聖霊の力を求めよう!

2006.4.9(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書11章5節〜13節
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今週も、御言葉を共に学ぶことができて感謝します。
 さて、来週は「復活祭」です。イエスさまが十字架にかかられ、よみがえられたことをお祝いする日です。イエスさまがよみがえられなかったら、私たちの信仰は虚しいものです。イエスさまの墓が今もあるとしたら、イエスさまはただの人です。しかしイエスさまは死んだだけではなく、「三日目によみがえった」という所に、私たちの信仰の重要なポイントがあります。来週はよみがえりのイエスさまを、盛大にお祝いしたいと思います。
 私たちは「イースター」という言葉を、なるべく使わないようにしています。なぜなら、イースターとは、「イオストレ」という「春の女神」のことだからです。それはゲルマン人たちが拝んでいた豊穣神であり、多産の神の名前です。それが復活祭と置き換わっているので、良い意味ではありません。スペイン語は、「パスクワ」と言い、「パスオーバー/過ぎ越の祭り」を意味します。私たちは「復活祭」と呼びます。来週は素晴らしいお祝いですから、ぜひお越し下さい。
 また来週は、ワシントン州ヤキマから、私の親友ジョー先生と一行六名が新城に来てくださいます。ぜひ歓迎して下さい。日本の霊的戦いを体験し、アメリカにおいても霊的戦いが前進するように願っています。素晴らしいことが起こるように祈っています。
 さらに先週は、「リバイバル聖書神学校」が開講しました。二十一名が新しく入学されました。リバイバル聖書神学校には、若い方からお年寄りまで、色々な職業の方がおられ、楽しく学んでいます。興味がありましたら、皆さんも学んでみてください。
 リバイバル聖書神学校には「カフェ」があり、学生たちは休み時間にコーヒーを飲むことができます。今週は、そのカフェが一般オープンします。良い伝道の場所になるように祈ってください。また、十五日には、「ざわめき10」が発売されます。楽しみにしてください。

 さて、今日は「聖霊の力を求めよう!」という主題で学びたいと思います。
 先週学んだように、救いとは、恵みによって与えられるものです。努力や修行によって救われるのではありません。エペソ二章一節から六節に、

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 かつて私たちがイエスさまを知る前は、悪魔の奴隷でした。しかしただ、恵みによって救われたのです。努力して救われたのではなく、一方的な恵みによって救われました。
 日本人は一般的に、努力しなければ救われないと考えています。しかし聖書の世界は、努力による救いではありません。まずは教会に来て、神様について関心を持つことです。関心さえあれば、神様も私たちに関心を持って下さいます。人間は選択できる動物です。イエスさまを選択するならば、イエスさまは私たちに手を差し伸べ、救ってくださいます。そして、「ともによみがえららせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とあるように、天の住人となるのです。
 しかし、どのくらい深く信じたら救われるのか、と考えます。救われる為の最小単位とはどのくらいでしょうか。聖書は、「心で信じて義と認められ、口にて告白して救われる」と告げています。まずは「告白」が大切です。少しでも信じなければ、告白できません。口の告白はとても重要です。あまり理解していなくても、私たちが、「イエスさまを信じます」と告白するだけで、それは天と連動していて、天でのスイッチが入り、私たちは天の住人として変えられます。
 私は「新城教会ニュース」に毎月原稿を寄せています。その最後に、「声に出して祈ってください」と書いています。今月は、

「イエスさま。私のために創造してくださった良いものを感謝します。私はイエスさまを選択します。二〇〇六年度に良い事が起こりますように。悪魔の力を打ち破り、すべての領域をお守り下さい。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」

