あなたは主の勇士です!

2006.3.19(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 サムエル記第二 23章13節〜17節
三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

 ハレルヤ!おはようございます。大変恵まれた礼拝を持つことができ、心から感謝します。ちまたでは村祭りが行われています。特に春と秋は日本において、偶像礼拝が盛んになるときです。しかし、私たちクリスチャンは、この時にこそ、主への礼拝を盛んにしなければなりません。
 昨日は大変素晴らしい結婚式が行われました。新しくご夫婦になられたお二人を歓迎致しましょう。この教会においてもっと多くの結婚式ができたら素晴らしいですね。
 皆さんのお祈りに支えられ、私は先週、三日間、東京の韓国人の牧師が牧会されている教会で奉仕しました。大変忙しかったですが、大変祝福された集会でした。集会が終わると祈りの時間が長く続きました。最終日は夜七時から集会が始まり、九時にメッセージは終わりました。しかし祈りが必要な方々の為に祈っていると、十一時半頃になってしまいました。
 さて、帰ろうと思い、玄関に行くと私の靴がありませんでした。何と、誰かが私の靴を間違え、履いて帰ってしまったようでした。韓国の教会は私を大変丁重にもてなして下さいました。今回私のために取ってくださったホテルは、最高級の「ハイアット・リージェンシー」でした。しかしながら靴がなかったので、ビーチ草履風の履き物を借りて、ホテルまで帰りました。上下背広で履き物がビーチ草履、手にはビニール袋を持ってホテルに帰りました。いささかホームレスのような風貌で、ホテルから追い出されないか心配でした。でも、靴がなくなったということで、教会が私にすばらしい靴をプレゼントしてくれました。
 時々、予想外の出来事がありますが、神様はそんなことをも通して、良くして下さいます。教会には、予想外の出来事が起こって、来る事が多いのかも知れません。しかしそのような中から、神は祝福を与えてくださいます。

 今日は「あなたは主の勇士です!」というタイトルで学びます。今日の御言葉は、ダビデが宿敵ペリシテと戦っていた時の一コマです。旧約聖書の戦いは、ほとんどが血生臭い人殺しの物語です。「あなたは主の勇士です」とありますが、旧約聖書の勇士とは、どのくらい多くの人を殺したかというのが、勇士の条件です。一人でも多く敵の首を取った人が勇士なのですから大変です。
 私たちは新約の時代に生きていますが、旧約の記事をどのように理解して読むべきでしょうか。それは常に、新約的視点に立って、旧約聖書を眺める必要があります。旧約聖書の世界にだけに浸かっていたら、大変な世界となります。ある意味、イスラム教やユダヤ教は、旧約聖書を中心にしていますから、血で血を洗うような戦いが起るのです。新約時代に生きる者は、ペリシテとの戦いを「宣教における霊的戦い」と位置づけなければなりません。
 ダビデの軍隊が相対したのは、ペリシテの軍隊です。ダビデはアドラムの洞穴で敵の動向を伺っていました。ペリシテの軍隊は、ダビデが生まれたベツレヘムを占領していました。ダビデは自分の故郷に帰ることもできず、洞窟から故郷を眺めていました。そのような環境の中で、ダビデがつぶやきました。二十三章十五節から十七節に、

『ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』

 するとダビデの部下のうちの三人が、「ダビデ親分、私たちが行ってきましょう」と水を汲みに走ったというのです。やがて彼らは井戸の水を汲んできて、「どうぞ、お飲み下さい」とダビデに手渡したというストーリーです。

 これを見ると、「ダビデのわがまま物語」にしか感じられません。また、大将もバカだけど、部下もバカだなあと思います。わざわざ、命をかけて水を汲みに行った三人は相当いかれていると思います。また、ダビデは、わざわざ汲んで来てくれた水を飲まないで、神の前に流してしまいました。

 それだけを見ると、ばからしく映りますが、そこには深い真理が隠されています。さて、このストーリーに新約的視点を重ねてみると、「勇士たち」とは「教会」であり、「ダビデ」は「イエス様ご自身」の姿として理解できます。

