「良い行い」に歩もう!

2006.4.2(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 エペソ人への手紙2章10節
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 ハレルヤ!おはようございます。足もとの悪い中、ようこそお出かけ下さいました。このように集まって主を礼拝出来ることは、大きな特権であり、主が心から喜んでくださっていると信じます。
 今日は四月二日です。新しい年度が始まりました。日本では一般的な新年と、ビジネス関係の新年があります。「二〇〇六年度」は一般的には四月から始まります。新しく入社したり、学校に入ったりと色々、環境の変化があります。皆さんにとって、この四月、どんな変化がありますか。
 私も高校卒業後、一年間公務員をしたことがあります。入社試験に合格し、某市役所に入所しましたが、毎日とても疲れた経験があります。学生時代には考えられなかった疲労感を覚え、これが一生続くのだろうかと心配しました。しかし、二〜三ヶ月経つと人間は結構慣れるものです。だから心配しないでください。同時に神様は私たちを守ってくださるので、主の守りの中で歩んでいきたいと願います。
 今日はギデオン協会の方々が来てくださいました。ギデオン協会は、聖書を配布してくださっています。そのために今日は献金をします。学生時代にギデオン協会の聖書をもらったことがあるという方が多いと思います。ギデオン協会の働きを通して、多くの方に御言葉を手渡すことができます。 
 四月は色々な変化があります。今週は、ぜひ祈ってください。「リバイバル神学校」の入学式があります。毎年どのくらいの神学生が集まるのか、不安と期待があります。今年は「二十一名」が入学されることになりました。卒業したと同じくらいの人数が入学されほっとしています。明日は入学式があり、明後日から授業があります。神学校のために、遠くから学びに来てくださる方もいます。
 先週私は、熊本県高森に行きました。昨年神学校を卒業した小林雅子先生がいます。 
昨年、伝道に行かれることを聞き、とても心配しました。日本の教会は大変です。全国に八千程の教会がありますが、そのうちの六十五パーセントが、一年間働いても授洗者ゼロです。悲しい現実です。授洗者平均は一・一四人です。特に、田舎で伝道するのは大変です。それで真剣に祈り、友達も祈っていました。
 しかし彼女が教会に赴任してから、一年間で十人増え、四人が洗礼を受けたそうです。そして献身者も与えられました。一人の人生が変えられると、大きく周りが変わっていきます。
 またこの四月には、「ざわめき10」が発売されます。
一九九二年に教会に聖霊様が訪れてくださいました。そのような中、今まで考えても見なかったことが起こり始めました。そこで新しくされたのが「賛美」でした。滝元開副牧師が、どんどん賛美を作り始めました。私は彼の兄なので、元々彼にそんな能力がないのを知っています。それは上から落ちてくる賛美を拾っているのです。この十数年で、賛美がたくさん生まれました。
 神様は計画をお持ちです。聖霊様が訪れてくださってから、私の生き方も変えられました。昔私はビジョンを持つことが大事だと思っていました。何事もしっかりと計画しなければうまくいかないと考えました。私は理工系の出身なので、すべて物事を論理的に考えます。計画的にうまくやる方だと思います。しかし聖霊様が訪れてくださってからは、あまりビジョンを持たない方が良い事がわかりました。なぜなら、私たちの意識を超えたところで主は働いてくださるからです。この教会に、九二年以前から来られている方は、わかると思います。特別な計画をしたわけではありませんが、神様が一歩一歩導いてくださいました。
 二十年くらい前、信弘先生が一台の中古印刷機を買ってきました。機械を買ったとき、機械の紹介をしてくれた印刷屋さんが私の所に来て、「彼はあんな機械を買ったけど、ほんとうに使うことができるのかね?」と言いました。私は、「たぶん大丈夫でしょう」と答えましたが、印刷屋さんはたいへん心配していました。
 しかし今は、「プレイズ出版」ができ、押しも押されぬキリスト教界での出版部ができました。神様の計画の中で、ある意味自然発生的に、不思議な御手で導かれてきました。はじめは素人集団のようでしたが、聖霊が注がれると、それがプロ集団になります。神学校ができたり、多くの人がイエス様を信じて、集うようにもなりました。このようなことが起こされたのは、聖書の約束です。エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 私たちは「神の作品」です。周りの物は作品というよりも、「製品」ばかりです。製品は同じ物が同じようにできます。しかし作品とは、作者が芸術性と共に制作したものです。そもそも、作品には作者の思い入れがあり、唯一の物として世界に生み出されます。
 時々隣の人と比べて、「私とは違う」と言う人がいます。隣の人と違うならば、作品である証拠です。最近、テレビで同じ顔の人が数名同時に出てくるコマーシャルがあります。皆同じ顔です。同じだと気持ちが悪いです。違うからこそ良いのです。今日ここにいる人が皆、同じ顔なら恐ろしいですね。
 時々、芸術作品の前で立ち止まってしまうことがあります。特に芸術性の高い作品こそ、意味がわかりません。考えさせられてしまいます。お隣の方を見て、意味がわからないならその人は芸術性が高いのかも知れません。