という祈りの言葉を記しました。「新城教会ニュース」は、毎月、四万三千部ほど配られています。結構、新城の人たちは「新城教会ニュース」に関心を持っています。私はニュースを一号からずっと貯めていたおばあちゃんに出会ったことがあります。教会には来なくても、このニュースを読んでくれている人が多くいます。最後に「声に出して祈ってください」とありますので、中には、告白したことによって救われる人がいると思います。天国に行ったら、「順先生。ありがとうございます。新城教会ニュースで救われ、天国に来ました。」と言う新城人が結構いると信じています。イエスさまから、「あんたはラッキー賞だね!」と言われる人たちが、結構いるかも知れません。

 イエスさまと一緒に十字架にかけられた強盗たちがいました。初め彼らはイエスさまをののしっていました。「お前が神の子なら、十字架から降りて自分を救ってみろ」と言いました。しかしイエスさまの態度は素晴らしかったのです。二人の強盗の内、一人はイエスさまに感動しました。初めは色々と悪口を言っていましたが、途中で心を入れ替えました。そして、「あなたがパラダイスに行くときには、私を覚えてください」と言いました。
 もしも私がイエスさまの立場で、散々ののしってから途中で気が変わった強盗を見たなら、「お前は今まで何を言っていたのだ。舌が渇かないうちに天国に入れてくれとは、何事だ。冗談じゃあない。おまえを地獄のどん底にたたき込んでやる」と言うかも知れません。
 しかしイエスさまは、「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と答えました。彼は何と、死ぬ直前に救われました。一言、「イエスさま。私を救ってください」と言っただけです。それは、恵みによる救いです。イエスさまの名前を告白することは、とても重要です。自分の口でイエスさまを主と告白して、その結果として、永遠のいのちを受け取るのです。
 私たちの人生は、この地上で終わりではありません。一般的な言い方ならば、「あの世」があります。仏教では、葬式で極楽に入れたのかと思うと、三日、七日があり、四十九日が来ます。「拝んであげなければ、行くところに行けない」というのです。それで一生懸命拝みますが、いつになったら極楽に入れるのかわかりません。
 しかし、イエスさまを信じたら、即、天国に入ることができるのです。イエスさまを信じると、「生と死」について、しっかりと解決できます。この地上のいのちが終っても、心配ありません。連続しているのです。
 そもそも、教会とは都合の良い場所です。先日は、ここで結婚式がありました。しかし、その二日前程には、同じこの場所で葬式がありました。一般的に、葬式をする場所で結婚式をしているのを見たことはありません。「斎場で結婚式をしますので、来てください」言われたらどうしますか。はっきり言って、みんな引くと思います。しかし教会では、何度も葬式があり、棺桶が講壇に置かれていました。そして、同じ場所で結婚式をするのです。けれども、教会ならば気味が悪いことはありません。教会のお葬式は花がたくさんあって綺麗です。
 私の息子が去年、結婚しました。ブーケを注文しておきました。しかし結婚式の三十分前になっても、ブーケが届きませんでした。しかしその数日前、葬式があって花が残っていたので急遽、その花でブーケを作ってもらいました。ブーケを届けるのを忘れた業者は謝りに来て、すべてをタダにしてくれました。普通ならば、人生の門出に縁起が悪いと言います。しかし、私たちにとって、そんなことはまったくありません。教会では、生きるも死ぬも、同じ路線上にあり、連続性のあるものです。
 今日は、二人の方がバプテスマを受けられます。バプテスマとは、クリスチャンとしてやっていこうという、決意の日でもあります。ぜひ、祝ってあげてください。救いは努力ではなく、与えられるものです。

 そして、救いに続く「次の段階」があります。それは、主とともに生きること、特に、「聖霊に満たされて生きる」ことです。そして、聖霊に満たされる為には、「求める」という、ひたむきさが必要です。ルカ十一章九節に、

『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

とあります。聖霊に満たされるためには、「求める」、「捜す」、「叩く」という、「自らの行動が必要」と教えています。一度しかない信仰生活、一度しかない人生です。聖霊に満たされて歩みたいものです。聖霊に満たされるならば、良い行いに歩むことができ、また、神の計画の中に生きることができます。聖霊の力は、聖霊の力を借りてより良い生活をしようというのではなく、他者のためです。ルカ十一章五節に、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。』友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。』