 このストーリーは、イエス様と教会の関係について教えています。前回、「御霊の賜物」について学びました。「御霊の賜物」は、キリストのからだの「各器官」に対応しており、与えられた賜物が集結するとき、教会ができあがると話しました。一人ひとりはキリストの体の各器官であり、御霊の賜物と称する特殊な霊的能力が与えられています。そして、一人ひとりは主の勇士として、霊的な敵と戦わなければならないと学びました。

 時々私が霊的戦いについて話すと、「なぜ神様は、わざわざ敵を創り、戦うようにされたのですか?」という質問が出てきます。霊的戦いを突き詰めていくと、すべて神が仕組んだゲームのようにさえ感じます。神が人を創り、敵と戦わせて負けそうになると、人は「神様、助けてください…」と言って神に助けを求め、人を自分に近づかせる手段かのようにさえ感じます。

 しかし、聖書を読むと、人間を創られた目的について知ることができます。神は人間を創る前に、天で人間創造の計画を立てました。そして、その計画書通りに、地上に人を創りました。

 創世記一章二十六節から二十八節に、

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 二十六節は、天での計画書作成であり、二十七節から二十八節は、それが地上に実行されたことを告げています。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

人間が創られた究極的な目的は、

『海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』

とあります。世界には多くの生き物がありますが、それらは全て人間によって制せられています。自然保護は人間の意志しだいで自由自在です。「この種は少ないから保護して増やそう」と言ってみたり、「これは多すぎるから淘汰しよう」と、人間が生態系をコントロールできます。このように、人間は生き物を支配することを大前提として創られたのです。詩篇八篇三節から五節に、

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 ダビデは賢い人で、自分の存在とは何者だろうかという疑問を持ちました。時々、そう思いませんか。人間の中で一番猿に似た人間をこの場に連れてきて、また猿の中で一番人間に似た猿を連れてきて立たせたら、どちらが猿でどちらが人間かわからないかも知れませ。今日から拡大聖会始まりますが、そこに私の友人、H先生が来られます。私はいつも彼を紹介するときに、「彼は大変深い男です」と紹介します。愛情や御言葉の解き明かしが深いと紹介し、最後に「毛深い」という落ちを付けます。彼の手と猿の手と比べると、どっちが猿でどっちが人間かわかりません。彼は夏、蚊に刺されたことがないというのです。蚊の方が毛に絡まって死ぬというのです。それを見ると、人間と猿はあまり変わらない存在ではないかと思います。なぜ神様は人間をこのように創られたのだろうか、と思います。構造上、同じように創られたのは、同じ神が創ったからに違いありません。大工さんが人間の家と犬の家を作っても、同じように作ります。神様は同じような構造で生物を創られました。しかし、霊的権威のポジションは違います。詩篇八篇五節に、

