忠実に主に仕える

2006.5.28(SUN)
新城教会 岡本信弘牧師

新約聖書 ヨハネの黙示録2章10節
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

 ハレルヤ! 心から主に感謝します。皆さんのお祈りに支えられて、このように健康で主の奉仕ができる恵みと特権を感謝します。

 今朝は、少し天気がよくないのですが、最近は雨が多いので、週末になると駐車場のことが気になります。ご存知かどうかわかりませんが、教会の前の駐車場は、ある方のご好意によって、畑をお借りしています。畑地なので、そこに砂利を入れることができません。ですから、雨が降るとぬかるんでしまって、皆さんにご迷惑をおかけするのが申し訳ないと思うので、何とかできないかと思っています。ぜひ、良い駐車場が与えられるようにお祈りください。

 今日は黙示録から、忠実に主に仕えることによって大きな祝福をいただくことができるということを学びます。

 最近、順先生が礼拝の時に写真をたくさん使われています。私の若い頃の写真も出されたことがありますが、それを見ると私も年を取ったと思います。新城教会の歴史を振り返ると、一度でもこの教会に足を踏み入れた人は何千人、何万人といると思います。転籍して来られたり、お嫁に来られた方もいらっしゃいますが、反対に引っ越して転籍されたり、お嫁に行かれた方などもおられます。一、二度来ただけで、来なくなってしまった方もいます。しかし、イエスさまを信じ、永遠のいのち・天国への切符を手に入れ、多くの恵みをいただいたにもかかわらず、それを放棄してしまった方、信仰を落としてしまったという方もおられます。人にはそれぞれ色々な事情があります。人が信仰から離れる時、ひとつの原因だけで離れる方は少ないと思います。いくつかの要因が重なることが多いと思います。

 人生は、航海にたとえられます。海に出ようとする時、闇雲に出て行く人はいません。ある程度の風や波を想定し、乗る人数や、荷物の重さ、食料など、準備万端にして出て行きます。しかし、想像できないような思いがけないことに出くわしたり、思っていた以上の波や風が起こったり、色々なことが重なって船が沈没してしまうことがあります。

 私たちのクリスチャン人生も同じだと思います。こんなはずではなかったというようなことが起こります。今日、ここに来られている方の中には、「私は明日信仰を落とすだろう」と思っておられる方はいないでしょう。皆さん、大丈夫だと思っていると思います。でも、皆さんが順調で、幸せで、満たされているから大丈夫だと思っているのでしょうか。そんな方ばかりではなく、家族から迫害されている方もいらっしゃるでしょう。仕事や、家庭の事情、健康の問題で礼拝に来ることができない方、また学生であれば、部活で礼拝に来ることができないこともあると思います。

 中には、教会に来て人につまずいたと言われる方もおられると思います。私は口数が多いので、余分なことを言って嫌な思いをさせてしまった時があるかもしれません。もしもつまずきを覚えた方がおられたら、申し訳ありません。お許しください。

 私たちを信仰から引き落とそうとするものは、たくさんあります。大丈夫だと思っていても、想定外のことが起こり、色々なことが重なって、気がついたときには信仰から離れてしまうという危険性があることを覚えてください。

 しかしそんな想定外のさまざまな苦難、艱難を乗り越える時、私たちは成長します。

 私には二人の子どもが与えられていますが、今は二人とも家を出ています。私はクリスチャンホームに生まれ、小さい頃から教会に通っていました。親は、何でも自由にさせてくれましたが、教会に行くことだけは厳しく言われて育ちました。ですから私の子どもたちにも、礼拝と家庭集会には必ず出るようにと教えてきました。私が献身し、二人目の子どもが生まれたばかりの頃、安城にいらした河合兄姉の家で行われていた家庭集会の担当になりました。幼い二人の子どもを連れて毎週毎週通い始め、九年間ほど通いました。子どももだんだんと大きくなって、時々行きたくないと言ったこともありましたが、必ず連れて行きました。帰りは十一時近くになるので、ワゴン車に布団を敷き、子どもたちを寝かせて帰ってきました。そのように、礼拝と家庭集会には出るようにと教えてきました。中学、高校になってからは家庭集会に出られないこともありましたが、信仰さえ持っていれば他のことは大目に見てやる、と言ってきました。

