悲しみの代わりに、喜びの油を
復活祭メッセージ

2006.4.16(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 イザヤ書61章1節〜3節
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

 ハレルヤ!復活祭おめでとうございます。ユースクワイヤーの賛美は素晴らしかったですね。私も踊りたくなるような気持ちになりました。

 先日、夜、外がうるさいので何かと思って見てみると、四人の若者たちが踊りの練習をしていました。真夜中まで訓練を積んでいるようでしたが、それは今日のためでした。神の前で全身全霊で踊ることは、素晴らしいことです。また、幼い頃から賛美して主と共に歩む人生には、すばらしいことが起こると信じています。

 この礼拝が始まる前に、「召天者記念会」が行われました。かつて私たちと一緒に礼拝を守っていた、既に天に帰って行かれた方々を思い出し、「主を」礼拝する集まりでした。先日、納骨堂に行ってその数を数えると、四十五名の方々がすでに天に帰って行かれました。今朝は、ご遺族が集まっての記念会でしたが、とても感動的でした。現代は映像技術が発達し、四十五名の方々の写真を見る時間があり、胸に迫るものがありました。

 私たちの人生は長くても百年ほどです。しかし短い方もおられるかも知れません。しかし永遠と比べたら、それはあまり差はないのかも知れません。

 先週私は久しぶりに、父の実家に行きました。父の実家に住んでいた父の兄は、十年ほど前に亡くなり、それからあまり父の実家に行く機会がありませんでした。父の兄の奥さんに当たる人は、九十三才になっていました。まだクリスチャンではないので、伝道しなくてはいけないと思い出かけていきました。行ってみると、「あら、順ちゃん。大きくなったわねぇ。何十年ぶりかねぇ。あんたとは…」と言われました。頭がシャープで、津具村にも「新城教会ニュース」が入っているので、「先日あんたの写真を見たよ。あんたのことを思っていたところだった。」と言われました。とても懐かしく思いました。私はおばさんと家族のためにお祈りをしました。人生は一瞬です。おばさんの脳裏には、私の小さな頃の姿しかないようです。人生は早く進みます。やがてこの地上から去っていかなければなりません。ある意味で淋しいことです。

 今週の『リバイバル新聞』に、このような記事が載っていました。「教会に行くと長生きする。アメリカ・ピッツバーグ大学研究報告書」

 「寿命を延ばす方法には運動と食生活管理などがあるが、今回毎週教会に行けばより長く生きられるという研究結果が出た。アメリカピッツバーグ大学メディカルセンターが三日に発表した研究報告書には、期待寿命が具体的に何年ほど延びるかに注目したもの。定期的な宗教活動の場合、一・八年から三・一年の寿命延長効果があるとということだ。」

 私たちは教会に来ることによって、三年は得しています。教会に来るのは毎週二時間ほどですが、それで三年の延命効果ならば、損はないと思います。教会に来ているとストレスがなくなります。しかし一般的に日本における宗教活動というと、仏教です。仏教の宗教活動は、寿命が縮まりそうです。しかし教会に来るならば、健康になります。

 イザヤ書六十一章三節に、

『シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

 イザヤ書六十一章は、イエス様の生涯を預言した箇所です。一節から二節は、イエス様の地上での活動についての言及であり、三節はイエス・キリストを信じる者たちへの特権について教えています。イエス様を信じるなら、「悲しむ者を慰め、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套をつけてくださる。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」とあります。

 植木や盆栽が好きな方がいると思います。私の父はそれが好きです。植木の好きな人は、一本の木を心から手入れします。興味がないと関心がないのですが、関心があると、虫が付かないように枯れないように手入れします。

 「私たちは主の植木」とありますので、主が、メンテナンスしてくださいます。イエス・キリストを信じることは、イエス様と永遠のメンテナンス契約を結ぶようなものです。それは素晴らしい特権です。

 ここでは、「悲しんでいる人には慰めがある」と教えています。さらに、「灰の代わりに頭の飾りを」と書かれています。

 「灰」とは、最大限の悲しみを表す行為を意味します。かつてイスラエルでは、灰をかぶることが最大限の悲しみの表現でした。しかし、頭の飾りとは、オリンピックなどで優勝すると冠をかぶりますが、それは勝利のしるしです。最高に悲しんでいる人が、最高の勝利者となるのです。