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』
 
 時々、「私は駄目な人間です。何の価値もありません」という言葉を聞きます。しかしそれは間違いです。祈りの中でも「神様。感謝します。私のような取るに足らない塵芥のような者を救ってくださって感謝します」と祈ります。それはへりくだりのように感じますが、実は、聖書はそのように記していません。人間は「神よりいくらか劣る存在」として創られました。
 「いくらか」とは、ヘブル語の「メアート」という言葉が使われています。これは英語に訳すと、「a little」です。「ほんの少し」という意味です。人は神より、ほんの少しだけ劣る存在だというのです。ですから価値のない人間は一人もいません。皆が主の勇士として用いられます。
 さて、人間が創られる以前、神の前で一つの事件が起こりました。それは神の周りで働いていた天使たちの一部が、神に対して謀反を犯したからです。その結果、彼らは地に落とされ、悪魔・悪霊どもになってしまいました。それは神が持っておられた栄光の一部が、堕天使たちによって奪われたと言うことが出来ます。
 神様は完璧なお方ですが、ご自分に仕えていた天使の一部が反乱を起こしたのは、神の栄光が奪われたことに他なりません。
 人間は一度栄光が奪われると、それを回復するのはなかなか難しいです。政治の世界でも色々な問題があります。一度、政治家が問題を起こすと、その問題解決のためには大変時間がかかります。自分でその栄光を取り戻すことは、なかなかできません。
 しかし神様は、いくらご自分の栄光が奪われたとしても、それを自己回復できるからして神なのです。何事もなかったかのように、回復されるのが神です。そんな神の栄光の回復の手段として、何をされたのでしょうか?
 神と悪魔の対立の構造の中で、神はご自分よりもいくらか劣る存在を創造されたのです。それが「人間」でした。そして彼らに、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と告げられました。それが創世記一章です。
 創世記の一章から三章を読むと、三章で「蛇」が登場します。春先になると、田んぼやあぜ道に蛇が出てきます。何と、人類の前に最初に出てきた生物が蛇でした。この蛇は私たちが見ている、ヤマカガシや、アオダイショウというような存在ではなく、霊的存在を意味します。
 なぜ、聖書は悪魔を蛇と表現したのでしょうか。蛇が一番気持ちが悪い存在なので、悪魔を形容するのに一番ふさわしいので、蛇を使ったのでしょうか。それもあるのかも知れません。しかし、聖書をよく読むと、さらに深い意味が理解できます。
 悪魔・悪霊は人間よりも知恵が深いかも知れません。住んでいる次元も人間よりも高次元かも知れません。しかし、権威のポジションとしては、「地を這う生き物」に属するのです。だから悪魔は蛇の姿しか、取ることができませんでした。ゆえに、人間に直接攻撃を仕掛けることもできませんでした。ただ、誘惑しかできませんでした。人間が元々神様から受けていた命令は、「地を這う生きものを支配しなさい」ということでした。
 人類最初の罪が何であったかに関して、神が取って食べてはいけないと言われた、「善悪を知る木の実を取って食べた」ところにあると言われます。それは大きな罪でした。
 しかしその前に、エバは一つの間違いを犯していました。それは神から受けた命令に従わなかったことです。神は「地を這う生き物を支配せよ」と告げられていました。蛇が出てきたら、エバは蛇の言うことを聞くのではなく、「蛇を支配」しなければなりませんでした。しかし、支配するどころか、逆に支配されてしまいました。その結果、神の命令にも背いてしまいました。それゆえ、人間は元々神に次ぐ素晴らしい存在であったのにも関わらず、悪魔と同じように神に背いてしまいました。かつて天使の一部が神に背いたとき、地に落とされたのと同じように、人類も、皆、神の前から廃棄処分となってしまいました。同時に、蛇の言うことを聞いた結果、権威の序列が変わってしまいました。「神、人、地を這う狡猾な生き物」という権威の順序が、「神、地を這う狡猾なもの、人類」という順番に入れ替わってしまったのです。
 今世界を見ると、多くの問題が起こっています。人間の職業を一言で表現するならば、何らかの回復のために関わっていると言えます。色々な職業に就いていますが、自動車の修理工場に働いている人は、「よし。もっと壊してやろう」とは言いません。それを修理するために働きます。また、医者ならば患者を今日よりも明日、明日よりも明後日、健康にしてあげようとして治療します。学校の先生ならば、賢く良い子にするために働きます。そのように皆さんの職業は、何らかの回復のために関わっています。しかし全世界の人々が力一杯努力しても、世界は破壊に向かっています。なぜでしょうか。いくら人間が努力しても、悪魔に対して何もできないのは、権威が奪われているからです。元々は人類は蛇たちを支配することができる、素晴らしいポジションでした。にもかかわらず、何と、そのポジションを失ってしまったのです。それゆえ、どんなに努力しても、いつも蛇の下敷きとなって、餌食になっている現実があります。
 そんな構図の中に、イエス様はこの地上に来てくださいました。イエス様は神ご自身でしたが、神の座を捨て、完璧な人としてこの地上に来てくださいました。イエス様がこの地上で行われた働きについて、マタイ四章二十三節から二十四節に記されています。

『イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。』

とあります。何とイエス様は、悪魔の力を制し、病を癒し、問題を解決されました。聖書をよく見ると、色々な問題にはそれぞれの原因がありますが、問題の背後には「存在」が関わっているのです。それが悪魔とその一味、悪霊どもの関りです。イエス様は問題解決をするときに、悪魔の力を打ち破ってから解決されました。
 イエス様は人でした。しかし、この地に来られたときに、悪魔の力を制することができました。人は、アダムとエバ以来、権威を失っていたので、そのような権威はありません。しかしイエス様は別格で、権威を持っておられました。イエス様が私たちと同じように、蛇の下敷きになっていたら、そんな働きはできなかったはずです。
 実は、イエス様のご生涯は、人の「本来の姿」でした。人の姿は、神よりいくらか劣った存在であり、地を這う狡猾なものを支配する立場として創られました。本来はイエス様と同じポジションに創られていたはずです。神はイエス様を通して、人類の元々のポジションと権威を示されたのです。
 私たちはイエス様を信じると救われます。救いとは、どこに変革が起こるのでしょうか。それは、霊的ポジションに変革が起こります。これまでは地を這う狡猾な存在に下敷きにされていたのが、イエス様を信じるときに、元々のポジションに戻してくださるのです。神よりいくらか劣る存在として、もう一度、戻してくださるのです。そして、私たちもイエスさまと同様に、権威ある働きをすることができると教えています。
 今日、イエス様を信じておられるならば、暗闇の圧制の下にはありません。あなたは神に次ぐ存在として、神よりいくらか劣る存在として、権威が回復されているのです。「あなたは神よりもいくらか劣る存在です」とお互いに宣言しあってください。
 私たちは決して、塵芥ではありません。神よりも、いくらか劣る存在として創られたすばらしい存在であることを感謝しましょう。

 イエス様はこの地に来られ、十字架にかかられ、私たちの罪の身代わりに死んでくださったことを信じると救われる、と聖書は教えています。しかし十字架のストーリーは、考えてみると、あまりにも大げさなストーリーだと思います。人間側から考えると、たいへんありがたいことです。人類が罪を犯した為、地獄のかまどの直前まで持って行かれ、廃棄処分が決まっていたのが、イエス様の犠牲によって、「廃棄中止」として救い出されたからです。しかしそんな罪を犯した人間を、神はなぜ助け出されたのだろうかと考えます。ここにも疑問が残ります。天使たちが罪を犯したのに対しては、罪を赦さず、人類が罪を犯したのは赦されるということは、同じ被造物としては不公平なことです。人間側から考えるとたいへんありがたいことですが、疑問が残ることも確かです。
 ここには様々な神学的議論と論理があると思います。しかし、私はこのように理解しています。天使たちが犯した罪は、「永遠の領域」で犯した罪でした。彼らは神について完璧に理解した上で、永遠の領域で罪を犯したのです。時間という概念がない、永遠という世界で神に反逆しました。その罪は赦されないのだと思います。そもそも時がないために、赦されるという機会そのものがないと思われます。ゆえに、人類にとって罪が赦されるチャンスは、限られた時間の経過の中でのみ、悔い改めの機会があります。しかし、死んでしまったら永遠の世界に入り、天使たちと同じ条件となり、時間的概念がない領域では、赦される機会を失うのだと考えます。ですから、私たち人類が時間という領域の中に創られたことを感謝すべきです。なぜならば、悔い改めの機会が残されているからです。
 したがって人は人生の中でしか、救いを受け取ることができません。ですから、時間の経過の中で、何とか人々が救われるように、祈り、働いていかなければなりません。

 しかしイエス様は、なぜ十字架と復活までして、大がかりに人類を救い出さなければならなかったのでしょうか。
 元々人類は、悪魔・悪霊の力を制する目的のために創られた存在でした。しかしそんな神の目的さえも、悪魔に持って行かれました。神側からすれば、「悪魔・悪霊どもは頭が良い。俺の計画を知っていて、人類まで持って行ってしまった。失敗だ。負けだ。仕方がない。また、次の手を考えるしかないな」とあきらめてしまったら、それはもはや神ではありません。敗北と見えるようなプロセスさえも含み、すべて、何事もなかったかのように、回復をしなければなりません。そのために、神のとられた手順は何であったのでしょう。
 まず、神が人となって地上に来られました。そして、人類の罪の身代わりとして、十字架にかかって死なれました。このことによって、廃棄処分寸前の人類に対する、「廃棄処分中止決定」でした。
 しかしそれだけでは、ただ、罪が赦されただけです。続いて、イエス様はよみがえられました。それはどういう意味でしょうか。「よみがえり」とは、「行動の再開」です。人類が罪赦されただけではなく、もう一度、人としてのポジションを回復し、本来の働きに従事するようにして下さったのです。ゆえに神は、そこまでしなければならなかったのです。
 イエス様の十字架と復活によって、私たちはもう一度、権威を回復し、人類が元々神から受けていた命令、「地を這う生き物を支配しなさい」という使命に生きるのです。
 私たち一人一人は、主の勇士であり、神の栄光を、サタンの手から取り戻す役割として用いられます。私たちは、そのような神の大きな計画の中にあるのです。

