罪のゆるしと病のいやし

2006.5.21(SUN)
新城教会 滝元 明牧師

マルコの福音書 2章1節〜12節
数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今まで私のためにお祈り下さり、今日このように講壇に立つことができることを感謝します。先週は福岡で奉仕があり、先々週には長岡、そして韓国に行っていました。忙しく巡回しましたが、元気に立つことができることを感謝します。
 最近順牧師が出した、『神の栄光を取り戻せ!』という本を読まれましたか?素晴らしい本なので、ぜひお読み下さい。韓国に行った時、この教会で働かれていた田中智華子姉に連絡をしました。その時に私は読みかけでしたが、この本を差し上げました。韓国で買うのは非常に大変ですが、日本では簡単に買うことができますので、ぜひお読み下さい。私には四歳の孫がいます。彼はこの本がとても好きです。そして寝る前におかあさんに、「本を読んで」と言うようです。「キイロイ カミサマ ガ オリテキタって両方の耳で聞こえた?何で黄色なの?」と聞くそうです。ですから子どもたちも読んだら良いと思います。
 また私の本も出されました。前にも出ていましたが、『こんな大きな御利益はどこにもない』という本が、装丁を変えて新しくなりました。教会を回ってみると、よく本を読む教会があります。読む教会は、とても恵まれているのでお読み下さい。
 また五月の初めにリバイバルミッションが主催した、全国セミナーがありましたが、その中で、平岡修治先生が話されたレジメを読んで恵まれました。それは明治時代から平成時代に起こったリバイバルについての講義でした。明治の初期に起こったリバイバルは、私が生まれた愛知県北設楽郡津具村でした。鳳来町海老にもリバイバルが起こり、新城市にも起こりました。この近くに平井という場所がありますが、そこにある先生がおり、彼はクリスチャンになりました。私が小さな頃には、ご真影や教育勅語がありました。しかし先生は、「この教育勅語は、クリスチャンとしての意志に反するから読めません」と言い、教頭に読ませたそうです。
 しかしそのリバイバルが、太平洋戦争の弾圧で止まり、私の生まれた村には学校の先生がクリスチャンで教会をやっていましたが、その人も亡くなり弾圧で教会はなくなりました。
 しかし歴史を見ると不思議なことがわかります。平井の先生が亡くなった年が一九二八年、津具でキリスト教の集会が終わったのが一九二九年、そして、私が生まれたのが一九二九年です。彼らは真剣にリバイバルを祈りましたが、弾圧されました。しかし私がその二十年程後、東京に行ってイエス様を信じました。そして今日この教会があることは、昔のクリスチャンたちの祈りによると思います。その講義のDVDが出ていますので、ぜひお買い求め下さい。

今日はマルコの福音書から「罪のゆるしと病のいやし」というテーマで学びます。
 二千年ほど前にイエス様が生まれ、カペナウムを伝道の拠点としていました。

『数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。』

と書かれています。イエス様が話しをしているときに、中風の人を四人の友達が担いで来ました。しかし入ることができなかったので、この人たちは屋根に上りました。向こうの建物は、石でできていたり、梁と梁の間が粘土のようなもので塗ってあります。彼らは屋根の上まで上がり、梁と梁の間を取り除き、イエス様が説教している前に中風の人をつり降ろしました。そこでイエス様が、『子よ、あなたの罪は赦されました。』と言われました。すると律法学者たちが、「神様以外に罪を赦すことができる人はいない。なぜ罪を赦すことができるか」と言いました。その時にイエス様が彼らの心を見抜いて、