 また、「悲しみの代わりに喜びの油」をくださるとあります。「憂いの代わりに賛美の外套を着せてくださる」とあります。

 昨日、『Zawameki10』が発売されました。それは賛美の外套です。賛美を歌うと、心が明るくなります。心が暗いと歌を口ずさむことができません。私の娘はよく風呂に入りながら歌っています。イエス様を信じると、心に喜びがあり歌が生まれます。一言で言うと、喜びを与えるのがイエス様の役目です。

 今日は復活祭です。英語では、「イースター」と言います。しかし私たちはイースターという言葉を、なるべく使わないようにしています。なぜならば、「イースター」とは、「ゲルマンの豊穣神」のことで、あまり良い意味ではないからです。日本で言うならば、「天照」が「復活祭」という意味に変わったようなものです。復活祭とは、イエス様がよみがえられたお祝いの日です。イエス様がよみがえられた瞬間を、レポートした記事がマタイ二十八章五節から八節にあります。

『すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。』

 イエス様が亡くなって三日後に、イエス様の側近であった女性たちは、体に香油を塗りたいと願いました。それはユダヤの習慣でした。しかしイエス様の遺体が盗まれてはいけないということで、墓はローマ兵によって封印され、番兵までついていました。「どうやって墓の蓋を開けたら良いだろうか・・・」と思案しながら彼女たちは墓に近づいていきました。墓に着いてみると、何と、墓の入り口が開いていました。そして中には天使がいました。

 天使たちはクリスチャンを助ける係です。私たちがイエス様を信じると、今まで暗やみの軍勢に囲まれていたのが、それが打ち破られ、天の軍勢が取り囲むようになります。今日、確実に言えることは、私たちの周りを天使たちが守っていると言うことです。イエス様の命令によって、天使たちはクリスチャンを助けるために遣わされています。私はそれを信じています。

 この時、女性たちにその存在が見えました。天使たちは、イエス様がよみがえられたことを、女性たちに伝えました。墓の中を覗いてみると、何と、イエスさまの遺体はありませんでした。彼女たちは驚き恐れました。しかし、「恐ろしくはあったが、大喜びだった」と記されています。

 皆さんの周りでよく知っていた人、愛していた人で既に亡くなった人がいるかも知れません。亡くなった人が、生き返って現れたらどうでしょうか。きっと驚くと思います。お化けかと思うかも知れませんが、よみがえった人と出会ったならば、そんな大きな喜びはないと思います。聖書は、そのことを告げています。私たちは地上で別れるようなことがあるかも知れませんが、やがて別れた友達や家族ともう一度再会すると教えています。イエス様がよみがえられたとき、恐ろしくても大喜びであったというのは、ある意味、最も大きな喜びは、死んだ人が生き返るという、地上ではあり得ない体験の中にあると言えます。そんなことがあったとしたら、今まで体験したことのないほどの、大きな喜びであると思います。

 聖書の告げている神が与える喜びは、「死んだ人が生き返る程の喜びをあげます」ということです。第一コリント十五章十三節から二十節に、

『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』

 ここでは、何度も繰り返して、「もしもイエス様がよみがえられなければ…」とあります。もしもイエス様のよみがえりが事実でなければ、クリスチャンほど惨めな人はいないと語っています。もしも、「イエスさまがよみがえった!」と、初代のクリスチャンたちが嘘をついたならば、私たちは偽りを信じていることになり、そんなことに希望を置いていても何の意味もないのです。

 今日、大勢の方が集まってくださいました。この礼拝の最中に、皆さんの為に特別なパーティが用意されています。新城教会のキッチンスタッフたち三十名ほどが、食事を準備しています。しかし、教会がいくら皆さんに楽しいイベントを提供したとしても、イエス様がよみがえったことが嘘ならば、そんなばかげたことはありません。イエス様に希望を置いても、何の意味もありません。それは一番哀れなものだと語っています。

