主があなたの願いどおりにしてくださいますように。

2006.4.30(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

旧約聖書 詩篇20篇1節〜8節
苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ 主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

 ハレルヤ!おはようございます。今日このように皆さんとともに礼拝を守ることができて感謝します。
 先週はジョー先生とヤキマからの一行が来られ、ジョー先生も素晴らしいメッセージを取り次いでくださいました。嵐のように去っていきましたが、先生方も皆さんによろしくお伝え下さいと言われていました。大変祝福された時を過ごすことができ、感謝しています。また私は、素晴らしい友達を得ることができて幸せに思っています。
 昨日はこの教会で、大林孝宏兄とマリエリ姉の結婚式が行われました。日本式とブラジル式がミックスされたとても、面白い結婚式でした。花婿に続き、最初、十組の男女ペアの友人達が入場した後、リングボーイ、フラワーガールが登場し、その後、花嫁さんがお父さんと共に登場するというものでした。通訳付きでしたが、とても新鮮な感じがしました。文化や習慣が違っても、イエス様によって一つになることができることは素晴らしいと思います。文化、習慣を超え、また、年の差も超えて一つになるのです。イエス様にあって私たちは常に生きるのです。
 ついに、私の第五冊目の本が出来上がりました。『神の栄光を取り戻せ!』というタイトルです。二〇〇三年から書き始めましたが、次から次へと新しいことが起こる中、今年一月のコロンビア、カリまでのレポートをまとめました。書き始めたとき、どのような本になるのか予想はつきませんでしたが、執筆に当たり主の導きを強く感じました。特に、悪魔の策略が日本だけにとどまらず、世界的一枚岩のプランニングシートが使われていることを少しでも明らかにできたらと思って書きました。
 これまで色々な場所に行って、とりなしの祈りのレポートをさせていただきましたが、それらが、どのようなつながりの中で導かれたのか、おわかりいただけます。また、皆さんの視点が新しくされるような領域もあるかも知れませんので、ぜひご一読下さい。

 今日は詩篇二十篇一節から八節の箇所から「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。」というタイトルで学びます。
 私たちには願い事があります。教会に来る目的の一つは、自分の願いが叶えられるようにということがあるかも知れません。今日も色々な願いを持って教会に来られている方も多いと思います。私たちは、「困ったときの神頼み」という言葉があるように、困ったときに願い事をする性質があります。しかし聖書はそれが悪いとは言っていません。困ったとき答えてくださる神様がおられることを体験すべきです。詩篇二十二篇二十四節に、

『まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。』

 時々私たちは、窮地に立たされる時期があります。そのような時にこそ、主を叫び求めるのです。そして主は、私たちに答えてくださると約束しています。詩篇二十篇一節に、

『苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。』

 四節には、

『主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。』

とあります。今日この御言葉を受け取ってお帰り下さい。苦難の中の方がおられたら、主があなたをその中から助け出そうとされていると、受け取ってください。
 教会に来て御言葉を聞くとき、人ごとではなく、神から直接自分に語られている言葉として受け取ることが大切です。
 『苦難の日に主があなたにお答えになりますように』・・・今日、主が皆さんの問題を知り、その願いを遂げさせようと、待っていてくださると信じてください。
 また二十篇六節に、

『今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。』

とあります。「油そそがれた者」とありますが、それはクリスチャンを意味します。イエス様を信じた者とは、言い換えると、「油そそがれた者たち」です。今日イエス様を信じている人々は、「油そそがれた者たち」です。ですから、イエス・キリストを信じる者たちに対し、神がそのように扱ってくださるのです。まだイエス様を心に迎えていない方がおられましたら、イエス様を自分の救い主として受け入れてください。油をそそいで、あなたを勝利に導いてくださると約束されています。
 私の好きな御言葉に、ピリピ二章十三節があります。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』

 クリスチャンになって素晴らしいことは、思いの中に神が働いてくださるという、不思議な現象が起こることです。アイディアの中に、神が働いてくださいます。
 皆さんは、なんらかの「志」を持っておられると思います。その中に、神の思いがあるということです。そしてそれがただの志で終わるのではなく、事を行わせてくださる、あなたの願いどおりにしてくださるというのです。願いはやがて現実になると教えています。皆さんが持っている志が、神からのものであり、油をそそいで事を行わせてくださることを心から祈ります。
 また、エレミヤ書三十三章三節も好きな御言葉です。これは「神様への電話番号」とも言われています。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