『「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。』

 今朝私は、メッセージの準備で聖書を読みながら、「こういうことはかつて見たことはない」ということが起こるようにと思いました。「こういうことはかつて見たことはない」と言うことが、新城にも起きるように祈っていきましょう。これから大きなリバイバルが来ると、素晴らしい奇跡がこの教会にも起こるに違いありません。
 中風の人がイエス様の側につり降ろされた時に、イエス様が「子よ。あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様は心の中を見抜かれる神様です。おそらくイエス様の側につり降ろされた時彼は、「ああ、俺は罪深い人間だ」という気持ちがあったと思います。だから、「子よ。あなたの罪は赦された」と言われたと思います。
 私は今から五十七年程前、初めて教会に行きました。東京で勉強をしている時に、初めて教会に行きました。教会に入って、クリスチャンを見たときに、何と綺麗な人たちだろうかと思いました。それに比べて、「何て俺は汚いのだろうか」と思いました。悲しい気持ちになりました。説教を聞いたわけでもありませんが、私は罪深いと思いました。今日はゴスペルクワイヤーの賛美を聞きました。皆輝いて最高の顔をしていました。クリスチャンを見て、本当に綺麗だと思いました。そして私は罪人だとわかりました。
 この中風の人は、イエス様の前に出た時に、「俺は罪人だ」とわかったと思います。だから、イエス様ご自身が、「子よ。あなたの罪は赦された」と言われました。私は、『こんな大きな御利益はどこにもない』という本の中に、一番大きな御利益は、「罪が赦されることである」と書きました。私の人生で一番素晴らしい祝福は、十九歳の時に、イエス様を信じたら罪が赦された、罪から解放されたことは大きな祝福でした。罪から救われたから、今日まで来ることができました。私が教会に行き、神の前に出て罪人だと思いました。刑務所に入ったことはありません。学生時代にまじめな人間だと思っていましたが、罪人だとわかりました。初めにわかった罪は、人前に出すことができないような、汚れた肉欲でした。また何とも言えない汚い心でした。そしてわかったことは、過去を振り返ると、小学生の時に柿を盗んだり、桃を盗んだりしたこと、「私の人生、小さな頃から悪いことをした。ごめんなさい。」と罪がわかりました。そして赦されました。

 また教会に通っている内に、罪だと思わなかったことが罪だったとわかりました。マタイの福音書二十六章に、「剣を持つ者は、剣で滅ぼされる」と書かれていました。そう言われると、私の心の中に剣があると思いました。三年間程、赦すことができない友達がいました。聖書の中に人を憎むことは人殺しだと書いてあります。憎んでいることが罪だとわかりました。私の人生の中には、今までそんな罪意識はありませんでした。人を憎んでも、やっつけてやりたいと思っていました。しかし憎んでいたことが罪だとわかりました。
 また聖書を見ると、偶像にささげた物を食べてはいけない、そして不品行を慎むようにと書かれています。日本人の感覚の中には、偶像礼拝をしそれにささげた物を食べることは罪とは考えません。しかし聖書には、偶像にささげた物は悪霊にささげた物であり、それを食べると心が弱くなって姦淫の罪を犯す。これは罪とあります。聖書は不品行を慎むようにとありますが、今の時代は愛し合ったらすぐに肉体関係を持ちます。しかし聖書には、「結婚について尊ばなければならない。神は寝床を汚す者をさばかれる」と記されています。姦淫は罪、不倫は罪と記されています。
 ペンテコステの日に聖霊が臨み、ペテロが説教しました。彼が最後に言ったことは、「あなたがたが十字架に付けて殺した、イエスはよみがえられました。この方を主とし、キリストとしてお立てになった」と語った時に、ユダヤ人たちは胸を打って、「私たちは罪を犯した。兄弟たちよ。私たちは何をしたら赦されますか」と聞きました。ユダヤ人たちが感じた罪は、イエスを十字架にはりつけにしたことでした。それは、イエス様が神の子、救い主と言ったからです。しかしそのメッセージの中で、「あなたがたが十字架に付けたイエスは、神であり、救い主であり、この方こそメシヤだ」と語りました。その時に、自分は罪人だと気付きました。
 罪とは、聖書を見ると、自分を造られた神を信じない事です。ですから中風の人がつり降ろされたときに、「イエス様の前に出るような綺麗な者ではない。過去に罪がある。」と思ったと思います。しかしイエス様が、「子よ。あなたの罪は赦された」と言われました。それを聞いた彼には、喜びが来たと思います。
 病気は、罪から来ることもあります。病気になると自分の罪について考えます。病気になるのは、不摂生もあります。働き過ぎです。、また、たばこ、酒を飲んで病気になる人、心配して病気になる人もいます。
 聖書を見ると、神様は私たちが健康であることを願われています。心配しすぎると病気になります。ペテロ第一の手紙五章七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

とあります。心配事があったら、神様に委ねてください。また病気にならないで生きる道について、箴言三章七節から八節に、

 

『自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。』

とあります。神を恐れて、信じていけば病気にかからないで、生きることができます。箴言十四章三十節に、

『穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。』

短気な人、よく喧嘩をする人は病気になりやすいです。穏やかな人が良いです。箴言十七章二十二節に、

『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』

とあります。今日本で一番長生きするのは沖縄県の人たちです。沖縄の人たちは陽気な人が多いです。陽気な心で生きることは大切です。
 しかし、クリスチャンになっても、時々病気になります。なぜ、病気になるのでしょうか。箴言三章十一節から十二節に、

 