 イエス様は、今から二千年前に実在された人物ですが、死んでそのまま墓があったとしたら、イエス様に祈っても、それは仏教と同じ死者礼拝です。先祖崇拝と何ら変わりはありません。教会で、先祖崇拝はいけないと言いながら、イエス様の墓があったとしたら、先祖崇拝と変わりません。しかし、よみがえられたことが事実ならば、それは大きな希望です。聖書の記述はよみがえりの現場にいた人たちが記している言葉です。それは信憑性の高いことであり、真実です。イエス様はよみがえられたお方であり、今も生きておられるお方です。ゆえに私たちクリスチャンは、死を恐れることがありません。肉体的に死んだとしても、瞬間的に神の管理下に入り、永遠のいのちに生きるのです。そして、やがて私たちは新しい体に復活できるのです。復活とは、私たちの理解には及ばないことです。

 時々、キリスト教は墓を粗末にする、遺骨を粗末にすると誤解している人がいます。キリスト教は骨をどこかに流してしまうのではと言われる人がいますが、そんなことはありません。骨はちゃんと管理しています。拝みませんが、しっかりと管理します。なぜ管理するのかというと、よみがえりを信じているからです。現代科学は、ある意味、よみがえりを証明しています。

 北朝鮮から横田めぐみさんと称する遺骨が返されました。しかし日本はそれを信用しませんでした。DNA鑑定をしました。先週は、横田めぐみさんのご主人が特定されました。北朝鮮のどこにいるのかわからないのに、人物が特定されました。それはDNA鑑定によることです。髪の毛や唾液などのサンプルの中に細胞が含まれており、それを分析すると誰であるかを特定できるのです。北朝鮮から送られてきた骨を日本は鑑定して、横田めぐみさんのものではないと言って返しました。ということは、骨に残されていた細胞に、その人の設計図が含まれているからです。今の時代はそんなことがわかるようになりました。そもそも、人はお母さんのお腹の中に宿ると、細胞分裂を繰り返して大きくなります。その細胞の中に、その人の一生の情報が入っています。それをコピーしていくのです。そして一つの体が組み立てられていくのです。だから一つの細胞があれば、その人の全容を知ることができるというのです。ということは、神がその人を作った証拠としての設計図が枯れた骨の中にも残っているのです。

 この会堂ができて二十六年が経ちます。この建物は新城市が東海沖地震の特別地域に指定された年に建てられました。ですから、建物の鉄筋量がたいへん多いです。けれども、仮にこの会堂が倒れたとしても、全く同じものを再現することができます。なぜなら、新城教会の倉庫に、会堂の図面が残っているからです。だからいくら壊れても、もう一度その図面を建築会社に持って行けば、そっくりなものが作れます。けれども、もしも二回目に作る時には、そっくりなものよりも、バージョンアップした建物を作ることでしょう。この会堂の入り口やドアの高さは低いです。背が高い人は通るのが大変かも知れません。この家がもしも倒れて、もう一度同じ図面で建てるとしたら、今の規格に合わせて、ドアの寸法はもっと高く、色々な面で近代的に作ると思います。元の図面を基に、新しい規格に合わせて素晴らしいものに作り上げることでしょう。

 同様に、私たちはこの地上にDNAを置いています。やがて神がそこに聖霊の力を注いで、復活の時には、バージョンアップした体ができて、永遠に朽ちない体が出現するのでしょう。現代科学と照らし合わせてみても、神が私たちを復活させてくださると信じることが出来ます。永遠の人生があり、失った体も、よみがえらせてくださるというのは、冗談ではなく本当です。

 それを証明するために、イエス様はよみがえってくださったのです。そして死からのよみがえりは、究極的な喜びであり、また究極的な再会です。死んだ人たちと再び会うことができたらすごい喜びです。それほどの、究極的喜びを神は人類に与えてくださるのです。

 「悲しみの代わりに喜びの油」と約束されているのは、究極的にはよみがえりに焦点が当てられており、イエス様のよみがえりに遭遇した女性たちの大喜びに対応していると思います。

 イザヤ書六十一章三節に、『悲しむ者を慰め、灰の代わりに頭の飾りを』とあります。旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、「代わりに」という言葉は灰を「通して」頭の飾りをと訳すことができます。神は最大限の悲しみを通してさえ、喜びの油に変えてくださるということです。