とあります。時々私たちは、色々な苦難や悩み事、また、試練に遭遇します。そのような時に私たちは、主を叫び求めなければならない心境に置かれます。その時に、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を告げる約束しています。ですから、色々な問題があるときにはすぐに、「わたしを呼びなさい」という御言葉を思い出し、主を呼び求めてください。人は苦難に遭遇しないと、真剣に神を叫び求めないのかも知れませんが、叫び求めることにおいて、「理解を越えた大いなること」が起こってくるのです。
 この教会堂は一九八〇年に建ちました。今年で二十六年になり、だいぶ古くなりましたが、古さを感じさせないものがあります。私たちは「新会堂」と今でも呼んでいます。この会堂が建って、初めの礼拝のことを私はよく覚えています。その時、私は礼拝の司会者で、百十一名が集まったと記録が残されています。
 人数とはある意味において、相対的なものです。それに見合った入れ物に入れば、大勢いると感じます。しかし大きな場所に集まると、大勢だとは思いません。三十名収容の所に三十名ならば、いっぱいだと感じますが、五百名収容の所に三十人が集まれば少ないと感じます。今日ここに三百人以上が集まっており、大勢集まっていると言われますが、これを東京ドームに持って行けば、淋しいものです。
 一九八〇年当時の新城教会の兄姉姉妹が、神から与えられた志を持ちました。それは五百名程が集まれる会堂を作ろうという志でした。そしてそれが完成したのです。とても嬉しかったです。嬉しくてこの会堂に入りましたが、私は最初の司会者として、「会堂なんか建てなければ良かった・・・」と、暗い気持ちになりました。
 「こんな大きな建物が建ったが、これからどうしたら良いだろうか」と途方に暮れました。そして真剣に神に祈りました。すると神様が志を与えてくださいました。
 アメリカに行くと、大勢集まる教会がいくつもあります。それで、キリスト教先進国アメリカに行って、教会はどのように推移するのかを一度勉強しようという志が与えられました。それで、建築に詳しい兄姉たちと共に、「アメリカ研修ツアー」に出かけることにしました。私たちはチケットや日程を確保し、アメリカの教会とも連絡を取り、すべてを整えました。しかしアメリカへ研修に行く寸前に問題が起こりました。

 「あなたの願いどおりになりますように」という御言葉を読みましたが、願いが叶う背景に、敵の力との戦いがあることも教えています。六節から八節に、

『今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。』

とあります。願いが叶う背景には戦いがあり、戦いに勝利した結果として、与えられた志が実現するとも教えています。
 主が願いを叶えてくださるプロセスに、ある意味で「霊的戦い」があることを教えています。それに勝利した時、願いが叶えられるという、霊的法則をも与えています。
 アメリカ研修ツアーに行こうとしたとき、色々な妨害がありました。私たちはかつてある団体に属しておりましたが、その中心はアメリカからの宣教師でした。彼は戦後最初に日本に入ってきた宣教師でした。彼は、自分の国・アメリカを異常に愛していました。それでなのか、自分に断り無く、アメリカに行くことが不愉快に思ったようでした。私の所に電話がかかってきて、「お前はなぜ、俺に断りなくアメリカに行くのか。俺の国アメリカに勝手に行くな!」と止められました。
 当時私はこの教会の副牧師でしたが、彼はなぜかわかりませんが、私たちがアメリカに行くことを妨害しました。しかし何だかわかりませんが、主が力を与えてくださり、「今回は反対があっても、あなたがたは勇気を持って行きなさい」と語られたように感じました。もちろん、「行くのを止めなさい」と言われるのがみこころの場合もあるので、注意深い祈りが必要ですが、その時はどうしても行かなければならない、という思いが与えられました。
 それで、思い切ってアメリカへ研修旅行に出かけて行きました。しかし行って良かったと思いました。私たちは田舎の小さな教会で、将来に向かってどんなビジョンを持つべきか、わかりませんでした。しかしアメリカに行って、教会が大きくなるとどんな施設がいるのか、どんな問題が発生するのか、どんな事柄に対処しなければならないのか、多角的に学ぶことができ、視野が大きく広げられました。ある意味で、アメリカにおいて、私たちの理解を越えた事柄が与えられました。