 息子は高校生の時、髪を青く染めたきたことがありました。私が家に戻ると、いつもは出迎えたりしない息子が玄関まで出てきました。私は彼の髪の毛の色に気づきましたが、何も言いませんでした。息子は自分から「お父さん、僕に何か言うことはない?」と言いました。本人もさすがに怒られると覚悟していたようです。私が「その頭のことか」と言うと、「そう」と答えました。私は「学校では何も言われなかったのか」と聞きましたが、「何も言われなかった」と言ったので、「それじゃあいいよ。でも親が学校に呼び出されるようなことや、退学になるようなことはしないでくれよ」と言いました。

 もちろん、それぞれの家によって教育が違いますし、その子によっても、環境によっても違いますので、我が家のやり方がいいというわけではありませんが、曲がりなりにも家の子どもたちは、低空飛行ながら信仰が守られてきたと思います。どうしても必要なものを手放してはいけません。子どもにも継承していかなければなりません。

 ルカの福音書に、マルタとマリヤの家にイエスさまをお迎えした話があります。お姉さんであるマルタは、イエスさまのために一生懸命もてなしました。一方、妹のマリヤは、イエスさまの足もとに座って、御言葉を聞いていました。マルタはそんな妹を見て腹を立ててイエスさまに、「私がもてなしのために奮闘しているのに、妹はイエスさまの話を聞いているだけです。主は何とも思われないのですか。妹に私を手伝うように言ってください」と文句を言いました。その時イエスさまはこのように言われました。

『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』(ルカの福音書十章四十一〜四十二節)

 マルタの行為が間違っていたのではありません。給仕も大切です。しかし、人にはそれぞれ役割があり、その時々に、必要なことがあります。この時マリヤにとって一番必要なことは、イエスさまの御言葉を聞くことでした。私たちも、その時々に何が一番必要であるかを祈って、良い方を選んでいきたいと思います。

 先日、松枝兄のお母様が亡くなりました。葬式のメッセージの中で、明牧師が「松枝姉は確かに天国に帰って行った」と言い、天国を海外にたとえて話をされていました。海外に行く時には、パスポートが必要です。パスポートがなければ日本を出ることも、よその国に入ることもできません。どんなに有名であっても、お金があってもです。

 五月の初めに申賢均先生が亡くなられて、葬儀に参列するため、明先生と一緒に私も韓国に行くようにと言われました。私はあせりました。その数日前、別件でパスポートを捜した時に見つからなかったことを思い出したからです。パスポートがなくてはチケットがあっても海外に行くことができません。私は、飛行機のチケットを取るのを少し待ってもらい、もう一度捜してみたら見つかったので行くことができましたが・・・。

 松枝姉は亡くなる少し前にイエスさまを信じて天国行きのパスポートを受け取られました。これは人生にとって大きなことであり、祝福です。松枝兄は大きな親孝行をしたと思います。

 先日ビジネスの本を読んでいたら、時給六百円のパートの主婦が、その店の店長になり、最後には社長になったという記事が載っていました。きっと、優秀な方だったのでしょう。その本には、彼女のことを「今や主婦の希望の星」と書いてありました。皆さんにもまだチャンスがあるかもしれません。

 世の中は、他人からの評価によって成り立っているようなところがあります。人の評価はさまざまですが、神さまの評価は人とは全く違います。神さまは目に見えるところだけではなく、目に見えないところも見ておられます。マタイ二十章に、ぶどう園の主人の話が出てきます。

『天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。』(一節〜二節)

 大きなぶどう園では収穫時期になると人手が足りなくなります。ですから、主人は仕事を求めて待合所に集まっている人たちを、自分のぶどう園で働かせます。朝早くから待合所に出向き、一日一デナリの約束をしてぶどう園に行かせました。今で言うと、一日一万円です。九時、十二時、三時と出かけて行くたびに、新しい人が立っていました。そして夕方五時に行ってみると、また別の人が立っていました。主人が、「なぜあなたは一日中仕事もしないでここにいるのか」と聞くと、「だれも雇ってくれる人がいない」と言うので、主人はその人をかわいそうに思いぶどう園へ行かせました。そして一日が終わり、最後に来た者たちから順に賃金をもらいました。五時から働いたものは、一時間しか働かなかったのに、一日分の一デナリをもらいました。喜んで帰ったと思います。それを見ていた、朝早くから一日中働いた者は、一時間しか働かなかった者が一デナリもらえるのならば、私はもっともらうことができるだろうと期待していました。しかしもらったのは同じように一デナリだったので、主人に文句を言いました。すると主人は、「私はあなたと一日一デナリの約束をした。だからあなたに対して何も不当なことはしていない。最後に来た人に一デナリをあげて、私が気前がいいので、あなたは妬んでいるのですか」と言いました。そして最後に、

『このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。』(二十章十六節)

と締めくくっています。この主人は、神さまを表しています。神さまの評価は、人の評価とは違います。

 人生で一番重要なことは何でしょうか。人からの評価は見えるところだけのもので、常に変わります。ですから、神さまからどのように評価されるかが大切です。

 私は過去何年間クリスチャンでした、と言っても何もなりません。今が重要で、これからが重要です。また、死に直面した時にどうであるかが大切です。それこそ真価が問われる時です。私たちはだれでも、いつかは死を迎えます。しかしクリスチャンには、天国へ行き、永遠のいのちをいただくことができるという希望があります。

 現代日本においては、信仰を持っているからといって、監禁されたり投獄されることはありません。以前は、そのようなことがありました。今、国会で「教育基本法改正案」が出されています。その内容を見ると、信仰の自由を奪われかねないもので、この先、どうなるか目が離せません。信仰のゆえに、死を覚悟しなければならないようなことが起こるかもしれません。そんな時、あなたはどうなさるでしょうか。

 旧約聖書の中に死に直面するような状況でも信仰を守り通した人たちのことが書かれている箇所がいくつかありますが、ダニエル書を読みたいと思います。

『「・・・私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」』(ダニエル書三章十五節〜十八節)

 バビロンの王ネブカデレザルが、自分のために高さ約三十メートル、幅三メートル程の大きな金の像を造り、皆を集め奉献式をしました。そして、この像にひれ伏して拝むように命令を下し、拝まない者はだれでも火の燃える炉に投げ込まれる、という宣言をしました。その時、主人に仕えていたカルデア人が進み出て「王様、ユダヤ人の中でこの像を絶対に拝まないという人がいます」と密告しました。そしてそれを聞いた王は、怒ってその人たちを呼びました。それがシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人です。王は、それについて本当かと問いました。すると「私たちはこのことについてあなたに答える必要はありません」と言い、「私たちが仕えている真の神は、必ず私たちを燃える炉から救うことのできる方である」と答えました。そして、「もしそうでなくても」と言葉を続けます。「神が、私たちを燃える炉から救うことなく、私たちが焼け死ぬようなことがあったとしても、私たちはあなたの金の像は拝みません」ということです。それを聞いた王は怒り狂い、番兵たちに今までよりも炉を七倍熱くするようにと命じました。あまりに炉が熱くなったので、彼らを炉に投げ入れようと連れてきた者たちが、その火炎で焼け死んでしまうほどでした。その中に彼ら三人は投げ落とされましたが、三人は、「その頭の毛もこげず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった」とあるように、やけど一つ負うことがなかったのです。そしてそこには三人ではなく、第四の人が歩いていたと記されています。それを見た王は、彼らの信じる神をあがめたとあります。 

 この三人の者たちは、特別な人ではありませんでした。彼らも私たちと同じ弱い人間です。足りないところがあります。しかし彼らは信仰によって立ち上がり、死をも覚悟したのです。

 先日、パスポートを捜している時、『たとえそうでなくても』という一冊の本を見つけました。この本は、朝鮮半島が日本の占領下にあり、文化や宗教を奪われ、クリスチャンが弾圧を受けているという背景の中で書かれたもので、著者は、現北朝鮮で生まれた安利淑という方です。書かれたのは三十年ほど前ですが、実際には七十年程前の話です。私はこれを読み返して、大きな感銘を受けました。

 安さんは、ミッション系の女学校で教師をしていました。キリスト教弾圧が厳しくなる中で、学校にも番兵と警察が来て、教師と生徒が集められて強制的に神社参拝をさせられました。初めは大した強制ではなかったものの、段々厳しくなり、だれ一人残さないで全員が外に出されて山に登って行き、神社参拝をするようにさせられたというのです。クリスチャンである安先生は、初めは一人教室に残り、参拝を拒否していましたが、ある時、校長先生から、こう言われるのです。

 「ついたちの日にはいつものとおり全校生がそろって南山に登り、神社参拝をするということを、おぼえていらっしゃいましょうね?」・・・・・・「変な思い違いはやめてください。私もクリスチャンですよ、もちろんほかの先生方もみな信者です。安先生一人が信者だと思ったらとんでもない大間違いですよ、また全校の生徒たちはほとんど信者の家庭から来ています。それだけじゃありませんよ、この学校自体がミッションスクールですからね。」