『神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 私は、「人生にあまり計画を持たない方が良い」と言いましたが、誤解しないでいただきたいと思います。それは神様が既に、「良い行いを備えてくださっている」ので、私たちの計画を優先するよりよいという意味だからです。神様がすでに備えてくださった良いものを受け取るという、スタンスが大切です。あなたの人生の中身さえも、備えられていると教えています。私たちは、日々主の前に出て、良きものを受け取るのです。私は毎朝、主の前に祈ります。「今日の一日をよろしくお願いします。今日一日、神様が私のために用意して下さったものを、一つも残らず受け取ることができますように。決して、落とすことがありませんように」と祈るようにしています。主は行いのすべてを用意してくださっています。
 日本人には、一生懸命努力しないと救われないという意識があります。日本の宗教の多くがそうです。今年、四国でミッションが行われます。ぜひ「四国リバイバルミッション」にお出かけ下さい。そこに行くとたいへん偶像が多いです。四国八十八箇所という霊場があります。一日何千人もが一生懸命霊場を回っています。白装束を着て、杖を持って歩いています。なぜ、それが出来たかご存知でしょうか。四国は霊的領域においては、少し感じるところがあるのかも知れません。しかし偶像礼拝について調べてみると、その多くが経済的要素と結びつき、町おこしや村おこしの一貫でできています。
 四国は昔は誰も近づかないようなへんぴな所でした。そこに、天皇が空海を利用して霊場を作りました。そうすれば四国に人が流れ、へんぴな場所でも人々が生活できるようになるからです。日本の偶像礼拝は経済と一緒になっています。四国八十八箇所には弘法が祀られています。そしてもう一つ、その側に少し小さめに祀られているのがあります。それが「観音」です。どこの寺にも、弘法の横に観音があります。それはちょうどテレビコマーシャルのようです。「今度は観音にいらっしゃい!」という誘いです。そうすると、人々は「今度は観音を拝まなければならない」と思います。
 関西には、「西国三十三観音巡り」があります。それは鉄道会社が作りました。ほとんどが、経済の活性化の為に偶像礼拝が利用されているのです。何しろ、人々は自分で一生懸命努力して、八十八箇所を回りきらないと救われないと思っています。
 しかし聖書の世界は努力ではなく、行いでもありません。無代価で、「恵みによって」救われるのです。エペソ二章一節から六節に、

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあります。私たちはかつては罪人として心のまま生きていました。

『それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』とあります。罪の中に歩んでいた頃、キリストを知る前は、「空中の権威をもつ支配者」に支配されながら歩んでいたとあります。使徒の働き二十六章十七節から十八節でも、私たちが救われる前は悪魔の支配下にあったと記しるしています。私たちがイエス・キリストを信じることは、暗やみから光に、「サタンの支配から神の支配に移される」ことです。救いとは、私たちの努力の賜物のように考えるかも知れませんが、救いは私たちの力ではなく、神の力によって、サタンの支配下から神の支配下に移されることを意味します。そして、神の支配下に入れられることは、「あなたがたが救われるのは、ただ恵みによる」と記されています。
 先々週、私が語ったメッセージと関連性があるので、ぜひ思い出して下さい。そこでは、「人がなぜ創造されたか」について話しました。人間は創造されてすぐに、「地を這う生き物を支配せよ!」という命令を受けました。それが人が最初に受けた神からの命令でした。神様は、人間を創る前にすでにご自分の栄光を失っていました。それは、ご自分の周りで働いていた天使たちが堕落して、悪魔・悪霊になったからです。神様はそれを放っておかれず、取り戻されるお方であると話しました。その手段として、神は人間を創造されました。神よりも、「いくらか劣る存在」として、悪魔との対立の中間に、彼らよりも権威ある人類を創ったのです。本来の人間は神の命令を聞いて、その命令を下位に位置する悪魔・悪霊に下すならば、一瞬にして悪魔・悪霊は支配されていたはずです。しかし、人間が蛇の言うことを聞いて、そのポジションが逆転しました。同時に人類は罪を犯したので、天使が罪を犯したとき廃棄処分に処せられたのと同じように、人間も永遠の滅びが決まってしまいました。しかし神は人間のポジションを回復してくださいました。これが人間の存在の究極的な意味であることを学びました(詳しくは二〇〇六年三月一九日「あなたは主の勇士です!」参照)。
 私たちは当然、廃棄処分になっても良いような存在でしたが、イエスさまの十字架の犠牲によって救われました。それは神の「一方的な恵み」によることでした。

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあるように、ポジションが回復されました。神に次ぐ権威ある存在として、私たちのポジションが回復されたのです。だから、もう悪魔に支配されることはありません。それどころか、私たちには悪魔・悪霊を支配する権威が与えられました。今イエス・キリストを信じる者たちは素晴らしいです。元々、人類に与えられていたポジションが回復しています。また、良い行いに歩むように、その良い行いが「あらかじめ備えられている」とあります。ここにおられる方で、無意味な方は一人もありません。神が目的を回復してくださった方々ばかりです。
 人間とは、選択の自由を持った動物です。ですから、神を選択しようと、しまいと、自由なところがあります。信教の自由があります。数ある色々な宗教の中で、何を選択しても良いのです。そのような中、皆さんはイエス様を選択されました。どのように選択するかによって、人生は違います。ですから、神の計画を選択するのも、選択しないのも私たち自身にかかっています。
 そもそも、人間には愛がありますが、愛とは選択の自由にかかっています。結婚した時はどうでしたか。男性なら、この女性が、他の女性よりも価値があるとして選択したゆえに、結婚が成立しました。誰かを愛するというのは、選択の価値観の差、すなわちその落差が人間の愛のようです。それが人間の愛の現実かも知れません。しかし神は、誰かと比較して私たちを愛してくれるのではなく、私たち一人一人を、神の作品として仕事も用意してくださったのです。素晴らしいことです。
 ある施設で、発達遅滞のある子どもたちに、お金の価値についての勉強会をしました。先生が、百円玉と、五十円玉と、十円玉を持ってきて、十円玉を十枚重ねて百円玉一枚と同じ価値であることを説明しました。また、五十円玉一枚と十円玉五枚が同じ価値であると話しました。そして、「この中で一番価値のあるお金はどれか」と聞きました。
 すると一人の女の子が手をあげました。彼女は、「十円が一番価値があります」と答えました。すると先生はがっかりして、もう一度説明しました。「よく聞いて、十円玉十枚で百円、五枚で五十円。社会に出てから大切だから、よく覚えてね」と言いました。しかし女の子は何回説明しても、「十円玉が一番価値がある」というのです。それで先生は女の子に質問しました。「なぜ、十円玉が一番価値があるというの?」
 彼女は親元を離れて寮生活をしていました。彼女の答えは、「十円玉は、お母さんに電話ができるから」でした。
 昔は電話を掛けるのが大変でした。ピンク電話で十円玉専用の電話器がありました。それは十円玉しか受け付けません。その寮には、ピンク電話しか備わっていませんでした。今のように、携帯電話はなかったのです。彼女は十円さえ持っていれば、大好きなお母さんの声を聞くことができるので、十円玉を真剣に集めていました。彼女の手に握られている十円玉は、百円玉とは比べ物にならない大切なものでした。
 時々、「あの人は五十円、百円…」と評価します。そして「私は十円」と悩むこともあるかも知れません。しかし神は、女の子の手に握られた十円と同じように、私たちを最高の目的のために使ってくださるのです。
 新年度にあたり、「これからどのように進めば良いのだろうか」と不安に感じている方がいるかも知れません。しかし心配しないでください。あなたは、女の子の十円玉と同じように、尊く価値ある存在として用いくださいます。また、その行いをも準備されているというのが聖書の教えです。