 私たちは研修を終え、途中、ハワイに立ち寄りました。その帰り道に事が起こりました。私は悩んでいたので、その日に限って飛行機の中で聖書を真剣に二時間ほど読んでいました。普通、私は飛行機に乗ると即、寝てしまいますが、その日に限っては聖書を真剣に読んでいました。神様が私に御言葉を通して、何かを語ってくださると期待していました。
 しばらくすると、左後ろから一人の女性が、「もしもし、あなたはクリスチャンですか?」と声を掛けて来ました。その人が、綾子・ビラップス先生でした。そして、先生との交わりの延長線でジョー先生とも出会ったのです。
 後で聞いたことですが、綾子先生が日本に旅立つ直前、病院から電話がかかってきたそうです。「あなたの息子さんが危篤です。すぐに病院に来てください」。
 日本に行こうとしていたとき、自分の息子が危篤と言われたそうです。皆さんだったらどうしますか?どちらを選びますか?多分、日本に行くことなどすぐに止めて、息子の所に行くと思います。
 しかし綾子先生は、まず神様の前に祈ったそうです。「神様。今私の息子が危篤ですが、どうしたら良いですか。私は明日から日本に行かなければなりません」
 すると主は綾子先生に、「息子の命はわたしが責任を持つ。あなたは日本に行きなさい」と語られたそうです。同時に、「明日飛行機の中で重要な人物と出会います。その出会いのために、よく祈ってから飛行機に乗りなさい」と語られたそうです。
 時々神様は、超自然的な語りかけをなさいます。そんな言葉を神から受け取り、綾子先生は日本行きを決断したそうです。
 翌日、彼女は緊張しながら飛行機に乗ったそうです。神様はどんな立派な人物に出会わせてくださるのだろかと期待して乗り込んだそうです。私は今でもよく覚えています。それは、大韓航空のエコノミークラスの混み合った機内でした。
 先生は乗り込んでから、まず祈ったそうです。「神様。そんな重要な人物がどこにいるのでしょうか。」
 しかし周りには、そんな人物は見当たらなかったそうです。斜め前には、白いパンツと青いアロハシャツ、当時はパーマを掛けていた私が座っていました。私は何も知らず、バックの中から聖書を出して読み始めました。しかし彼女はいくら聖書を開いていても、信用できず、二時間ほど私を見ながら祈っていたそうです。
 すると主は、「この人に話しかけなさい。」と語られたそうです。それで私に語りかけて来られました。それから、交わりが始まり、やがて綾子先生がシアトルに移り、偶然行った近所の教会に、ジョー先生がいたのです。当時、ジョー先生はその教会の副牧師の一人でした。私は彼と出会い、なぜか意気投合しました。やがて彼がヤキマに移り、そこで新城教会と同じような霊的戦いが始まり、毎年のようにヤキマから新城教会へ兄弟姉妹が来るようになり、また、私の娘は先生のお宅にホームステイさせていただくようになったのです。
 私たちの願いは、ただ単に「アメリカに行かせてください」というものでしたが、その後に付いていた神の計画は、とてつもなく大きなものでした。
 時に私たちの人生には、悩みや苦しみがあるのかも知れません。それで私たちは悩みや苦しみから解き放たれることを願い、「神様、この問題から解きはなってください」と祈ります。神様は、はっきりと問題を解決してくださる場合もありますが、時には願いとは違った方向へ向かっていく事もあるかも知れません。
 しかしその背後には、更なる神の御心があり、理解を越えた神の業が用意されているのです。皆さんは色々なきっかけで教会に来られたかも知れませんが、これは単に問題解決や病の癒しだけではなく、それ以上に、理解を越えた神の大いなる計画があるのです。
 詩篇一二六篇一節から六節に、

 