 多くの方が教会に問題を持って来られます。深い悲しみや、人生の中で灰をかぶるような最大限の悲しみを持って、教会に来られる事が多いのです。しかしそれを通してさえ、喜びが与えられます。神は悲しみを、頭の飾りに変えてくださるのです。

 教会に来て、明るいところだと思われるかも知れません。こんなに明るいのは、神が色々な問題を通してさえ、喜びに変えてくださった事実があるに他なりません。

 私はこの数年、恒例化してしまった行事があります。それは授産所から来られている兄姉姉妹との食事会です。彼らがおごってくれるのかと思うと、すべて支払いは私です。おかしな文化が定着してしまいました。なぜなら、私は数年前に彼らにお祝い会をしてあげたからです。

 H君という一緒に入所している青年がある日、病気になり新城市民病院に入院しました。高熱が出ていました。やがて彼は豊橋市民病院に転院しました。新城から豊橋の病院に移るときは良からぬことが多いので心配しました。しばらくすると、病名がわかりました。血液が白くなると書く病気でした。命もどのくらい持つかわからないと言われました。そのことが彼らの入所している授産所で発表されました。それを聞いた仲間たちは号泣し、望みを失いました。

 私たちも望みを失うことがありますが、そんな時にも天は開いているので祈ることができます。クリスチャンの仲間が集まって祈りました。「どうか、彼をいやしてください。」

 私は豊橋の病院に見舞いに行きました。面会謝絶と表示されていました。しかし私が教会の牧師であるというと、病室に入れてくれました。私は牧師で良かったと思いました。寺の僧侶なら、「まだ坊さんが来るのは早すぎる」と言われ断られたかも知れません。

 中にはいると、お父さんが暗い顔をしていました。お父さんは私に言いました。「俺はこいつを最後まで看取ってやりたい」

 私は彼に手を置いて祈ろうとしました。すると彼はうわごとのように、「黒い者が来る。また来た、また来た…」とわめいていました。私は彼に手を置いて祈ろうとすると、手を置いただけで暴れました。これは怪しいと思いました。もちろん医学的な理由もありますが、霊的な理由もあると思って祈りました。そこで私は戦いの祈りをしました。彼を殺そうとしている悪しき力が打ち破られるように祈りました。彼はいまでも、祈られたのを覚えていないそうですが、奇跡が起こりました。その後も皆で祈っていると、彼の血液が奇跡的に正常になり、いやされました。それが五年ほど前のことです。施設では彼は再び帰ってこないと言ったのが、帰ってきました。皆、拍手して彼を迎え、涙を流して喜びました。私も嬉しかったです。無くしたものを捜し当てたようなものですから、お祝い会を開催することにしました。「何でもおごってあげるから食べよう!」と言いました。すると、彼らが焼き肉に連れて行けと言うのです。病み上がりで大丈夫かとは思いましたが、焼き肉屋に行きました。彼らはどんどん追加注文していきます。私は少し不安になりました。しかしクレジットカードを持っていたので、支払いができました。何と、その日の会計は、三万円でした。三万円も彼らに食われました。しかし私はとても嬉しかったです。三万円だろうが、十万円だろうが、いやされたのでいくらでもおごってやろうと思いました。

 しかし毎年、誰も病気ではないのに、食事会が恒例行事となり、先週はそれがありました。最近は焼き肉のことを話さないようにして、安い店に連れて行きますが、デザートにまで連れて行けと言われます。彼らは満足して帰って行きます。次の週、だいたいお腹を壊したという電話が来ます(今回は大丈夫のようですが)。私はいくらお金がかかっても嬉しいです。死んでいた者がよみがえるような、大きな喜びがあったからです。

 イエス様がよみがえられていなければ、このような奇跡は起こりません。もちろん人生は長い、短いがすべての評価ではありません。ある方は短い人生で天に帰られるかも知れません。しかし神様は時々、そのような奇跡を見せて「よみがえりは本当だ」とこの地上に生きる者たちを励ましてくださいます。だから色々問題があっても、絶望してはいけません。そのような証を聞いたら、励ましを受けて、「イエス様は私のことを忘れていない」と信じてください。