「考えてごらんなさいよ、いったい日本人の神社へ行ってなんだかわからない偶像に、最敬礼をしたくてするクリスチャンが、どこにあるでしょうか、だれだっていやですよ、しかし彼らはあまりに残忍な勢力をもって、クリスチャンたちを迫害しているではありませんか。神社参拝をしない学校は、すぐに閉鎖されますよ。あなた一人の非協力のために、この学校がどんなに迷惑をこうむるか、それくらいのことは、いくらあなたが自分のことばかり思うとしても、考えられるはずではありませんか。」

 そう言われた安先生は、「校長先生! それまでおっしゃるなら私も山に今日行きますから」と言い、全校生徒が集まっている運動場に出ました。安先生はまっさきに立って、歩いて山へ登り始めました。全校生がうしろについてきながら、話しているのが聞こえました。

 「安先生だって行くんだもの、きっと神さまは大目に見てくださるでしょうね。」「さすがに校長先生って力があるわね、安先生をとうとう引っ張り出したじゃない?」「安先生だって刑事がこわくて頑張れないらしい、だって死ぬよりもっとひどいっていうもの。」「安先生、一度頑張り出したけど、やっぱりだめだったのかしら。」「なんでも安先生のようにすれば私たちもいいわけよ。」

 生徒たちがこのように言うところを見ると、安先生は素晴らしい信仰の持ち主であり、模範的なクリスチャンだったのでしょう。そんな生徒たちの会話を聞きながら、神社に行く間、ダニエル書三章十八節の「たとえそうでなくても」の言葉を口の中で繰り返しました。そして、「そうだ、たとい神さまが私を日本人の手から救ってくださらないために殺されても、私は日本人の偶像に最敬礼をしてはならないのだ。イエスさまに救われたこの身が、イエスさまの父なる神以外のどの神にひれ伏すことができよう。私には火の燃える炉が目に見えるような気がしてきた。」と、イエスさま以外に、どんなものをも拝まないことを決心するのです。

 山に登り、一番前に立った時、決心はしたものの「次第に心が騒いで、不安の波が心いっぱいにひろがって、目先がくらくなってきた」と安先生はその時の心境を書いています。突然、「気をつけっ!」「最敬礼!」という号令がかかり、皆がいっせいに最敬礼をしました。しかし一番前にいた安先生だけは、直立したまま空を見上げていました。その時には、悩みや恐れはきれいに去って、平安だったと言っていますが、皆と一緒に下山していく時にはまた、これから捕まって拷問を受けるだろう、それを耐えることができるだろうかと、身震いするほど恐ろしく目先が真っ暗になったそうです。

 学校に戻った安先生は呼ばれて、「いったい君は自分を何だと思ってあんな無法なことをしたんだ?」問い詰められ、もう逃れられないと思われたまさにその時、突然、何か異常な別の事件が起こったため、その場から逃げることができたのです。彼女は結果的に一九三九年から六年間監禁されて、死刑の宣告を受けますが、一九四五年に終戦を迎えたため、ここでも難を免れました。その後、アメリカに渡って結婚し、ご主人とともに牧会に従事する中で、この本が出されました。

 安先生はこの本の冒頭で「私は殉教を決意し、それを目標として進みながら、遂々失格した一人の女性であります。」と告白し、人の弱さを思い知らされたと書いています。彼女は、決していつも強靱な信仰を持ってきたわけではなく、色々な状況の中で、いつも震えながら「主よ、助けてください」と自分の弱さを感じながら、神さまに励まされ続け、信仰を守り通してきました。

 今、私たちは信仰の自由が与えられ、自由に賛美でき自由に伝道できる大きな恵みの中にいますが、日本においても同じように信仰が試されるような時がありました。多くの方が、キリストを信じる信仰のゆえに殉教しました。教会にも仏壇や神棚が置かれ、拝むことを強要されました。ある人は「形だけでやればいいじゃないか。手を合わすことくらい簡単だ」と言います。「キリストの絵を踏むくらいいいじゃないか」と言います。しかし主は、私たちがどれだけ主に忠実に従えるかどうかを見ておられるのです。そこには大きな葛藤、戦いがあります。私たちは主に喜ばれる選択をしたいのです。