『主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。』

 『泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。』というのは、ある意味で、霊的原則なのかも知れません。今、涙を流しておられる方がいたら、それは喜びの種であるのです。やがてそれが大きな収穫となって、束を抱え喜びながら帰ってくると聖書は約束しています。ですから、その涙や悲しみは、決してそのままでは終わることはありません。一般の世界においては、涙なら更なる涙であり、やがて絶望していくことが多いのかも知れません。しかし、イエス様を信じるとき、涙を種として喜びを刈り取るのです。
 一九九二年、私は行き詰まった状況でした。それで主を真剣に叫び求めていました。私は牧師の息子で、いい加減なクリスチャンでした。しかしこんな私にも、主は涙を与え、その中から喜び叫ぶような収穫をさせてくださいました。
 先にも述べたように、「捕らわれ人が返されたときに私たちの口を笑いで満たされる」とありますが、涙の種を蒔いて喜びを収穫する中間に、戦いがあることを教えています。その戦いに勝利するとき、涙から喜びを刈り取ることができるのです。そして神様のみこころが限りなく拡がっていくのを体験します。

 先週私は、ジョー先生とともに、とりなしの祈りに行きました。時々、日本人だけの視点ではなく、海外から来られた方々の視点や権威を持って祈るときに、今まで解けなかった問題が解ける事があります。ですから、ジョー先生が日本に来るときには、日本のリバイバルが前進すると信じています。また同時に、私たちがジョー先生たちのために祈るときに、アメリカにおいて、今まで動かなかったところが動くと信じます。ですから、毎年ジョー先生が来たときには、少し足を伸ばして、遠くの町にもとりなしの祈りに行く計画を立てています。昨年はジョー先生と一緒に、北海道と沖縄へ祈りに行きました。
 それで、今年はどこに行くべきかと迷いながら祈っていました。時々、私たちは、答えが定まらないこともあります。しかし祈り始めると、神は徐々に私たちの心に志を与え、心を整えてくださいます。それは初め、小さな祈りかも知れませんが、神の前に出て祈る内に、神のみこころと志が徐々に大きくなります。皆さんもそのようなことを経験したと思います。将来のために祈っているときに、一つの思いが与えられます。その志が徐々に大きくなり、揺れていた心が、「そうだ。この道だ」と、定められる体験があると思います。これも霊的な法則だと思います。祈りの中で神は志の種を与えてくださいます。そのきっかけは悲しみであったり、問題であったりすることもありますが、「志の種」が与えられるのです。それを握りしめて祈っていると、徐々にそれが育っていくのです。
 今回私はジョー先生とどこへ行ってとりなしたら良いのかと祈っていましたが、なかなかそれがはっきりしませんでした。しかしやがて、「青森に行こう」という思いになりました。
 ジョー先生が住んでいる町の近くに、「シアトル」という町があります。そこは、マリナーズの町です。以前そこに行ったとき、雰囲気が青森に似ていると感じたからです。それで、青森県について一度調べてみました。
 青森の小さな町「板柳町」と「ヤキマ」が姉妹都市になっており、互いに交流があることもわかりました。ヤキマはりんごを作っていますが、青森もりんごの産地です。また景色や気候や緯度もほぼ同じです。そのような関連性の中で、祈りに導かれました。青森には、日本の死者礼拝の拠点である「恐山」があります。そこは死者の霊と称する悪霊を呼び出し、霊から指示を受ける場所です。それでジョー先生を恐山に連れて行きたいと思いました。しかし、恐山のオープンは五月一日です。だから寺に電話して恐山に行きたいと告げました。すると、「少し早いけれど大丈夫だろう」と言われました。
 しかし実際に現地に行ってみると、道路の雪がまだ溶けていないため、恐山に続く道路が閉鎖されていました。私はわざわざ行ったので愕然とし、市役所に行って交渉しました。「寺は良いと言ったし、愛知県から来たし、海外からのお客さんも連れてきたので、入れてください」と頼みました。しかし、「今工事中なので通れない」とはっきりと断られました。
 とても残念に思っていると、市役所の人が、「恐山は、この町の円通寺の住職が始めたのです。ですから、そこが恐山の本拠地です。冬の間はみんなそっちに行きますよ…」と言いました。私は恐山に行きたいと願っていましたが、神の計画はその根元で祈るように導かれました。
 行くと、何とその寺は新城市と深いつながりのある寺であることがわかりました。すぐに教会に電話して、死の力が教会の中に働くことがないように、町に働くことがないようにと祈りました。