 イエス様は喜びの油を注いでくださいます。授産所に行くと、喜びの油が注がれているといつも思います。彼らは今日、一番前に座っています。T君は今年で授産所生活三十年です。授産所の主のような存在です。私が彼と初めてあったときは、まだ日本の福祉はあまり充実していなかったので、七人部屋でプライバシーもなく、大変なところに住んでいました。彼は少し体が不自由なところもありますし、こんな所に入れられたら長く持たないと思いました。しかし神様は彼に喜びの油を注いで、どんなところでも喜んでいる姿を見ました。そして周りにも、喜びの油を注いでその部屋が楽しくなっている姿を見ました。

 イエス様を信じるときに、どんな環境でも喜びとして歩む力を与えてくださると約束されています。

 エペソ五章十五節から二十節に、

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

 『また、酒によってはいけません。そこには放蕩があるからです。満たされなさい。』とあります。これは興味深い言葉です。酔っぱらいと、聖霊に満たされた人を比較しながら、聖霊に満たされることについて教えています。

 また、「酒によってはいけない、放蕩があるから」と戒めています。酒は人々の生活を壊します。クリスチャンになったら、「酒は飲まない」と決めることは重要です。私はアル中で苦しんでおられる方のためにお祈りしたり、その方々のために働かせていただいた経験があります。アル中は恐いです。アル中患者も、最初は一杯から始まったと思います。しかしやがて止まらなくなり、朝から酒を飲むようになり、人生は壊されます。悲惨な状態です。新城教会にも、そのような方がいましたが、癒されました。日本は酒社会ですが、酒は人生を壊すものなので、飲まないように注意すべきです。また、偶像にささげられている飲み物なので恐ろしいです。誰が言ったか知りませんが、二十歳になると酒、たばこが解禁と言われます。しかし最近では、禁煙が定着してきました。電車も昔は禁煙車両が限定されていましたが、今ではほとんどが禁煙車両です。たばこを吸っていると、肺ガンになるということがわかったので、「健康のために吸い過ぎに注意しましょう」と書かれています。シンガポールの肺ガン予防団体が、こんな灰皿を喫煙家のために用意しています。

この灰皿をもらって吸ったら良いと思います。吸えなくなると思います。「酒やたばこは飲まない」とはっきり決めておくことが大切です。初めはちょっとした喜びがあるかも知れませんが、最後には人々を苦しめ死に追いやる力となります。ここには、『酒によってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい』とあります。

 酔っぱらいは、どんな場所でもそこが喜びの場所となっています。ある人は、道路に寝そべっているのにも関わらず、そこが羽布団のように錯覚しています。またある人は、どぶに落ちていますが、そこが温泉かのように勘違いしています。「おじさん、こんな汚いどぶに入って…、出なよ…」と言うと、「うるさいなあ。俺が温泉に入っているのに。邪魔するな」と怒られます。また酔っぱらいのおじさんは、屋台などで隣の人にすぐに話しかけます。誰とでもコミュニケーションができるようになります。しかしこれは、酒を飲んだ一定の期間だけで、酔いが覚めたら元に戻って、さらにむなしくなります。

 『酒によってはいけません。そこには放蕩があるからです。』と警告しています。しかし御霊に満たされると、それと同じような症状があります。御霊に満たされたら、どんな環境でも喜ぶことができるようになります。堅いコンクリートのような人生でも、羽布団のようになります。また人生泥沼状態にあっても温泉のように楽しく生きることができます。また誰とでもコミュニケーションができるように変えてくださるのです。聖霊に満たされることは重要です。

 喜びは、神の国の中にあると教えています。聖書の中に、「神の国は飲み食いではなく、義と平和と聖霊による喜びです」とあります。

 イエス様を信じるときに、地上でも神の国の喜びの中を、歩むことができます。それは、聖霊の満たしの中にあるのです。神は喜びの油を与えてくださるのです。

 イエス様を信じるときに与えて下さるものが数々ありますが、喜びの油注ぎは、何にもまして素晴らしいものです。今日、復活祭の良き日に、主は喜びの油を与えようとしてくださっています。「灰の代わりに頭の飾りを」とあります。今、灰の中にいるとしても、あなたを勝利者としてあげる、「悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を」とあります。それを証拠立てるかのように、イエス様は死んだだけでなく、よみがえって人々の前に現れました。それは事実です。喜びの油そそぎと共に帰っていただきたいと願っています。


[バックナンバー]