時代を見分け、とりなし祈ろう

2006.5.14(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 ルカの福音書12章54節〜56節
群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

テモテへの手紙  第一 2章1節〜3節
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

 ハレルヤ!おはようございます。三週に渡り、御言葉を語ることができて感謝します。今日は「母の日」です。あとから母の日の祝福の祈りの時間もあります。
 今日は「時代を見分け、とりなし祈ろう」というタイトルで話します。私たちは時々個人的な幸せや、個人的な問題解決など、身の回りが幸せであれば良いと考えます。しかしそのような視点だけでは不十分であることを、聖書は教えています。私たちは日本という国に住み、また、地球という星に住んでいます。それら全体が順調でなければ、個人は幸せに生きることができません。私たちは、大きな視点で、世界や日本にどのようなことが起こっているのか見極め、祈らなければなりません。ですから今日は大きな視点で学び、時代を見分け、とりなし祈ることについて学びたいと思います。
 イエス様が地上で働かれていた時代、パリサイ人やサドカイ人という、ユダヤ教の指導者たちに強く語られたことがありました。彼らは目先のことだけに捕らわれ、自分の地位や名誉の事ばかり考えていました。そのような人たちに対して、「あなたがたは自然を見分けることができる。西に雲が起こったらにわか雨が降るとか、南風が吹いたら熱くなるなどと、自然界の現象を見分けることができるのにも関わらず、なぜ、この時代を見分けることができないか」と言われました。
 私たちも、この時代をしっかりと見分け、とりなし祈らなければなりません。テモテへの手紙第一の二章一節から三節に、

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。』

 平和で静かな一生を過ごしたいなら、地位の高い人や王などのために、特に、国のために祈らなければならないと教えています。
 今から約六十年ほど前、日本は戦争のただ中にありました。そのため、国民全員が被害を被りました。ここにも、平和で静かな生活など考えられない時代を通過した方々がおられると思います。
 歴史は、とりなし手によって変えられます。歴史の流れは、滝壺に押し流される小船のような状況もありますが、時代を見分け、的確にとりなし祈る「とりなし手」たちによって変えられます。私たちは、神から的確な祈りを受け取り、時代を祈る者にならなくてはなりません。
 今から二千年ほど前、イエス様の時代に、弟子たちがイエス様の側に来て質問しました。それが、マタイ二十四章三節から十四節にあります。

『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

 当時、弟子たちの関心事は、「いつまで時代が続くのか」ということ、そして、「世の終わりはどのようにして来るのか」、また、「その前兆は?」という事でした。その質問に対するイエスさまの答えが、今読んだ箇所でした。これは、基本的には、ユダヤ人である弟子たちに対して語れたことですので、今の時代に適応させることにおいては慎重であるべきですが、ここに述べられている事柄は、少なからず、どの時代にも起こった事柄です。
 ある意味で、現代は時代の流れを強く感じさせます。先週は大きなニュースが飛び込んできました。それは、新城教会にもよく来られ、リバイバルミッションのためにも働いてくださった韓国の伝道者・申賢均先生が亡くなられたからです。それで急遽、先週、木曜日に父と岡本信弘先生が、韓国まで葬儀に駆けつけました。去年は田中政男先生も亡くなり、私たちの周りで働いていた人たちがひとり消え、ふたり消え…と、淋しくなって来ました。やがて誰もいなくなるのではないかと、少し不安になります。私たちの身の回りも動いていると感じます。
 世界は急速に動いており、それは良い方向へではなく、終わりに向かって動いているのです。イエス様がこれらの事柄を語られたのは、二千年前のことですが、今日の時代に当てはめてるならば、それらの前兆が同時に起こっているかのような時代であると言えます。これから、どのような時代を経るのか誰にもわかりませんが、誰もが危機感を持っている今日この頃です。
 イエス様は終わりの日には「偽キリスト」が出現すると言われました。「私がキリストだ」という者たちが出てくるが、信じてはいけないと教えています。
 今世界中に、そのような人々がたくさんいます。日本でもそのような考えに汚染されている人たちがいます。日本でよく見聞きする、「統一教会」とは、韓国から始まったキリスト教と儒教をミックスしたような「新興宗教」であり、キリスト教ではありません。教祖の文鮮明は、「私が再臨のキリストだ」と語って、多くの大学生たちが文鮮明に尽くしています。「文鮮明」の本名は、「文龍明」です。しかし彼は、自分の名前の「龍」を「鮮」に変えたのです。「鮮」は、「魚」と「羊」と書きます。かつてイエスさまのシンボルは、「魚」と「羊」でした。「鮮」とは、「自分がキリストである」と言わんばかりです。けれども、その中身は、羊の面をかぶった龍なのです。
 さらに、「戦争と戦争の噂を聞く」とイエス様は語られました。「民族同士が対立する」とも語られました。隣の朝鮮半島では、韓国と北朝鮮が同じ民族同士で対立しています。世界では多くの民族紛争が起こっており、常に血が流されています。「飢饉と地震が起こる」と語られていますが、これは語るまでもなく、世界の三分の二の人たちが現在飢えています。日本では食べる物がたくさんあり、何を食べようか迷うほどですが、それはたいへん感謝な事です。また、地震も増えています。日本は地震大国と言われますが、年々地震の数が増え、規模も大きくなっています。東海沖地震や、関東大震災が来るのではないかという恐れがあります。それも、ただの噂ではなく、科学的根拠があります。イエス様がただの人であったら、「これからの時代はどうなりますか?」と聞かれたら、「地球はどんどん冷えていくので、地震は起こらなくなり、科学も発展するのでみんな賢くなり、人類は幸せになりますよ。」と言ったかも知れません。しかしイエス様はそのようには言われませんでした。世の終わりが近づくと、飢饉や地震が起こると語られたのです。
 また「迫害が起こる」と語られました。今から約六十年前、太平洋戦争のただ中では、日本のキリスト教会は、国家によって迫害されました。多くの牧師たちが逮捕され、獄中死した人もいました。教会は国によって、「日本キリスト教団」に統一され、礼拝の始まりには神棚を拝み、宮城遙拝をしなければ礼拝できませんでした。
 現在は世界各国でリバイバルが起こっていますが、それに反して、大きな迫害も起こっています。最近インドで多くの人が救われていますが、同時に、未だかつてない迫害も起こっているようです。最近のニュースの中に、