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。』

とあります。神様は皆さんを愛しています。時々、お父さんやお母さんが子どもをしかる時があります。それは憎らしいからではありません。可愛いからです。時々、神様は愛の鞭を打たれます。だから病気になった時には、「主が愛してくれているからか…」と考えなくてはなりません。また、罪を犯したら悔い改めることが必要です。失敗について悔い改めなくてはなりません。
 また、悪霊から来る病もあります。悪霊が病気を与える時には、イエス様の御名によって悪霊と戦い、祈らなければなりません。罪から離れたら勝利することができます。
 今朝、家内と、どうして病気になるのかについて考えていました。老人病もあります。七十、八十、九十になると、どんな強い人でも病気になります。目が悪くなったり、頭の毛が抜けたり、歯が抜けたりと衰えてきます。しかし癒していただくことが大切です。
 また時々、なぜイエス様を信じている人が、病気になるのかと思うことがあります。パウロは、彼の前掛けに触れたら悪霊は出て行くし、着物に触っただけで病が癒されたと聖書に記述されています。「神はパウロの手によって驚くべき奇跡を行われた」と書かれています。しかし聖書を見ると、パウロも病気であったことが記されています。コリント人への手紙第二十二章七節からに、

『また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。』

とあります。素晴らしいパウロでも、病気を持っていました。目が悪かったのではないかと言われています。またある聖書学者は、パウロはてんかん持ちだと言っていますが、私はそう信じていません。パウロは天国を見たり、素晴らしい働きをしましたが、彼が高ぶることがないように、一つのとげを与えたとあります。
 時々私たちも、恵まれ過ぎると高慢になり、病気をすることがあります。いつまでも病気が治らないという方は、高慢にならないためかも知れません。しかし、「わたしの恵みは十分」ということを信じてください。
 この中風の人は、四人の友達に連れられて来ました。良い友達がいることは素晴らしいです。
 私がクリスチャンになる前、私の属していた研究所の所長が、「四人の親友を持つ人は幸せ者だ」と言いました。私は考えてみました。泣くときには泣き、笑うときには笑う…、一緒になって考えてくれる友達がいますか?そのような友人は、なかなか持てません。
 しかしこの四人は、中風になった人を、イエス様の所に連れてきました。

 全国セミナーの時に、栃木県のK先生とS姉が来られました。
 二〇〇〇年に東京で集会をしました。その時、S姉は足にボール球ほどのガンができており、翌日は病院に行って足を切断しなくてはならないという時だったそうです。その日、K先生がSさんに、「S姉、ミッションがあるから行きましょう」と言って、彼女を無理矢理連れてきたそうです。私の所に連れてきて、「先生、祈って下さい」と言われたので、手を置いて祈りました。
 そして次の日、病院に行くと医者が、「ガンだったのが良性になっています。足は切断しなくても良くなった」と言ったそうです。それで、腫れたできものだけを取り除きました。
 先日は元気に新城に来られました。それは、私が祈ったからではありません。K先生が「ミッションに行こう」と誘いました。それで奇跡が起こりました。

 一昨年、下條末紀子先生が病になりました。ひどい病で、病院で寝たきりになり、動くことができなくなりました。下條先生は医者に質問しました。「私の病気は直りますか。」と聞きました。
 すると医者が、「はっきり言って直りません。もし直ったとしても、車椅子か…」と言われたそうです。すると下條先生は、「そうですか。直らないのですか。それならば、退院させていただきます。」と言いました。医者は不思議に思って、どうしてかと尋ねました。「直らないところでいつまで寝ていても、何もならないでしょう。それよりも、教会に帰って残りの人生をイエス様のために仕えたいのです。」と答えました。
 その時に、O姉から電話がありました。「下條先生が祈って欲しいと言っています。」と連絡を受けました。私は下條先生が退院する前日に、祈りに行きました。次の日に下條先生は退院しました。なんと帰る途中、先生は癒されました。三月に行われた拡大聖会にも来られました。また、九月のリバイバルミッションでも講師として話されます。絶対に直らないと言われたのが直ったのは、誰の信仰でしょうか。あれは先生の信仰と、私に祈りに来てくださいと言った姉妹の信仰です。感謝しました。
 以前、四国で聖会をしていた時、I先生が私の所に来られました。私は集会中に突然呼ばれました。「先生、今私の教会に来ている人の娘が自殺未遂をしました。脳に酸素が回らず、葬式の準備をしています。先生が以前に、オリーブ油を塗って祈れば癒されると言われたでしょう。どこに付けたら良いですか。どうやって祈ったら良いですか。」と言われました。私は、「どこでも良いから、祈ってあげなさい」と言いました。先生は淡路島から高松まで帰り、その子に手を置いて祈ったそうです。
 何と去年、その教会に行くと、その娘さんは助かり、今では結婚していて私に会いに来られました。あれは牧師先生の信仰です。だから病気になっても、あきらめてはいけません。イエス様は癒すことができる方だからです。