 日本人は元々、「自分には価値がない」という考えがインプットされています。それは仏教的影響であると思われます。仏教は「空」を説きます。
 今年一月にも語りましたが、私たちは何気なく数字を使っています。数字といえばアラビヤ数字を連想します。数字のない世界を考えたらどうでしょうか。今日から、「数字を全部排除します」と言ったら、生活が成り立たないと思います。今朝も数字があるので、十時半に集まってきたと思います。また、電話番号も全部消えてしまいます。互いに連絡を取ることもできなくなります。
 さて、日本の数にも、ギリシャ、ローマ数字の中にも「ゼロ」がありません。あるのは「アラビヤ数字」だけです。元々、人間はゼロという数字がなくても生活できました。それは「ある」または、「ない」で生きていくことができるからです。例えば、りんごは、あるか、ないかだけです。「ゼロ」と、「ない」の概念は違うのです。「ゼロ」は、宗教的概念から出ています。それは、インドから出て来ました。仏像はゼロを手にして施しを求めるような姿です。どんなに大きな数でも、ゼロをかけたら一瞬にしてゼロになります。また、ゼロで割り算をすると、エラーになってしまい計算が成り立ちません。しかし、電子顕微鏡で見なければわからないような、ほとんどゼロの、わずかな量なら計算が成り立ち、結果は無限大になります。「ゼロにそんな力があるのは、神に違いない」ということでゼロは神としてインドで拝まれていました。何気なく、ゼロは数学的概念のように入ってきます。特に、仏教徒にはゼロの概念が家系的に強く染みこんでいます。知らないうちに、「あなたの人生には何もない、ゼロだ」という声を聞いています。多くの人が自殺しますが、その根底にゼロが影響していると思います。年齢を数えるのに、ゼロから始めます。生まれているのにも関わらず、0才です。そして死んでゼロに戻ると考えています。仏教思想は輪廻を説きます。しかし輪廻は最終目標ではなく、「解脱」です。解脱とは、輪廻のサイクルから抜けることであり、空、すなわち、ゼロに戻ることです。ですから、仏教の環境に生活している人々は、知らないうちに心の中に「お前には何もない、やがて死んだらゼロに戻る」という、暗やみの支配者たちの声を聞いているのです。だから、辛いことがあると、「ゼロに戻ってしまえ、何もなくなって楽になれ」という声を聞きます。皆さんは、絶対にその声を聞いてはいけません。皆さんにゼロはあり得ません。聖書の世界には、ゼロの概念がありません。出エジプト記三章十三節から十五節に、モーセが神様のお名前を聞いた箇所があります。