 私は母の胎にいる時から教会に通い、四十数年この教会の歴史を見てきました。今日ここに来られている方の中でも、そういう方は数少ないと思いますが・・・。

 この教会も初めは小さな群れでしたが、多くの方の祈りと伝道によってこのように多くの方が集うところとなりました。しかし、ここまで順調にきたわけではありません。教会批判があったり、病気や事故で人が亡くなったり、色々な問題がありました。

 特に大きな試練は、甲子園ミッションを一年後に控えた一九九二年に霊的戦いが始まり、多くの人がここから出て行かれたことでした。先生方は忙しくあちらこちらに出かけて奮闘されていましたし、また教育館ができた年で、返済が始まったばかりの時でした。もう少しで三百人礼拝が実現するという時でしたが、毎日曜日ごとに人が少なくなって、周りの人は新城教会は三年以内につぶれる、と噂していました。私もさすがに人数が百五十数人にまで減った時、「このままで本当に大丈夫だろうか。返済ができるだろうか」と不安になりました。しかし、そのような大変な状況の中でも、残されたクリスチャンが問題に目をとめるのではなく、信仰を持って、見えないところにこそ働いてくださる主に信頼し、その主を見上げ、祈り、仕えたことによって守られ、ここまできました。私もその時、今自分のできることを忠実に行い仕えていこう、という決意を新たにしたことを、はっきりと覚えています。

 信仰生活は戦いです。色々な問題にぶつかる時、神なんていないのではないか、イエスさまは私のことなんか愛していないのではないかと否定的になります。しかし、私たちの思いがどうであれ、主は一時たりとも私たちを忘れることなく、いつも心にとめてくださり、試練の中にも主は私たちのことを心配していてくださることを知ってください。

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第一コリント十章十三節)

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(第一ペテロ五章八節)

 主は、私たちを試練の中に置いたままにはされません。主に信頼し、忍耐を持って仕えていきましょう。

 もう一人、主に信頼し、仕えたヨセフという人のことを見てみたいと思います。彼は来るべきイエスさまの型と言われる人です。

『主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。』

『主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。』(創世記三十九章二節、五節)

 ヨセフは波瀾万丈の人生を送った人でした。何度もどん底を経験しました。しかし、信仰を守り通して素晴らしい祝福を得た人でした。

 十二人兄弟の十一番目に生まれ、神さまから愛され、また父親に愛され、恵まれた環境に育ちました。しかしある時、彼が見た夢を兄さんたちに言ったことによって妬まれ、イシュマエル人に売られてしまいました。その後、エジプトに売られ、奴隷として働いていましたが、主人のポティファルに信頼され、その家の全財産を任されるようになりました。しかし、ポティファルの妻の陰謀によって主人の怒りをかい、投獄されてしまいます。それでも、主はヨセフに恵みを施し、監獄の長のこころにかなうようにされました。ある時、一緒に投獄されていた二人の人が見た夢の解き明かしをしたことがきっかけとなり、王様の夢を解き明かす機会を得、エジプト全土を任される者となりました。

 彼は決して運が良かったのではありません。神さまがヨセフを使い、民を救出しようと計画されました。ヨセフは神さまの御心をとらえ、主に応えました。奴隷として売られた時、投獄された時、「もうだめだ」と投げ出してしまったらどうだったでしょう。人から見たら、あの人は何か悪いことをしたから、主に逆らったからあのようになった、あんな災難を受けたのだ、と思うかもしれません。しかしヨセフは、どん底の状態にあっても主から目を離しませんでした。神さまが立てておられる計画どおりに、歩んでいきました。その結果、彼の属する民全部を救うという、大きな祝福を得たのです。

 私たち一人一人にも神さまはご計画を持っておられます。その計画を受け取って、忠実に行うことを神さまが願っておられます。私はもう年寄りで、何の役にも立たない。私の役割は終わった、と思っておられる方がおられるかもしれません。しかし、神さまは、その人の役割が終わったなら、天国に引き上げられます。しかし今生かされているということは、まだやるべきことが残されているということです。神さまは、『死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう』とおっしゃいます。最後まで主に従い通していのちの冠を得ようではありませんか。

 今の状況がどうであれ、これからどうなろうとも、いのちをかけて忠実に主に従い、互いに愛し合い、リバイバルのために用いていただけるように歩んでまいりましょう。

 お祈りします。


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