とあります。これは例えれば、夜中に皆さんの家に友人が尋ねてきたという設定です。
 「すまないけれど、今晩、泊めてくれない?」と友達が尋ねてきたらどうでしょうか。そもそも、泊めてあげること自体に躊躇すると思います。
 さらに、この友人は結構、図々しいです。泊めてもらうだけで我慢すれば良いのに、「お腹が空いた」というのです。私なら、「明日の朝まで我慢して」と言います。
 しかしこの主人はとても人が良く、わがままを聞き、夜中に隣の家の違う友人の所に出て行って、パンを借りることにしました。それはかなりの犠牲が伴うことです。人間関係も損なってしまう危険性もある行為です。それでも、おなかをすかせた友人のために、パンを求めて、捜して、叩く、というひたむきな行動をとったのです。「貸してくれ」と言うのですから、後で借りたパンを返さなければならないのです。

 このストーリーは「聖霊に満たされる」為の説明として使われています。聖霊に満たされる目的は、自分のためではなく、「他者の幸せのため」なのです。もちろん本人にも力が下りますが、結果は、他者の祝福につながっています。「受けるよりも与えるほうが幸いだ」と聖書は語っています。それは、誰かの祝福のために使われるものです。日本の救い、リバイバルのために、聖霊の力を真剣に求める必要があります。
 私は牧師の息子に生まれました。牧師の息子は、結構冷ややかな場合が多いのです。好んで生まれたわけではありません。私は初め、「変なところに生まれてしまった」と思いました。しかし、小さな頃からイエスさまについて聞いていたので、天国には行きたいと思っていました。死ぬ寸前に、イエスさまを信じて、天国に行ければ良いと思っていました。よりによって、牧師の息子でなくても良かったのにと思っていました。牧師の仕事とは、社会に出て行き、色々な問題と出会います。問題廃品回収業のような働きです。他人の問題が家の中に入ってくるのです。私は七人兄弟でしたが、両親が子どもたちを後回しにして、色々な問題に関わっている姿を見ていました。
 私は、「もっと内側を見てくれないか。七人も難民のような子どもたちがいるのに…」と思っていました。だから私は、クリスチャンにはなりましたが、心は冷たい男でした。私は絶対に牧師にはならないと思っていました。しかしこんな私にも、主は触れて下さいました。牧師の息子がクリスチャンで、尚かつ、牧師をしていたら、「キリスト教は本物だ」と信じてもさしつかえありません。嘘ならば、牧師などやっていません。私は教会の中で生きて、イエスさま以外に救いはないことがわかりました。だから今牧師をしてます。八百万の神々の中で、イエスさま以外に救いはありません。私は皆様に、牧師の息子として保証します。