「インドキリスト教会は、現在インド史上、未だかつてないような迫害を受けている。アジヤ宣教団体ゴスペル・フォー・エージア会長のヨナハン氏は、最近インド宣教団からは最悪とも言える報告しか来ないと述べた。インドにおける経済的な権力保持のための社会階級制度が迫害の要因であるとしている。迫害組織としては、ヒンドゥー教史上主義団体ヒンドゥーネスがあげられる。彼らは、インドカースト制度における低層に位置する身分の大部分の庶民を統制しようと試みている。」

とありました。キリスト教の歴史を見ると、ある意味で迫害の歴史とも言えます。
 他にも、「憎しみと対立がある、偽預言者が蔓延し、人の愛が冷たくなる」と、世の終わりの前兆について語られました。
 そして何よりも、次のように語られました。マタイの福音書二十四章十四節に、

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

 終わりの日は、全ての人が救われてから来るのではなく、全ての人に証しされたら、と教えています。
 キリスト教の二千年の歴史の中で、教会が最も力を入れてきたのは宣教であり、それも、世界宣教でした。多くの宣教師たちが世界中に福音を持ち運んでいきました。これはイエス様の大宣教命令への応答であり、神の国がこの地上に実現するための働きでした。私たちは、今までの歴史の中で最も福音が世界広がった時代に住んでいます。ヒンドゥーやイスラムの世界に福音を伝えるのは難しいです。また、北朝鮮も、なかなか福音を伝えることが難しいです。しかし今では、インターネットを通して、どこの人でも福音を受け取ることができる時代です。
 新城教会のホームページも、最近リニューアルされました。ホームページをどこからでも見ることができます。私も色々な国から、「私はいつも新城教会のメッセージを読んでいます」と言われます。情報がアップデートされると、それを読んで新城教会の礼拝に出ていなくても、同じ情報を持っている人たちが多くいます。そんな時代に私たちは生きています。
 イエス様が二千年前に語られた言葉を、現代に重ね合わせてみると、正に、現代が世の終わりであることがわかります。これからどのような事が起こるのか、誰にもわかりませんが、我々が生きている時代区分をよく理解し、とりなし祈らなければならないのです。