 

『モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。』

 永遠に渡っての神の呼び名は、「わたしはある」です。私たちは神によって創られました。神は、「無から有を生じさせるお方」と私たちは表現し、また、私たちは何もないところから創られたと表現しますが、突き詰めるとその答えは間違っています。なぜならば、神はあるという方なので、私たちもある方から出たということは、「元々あった存在」なのです。エペソ一章四節は、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

とあります。世界の基の置かれる前から、私たちはあったのです。神があると言われお方ならば、私たちも、元々あった存在なのです。だから、何もないという悪魔の言葉を聞いてはいけないのです。あなたには、すべて備えられています。これから人生はどうなってしまうのか。私の人生は暗い、という方がおられても、その声に騙されてはいけません。「わたしはある」と言われる方によって、元々あなたのすべては備えられているのです。だから、私たちは神の計画を選択する必要があります。どんなときにも、希望を失ってはいけません。神の中にすべてがあります。既に用意された物を受け取る特権があります。それは悪いものではなく、すべて「良いもの」であると教えています。良い行いがあらかじめ備えられています。

 さて、「良い行い」とは何でしょうか。「良い行いを五つあげてください」と言われたら、何と答えるでしょうか。理科のテストで先生が、「氷が溶けると何になるでしょうか」という問題を出しました。多くの生徒が「氷が溶けると水になる」と答えました。しかしある子どもが、「氷が溶けると春になる」と答えました。
 良い行いとは、色々な答えがあると思います。電車に乗ったら老人に席を譲るとか、挨拶をするとか、両親の肩をもむとか、親孝行をするとか、良い行いは一般的にたくさんあります。そのようなことを実行するのは大切です。しかし世の中の道徳規準は曖昧です。何が良いことで、何が悪いかという基準は毎年変わります。だから混乱があります。
 私たちが中学生の時には、長髪禁止でしたが、私は反発して長髪を貫きました。先生が来て、「丸刈りにしろ!」と言うのですが、「俺の頭の形はメチャクチャ悪いから…」と言っていました。それで私には、不良のレッテルが貼られました。しかし今の中学生は皆長髪です。価値観が変わりました。私たちが高校生の頃、学校に帽子をかぶって行かなければ悪でした。校門で検査され、始末書を書かされました。帽子をかぶっていないと不良と見なされました。今帽子をかぶっている高校生を見たことがありません。どんどん価値観が変わっています。私たちは、何に基礎を置いたら良いのかわかりません。しかし教会に来ていたらどうでしょうか。聖書の御言葉を知っていたら、良いことが何であるかはっきりとわかります。ですから、新しい地に行かれる方がいるかも知れませんが、どこに行っても教会に行くことを忘れてはいけません。日曜日に寝ているのではなく、ちょっと頑張って、早めに起きて教会に行くだけで人生は安定します。教会に来るのは一週間の内で二時間位なので、一週間、一六八時間のうちの一部です。これをキープするかどうかで、人生が変わります。教会に来るのは大変だと思うかも知れませんが、後が楽です。教会に来ないとちょっぴり楽ですが、後が辛いです。どちらが良いでしょうか?ちょっぴり楽で、後が辛いのと、ちょっぴり大変で後が楽なのと、どちらが良いですか。今日は雨で礼拝に来るのに、ちょっぴり大変であったかも知れませんが、後が良いのでその方が良いのではないでしょうか。教会に行き続けることは、良いことの基準を知る意味で大切です。
 十戒を読むと、「良いこと」の基準が書かれています。出エジプト記二十章に記されています。私は、小さな頃から何回も十戒を聞かされました。「モーセがもう少し神様と交渉して、数を減らしてくれたらよかったのに」と考えていました。しかしそれは大切なものであり、神様が私たちに与えたものです。子どもの時代から教会に来ていると、知らないうちに心に響いています。
 私はいつも父親の話を聞いて、「長いなあ」と思っていました。だから私は、そのように思われても何も思いません。昔の付けが回ってきたと思うくらいです。長いと思いながらも、善悪の基準が心に入っていました。善悪の基準は聖書に、永遠に変わらないものがあります。よく聖書をお読み下さい。
 しかし良い行いが何かについて、突き詰めていくと、「イエス様と同じように歩む」という一言に尽きます。クリスチャンとは、「キリストに似た者」という意味があります。風貌ではなく、その生き様がキリストに似ているということで、「クリスチャン」という呼び名がつきました。私たちが、イエス様のように生きることは大切です。そして、イエス様の良いわざについて、よく知るべきです。
 使徒十章三十七節から三十八節に、