 私たちは山に登る予定でしたが登れなかったので、とりなしの祈りの予定が繰り上がり、翌日の時間が空いてしまいました。翌日はヤキマの姉妹都市「板柳町」に行くことになっていましたが、残った時間をどうしようかと考え、ショッピングにでもしようかと考えていました。
 しかしその夜ホテルで、「神様、どこに行ったら良いですか。ショッピングで良いですか」と祈りました。その時、一つの思いが与えられました。
 青森に三沢という町があり、そこには米軍基地があります。その基地は米軍が航空自衛隊と共同で使っています。日米が共同戦線を組んで有事に備えている所です。ある意味で霊的にも、私とジョー先生が共に戦線を組んで戦っているようなものです。霊的にも象徴的な場所に感じ、そこで祈るように導かれました。しかしヤキマの姉妹都市の「板柳」と「三沢」とは、全く反対に位置する場所です。初めは板柳に行くことになっていたので、そこから戻って三沢に行き、帰りの飛行機に乗らなければならないので、時間的に行けるだろうかと心配しました。しかし心の思いは益々大きくなっていきました。それで、少し離れていましたが、三沢まで頑張って行くことにしました。まずは姉妹都市の板柳町に行き、ヤキマの教会にも連絡を取り、悪い霊的なコネクションがあったら断ち切られるように祈りました。
 そして三沢にも行くことにしました。「みちのく自動車道」と呼ばれる道路を通って行きました。
 基地の前に到着し、真剣に祈りました。今はテロ警戒中なので、変なところでウロウロしていると捕まってしまうかも知れないので、少し離れたところで主の勝利があるようにと祈りました。
 そして、次にどこに行くべきかわからなかったので、カーナビを見ていました。すると「航空博物館」が目に入りました。少し観光もかねてその場所に向かいました。
 そこに入ると、ジョー先生がとても驚いているのです。三沢市と姉妹都市を結んでいるのが、ワシントン州のウェナッチという町でした。実はその町は、なんとジョー先生が生まれた町でした。彼は「俺が生まれた町だ!」と言って驚いていたのです。そこにはジョー先生の故郷の、懐かしい写真が多く展示されていました。不思議な導きがあると思っていると、更に驚いたことがありました。なぜ、三沢とウェナッチが姉妹都市になったかというと理由がありました。
 一九〇〇年代の初頭、単発の飛行機が初めて太平洋をノンストップで横断したそうです。四十時間ほどかかって横断しました。アメリカ人パイロットが二人で操縦しましたが、それは三沢から飛び立ち、アメリカのウェナッチという、ジョー先生の故郷の広場に不時着したからです。その時の実写フィルムが博物館では、繰り返し上映されていました。また、その時使われた飛行機も再現され展示されていました。
 群衆が多く集まっている古い写真が飛行機の側に展示されていました。それを見て、またジョー先生が驚いているのです。それは、ウェナッチの村人が集まっている写真ですが、なんと、群衆の中にジョー先生のおじいちゃんがいたからです。おじいちゃんからその時の話を何度も聞いていたそうです。三沢とジョー先生の故郷のウェナッチとは、大きなつながりがあったのです。それが霊的世界でどのようにつながっているのかわかりませんが、私たちが神の前に志を持って祈り始めるときに、その祈りがみこころの祈りであったことを教えるために、主はそのようなしるしを見せてくださるのだと思います。

 志を立てさせ、それを実現されるのは神であるとありますが、神から与えられた志を暖めて行くと、その路線上に考えたこともない、大きな事が起こるのです。第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。神様が私たちに用意されていることは、目が見たことのないもの、耳が聞いたこともない、人の心に思い浮かんだことのない事柄であるというのです。主は、すごいことを備えておられます。
 「主が私の願いを答えてくださいますように」ということから祈りが始まり、願いが叶ったら人は満足しますが、実は神が持っている計画は、理解を越えたところにあるのです。見たことも、聞いたことも、思ったこともない計画が背後にあると教えています。
 涙とともに種を蒔き、喜びとして刈り取るとありますが、神は決して問題解決だけに終わらないお方です。見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないようなことを備えていてくださいます。そのことを疑わないで神の前に仕えていきたいと思います。

 今週、皆さんの願いが叶えられますように。しかしそれだけにとどまらずに、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともない、素晴らしい主の業が起こされますように。また、願いや神のみこころを止める、暗やみの力が打ち砕かれるように祈ります!


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