 イエス様の十字架と復活によって、何がなされたのでしょうか。黙示録十二章七節から十二節に、

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」』

 教会の歴史は迫害の歴史でもあり、戦いの歴史でもありました。その背後に竜の力が働いていたのです。「黙示録」の記事はどの時点で起こったのか、はっきりしないので取り扱いには慎重でなければなりませんが、黙示録十二章にある「竜がこの地に落とされた」という記述は、「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証の言葉のゆえに彼に打ち勝った」とありますので、「イエス様の十字架と復活を機に、悪魔は力を失った」と理解できます。
 イエス様の十字架と復活は、悪魔の根源的な力である死の力を打ち砕くものでした。以来、教会が誕生し、現代まで教会の時代が続いています。
 そして、力を失った悪魔が、現在、どのように君臨しているのかを告げています。十二章十二節には、

『それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」』

 世界中に混乱や問題があり、様々な悪しき事柄が起こっている背後に、「悪魔が激しく怒っている」という、現実があるのを知らなければなりません。
 先週の日曜の午後、セミナーを持ちました。それは私の娘が、中国でのとりなしの祈りのレポートをしました。中国は竜の国であり、そのテーマは日本にもあります。「竜」はアダムとエバから始まり、黙示録まで貫いている一つの象徴的存在です。それは「悪魔」とその一味、悪霊どもです。特に、聖書は、首領の悪魔を「竜」と表現しています。
 中国、朝鮮半島、日本には、「竜伝説」があります。皆さんの周りにも竜をテーマとした偶像礼拝や、神社仏閣がたくさんあります。聖書に出てくる竜と、私たちが日頃見ている竜がどのように関連しているのかは、はっきりしませんが、「竜」という概念があることは、ある意味で、悪魔が日本やアジアに注目し、激しく怒っていると理解しても良いでしょう。ゆえに、竜に立ち向かわなければ、敗北してしまうことも起こりかねません。ですから、先週はそのようなことを学び、皆で祈りました。特に竜の力は、「互いの愛を引き裂く力」として、アジアに反映されているというレポートでした。
 私たちは竜の力に立ち向かわなければなりません。しかし、竜は相当怒っているのです。なぜならば、「自分の時が短いことを知ったからだ」とあります。イエス様が十字架の上で、サタンの力を打ち砕く勝利を打ち立て、その後、地上に教会を作ったのを見て、サタンは自分の時の短さを悟りました。
 この二千年の歴史を見ると、教会は絶えず竜の攻撃の対象となり、この時代にまで到達しました。竜が一番狙っている相手について、黙示録十二章十七節は教えています。

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

とあります。悪魔が激しく怒り、出て行ったのは、「女に対して激しく怒り」とあります。私は、「男で良かった」と思います。
 先週は、豊橋で「アグロー」という世界的な女性たちのクリスチャン組織が集会を持ちました。私もそこに参加させてもらいました。そこでは、とてもすばらしいメッセージが語られました。特に、女性の役割について語られました。女性は、神が造られた特別な存在であるがゆえに、竜は真剣になって女性たちを苦しめ、痛めつけているのです。
 しかしこの「女」とは、単に、女性を現しているのではないことがわかります。

『女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

とあります。「イエスの証を保っている者」とは、「クリスチャン」です。今日あなたはクリスチャンですか。「はい、クリスチャンです」と言うなら、あなたは攻撃対象となっています。「竜が狙っている」と聞いたら、「クリスチャンになって損をした」と言うかも知れませんが、そうは思わないでください。けれども聖書は、クリスチャンをターゲットとして、竜が働いていると告げています。しかし既に、イエス様はサタンに対して完全勝利を持っておられるので、その事に気付いたら勝利があります。案外、多くのクリスチャンが、戦いの中にあるという現実に気付いていません。ここでは、クリスチャンを対象に、悪魔が激しく怒っていると教えています。
 けれども、もう少し深く読むと、「イエスの証を保っている者たち」と複数になっていることに気づきます。これは何を指しているのでしょうか。「イエスの証を保っている者たち」とは「教会」の事です。教会に対して、竜は戦いを挑んでいると聖書は告げています。
 今日皆さんは、教会に来ています。教会とは、世界一危険なところです。なぜなら竜は教会に対して激しく怒って、戦おうとしているからです。イエス様の十字架と復活によって、彼らは天でクリスチャンを訴えることができなくなり、地に下り、教会に攻撃をしかけたのです。なぜかというと、教会を通してのみ、人々は救われ、悪魔の力からも解放されるからです。教会だけが、サタンに立ち向かう機能を、神から付与されているからです。ですから、悪魔が教会に対して攻撃を仕掛けるのは、当然のことのように思います。私たちがそのことに気付いて、サタンに立ち向かっていくならば、決して負けることはないので心配ありません。しかし気付いていないと、多くの痛手を受けるのです。
 日本の教会も戦後六十年間、一生懸命働いていますが、なかなかうまくいきません。その原因はいろいろあると思いますが、根本的原因は、教会がサタンの攻撃対象になっていることに気付かないことだと思います。
 けれども、教会は二千年の歴史の中で、多くの迫害を受けても生き残ってきた、生命力の強い存在であることもわかります。そして、私たちが信仰の根拠としている聖書は、長い歴史を持っています。二千年間も人々の間で読み続けられている聖書には、相当な権威と真実が隠されているはずです。聖書は、その辺にある書物とはわけが違います。風雪に耐え、いくら批判されても二千年もの間、保持されてきました。
 私も最近本を出しましたが、何年間読まれるのかと思います。プレイズ出版から出しましたので、私も気になっております。しかし聖書は、全く心配がありません。聖書の著者たちは全員死にましたが、聖書は毎年、自動的に売れており、世界のベストセラーになっています。なぜなら、聖書は神の言葉だからです。誤りのない神の御言葉です。
 悪魔が攻撃をしかけているのは、教会と共に「聖書」に対して、強く働いて来たことが歴史を見てもわかります。そして今もなお、悪魔は働いています。

