最高の目標

2006.3.26(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 ハレルヤ!今日は御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。メッセージを語るにあたって色々な方に祈っていただきましたが、祈る祈りを聞いていてわかったことはそれぞれ関心のある事を祈ってくれることがわかりました。今日は信長兄に祈りをお願いしたら、「子どもたちが静かにするように」と祈ってくれました。また私の四男に祈ってもらったら「楽しい話ができるように」と祈ってくれました。ある子は「早く終わるように」と祈ってくれました。どうなるかわかりませんが、今日の関心事はイエス様であることを願います。今日は「最高の目標」ということについて学びます。第一コリントの「その中で一番優れているものは、愛です」とあります。愛を語るのに資格のないような者が語りますが、愛を与えていただきたいと願いながら共に学んでいきたいと思います。今お読みした御言葉は、第一コリント十三章十三節です。その後すぐに十四章があります。コリントの手紙は初め節がなかったので「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」という後十四章一節に、

『愛を追い求めなさい。』

とあります。リビングバイブルには、

『愛を最高の目標としなさい。』

とあります。何回か礼拝で「神の家族」ということでシリーズのように語られてきました。第一コリント十二章二十七節に、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

とあり、私たちは各器官ということについて学んできました。この世の中には強い者に価値があるという価値観がありますが、キリストのからだとして聖書は強い者に価値があるとは教えていません。第一コリント十二章二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

とあります。自分は弱い者でありますは、弱いからこそ神様は私たちを注目してくださり、愛してくださると学びました。この世界が悪魔の支配下にありますが、社会がどんどん悪くなっています。しかし神様がかしらであって私たちは各器官であり、その器官である教会が益々暗やみに立ち、立ち上がって暗やみに対してどんどん戦って行く教会になっていかなければなりません。また戦っていく一人一人になっていくことを教えています。教会は素晴らしいもので兄姉姉妹として家族として私たちはいつも愛し合っていくことができます。先日御言葉を学中で教会は社交クラブや仲良しクラブではなく、各器官として一つになっていくことが大切であることを学びました。またその中で賜物を求めて行かなくてはならないと学びました。御霊の賜物を熱心に祈って求めていくときに、教会の徳が高められていきます。そして私たちが救われるまでに過去最悪であった所を悪魔が押さえつけて、私たちが思い出すと苦しいと思うところに鍵があり、そのために祈っていく所が賜物であると聞き、自分も何が賜物であるかと思いますが、とにかくこの教会が更に一つとなって祈り始めていくならば、素晴らしい主の祝福をいただくことができると確信しています。第一コリント十三章十三節に、

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』

とあります。私たちは第一コリント十二章にからだであることを学び、御霊の賜物を熱心に求めなさいと学んだ後にパウロが言っていることは、十三章十三節から十四章一節に、

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。』

とあります。そして十四章一節のリビングバイブルでは、『愛を最高の目標としなさい』とあります。そしてそこに聖霊の賜物をいただいて更に強くして私たちは霊的戦いの中で戦っていくことを学んでいますが、更に主が教えていることは「愛」ということです。私たちはからだが一つになっていくこと、御霊の賜物を熱心に求めていく中で最高の目標として私たちが掲げていくことは、愛です。この御言葉を祈っていく中で、からだと御霊の賜物について学んだ後で何を語ったら良いかというときに、

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』

と神様が御言葉を下さったときに、自分はそんなことを話せる者ではなく、愛のない者であり、自分ことで精一杯の生活を必死でやり、自分の現状が少しでも良くなればいいと思い、人のことなど余り考えることができない者であるかも知れません。昔、この教会の隣に製材があり、おがくずが貯まっている家がありました。その家に大きな看板がありました。それを見て電車に乗って通勤通学をされている方がいました。そこに「神は愛なり」と書かれていました。多くの方が、キリスト教は愛が中心であることはわかりますが、自分に対して神が愛を与えてくださいますが、自分自身の愛に対してあまり深く考えていないと思います。結構私たちは自分勝手であり、自分のことばかり考え、愛は受けるものであり、与えるものではないような生活をしています。誰かが何かをくれたら、何かお返しをしなくてはいけないと、もらったら与えることをします。しかし全く関係のない人に関しては、誰が転んでいようが無関心なところがあります。少し手を貸して起こしてあげるかも知れませんが、誰が病気であろうと、誰が亡くなろうと自分の中では意識外の者です。

『いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』

と語られたときに、愛のない者だ。自分は愛を語ることができない者だと思いました。第一ヨハネ四章八節に、

『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』

とあります。これを読んだときにドキッとしました。私は神様を信じて人々に宣べ伝える立場であるにも関わらず、自分は愛がないと思っていたら、」「愛のない者に神はわかりません」と御言葉がありました。今日もう一度愛を神様からいただきたいと思います。イエス様からの愛についてわかりますが、それだけではなくて他にも愛について覚えていただきたいと思います。先ほど「祈ってとお願いしたときに、信長君が「子どもたちが静かであるように」と祈った後で、彼がこのように言いました。椅子に座るときに背もたれの方から跨いでで座る人がいます。そうすると彼は怒ります。先日水曜日に「今度はお前がいないからよく子どもたちに静かにしろって言っておけよ。」と言われました。言われると一緒に連れてきても、なぜここまで言われなければいけないのだろうかと思います。神は愛であり、愛のない者に神はわからないとあります。神様が私のために十字架にかかられて三日目によみがえってくださったということを増し加えると同時に、その他の愛も増し加えるクリスチャンでありたいと思います。愛というと思い出すのは良きサマリヤ人の御言葉です。ルカの福音書十章三十節から三十六節に、

『イエスは直接答える代わりに、例をあげて説明なさいました。「エルサレムからエリコへ旅をしていたユダヤ人が、強盗に襲われました。 強盗どもは、身ぐるみはぎ取り、あり金全部を奪うと、殴ったり、蹴ったりして半殺しにし、道ばたに放り出してさっさと逃げて行きました。ちょうどそこへ、ユダヤの祭司が通りかかりました。 ふと見ると、旅人が倒れています。 でも、めんどうに巻き込まれたくなかったので、そそくさと道の反対側へ回り、何くわぬ顔で通り過ぎてしまいました。しばらくすると、今度はレビ人〔神殿で奉仕する人〕が通りかかりましたが、彼も、倒れている旅人を横目でちらっとながめただけで、行ってしまいました。ところが、常日頃ユダヤ人に軽べつされていたサマリヤ人が、たまたま通りかかり、旅人を見つけました。気の毒な有様に、心から同情したサマリヤ人は、急いでそばにひざまずき、傷口に薬をぬり、包帯を巻いて応急手当をしました。 それから、自分のろばに乗せ、宿屋まで運んで、一晩中、看病してあげました。翌日、宿屋の主人に六千六百円渡し、『あの人を介抱してあげてください。 足りない分は、帰りに寄ってお払いしますから』とくれぐれも頼みました。この三人のうちだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」』(リビングバイブル)

リビングバイブルはとてもわかりやすく書いてあります。最初に祭司が通りました。今でいう牧師です。『めんどうに巻き込まれたくなかったので、そそくさと道の反対側へ回り、何くわぬ顔で通り過ぎてしまいました。』とあります。またレビ人は、横目でちらったと見ましたが行ってしまいました。しかし今日学ぼうとしているサマリヤ人は、『常日頃ユダヤ人に軽べつされていたサマリヤ人が、たまたま通りかかり、旅人を見つけました。気の毒な有様に、心から同情したサマリヤ人は…』と書かれています。サマリヤ人はユダヤ人から軽べつされていました。そして一緒にいることさえ忌み嫌われ、場所を通ることさえも忌み嫌われるような人でした。その人が傷ついたユダヤ人、普通は敵対されて嫌な思いをさせられている人物であるにもかかわらず、彼は同情してかわいそうに思いそこに行ってひざまずいて、『傷口に薬をぬり、包帯を巻いて応急手当をしました。』とあります。自分が薬を持っていたらそれくらいできるだろうかと考えました。それともその場に行ったら逃げてしまうような者かも知れないとも考えました。しかしロバに乗せ、宿屋に運んで一晩中、看病してあげたとあります。私はここを読んで自分はできないと思いました。普通ならば、今は病院があるので救急車を呼んであげて病院に運んであげると思います。そして牧師ですので良い伝道のきっかけなので次の日には行くかも知れませんが、敵対しているようなユダヤ人に対してサマリヤ人は、傷口を看病し、包帯をしてあげて自分のロバで宿屋に連れていってあげて泊め、一晩中看病したと書いてあります。そして次の日には翌日宿屋の主人に六千六百円を渡したとありますが、これは二デナリとあります。一日の給金が一デナリであり、この計算だと一デナリは三千三百円です。今は一日働くと八千円か一万円です。一万円と考えると、自分のポケットマネーで二万円払ってこれでお願いします。私は用事を済ませてまた帰ってきます。その時に足りなかったらまた支払いますと言いました。私はこれを読んで、そんなことはあるだろうかと考えました。ここまで連れてきて看病したら家族を呼び、家族がすみませんでした。自分の親族ですのでお金を払いますというと思いますが、このサマリヤ人はそこで終わるのではなく、当然自分の宿賃も払い、その人の宿賃も払い、更にまた寄って未払い分は私が払いますからと、愛を示しました。そしてイエス様が言われたことは、「この三人の内、隣人は誰ですか」と言っています。隣人を愛しなさいということについて学びますが、私たちはいつも人を愛して優しい言葉をかけ、自分は愛があると思っていたら、自分は愛のない者だと思いました。「愛のない者に神はわかりません」とありますが、全く神様の見えるべき部分がまだわかっていないと教えられました。そのような中で私は神様に祈りました。拡大聖会の中で神様に祈りました。神様に対して愛を示していかなければいけない、人々に愛を示していくことがわかっていますが、知らないうちに段々努力が嫌になってしまい、自分中心の生活に戻ってしまっています。各器官について学び、愛という部分で熱心に賜物を求めなさいとありますが、賜物を求めて愛をもっといただかなくてはいけない。真剣に祈っていかなくてはならないと思いました。また同時に、各器官が愛の中で一致してしまったら悪魔に大きな脅威を与えます。私たちクリスチャン一人一人に悪魔は愛を与えないように、愛を与えないように目隠ししてくると思いました。そのような中で神と私たちの愛がどこで奪い取られているのだろうかと思い、聖書を読みました。天地創造からアダムとエバが創られ、彼らが神と一つになって交わっていた後で、悪魔は愛を破壊し、神に対しても人間同士の愛に対してもそこを破壊して奪い取らないように悪魔が先に奪い取って愛の上に汚い土足で愛することをしないように破壊してきています。創世記三章にアダムとエバのストーリーがあります。創世記三章六節から七節に、