 病がいやされるために、イエス様が、「子よ、あなたの罪は赦されました。」と言われたように、まずは罪が赦されることが大前提です。どんな罪も赦されない罪はありません。まず、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」です。
 今日、病気の方はイエス様を信じ、罪を赦していただいて、癒されることを信じてください。病気になる原因は色々とあります。高ぶることがないよう、病気になったとあります。また、ある時イエス様は、神の栄光が現れるためだと言われました。そして、医学でも病は癒されます。
 私は先週九州に行っていました。九州から、四国にざわめきの集会に行った四男と孫たちに電話をしました。すると、「おじいちゃん。おじいちゃんが体調が悪いって評判になっているよ。」と言うのです。どこの教会にに行っても、そう言われるというのです。どうしてかと思いましたが、実は、色々な所から電話が来て、「六月に説教に来ていただけませんか」と聞かれます。すると担当の上條牧師が断るのです。「滝元は六月、七月は行けれません。」
 「滝元先生は今年は四国に、住み込みで伝道してくださると言ったではないですか。」と言われるのです。すると仕方なく、上條牧師が、「滝元はちょっと持病があって、その治療のために行くことができません。」と告げました。
 するとすぐに速達が来ました。「持病」と言うので、皆が「痔瘻」だと勘違いし、「痔瘻が癒される方法」というタイトルの本が送られてきました。それで仕方なく、はっきりと言わなくてはならないと思いました。実は、私には病気があります。
 私は、一九七〇年から「リバイバル・クルセード」を始めました。一九七〇年に栃木県の教育館で説教をしました。真剣に力を入れ、「皆さん、救われます!!」と叫んだ途端、私の体の中で「ビリッ」と音がしました。腸が裂けたのです。それから、脱腸になってしまったのです。ずっと三十六年間、脱腸がありました。だから私の下腹が出ているのです。
 先日ハワイに行きました。税関を通ると止められました。アメリカは検査が厳しいのです。「こっちに入ってください」と言われました。それは、私の腸が膨らんでいたからです。昔、映画俳優が、麻薬を隠していたからです。私が、腸が悪いことを告げると、検査官は私に謝りました。その時に私は、「このままでは良くない」と思いました。これは手術した方が良いと思いました。今まで、三十六年間我慢していましたが、脱腸の手術をすることを決心しました。
 先週、私は病院に行きました。心電図や血液検査などをしました。検査は初めてで、楽しかったです。脱腸以外、どこも悪いところはありませんでした。
 今週私は、二十五日から二十九日までハワイに行きます。来年ハワイでリバイバルミッションをすることを考えており、その説明会の為に行きます。そして帰ってきてから、すぐに栃木県にある「宣教者訓練センター」に行きます。そして、ざわめきの集会で説教をし、六月七日に入院して八日に手術をします。一週間程休みます。これも神様の方法です。
 私は、三十数年間祈っていました。「イエス様、癒してください。脱腸くらいイエス様にとって、大したことないでしょう。癒してください。」と祈っていました。しかし甲子園、武道館での集会をしたので、私が高ぶらないようにしてくれたのかも知れません。また、私の年のせいもあるかも知れません。一週間程入院することになっています。できれば、手術をしなくても良くなることを望んでいますので、ぜひ祈って下さい。
 今日は、祈りの時を持ちますが、私のためにも祈っていただきたいと思います。聖書を見ると、イエス様は「癒し主」と書かれています。イエス様が「罪を赦されたというと、病が癒されたというのと、どちらが優しいか」と言われました。そしてイエス様が「立ちなさい。床をとって帰りなさい」と言われました。今日私は癒されたらベストですが、癒されなくても医者に行くように決めています。私のために憐れんで祈ってください。もしこれで成功したら、あと十年は伝道をしたいと思っています。神様は罪も赦してくださり、病も癒してくださいます。神は良いお方ですので、病も癒されます。
 『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』とあるので、祈っていただきたいと思います。
 罪がある方は、悔い改めてください。そして病の方は、イエス様に癒しを祈りましょう。ボール大のガンが一日のうちに癒されたら奇跡です。死にかかった人が癒されたら奇跡です。今日ここで主が働いたら、癒されるので祈りたいと思います。


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