々な面でゆとりが必要です。学生の人は勉強する時にゆとりがあるとか、経済的にもゆとりがあるなど、色々な面でゆとりが欲しいです。また教会に来る事にもゆとりがある人と、ゆとりがない人があります。「時間だ…」と言って慌てて来る人もいるかも知れません。人生にはゆとりが必要です。
 私はせっかちの所があります。ここから茶臼山駅まで歩いて二分ですが、私は電車に乗るときに、大体五分前には駅に着いています。ダビデ王が戦いの中、『「私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。」』と歌いました。私たちがクリスチャンになると、神様は私たちに対してこのように語られています。詩篇四篇三節に、

『知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる』

 私たちがイエス様を信じると、神様は私たちを特別に扱ってくださいます。ダビデは苦しみの中で神を叫び求めたとき、ゆとりを与えてくださったと記されています。
 私は二月にハワイに行きました。九日間ほど色々な集会をして帰ってきました。ハワイに行く前に、ハワイに行ってどうなるかと思い、お祈りしました。ハワイのために御言葉を下さいと祈りました。すると詩編四篇一節の御言葉を下さいました。ハワイに行くことについて神様がゆとりを与えてくださると語られたので、私は神様がどんなことをしてくださるのだろうかと楽しみにしていきました。
 振り返ってみると、ゆとりのある祝福を与えてくださったと思います。私と家内はだいぶ年を取りましたので、旅行は大変な所があります。だから楽に行くことができるように祈りました。すると私の娘が航空券を手配してくれました。「お父さん、ビジネスクラスでたいへん安いのがあった。」普通は倍以上しますが、とても安いのです。それでとても安く行くことができました。飛行機のビジネスクラスは余裕があります。広くてサービスもとても良いです。ご馳走がたくさん出ました。ゆったりと眠って行くことができました。非常に余裕ある旅行ができました。またハワイに行き、ホテルを取らなくてはいけません。ホテル代が随分かかります。ハワイの先生から電話があり、「私の教会員の一人が先生が来るというので、コンドミニアムを貸してくださる」というのです。そこはヨットハーバータワーズでヨットがあり、公園があり、高い建物で私の部屋は二十七階でした。甲子園リバイバルミッションに来られた事のある方が、「滝元が来るならば…」ということで貸してくれるというのです。それも長い期間でしたが、掃除代だけの二百ドルで良いと言われました。王様になった気分でした。またそこはショッピングセンターの近くで、買い物もすぐにできる所ました。集会はとても忙しかったです。毎日集会があり休みはありませんでした。土曜日は夜だけの集会で、一日を楽しみにしていました。一日ハワイが見れるかと楽しみにしていたら、一人の方から電話がありました。「もしもし。先生、覚えていますか?」と言われました。その時、私の脳の記憶がよみがえりました。「私、ちょっと相談事があるから行っても良いですか。」と聞かれました。「いいですよ」と言い、彼女を迎えました。私は経済的にあまり余裕がなかったので、少ししかおみやげを買っていませんでしたが、その方が来られたときにたくさんおみやげを持ってきてくださいました。
 帰るときには、大勢の方が見送ってくださいました。前日にある旅行会社の支店長が「先生、明日の朝見送りに来ます。」と言われました。その方は二十年ほど前にハワイで私からバプテスマを受けられました。その方が全部手続きをしてくださり、送って下さいました。ゆとりがありました。私は帰ってきてから感謝しました。「イエス様。私にゆとりを与えてくださり、感謝します。」詩篇十八篇十九節に、

 