 さて、今まで語ってきたような人の位置づけと共に、「ダビデの三勇士」の特徴について見るときに、また、違った視点でこのストーリーを理解できます。第一サムエル記二十三章八節から十二節に、

『ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。』

とあります。
 三人の勇士とは、何百人殺したかという血生臭い存在です。しかし新約的視点を重ねるときに、ただの人殺しストーリーではなくなります。それは、悪魔に持ち去られた栄光を、人によって取り戻すという視点と共に読むことができます。
 「ヤショブアムは、槍をふるって一度に八百人を刺し殺した」とあります。また「エルアザルは自分の手が疲れて手が剣について離れなくなるまで、ペリシテ人を打ち殺した」とあります。また「シャマは、畑の真ん中に踏みとどまって、皆が逃げていくのにも逃げずにペリシテ人と戦って彼らを打ち殺した」と記されています。これは勇士としての手柄ですが、それは、人類に対して、「こうあって欲しい」という神の願望として受け取ることが出来ます。そして「三勇士」とは、私たちクリスチャン一人一人に置き換えることができます。
 三勇士とは、どうして勇士になれたのでしょうか。彼らは、自分が勇士になろうという思いで戦ったのではなく、「自分の持ち場を、後先考えずに真剣にこなしたゆえに、結果として勇士になった」という事実を見ることができます。一人一人に対する使命が神から用意されています。与えられた賜物を十分に使い、真剣に主のために働くのです。損得勘定なしに、親分ダビデのために三勇士が仕えたように、イエス様のために真剣に仕えていくときに、「結果的に勇士となる」のです。
 さらに、勝利は、彼らが戦った結果として勝ち取ったように見えますが、今読んだように、「主が大勝利をもたらされた」と二度にわたって記されています。この勝利は誰から来ているのでしょうか。それは三勇士からではなく、「主が与えてくださった」のです。
 私たちは自分で戦っているようですが、主の戦いに参加しているのです。その時、主が勝利を与えてくださいます。私たち自身の戦いも大切ですが、最終的に勝利は主から来るのです。
 ダビデはイエス様、三勇士は教会の姿を現しています。教会の使命は「霊的宿敵の陣地を突き破り、失われている魂を取り戻すこと」と定義できます。

 一九九二年に聖霊様がこの教会に訪れてくださいました。その結果、この教会に霊的戦いが起こりました。すると問題が起こり、教会は大きな傷を受け、多くの人が他の教会を作って出て行ってしまうという、悲しい出来事が起こりました。元、私たちが属していた団体は、「新城教会は霊的戦いをしているが、あれはおかしい」と言い、新しい教会を市内に作りました。
 ある日曜日の朝、私が礼拝に来ると、人数が少ないのです。その頃、二百数十名が礼拝に来ていましたが、何と、礼拝は百数十名にまで減っていました。それは、人々が新しい教会に移動したからでした。
 人間のボリューム感とは実に、相対的なものです。三十人ほど入る部屋に人がいっぱいならば、「いっぱいだ」と思います。今日は、この場所がいっぱいになっていますが、これも相対的なものです。私たちは「いっぱいだ」と評価しますが、この人数を東京ドームに持って行くと、「なんて少ないのだ!」と言うことになります。
 この会堂に、百数十人ほどの礼拝になったとき、私もちょっと淋しくなってしまいました。しかし、その時主が私に語ってくださいました。「あなたは今まで、人数や人の評価ばかり考えていたでしょう。そんなことを考えるのはもう止めなさい。目の前に与えられた一人の魂を取り戻すために、後先考えずに、真剣に働きなさい」