 一九九二年二月十三日、私たちは真剣に聖霊を求めて祈っていました。案外、私たちが聖霊を求めるときは、良いときではなく、困難な時です。私たちが祈りたいと思うときは、問題がある時です。問題があるときは辛い時期でもありますが、それはチャンスの時でもあります。その時にこそ、求めて下さい。聖霊は私たちの助け主ですから、私たちの所に来て私たちを変えてくださいます。私たちが求め、祈ったときに、祈りの中で神の霊が注がれる体験をしました。祈っていた人たち一同に聖霊が注がれました。そして、教会に不思議としるしが始まりました。
 その日から、神が霊的戦いの武器や賜物を開いてくださいました。私の家内も私と結婚するくらいですので、冷ややかでした。私が家内にプロポーズした時の言葉の一つは、「俺は牧師にならないから、結婚してくれ」と言いました。「それなら良い」と答えてくれました。しかし、家内にも聖霊は触れてくださり、彼女もホットになりました。
 その時主は、家内に預言の言葉を下さいました。神の声を聞いたというのです。私はそんな体験はありませんが、家内ははっきりと主の声を聞いたそうです。それは、「あなたの夫、滝元順は将来神に用いられ、色々な教会から招かれて、奉仕するようになる」という言葉でした。
 家内は神の声を聞いて興奮したそうです。なぜならば、自分の主人が駄目男でしたから、考えもしない言葉を聞いて喜んだのです。それで、すぐに私の両親の所に行き、「お父さん、お母さん。すごい言葉を神様から聞きました。私の主人が将来、色々な教会で用いられるようになると主が語ってくれました。」と告げたそうです。
 すると私の両親は、「そうか、良かったなあ!」とは答えませんでした。なんと答えたと思いますか?
 「それだけはあり得ない!」と答えたそうです。家内は少し気を落としたようでした。私の両親が喜んでくれると思ったら、「それはあり得ない」という一言でした。両親はそのことに関して話し合ったようです。「いくら神様だって、あの順がよその教会に招かれてメッセージするなんて、信じられない」
 先日、私が外部での奉仕を終えて帰ってくると、母が私の家に来て、「話がある」というのです。何かと思ったら、「いやぁ、享子さん。あの言葉は本当だったねぇ。私はあんたから聞いたときに、それだけはあり得ないと思っていたけど、神様は生きているねぇ。素晴らしい!」と言いに来ました。人は変えられます。私のような者さえも変えられたのですから、あなたは絶対に変えられます。

 今朝、司会をした岡本信弘先生も変えられました。聖霊が注がれたときに、彼はちょっと出遅れていました。私が、「聖霊に満たされた!」と話したら、「そんなことは俺には信じられない」と言いました。私は、新幹線の中でその言葉を聞きました。
 しかしその二日後、プレイズ出版の事務所に行くと、彼は涙を流して祈っていました。誰かが亡くなったのかと思いました。しかしそれは、聖霊様に触れられ主の前に涙を流して祈っている信弘先生の姿でした。甲子園ミッションのニュース誌の表紙に、彼が激しく祈っている姿の写真が掲載されました。
 私たちの若い頃は、いつも教会に住んでいました。日曜日の目覚めは、礼拝の賛美でした。賛美が始まってから、教会のバルコニーから起きてきました。寝ながらズボンをはいて何気なく礼拝に出て行く日課でした。夜中に顔に落書きし合っていました。鏡を見ずに礼拝に出て行くので、顔に落書きされていてもわかりません。眼鏡を書いたり、ひげを書いていました。自分の顔に書かれているとも知らずに、顔も洗わず礼拝に出かけていきました。そんな者たちが神の霊に触れられて、変えられました。そのために必要なのは、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

 求める祈りが必要です。また、聖霊に満たされると、素晴らしい祝福が伴っていることも教えています。

 第一に、聖霊は私たちを正しい道に導きます。ヨハネ第二章二十七節に、

『あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』

 ここに「油」とありますが、それは「聖霊ご自身」のことです。油が注がれるときに、「あなたがたは誰にも教えてもらう必要がない」とあります。
 私たちが教会に来ている時間は、一週間の内、ごくわずかです。毎日忙しく職場で働いています。そのような中、色々な判断をしなくてはなりません。クリスチャンとして、どのような判断が良いのかと葛藤します。しかし、聖霊の油はすべてのことを教えるとあります。私たちが持っている信仰の基礎が、初代教会で全て形成されました。情報がない時代に今の信仰の基礎が形成されました。変な方に曲がっていかず、しっかりと定められたのは聖霊の注ぎがあり、聖霊自らが初代教会に教えたからです。その法則は、昔も今も変わりません。聖霊に満たされるときに、聖霊はあなたに教えてくださり、あなたを正しい道に導いてくださいます。これが聖霊の働きの一つです。
 またルカの福音書一章三十五節から四十一節に、