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

とあります。聖書の読み方として、使徒十章三十七節と三十七節を読みましたが、その横に番号が振ってあり、関連箇所が記されています。そのような所も参照して読むと面白いです。三十八節の「良いわざ」という所に、「4」と数字が付してあり、下の注の欄を見ると、「マタイ四章二十三節」となっています。マタイの福音書四章二十三節から二十五節に、

『イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。』

とあります。イエス様の良いわざについて、ここに紹介されています。その関連性の中で使徒の働き十章三十七節から三十八節が語られています。

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 「また」という言葉を、「すなわち」と訳すことが出来ますので、そうすると意味がよくわかります。それは前の文章を受けている接続詞です。

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、(すなわち)悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 イエス様が行われた良いわざとは、「悪魔に制せられている者をいやす」ということでした。イエス様は、人間の元々の姿を代表した存在でした。神よりいくらか劣る存在であり、蛇どもを支配できる存在でした。人間の良いわざの究極的な働きは、道徳的な生き方以上に、「悪魔に制せられているものをいやす」事にあります。
 私たちの教会の使命は、人々をサタンの支配から神の支配下に移すことであり、結果的に悪魔に制せられている人たちをいやす働きです。それは「霊的戦い」です。「良いわざとは、霊的戦いにある」と言うことを聖書から知ることができます。
 世界中は悪魔・悪霊に支配され、悲惨なことがたくさん起こっています。しかし私たちが誰かに福音を伝えることは、サタンの支配からの解放ですので「良いわざ」となります。
 イエス様は「巡り歩いた」とあります。イエス様は足を使われ方です。私たちも、足を使う必要があります。誰かのために犠牲を払って伝道したり、相談にのったり、またいやしの働きをしたり、足を使うのです。これは良い働きをしていることです。
 一九九二年以降、「とりなしの祈り」について教えられ、色々な地域に出て行って巡り歩いて祈る働きが、神様から教えられ続けられています。これは正に、「良い働き」です。皆様も、新しい環境に入られましたら、まず最初に何をしたら良いのでしょうか。まずは、「地域を巡って」祈らなければなりません。人間は、住む地域の影響下に置かれます。その町で色々な事件が起こり、その町で良い影響も、悪い影響も受けます。まずは、巡り歩いて良いわざ、町をとりなして祈らなければなりません。新しい環境に入られた方がおられるならば、その周りを巡り歩いて祈って下さい。「この地域に主が訪れてください。この地域を支配している、暗やみの力が破られますように」と祈ってください。それは「良いわざ」です。神の究極的な計画はこれです。それは、巡り歩いて良いわざ、「悪魔に制せられている人をいやすため」の働きです。