『主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。』

とあります。人生の中でゆとりのない生活で、危ない所をギリギリで生きていくこともありますが、広いところに助け出してくださるとあります。
 今朝、私は祈りました。イエス様を信じてから、ゆとりのある幸せな人生を送ることができるようになったと思いました。
 ある意味でゆとりがある人生を送ることができるようになったのは、十九歳の時からでした。それまではゆとりがありませんでした。東京に行くときに校長が、「滝元君、東京に行ったら、まじめに勉強をしなさい」と言われました。終戦直後で貧しかったので、毎日食べることばかり考えて、お腹を空かしていました。私たちの仲間が、「おい、どうだい。あまりお腹が空いて仕方がないから、今日はジャガイモでももらいに行かないか?」というのです。そして「これだよ。」と人差し指を曲げるのです。私は気が小さくてまじめな方でしたので、部屋にいた八人の内私だけが「俺はいかん。」と言いました。すると、「バカ野郎。お前みたいなやつがいたら警察はいらん。」と言われました。そして彼らはジャガイモを盗んできて、ふかして食べていました。良い匂いがするのです。「おい、滝元食べないか。」と言われ、「俺は盗んだ物を食べない」と言いました。一度盗むと癖が付きます。毎晩のように彼らは盗みに行って食べていました。「俺は泥棒はしない」と言いました。私一人だけ泥棒をしないので、煙たがられました。彼らは腹いっぱいになり、私が勉強していると、「おい、電気消せ。」と、私は泥棒をしないためにいじめられ、布団をかぶってよく泣いていました。
 私は考えました。「人生は何だろうか。こんなにまじめに生きることだろうか。」とてもいじめられました。結論として、「僕は田舎者だ。世の中を生きることはバカまじめではいけない。妥協しないと行けない。そうだ、一緒にやろう。そうしたら生きられる」と決断しました。今も忘れられませんが、四国から来た私の友達が、「おい、滝元君。一緒に行かないか。トマトを盗みに行かないか。」と言いました。そして私は東京に行って初めて盗みに行きました。当時は貧乏でした。夜こっそりと盗んできました。「盗んだから食べてくれ」と友達にも勧めました。そして私は一人前になって、色々な物を盗みました。箴言二十八章一節に、

 

『悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。』

とあります。それから私はいわゆる逃亡者のような、いつばれるだろうかという思いでやっていました。
 しかし、一九四九年二月十三日に初めて教会に行き、次の日曜日に、イエス様が私の罪のために死んで下さり、代わりに死なれただけではなく、死の力を打ち破ってよみがえって下さった、イエス様を信じたらどんな罪でも赦される、全ての者は赦されて新しく生まれ変わることができると聞きました。そして、「イエス様を受け入れて見ませんか」と語られました。私は二回目でしたが、「はい。信じます。」と信じて家に帰り、イエス様の前に自分の罪を告白して、悔い改めました。「本当に赦された」という確信を持ちました。それ以来、泥棒をしたこともなく、酒も飲んだこともなく、たばこも飲まず、精神的なゆとりが持てました。追われるのではなく、赦して下さったという所に立つことができました。
 もし皆さんの中で、自分の過去の罪や失敗などで苦しんでいる人は、「自分の罪を告白したら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦しすべての不義からきよめて下さる」と聖書で教えています。赦されたらゆとりができます。やってみて下さい。
 聖書を見ると、昔ソロモンという王様がいましたが、第一列王記四章二十九節に、

『神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。』

とあります。神様はゆとりのある心を与えられます。特に聖書の中には、ソロモン王に海辺の砂浜のような広い心を与えられたとあります。狭い心はなく、神様を信じたら素晴らしい祝福を受け取ることができます。箴言十一章二十四節から二十五節に、

『ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。』

とあります。経済的にゆとりがない人がいます。しかし聖書は二十四節に、

『ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。』

とあります。
 ある時、私が子どもたちを連れて、家内と一緒に私を導いてくれた東京の教会に行きました。その日のことを、私は忘れることができません。私は鉱山の生活を三年間行い、また麻工場で働いたり、失業保険をもらっての生活をしたりと、とても貧乏なところを通ったのでそのことを証しました。
 「皆さん私は貧乏で貧しくて、乏しくて…」と話しました。同情して聞いてくれる人もいましたが、私を導いてくれた先生がつかつかと出て来ました。「滝元兄が豊かになるように祈ろう…」と言ってくださるかと思ったら、怒鳴りとばすのです。
 「何を言ってんだい。聖書のどこに牧師が貧乏と書いてある!ケチケチしているから貧乏だ。」と言うのです。人前で怒られたのを子どもたちが見て、悲しそうな顔をしていました。また、家内も悲しそうな顔をしていました。私は「くそ!」と思いました。しかし反省しました。考えてみると、貧しくてケチになったことがあると思います。
 その時、ちょうど団体から宣教師を出すと言うので、予約献金がありました。それで家内と相談しました。「あれだけ怒られたから思い切って献金しよう」と、二ヶ月ほどの生活費を献金しました。それから経済的に精神的に恵まれました。

『ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。』

とあります。
 今日、太っている方はいますか。大らかな者は肥えるとあります。私は一九七〇年まで痩せていました。四十五キロ以上には太りませんでいた。子どもが残した物を食べると太ると言われましたが、何をしても太らなくて苦労しました。一九七〇年に「リバイバルクルセード」を始めるときに神様に祈りました。
 「もしリバイバル・クルセードを行うことがみこころでしたら、しるしを与えて下さい。太らせてください」と祈りました。するとその時から太りました。祈りが聞かれました。今は太りすぎではないかと思いますが、健康です。痩せているときは、夜寝るときにも足が冷えていましたが、太ってから足が冷えません。「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」とありますが、おおらかなゆとりのある生活が必要です。満ち足りる心、経済的に恵まれている人もいると思います。しかし富んでいても貧乏な人もいます。また貧乏でも豊かな人がいます。テモテ第一の手紙六章六節から八節に、

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。』

とあります。本当に富んでいる人は、「満ち足りる心」を持っています。足ることを知る人です。文語体の聖書には、

『されど足ることを知りて敬虔を守る者は、大いなる利益を得るなり。』

とあります。今、世の中は金の心配が多いです。生まれたときは何も持ってこなかった、死ぬときも何も持ってでないのです。今与えられているもので満足です。本当は貧乏はたいしたことではありません。金が入ったら貧乏ではなくなります。問題は、心の中の問題です。いつでも足りない、いくらあっても足りない、いくらあっても不安だと言われる人がいます。
「足ることを知りて敬虔を守る者は、大いなる利益を得るなり。」とあるので、足ることを知ることは必要なことです。マタイの福音書六章三十四節には、

『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

とあります。明日のことは心配しなくても良いとあります。明日は明日が心配するとあります。明日があるかはわかりません。
 私は、会う人によく言われます。「先生お元気ですね。」と言われます。私は今年九月で七十七才になります。しかし私は、「今日までは元気です。しかし明日はわかりません。」と答えます。しかし明日があったら、神様は養うことができます。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」とあります。しかし何が心配かというと、どんなに貧乏でも神と自分との関係が心配です。神様と正しい関係にあれば、今日はどんなに貧乏でも、明日は大丈夫です。どんなに豊かでも、神様との関係が崩れていたら心配です。
 最近新聞やテレビでは、金銭問題がたくさんあります。さばかれるよりも、金がなくても平安の方が良いです。金はいつかなくなりますが、いつまでもなくならない神様を求めて歩めば心配はありません。
 使徒の働き二十章三十五節に、

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

とあります。「受けるよりも与えるほうが幸いである」とあります。人生を幸せに生きる道は「与える」ことです。色々な問題がありますが、問題のない人生とは、「人々の問題のために祈る、苦しんでいる人のために祈り、祝福する」ことです。人の幸せを考えて祈っている人には問題はあまりありません。しかし自分のことばかり考えている人には、問題があります。ですから、「受けるよりも、与えるほうが幸いである」とあるように、人生を人のために与えることが大切です。あなたも与える人になって下さい。
 ピリピ人への手紙二章三節から四節に、

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』

とあります。何事も自己中心はいけません。クリスチャンになると何が中心でしょうか。神が中心です。そして人で自分です。神様を信じる前は、自分が中心で、人で、神様です。神様は困ったときだけです。そして自己中心の生活は狭い心です。ですから、自分のことだけではなく、他人のことも考えなければいけないと書かれています。詩篇四篇一節に、

『私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。』

とあります。これは素晴らしい答えです。
 私が数年前にハワイに行くと、一人の牧師が日本から来たビジネスマンの奥さんたちを集めて集会をしていました。
 「皆さん。アメリカでは語ってはならない言葉があります。それは、アメリカに来てあなたの宗教は何ですかと質問されます。その時に、無神論者です、と言ってはいけません」と話されていました。アメリカは無神論に警戒しています。共産主義は無神論です。何も信じることができないのは惨めです。
 またもう一つ「あなたの宗教は何ですか」という問いに対し、「家の宗教は仏教です。」と答えるのもいけないと話されました。家の宗教ではなく、あなたの宗教を聞かれているのです。日本人は家の宗教があっても、自分の宗教がありません。「私はクリスチャンです。」と言わなければなりません。私の神様が必要です。ダビデは、