 実は最近、テレビなどで宣伝されている話題があります。今週は一つの映画が封切りされます。ある方は、見てみたいと願っているかも知れません。それは「ダビンチ・コード」です。空前のベストセラーと言われています。
 またそれと同時に話題になっているのが、「ユダの福音書」です。それは、イエス様をイスカリオテのユダが書いたというのです。アメリカの地理学協会が六日に発表したとあります。ニュースでは、
 「イエス・キリストの現行を弟子のユダが記したユダの福音書の写本が英訳できた。この福音書は一九七〇年にエジプトで発見され、十三枚のパピルスに、コプト語(古代エジプト語)で書かれていた。そして起源三百年頃にギリシャ版から書き写されたもので、エジプトの古物商から欧州を経て米国に渡ったが、長らくニューヨークの銀行の貸金庫で眠っていた」
とありました。聖書ではイエスさまはユダによって裏切られ、十字架に掛けられて十字架の死を遂げられましたが、「ユダの福音書」では、それとは百八十度内容が異なっています。それは、イエス様が自らの魂を肉体の牢獄から解放するために、ユダに指示して密告させたとあります。ユダは裏切り者でなく、弟子の中で一番いい人だったという内容です。これは、ユダの名誉回復と、イエスさまの死と復活を重視する、キリスト教を揺るがしかねない衝撃的な内容だ、とニュースは告げています。このような聖書の根幹にパンチを入れるようなものが出てきました。それも、考古学的発見だと言って人々を惑わしています。それは、サタンの働き以外の何者でもありません。
 ルカの福音書二十二章一節から六節に、

『さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。』

 イエス様を裏切ったユダは、「サタンの力によって裏切った」とはっきり告げています。イエス様がユダを呼んで、「俺を裏切るように密告してくれ」とは言いませんでした。しかしサタンは、聖書の記述を曲げ、自分の仕業であることを覆い隠そうとしています。
 それと同時に、ダビンチ・コードの映画の封切りです。「ダビンチ・コード」はフィクションです。内容としてはダビンチの描いた最後の晩餐などの絵に秘密が隠されているというものです。
 ダビンチはカトリック支配に反発していた人なので、色々な小細工を絵の中に仕組んだのは確かなようです。それはそうとして、ダビンチ・コードの中で、ストーリーの展開中、どのようなことが語られているかというと、「イエス様は神の子ではなくて、ただの人だ」ということを強調しています。イエス様はマクダラのマリアと結婚していて、サラという女の子が生まれて一緒に暮らしており、今もその子孫が生きている、あれは神の子ではなく、ただの人だという下りがあります。人々は「ダビンチ・コード」をフィクションとして楽しんでいますが、その内容に「イエス様は神の子でも何でもない、実はマクダラのマリヤとできていた。その子孫が今でもいる」という強調です。それを見る人々は、イエス様を救い主とは、信じないのです。
 リバイバル新聞に、「ダビンチ・コードの罠」という記事を奥山実先生が書いています。それによると、ダビンチ・コードは、ニューエイジという団体が背後で操作しており、それは教会に対する挑戦状であり、教会は一致してそれらに立ち向かっていかなければならないと記しています。
 世界的な悪魔の教会に対する攻撃が始まっています。聖書の御言葉に対して、またイエス様の神性に対して、攻撃が加わっている今日この頃です。ダビンチ・コードに、毒されていてはいけません。たとい見たとしても、その中でしっかりと、とりなして祈っていただきたいと思います。