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』

とあります。ここで最初の愛が破壊されています。それは神様と私たちの間に悪魔が破壊を与えています。エデンの園の中で何でも食べて良いと言われました。しかし神様は「真ん中にある善悪を知る木の実はとって食べてはいけない。取って食べると死ぬから」と言われました。しかし悪魔はそこをうまく使ってエバを呼び出して、善悪の木の実を見せて、「どうだ、美味しそうだろう。そんなことないぞ。神様は言うだけだぞ。食べてみろ」と誘惑をかけてきました。そしてそれは「食べるに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」とあるので、善悪を知る木の実は素晴らしい果物であったと思います。フルーツの王様ドリアンがあります。またフルーツの女王マンゴスチンがあります。善悪を知る木の実は、想像がつかないような素晴らしい木の実だったと思います。それを食べるように悪魔がエバに誘惑しました。その時にエバは食べてはならないという約束事を思い出しています。しかし、素晴らしいなあと思う中で彼は取って食べてしまい、一緒にいた夫にも与えたので夫も食べたとあります。昔私はエバが食べて美味しかったのでアダムを呼んできてあげたと思っていました。しかしここには一緒にいたアダムも食べたとあります。一緒に食べて目が開かれて、それまでは裸であっても神の栄光で覆われていたので何も恥ずかしくありませんでしたが、恥ずかしいと思いいちじくの葉で腰に覆いを作ったとあります。神と愛が破壊されました。そしてその後でエデンの園に神様が来て「アダム」と言ったときに、「私は裸で出れません。」と言っています。それまでは親しく交わっていたにもかかわらず、悪魔は神と私たちという部分で愛を破壊して愛せないようにしてくるのが悪魔の働きであることを覚えてください。ですから今日もう一度神様に対してどれだけ愛をいただいているかを覚えて更に神様を愛していきたいと思います。ヨハネ十五章十三節に、

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』

また第一コリント十三章三節に、

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』

とあります。今日あなた一人のためにイエス・キリストが神の位を捨ててわざわざこの地上に来てくださり、十字架にかかられ、葬られて三日目によみがえってくださったことをもう一度あなたの神であること、あなたは愛していることを覚えていただきたいと思います。あまりにも簡単にその愛について考えてしまい、何か大きな問題があるとすぐに私たちの心の中でああ、もうイエス様に愛されていないと思ってしまいます。しかし今日あなたが地獄に行かないようにあなたを愛して主がいのちを捨ててくださったこと、あなたが受けなければいけなかった罰を受け、愛を注いでくださっている神様が真の神であるイエス・キリストであると覚えてください。昔ある人のメッセージでこんなことがありました。「上條君、ちょっと出てきて。今から十字架のことを話しますがメッセージ中だけ十字架にかかったつもりで腕を広げていてください」と言われました。「良いよ。」と言ってやっていました。しかしなかなか止めても良いと言われません。十分経ってもなかなか良いと言ってくれないのです。途中「下がっているよ」と言われ、やっているのを苦労していました。次の日は筋肉痛になりました。愛について理解していないところがありましたが、あなたのために十字架にかかってくださった。あなたのために唾をかけられ、裸にされて毛をむしられ、ムチを打たれて、あなたを愛しておられる神様が今日います。いのちをかけてあなたを助けた神がいることをぜひ覚えてください。ヤコブ四章四節に、

『貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。』

とあります。イエス様を愛する、礼拝は愛のお返しで礼拝することは当たり前のことです。そして楽しいプログラムがあると、礼拝がなかったら良いのに…と思いながら出てくることもあります。先日拡大聖会の時、最後に順先生のメッセージがありましたが、皆気持ちが集会に集中していませんでした。なぜかというと、ちょうど野球のワールド・ベースボール・クラシックの決勝で日本対キューバでしたので結果がどうなるか皆がそわそわしていました。初めから順先生速報を出し、最後に日本が勝ちましたと速報を出していましたが、集会が大切だとわかりますが、私たちはそのような者で心から「イエス様、ありがとうございます」と、十字架について考える者でなければなりません。イエス様はいのちの恩人であるにもかかわらず、十字架について語りながらもさらっと語ってしまう。しかしその背後には私たちが担いきることができないような愛を持ってあなた一人を愛してくれていることを覚えていただきたいと思います。また創世記三章十二節から十三節に、

『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』

とあります。神様との愛が破壊されたと同時に、この中で一緒に食べた夫婦が責任転嫁しています。夫婦の愛・家庭の親子愛が破壊され、悪魔は人間同士の愛を破壊し、そこに土足で人間同士が愛さないように大暴れしています。イラクの戦争でも私たちはフセインを見るときに、愛を持って救いを祈っているかと考えるときに、私はフセインは悪い奴だとさばいています。私たちの中に自分の戦いではないのに、他の人もさばいているようなことがあります。まして、自分の戦いであると、自分が正しい、隣人に対しては言いたい放題に言って勝ったと言います。私たちは自分が正しいと義を主張します。しかし、愛が知らないうちに悪魔に踏まれています。マタイ十九章十九節に、

『父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』

とあります。家族、夫婦に対して愛を取り戻さなければなりません。家族は一つのようでありながらも、その家庭に入ると色々な問題があります。親子、また兄弟同士で見にくい争いがあります。しかし私たちは家族でイエス様を愛すると同時に夫婦の愛も愛し合っていきたいと思います。家族の愛をしっかりしなくてはと思いながら、家に帰りました。そして当然疲れています。久しぶりに一番下の子が来て、色々な言ってきます。一緒にご飯を食べていてもイライラします。相手をわかっていますが、実際に来るとうるさいと思ってしまいます。向こうは構って欲しいので寄ってきます。しかし私は疲れているゆえに爆発してしまい怒ってしまい、はと気がつくと聖霊様に頼って愛をいただき、家族、夫婦、隣人に対しても愛をもって仕えていきたいと思います。マタイ五章四十四節に、

『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』

とあります。隣人を愛するということでサマリヤ人のことを話しましたが、敵を愛しますと口では簡単に言えますし、祈りも簡単に祈ることができます。しかし傷口を介抱し、手当をし、ロバに乗せて宿屋まで連れていき一晩中介抱してあげるのが人に対する愛であると聖書は教えています。そのように言われたら自分の愛は全くないと思います。今日もう一度あなたの中の家族の愛、また自分の敵を愛し迫害する者のために祈りなさいとありますが、敵のために愛することは、ただ口で「愛します」と告白するだけではなく、実際にこちら側がその人のために犠牲を払って愛を示してあげることが大切なことだと思います。またそれもやってあげているというのではなく、神様からタダで与えられた恵みを私たちが与えていくことをしっかりと覚えていきたいと思います。「御霊の賜物を熱心に求めなさい」とありますので、神に対する愛と人に対する愛を持ち愛することができるように。また憎しみがあって愛せないという方に対しても今日は徹底的に愛のない者に神はわかりませんとありますので、徹底的に悔い改めて祈りましょう。口で愛すると告白できることは大きな前進であり、またそれ以上に今度は隣人となり、良きサマリヤ人のように愛を与えるクリスチャンになりたいと思います。創世記三章十七節に、

『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。』

とあります。これは罪を犯したアダムに対して神様が言われた言葉です。これをリビングバイブルで見ると、

『最後はアダムです。 「あれほど食べてはいけないと言ったのに、おまえは食べた。 わたしよりも、妻の言うことを聞いたのだ。 そのため土地はのろわれる。 生きるためには、一生あくせく働かなければならない。』