 数年まえ、ある教会に行きました。牧師が私を迎えに来てくださいました。そして、「今日は順先生が好きな人を連れてきた」と言いました。
 「どんな人ですか?」と聞くと、駅の太い柱の影に誰かが隠れて、ちらりちらりとこっちを見ているのです。髪型は丸坊主のようでした。しかしよく見ると女性でした。誰とも、コミュニケーションができない人でした。その人がある教会に行くと、「ここはあなたの来るところではない」と言われ、追い出されたそうです。それで、色々な宗教団体に行ったそうです。そして最終的に、私の友人の牧師の所に行きました。その牧師は良い働きについてわかっていました。良い働きとは、そのような霊的問題を持った人たちを受け入れることだとわかっていたので、受け入れました。それで、私を呼んでくれました。だから私の好きな人だと言いました。その夜の集会は素晴らしかったです。そして、その方のために集会後に祈ってあげようと思っていました。しかし何処にも見あたらないのです。そう思っていたら、「あの人はまだいる」と言いました。教会の後ろにある机の下に潜っていたのです。足だけ出ていました。私は家内とそこに行き、引っ張り出しました。
 いつからそうなったのかとを聞くと、彼女は家の中に色々な問題があり、神々に助けを求めて拝むしかないと、色々な偶像を拝んでいたようです。
 ある時、富士山にある新興宗教に行ったとき、霊能者に霊を下ろされたそうです。それから頭がおかしくなったそうです。そのつながりを断ち切って祈ると、背後に働いている悪霊が騒ぎ出しました。色々な偶像礼拝をしていると、たくさんの契約書があるので戦いが長引くことがあります。日本の場合は、悪霊と結んだ契約書が重なるので、根気よくあきらめずに祈る必要があります。祈ると地域が見えてきます。それで、地域に出て行ってとりなして祈りました。私も協力して、何度も彼女のために祈っていました。
 祈りを続けていたら、徐々に良くなりました。普通の生活ができるようになり、仕事もできるようになりました。彼女は変えられて明るくなり、女性らしくなりました。そして「沖縄リバイバルミッション」の時に、わざわざ沖縄まで来られました。しかし彼女は痩せて、暗い顔をしていました。「どうしたの」?と聞くと、「最近体の調子が悪いから病院に行ったら、ガンと言われ半年のいのちと宣告された」と言いました。私はびっくりして祈ってあげました。しかし沖縄は暑いので、疲れて一日で帰ってしまいました。私は「色々な病院で見てもらい、最善の治療をすると良い」と勧めました。彼女は幾つかの大学病院を回りましたが、結果は同じでした。あと半年の宣告を受けていました。しかし、神様は、必ず良くしてくださると信じていました。
 すると、半年が一年になり、二年になり、二年半になりました。そして今年一月に行われた「PPH」に新城教会に来られました。
 彼女は私に、「先生。こんなに元気になりました。たくさんあったガンが消えて良くなりました。しかし、あと一つだけ腸にあります。ここまでイエス様が良くしてくださったので、すべてなくなると信じています」と言われました。
 しかしそれは手術できないと言われました。しかし、私は真剣に悪魔と戦って祈りました。すると彼女は倒れて、蛇のように動いていましたが、悪魔の力が砕かれました。そして、「すっきりした」と言って帰って行かれました。
 三月十九日(日)から二十一日(火)まで「拡大聖会」がありました。そこに、その教会の牧師が来て、その後について教えてくれました。
 その人がPPHで祈りを受け、家に帰ってたら、トイレに行きたくなったそうです。トイレに行くと、ゼリー状の物がたくさん排泄されたそうです。その後、すっきりしたので、病院で見てもらうと、すべて良くなっていたそうです。幾つかの病院に行って見てもらったそうですが、ガンがなくなっていたそうです。どのようなメカニズムかわかりませんが、神様がいやしてくださいました。イエス様は素晴らしいです。
 「巡り歩いて良いわざを成し」とありますが、時々「これ以上我慢できない」と思うような事がありますが、彼女に対して、その教会は真剣に働き続けました。最後に、神の栄光を見ました。
 時々私たちは、良いことをするのに疲れ果ててしまうことがあります。しかし決して疲れることなく、たゆむことなく、良いわざに歩むようにと励ましておられます。

 主があなたのために、良いわざを計画されています。受け取ってください。そんな新年度にさせていただきたいと願います。お祈りします。


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