 それから、私の心は解放されました。人が多かろうと、少なかろうと、関係なくなりました。私は時々、他教会に招かれます。ある時は、小さな教会もあります。十人もメンバーがいないような小さな教会に行きます。でも、私にとって、それは何んの気にもなりません。そこに失われた魂がいたら、全力で悪魔に立ち向かい、その魂を勝ち取るために働くようになりました。自分の持ち場を真剣に、後先考えずに、魂を悪魔の手から勝ち取るために働くようになりました。
 そして、ふっと振り向くと、新城教会には多くの方が来られていました。ある意味で、これは私だけではなく、当時から教会に来られている方々の価値観が変えられ、与えられた賜物を使って、真剣に主の勇士として働くようになった結果だと思います。

 今朝、主は語られていると思います。「あなたに与えられている、持ち場の責任を果たしなさい」と。その時、あなたは主の勇士となることができるのです。

 ダビデの三勇士たちが、ダビデの「水が飲みたい」という言葉を聞いて水を汲んできたのは、単にダビデのわがままを聞いたのではないことがわかります。井戸は、ベツレヘムの門前にありました。その前には、ペリシテの最強部隊が展開していたのです。そして、最強部隊を打ち破らない限り、水を汲むことはできませんでした。
 ということは、ダビデが「水を汲んできてくれ」と言った言葉とは、「だれがあのペリシテの最強部隊を破り、前線を突破してくれるのか」という問いかけでした。
 三勇士はダビデのこころを鋭く悟ったのです。ですから一見ばからしく見える、「水を汲む」という行為に命をかけたのでした。「水」とは、ただ、敵の最前線を破ったという証拠品に過ぎませんでした。
 神は私たちがみこころを悟り、敵の前線を破ることを願っておられます。魂が救われるとは、敵の前線が破られた結果です。人が救われるとは、暗闇から光り、サタンの支配から神の支配下に移されることです。
 そして、結果的に、魂の救いは一度悪魔に持って行かれた、栄光が取りもどされることを意味します。魂が勝ち取られるとは、背後の暗闇の力が破られた結果です。宣教自体、その行為そのものが、かつて神が失った栄光を回復することに他ならないのです。これは神の深い知恵です。一度人類を敵の手に渡し、そこから救い出すという「宣教」というわざを通して、神はかつて失った栄光を取り戻すように計画されたのです。そのような働きのために、私たちを創ってくださいました。そしてその働きの拠点として、教会を創ってくださったのです。
 エペソ人への手紙三章九節から十一節に、

『また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

 万物創造の奥義とは、教会によって天における支配と権威に対抗させる事でした。「天」とは、悪魔・悪霊の支配を指しています。この天が神の天であったらどうでしょう。神の天に神の知恵が示されたところで、何の意味もありません。神の知恵が示されるところは、暗闇の支配下に対することです。これはエペソ六章十二節につながります。それこそ、イエス様によって実現された、神の永遠のご計画に沿ったことでした。
 教会に属して、それぞれが勇士として、キリストのからだの器官として、使命を全うしなければなりません。そんな勇士として、今日私たちはここにいます。まだイエス様を信じていない方は、ぜひとも自分のポジションを回復しなければなりません。私たちが生まれながらの人間であったら「神、悪魔、人類」という構図です。だから死んだら悪魔の下敷きで、悪魔のために用意された国に行かなければなりません。神の下にあるならば、神が用意された国に行きます。それを決定するのは、時間の経過の中でだけです。永遠の世界に入ったならば、もう赦される機会がなくなってしまいます。時間がないのです。今ある時間を感謝しなければなりません。ぜひ自分のポジションを回復し、敵の力を打ち破るために働いてください。それこそ素晴らしい働きです。色々な場所で働かれていますが、その場が皆さんの戦いの現場です。主が遣わしてくださった現場で、使命を全うしたいと願います。お祈りします。


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