とあります。霊的戦いをしている中で個人的な解放と同時に地域について目を向けるように学んでいます。その地域の中で私たちは愛しているかというとなかなか愛することができません。私は自分が住んでいる新城市諏訪の地域が百何件かあり、昔は祈っていました。しかしふと本当に地域のために愛しているかを問われ、もう一度考えてみました。地域のために歩いて一軒一軒通り過ぎるて祈っていましたが、その地域に誰が亡くなっても何とも思わない自分があります。なぜすぐに無関心になってしまうのだろうかと思いました。その時に、リビングバイブル三章十七節で、「わたしよも妻の言うことを聞きなさいとあります。これは、神様の御言葉をまず第一に求めることです。神の国とその義とをまず第一に求めなさいと聖書にあるように、神の御言葉にしっかりと考えずに人間の考えですぐに行動してしまっています。そこからすでに地域に対する戦いが始まっているのです。アダムが奥さん・エバの言うことを聞いて食べてしまいました。その時に人間同士の愛が壊れたことと同時に土地も呪われてしまっていることを覚えてください。皆さんが霊的戦いについて示されて敵の陣営に行って祈る方もいるとおもいます。また色々な地域を祝福を祈っていくのですが、一番の霊的戦いはあなたが住んでいる地域に祈るのは、神に従うことでsう。悪魔は御言葉で言うことを聞かせないようにしたことが人間だけではなく、土地も呪ってしまっています。そしてアダムの罪の結果が書いてあります。創世記四章十節から十一節に、

『「おまえの弟の血が大地からわたしを呼んでいる。 全く大それたことをしでかしてくれたものだ。弟の血で大地を汚すとは、なんということだ。 おまえはもう、ここには住めない。 追放だ。』

とあります。アダムとエバの子どもカインとアベルのことです。アベルのささげ物が神様に受け入れられ、カインのささげ物は神様に受けいられませんでした。そして自分が受け入れられなかったので、アベルを呼び出してカインはアベルを殺してしまいます。そしてその土地に埋めてしまいました。リビングバイブル四章十節から十二節に、

『「おまえの弟の血が大地からわたしを呼んでいる。 全く大それたことをしでかしてくれたものだ。弟の血で大地を汚すとは、なんということだ。 おまえはもう、ここには住めない。 追放だ。これからは、いくら汗水流して働いても、大地はおまえのために作物を実らせない。 この先おまえは放浪者となり、当てもなくさすらい歩くのだ。」』

とあります。アベルの血によってそこで大地を怪我したとあります。私たちの周りには多くの事件や家庭不和があります。そして私たちは祈らなくてはいけませんが、知らないうちに血肉の戦いになり醜い争いになります。今日神様のために、また家族や人のためにも、また土地のためにも、まず神の国と神の義を第一に求め、今日もう一度神様の愛をいっぱい受けたいと思います。あなたのためにいのちを掛けてくれた愛をもう一度考えてあなたのため、そしてその愛は隣人を愛する愛、地域を愛する愛であることが解り始めると、その地域が回復され、家族が回復され、兄弟同士・人間関係をが回復され、主は素晴らしい祝福をこの地に与えて下さるという約束です。今日「最高の目標」ということでテーマを掲げましたが、リビングバイブルでは、「愛を最高に求めなさい。そして各器官として愛し合い、熱心に賜物を求めていく。そのためには愛を身につけさせていだだき、心から主を愛し、もちかち家族や夫婦など色々な敵があったら今日はその人を愛せるように、愛の家庭になるように、愛の夫婦になることができるように祈っていきたいと思います。結婚式を見ていると自分の時のことを思い出しました。そしてあの時と愛はどうだろうかと比べます。また葬式があると親が亡くなったときの子どもさんたちの落胆ブルーを見ると、本当にその方々の祝福と守りを祈ると同時に自分は父母を敬っているだろうか。あのときにこうしてあげれば良かったと思うように悔いの残るようにしたくありません。今日私たちは一番大切にし、いつも心の中に掲げていくものは、当然主を愛することですが、愛を最高の目標としてその中で一致し、各器官になり、また私たちが熱心に賜物をいただいていくときに更に大きなリバイバルが与えられ、主に祝福をいただき、神様の恵みをいただけることを信じます。今から聖餐式ですが、パンとジュースをさっといただくのではなく、今日はもう一度あなたのために裂いて下さった肉、流して下さった血であると覚えてお祈りしたいと思います。お祈りしましょう。


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