『私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。』

と言いました。「私の義なる神」と言っています。私の罪を赦し、正してくださった私の義なる神様だと語っています。皆さんはどのようにお祈りしますか。「愛するイエス様」、「私のイエス様」と祈ります。
 ダビデは罪を犯しました。彼は人妻を奪い取り、その人のご主人を殺しました。そして彼は苦しんでいました。罪を告白しないときは、重くて骨が腐りそうだと言いました。そして預言者ナタンから、「あなたは罪を犯した」と指摘され、ダビデは王でしたが「私は罪を犯しました。」と自分の罪を神の前に悔い改めました。彼が心から悔い改めたときに神様はその態度を見て、「わたしはあなたの罪を赦した」と言われました。そして彼が語った言葉が、「その咎が赦され、その罪が覆い消された者は幸いである」でした。
 私たちは自分の神を持たなければなりません。私の神様は天地を創られた唯一の神様であり、私たちを救うために二千年前に御子イエス様をこの地上に遣わしてくださり、私たちの罪のために十字架にかかられて、身代わりになって死んでくださいました。そして死んでくださっただけではなく、死者の中からよみがえられました。世界が始まってから死人の中からよみがえられた方は、イエス様しかありません。イエス様がよみがえられたときに弟子たちはイエス様にお会いし、弟子たちは喜びました。その時弟子のトマスだけいませんでした。ヨハネ二十章二十四節から二十七節に、

『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」』

 時々、トマスのように「俺は指を入れてみないと信じない」と言います。しかしその時にもイエス様は聞いておられました。時々このようにつぶやいても全部イエス様が聞いておられます。イエス様が、「トマス、指を入れてごらん。手を入れてごらん。」と言われました。そしてイエス様は、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。トマスは答えてイエスに言ったことは、「私の主。私の神。」と言いました。トマスはやがてインドの方に伝道に行き、最後には殉教したと言われています。

 自分の神様として今日信じてください。たとえ奥さんがクリスチャンで、ご主人がクリスチャンではなくても、それは個人の問題です。自分が信じるか信じないかです。私の主、私の神と信じてください。

 先日、K姉の葬儀がありました。ご主人から色々な証を聞きました。彼女はミッションスクールを出ました。彼女の祖父母が仏壇を拝んでいました。その時に写経をしているのを見て、「わかりますか」と聞きました。すると「わからない」と言われました。やがて彼女はあるクリスチャンと出会い、イエス様について聞き、私の本を読み信じようと決心しました。

 その時にご主人が怒りました。「何。クリスチャンになる?離婚だ!」と言いました。その時にご主人は、「お前、実家に帰ってお父さんによく聞いてみろ。それから返事せよ」と言いました。すると実家のお父さんは、「そんなにお前が良いものだとわかって信じたならば、とことん信じていけ」と答えたそうです。

 時々、世間体だ、恥ずかしいと言いますが、「とことんまでやれ」と言われたのです。帰って「信じます」と言いました。ご主人は怒りましたが、私の書いた『千代に至る祝福』を読んで、イエス様を信じました。それで一家で信仰を持ちました。すると安城から三十人ほど来るようになりました。

 彼女が亡くなる少し前に、私は心配して彼女を訪問しました。すると彼女は、「先生、私は礼拝を休んだのはこれが初めです。」と言われました。クリスチャンになることは、命をかけて、「私の主、私の神」と心を決めて「私の神様、私の主」です。その時に神様は祝福してゆとりを与えてくださいます。どんなに苦しいときにも、勝利で神と共に歩むことができます。

 今日ゆとりのない方はいますか。心配があっても大丈夫です。イエス様を信じてください。「今日からイエス様を私の神として信じます」「罪を犯しました。赦してください。」と信じてください。素晴らしい人生を送ることができます。自分の心にゆとりがない、心に心配事が多いがイエス様に明け渡して、ゆとりのある人生を送りたいと思われる方、経済的にも貧しいけど、イエス様との関係をしっかりしようと思われる方、また病気ですがイエス様を信じて頼って祝福してもらおうという方。また家庭に問題があるので、ゆとりを与えていただこうと思われる方、また今日まで信じることができなかったけど信じていきたいと思われる方はお祈りしましょう。


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