『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。』

 これはイエスさまがお生まれになる前の、マリヤとエリサベツのストーリーです。カトリック教会に行くと、マリヤがあたかも神であるかのように拝まれています。しかしマリヤという女性は「普通の女性」でした。ただ、彼女に聖霊が降り、神の子を宿し、生み出すという道具として使われました。カトリックでは、マリヤがイエスさまを生んだので、神と同じポジションだと言っています。イエスさまは、処女マリヤから生まれたと言いますが、それは聖霊によることでした。処女が妊娠したと言うことですが、もしもマリヤの卵子を使ってイエスさまが生まれたのなら、それでは罪を受け継いだ「普通の人」になってしまいます。しかし聖書は、「聖霊によって」宿られたことを教えています。マリヤの遺伝子は何も関係ありません。ただ、道具として使われたのです。
 カトリック教会では、マリヤが拝まれています。イエスさまの名前以外の祈りを、聖書は堅く禁じていますので、マリヤの名前で祈るならば、その祈りは悪霊に届いてしまいます。ですから、マリヤの名前で祈ってはいけません。カトリックでは、イエスさまは常に十字架についており、復活のイエスさまではありません。もしもイエスさまがよみがえられなかったら、何の価値もありません。また、赤ちゃんのイエスさまから成長がないのです。ちょっと踏んだら死んでしまいそうなイエスさまです。それでは、何の意味もありません。イエスさまはよみがえられたゆえに、神としての権威をお持ちなのです。私たちは、よみがえりのイエスさまと出会うのです。
 マリヤとエリサベツのストーリーは、マリヤは聖霊に満たされていました。一章四十一節に、

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。』

とあります。マリヤは聖霊に満たされ、挨拶をしただけで、エリサベツが聖霊に満たされたとあります。これは他者の祝福です。そして、胎内の子どもも踊ったとあります。胎内の子どもも、聖霊に満たされたのです。
 今、子育てが難しい時代です。子育てにはいろいろな「ハウツー」があり、どうやって子どもを育てたら良いのか、難しい面があります。しかしその秘訣は、「聖霊に満たされること」です。特に、両親が聖霊に満たされていたら、子どもに伝染し、その力が流れていくのです。イエスさまもヨハネも、神の御心の中心を歩んだように、聖霊に満たされた両親の子どもの将来は、聖霊の導きの中を歩むのです。子育てを難しいと思わないで、ご両親は聖霊を求めて下さい。
 子どもたちが今、礼拝に出ていますが、礼拝に出ている内に聖霊に触れていただくことができます。またクリスチャンホームの子どもたちは、祈りの中で生まれた子どもたちなので、皆守られています。何も問題がないと言うことはありませんが、子どもたちのほとんどが信仰から外れないで成長している姿を見ています。嬉しい事です。
 日本教会の一つの問題は、クリスチャンホームの子どもが、小さな頃は教会に行きますが、教会から足が遠のき来なくなることです。そのような問題が多いのですが、私たちの周りの子どもたちには、そのような問題がありません。皆、小さな頃から教会に来て、ずっと育って教会で結婚する姿を見ています。これは聖霊の注ぎです。聖霊の注ぎがあれば、子どもたちは守られます。ですから、両親が聖霊の力を求め、探し、叩くならば子どもたちは守られます。
 私も今このようにあることは、ただ一つ、両親が真剣に祈ってくれたからだと思います。「順が曲がった道に行きませんように、助けてください!」と、時々、私を説得するかのように、薄い壁の向こうで大声で祈っていたのを聞いたことがあります。両親が聖霊の満たしを求めていた結果、守られました。毎日の祈りの中で、常に「聖霊に満たしてください」と求めることが大切です。