 国や世界の指導者のために祈らないと、国が悪魔の支配に陥ってしまいます。国の運命を握っているのは、政治家ではなく、主を信じる者たちです。教会が真剣に、国のために、また、指導者たちのために祈ったら、神が指導者たちに知恵を与え、国は安定しますが、教会が国のために祈らなければ、地位の高い人たちや王たちは悪魔に利用されやすい存在となります。その人たちの判断一つで、国の方向が変わってしまいます。ですから、第一テモテ二章一節から三節に、

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。』

とあります。特に、王たち、高い地位の人たちのために、とりなして祈りなさいと勧めています。
 今年は戦後の六十年を過ぎ、区切りの年です。国内に目を転じてみると、ある意味、多くの祈りを必要としている時代に差し掛かっていると思われます。「六十」という数字は、「輪廻」と関わる数字なので、人々は日本が生まれ変わる年かのように考えています。太平洋戦争で犯した過ちは、六十年過ぎて禊ぎが終わった、ほとぼりが冷めたと考えているかのようです。小泉首相があれだけアジア諸国からの反発をかっても、なぜ強引に靖国神社を参拝するのか、そこには深いたくらみがあります。私たちはそのことについてしっかり見抜き、祈る必要があると感じます。そうでないと、昔の二の舞ななる可能性もあります。今、憲法が改正されようとしています。しかしその前段階として、「教育基本法」が改正されようとしています。それは、二〇〇六年四月二十八日に国会に提出された議案です。
 今回改正案として出された中に、色々なカラクリがあります。「伝統と文化を尊重し…」と「二条の五項」に改正されていますが、この規定の中に、公立学校で神道教育をすることが含まれているかのようです。「知識ではなく、体験を通して」とあり、公立学校で、神道教育を体験を通して学ばされる危険があるのです。これは、「文化、伝統」と言い、「別に宗教ではない」としています。また、「それらを育んできた、我が国と郷土を愛する態度を養う」と加えられています。「伝統文化を尊重し」という中に、神道教育が含まれているので、条文によれば、「神道を尊重し、神道を育んできた我が国と郷土を愛する態度を養わなければならない」という意味が含まれているようです。「愛国心とは、神道を愛することであり、この神道の中心的な最高祭司こそ天皇であり、つまり我が国の郷土は、天皇を中心とした神の国であり、それを愛する教育をせよ」という考え方が含まれているのです。
 特に、「心を養う」のではなく、「態度を養う」と表現されていることに注目するべきであると、一人の牧師が私にメールをくれました。「態度は心ではなく、態度であるから、心からそうしなくても良い、形だけで良い」ということです。神社参拝を心から行わなくても良い、心でキリストを信じているのも自由であり、ただ日本人として形だけ神社で手を合わせれば良い。だから内心の自由を侵すことにはならない、という解釈につながる危険性があるのです。
 「形だけやってください」というのは、悪魔の知恵以外の何物でもありません。偶像礼拝は、古い契約に属するもので、心はついて行かなくても良いのです。形をこなせば悪魔は人と契約を結ぶことができます。神社でも、本殿の前で、「二拝二礼二拍手」すれば良いのです。心はなくても、形通りに行えば契約が成立するのです。「態度を養う」とは、心からではなく、真似すれば良い、心の中ではキリスト教を信じていれば良い、それが伝統や文化を継承することだという考えには、策略が隠されています。

 今、語っている事柄は、ある意味、最悪の可能性ですが、そのようなにならないよう、とりなして祈る必要を感じます。悪魔はもう一度、昔のようにこの国を暗闇の中に押し込み、大きな破壊へと導き兼ねません。すでに私たちは神から、権威をいただいているので、このことに無関心になるのではなく、とりなし、祈っていくのならば、平和で静かな一生を過ごすことができると信じます。
 私たちの個人的な幸せだけを追求して、国を見たり、地域を見ることから離れてしまうことがあるかも知れませんが、大きな視点で国や世界を見据え、戦っていかなければならないと思います。その使命が、終末を生きる教会に託されていると信じます。
 主の勝利がこの国に現されるように、一緒にお祈りしましょう。政治のため、世界のために祈りましょう。


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