 また聖霊の油注ぎは、「あらゆる危険からあなたを守る」とあります。第一歴代誌十六章十九節から二十二節に、

『 「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

とあります。この言葉は、クリスチャンにとって素晴らしい言葉です。しかしある伝道師は、このみことばを間違えて使います。「私は油注がれているから…私に触れると大変なことになるぞ」と言います。それは間違いです。これは、イスラエルの民に対しての神の祝福の言葉です。イスラエルの人たちがエジプトから脱出したとき、他の国から見ると少数派で、何もない砂漠の民でした。周りのカナンの国々は、イスラエルを狙っていました。なぜならば、彼らはカナンに四百年振りに戻ろうとしていたからです。彼らは、その前に根絶やしにしようと攻撃しました。しかし四十年間の旅路の中で、内部の問題で崩壊した部分はありましたが、外部からは攻撃を受け滅ぼされることはありませんでした。なぜならば、神が神の民であるイスラエルを横において敵に宣言されたからです。

 『「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

 これは、同時に、クリスチャンに対する言葉です。主を信じる者たちを横に置いて、神は悪魔どもに宣言されます。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」
 神は私たちを、あらゆる危険から守ってくださいます。
 今週、第一歴代誌十六章十九節から二十二節を祈りの中に取り入れてください。この御言葉を敵に対して宣言してください。

 またイザヤ書十章二十七節に、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」』

とあります。「ニュー・キング・ジェームス・バージョン」では、『 the yoke will be destroyed because of the anointing oil.』となっています。「くびきは油注ぎのゆえに砕かれる」となっています。
 皆さんにとってくびきとは何でしょうか。くびきとは、二頭の牛を橋渡しをする道具です。くびきにつながれていることにより、いつも二頭が一緒に行動しなくてはなりません。しかしそれが取り除かれることによって、自由に動くことができます。
 ある意味で、人生にはくびきが来ます。ある人は常に、経済的問題というくびきがあります。またある人は、家庭問題というくびき、またある家には病、それらは「くびき」です。悪魔は私たちに、何らかの問題と一体化させようと、くびきをかけます。このくびきを砕くためには、油注ぎが必要です。私は油注ぎによって、くびきが壊されるのを多く見てきました。
 牧師が最初に出会う人たちは悲惨な人たちです。悲しみ、苦しみ、問題を持っている方が多いのです。しかし私たちは、その人に聖霊の油が注がれるように祈ります。聖霊の油が注がれるときに、その人が解放され自由になります。ビフォー&アフターです。できないことができるようになるのです。
 今日の主題はルカ十一章一節から五節続きです。

『さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。』

 「主の祈り」は、聖霊に満たされる秘訣について教えています。礼拝に来て、主の祈りを題目のように唱えているかも知れませんが、実はとても重要な祈りです。マタイ六章九節から十六節にも記されています。

天にまします 我らの父よ
ねがわくは御名をあがめさせたまえ
御国をきたらせたまえ
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかすものを、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン 

 この祈りを原文で見ると、「命令形」になっています。「御国よ来たれ!」「みこころよなれ!」という、強い表現です。この地上に御国が現されるとは、言い換えるなら、聖霊の力が注がれることです。私たちは主の祈りを何気なく祈っていますが、それは「聖霊に満たしてください」という叫びの祈りなのです。主の祈りも、カトリック的要素により、伝統的にソフトになっていますが、ギリシャ語の原文では命令形であり、とても強い語調です。地を踏みしめて「御国よ来たれ。みこころよなされよ!」という激しい祈りです。そのような祈りを、イエスは教えられました。
 日々の生活の中で、「御国が来ますように」と祈ることは、聖霊の力で満たされるようにという祈りです。それも、自分のためではなく、誰かの祝福のために三つのパンを真剣に求めるのです。三つのパンを借りるとは、「求め、探し、叩く」と言うところにつながっているのです。今週、皆さんの祈りがただ求める祈りだけではなく、捜す祈りだけではなく、叩く祈りをしてください。ぜひルカ十一章をお読み下さい。聖霊の注ぎが、最終的には「霊的戦いの力」につながっているのを見ることができます。
 「良いわざ」とは、「悪魔に制せられている人たちを癒す働き」と先週学びましたが、戦いのために、聖霊の力はどうしてもなくてはならないのです。

 今週も、聖霊の力に満たされて歩むことができるように、お祈りしたいと思います。


[バックナンバー]