主よ。いま御手を伸ばしてください!

2006.6.4(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 使徒の働き4章29節〜33節
主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

 ハレルヤ! 皆さんおはようございます。今日、御言葉を語ることができて光栄です。また、いつも私のためにお祈り下さり、感謝します。先週の日曜日は広島で奉仕しましたが、皆さんの祈りを感じる素晴らしい集会でした。日曜日に、新城教会以外で奉仕することがありますが、いつも礼拝で祈ってくださっているので、祝福されています。皆さんのとりなしの祈りにこころから感謝します。
 今日は「ペンテコステの日」で、教会の誕生日です。イエス様は十字架にかかり、三日目によみがえられましたが、それから五十日目に聖霊が注がれ、教会が誕生しました。教会の暦の中では重要な記念日です。
 教会とは、天から霊が注がれてできた目に見えない存在です。今から一九〇〇年以上前に、教会は地上に生まれました。イエス様はせっかく、よみがえられたのですから、そのまま地上で永遠に生きていてくだされば、それほど素晴らしいことはありません。イエス様がおられたら、どんな問題でも瞬間的に解決します。二匹の魚と五つのパンで奇跡を行われる方なので、世界中の食糧問題もなくなります。けれども、イエス様が天に帰られたのは良かったのです。なぜならば、その代わりに聖霊様が来てくださったからです。もしもこの地上にイエス様がおられたら、私たちは特別集会にイエス様をお招きしたら良いと思います。新城教会の礼拝に来てくださるようにお願いしたらいいと思います。もし来られたら、全国から人々が集まるかも知れません。ここには入ることはできないと思います。しかしイエス様がこの地上にずっと滞在されていたら、イエス様は一箇所でしか働くことができません。ここにイエス様がおられたら、他の場所にはおられません。
 しかしイエス様の代わりに聖霊様が来てくださいました。その結果、教会を通してイエス様と同じ働きを、いや、イエス様以上のわざができるというシステムを、神様がこの地上に与えられたのです。
 今日は全日本、全世界でペンテコステ礼拝がささげられていますが、そこには同時に聖霊が注がれ、神の業が広げられています。それは神の知恵です。今日は、すべての教会で聖霊について語られています。ゆえに、聖霊が強く働いてくださることを信じます。

 さて、使徒の働き二章で聖霊が注がれ、教会は誕生しますが、四章にも同じように、いやそれ以上に、聖霊が注がれたと記録されています。
 まず、使徒の働き二章一節から四節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

とあります。弟子たちは、「エルサレムを離れないで、力を受けるまで祈り続けなさい」という、イエス様の命令にしたがって、祈っていました。その時、彼らの上に聖霊が注がれました。天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響き渡り、炎のような分かれた舌がひとりひとりの上にとどまったとあります。その瞬間、今まで他国の言葉を話すことができなかった弟子たちが、外国の言葉を話し出しました。これは、全世界に福音が宣べ伝えられるということを意味しています。神の言葉は、やがて全世界に拡がっていくという預言的現れでした。今世界中に教会があるのは、この御言葉の成就です。
 そして、四章で、もう一度聖霊が注がれ、教会は揺り動かされました。今日のテキストは、この四章にある、初代教会が心を一つにして祈った、最初の具体的祈りの記録からです。そして、この祈りが、教会の祈りの原点です。四章二十九節から、

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。』

 「二、三人わたしの名によって集まるところに、わたしもいる」と言われましたが、教会の最小単位は個人です。一人ひとりが教会です。この祈りを、教会の祈りの原点としましょう。この祈りの直後に、

『彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』

とあります。この祈りを、心一つにして祈ったときに、聖霊が注がれ、地震が起こったかのように揺れ動いたとあります。このようなことが、私たちの教会にも起こされるように祈り、教会の祈りがこのようでありたいと願います。

 クリスチャンになると、見えるものではなく、見えない世界に目が開かれます。そもそも、聖霊とは目に見えない存在です。イエス様は見える存在でしたが、教会は目に見ない聖霊から始まっています。私たちは見えない聖霊の働きによって、天に帰られたイエス様を捉えることができます。また、聖書は、見えるところにではなく、見えないところに目を向けるようにと教えています。第二コリント四章十六節から十八節に、

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

 私たちは時々、がっかりすることがあります。牧師をしていると、一週間に十回位は、がっかりすることがあります。最初に入ってくる第一報のほとんどが、がっかりする事柄です。がっかりする事柄は、見える世界で起こるものです。牧師が見える世界だけで生きていたら身が持ちません。しかし、見えない世界に目を留め、見えない世界で勝利を与えてくださる聖霊様に目を留めていくなら、勇気を失いません。

 時々、自分の姿を鏡に映した途端、がっかりし、勇気を失うことがあります。鏡は嫌なものです。毎朝、自分の姿が映ります。しかしあれは実像ではありません。人は自分の顔を一生見ることができませんので、現実かどうかわかりませんが、ほとんど現実でしょう。しかし聖書は、

『外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。』

とあります。教会は外見ではなく、内側にあり、内側は日々新たにされているのです。教会の外見は衰えても、内側においては日々新たにされたいと願います。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続いていきます。

 教会とは、日々新たにされている、目に見えない存在です。教会は時代と共に推移します。新城教会は設立されて五十数年経ちます。私の両親が新城市に来たときには、何もありませんでしたが、五十数年が経ち、このようにある意味で成長させていただきました。けれども、教会に来られる方々の年代もどんどん変わっていきます。教会もある意味、牧師が若ければ、若い人にフォーカスが当たるプログラムが多いものです。しかし牧師も七十才、八十才になって若者の集会はできません。外見だけ見ていたら、教会は衰えて行くように感じます。外観だけ見ていると、「教会は衰えて来たなあ。このままどうなってしまうのだろうか…」と心配になります。

 しかし教会はそもそも、見えるものではなく、見えないものであることを知らなければなりません。外側は衰えているように見えても、内側は日々新たにされているという理解に立ちたいです。

 そして、教会の本質は一人ひとりのただ中にあります。教会はどこにあるのでしょうか。使徒の働きを見ると、祈っていた弟子たちの群れに聖霊が注がれましたが、その後、教会はどんどん広場に出て行きました。教会は、突然広場に出現しました。その結果、何と、三千人が弟子に加えられたと記されています。その後、ユダヤ教のシナゴーグの中に教会は出現し、五千人が救われたという記事もあります。ある時は裁判所の中に、牢獄、街角、また家の中に突然、教会が出現しました。

 「新城教会はどこですか」と聞かれると、「茶臼山駅前です」と答えるかも知れません。しかし、実は、新城教会は皆さんのただ中にあるのです。そしてその本質は、社会人ならば会社の中にあり、学生ならば、学校の中に、クラスルームの中に教会があります。また主婦ならば、家庭のただ中にあります。そこに主が働いてくださいます。そして、その場所の祈りとして、

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。』

 ある意味において、私たちが遣わされている場所は、「脅かされる場所」ではないでしょうか。遣わされている学校、会社、家庭などは、イエス様の名前が高められるどころか、低くされるような環境かも知れません。それは戦いの現場です。
 「私は一週間の戦いに疲れ、今日は教会に来て安らぎを得た」と言われるかも知れません。しかし実は、教会は安らぎの場所にあるのではなく、「戦いの現場」にあり、そこで神は不思議としるしを行ってくださるのです。
 「教会」と誰が名前を付けたのか知りませんが、日本語で「教会」は、「会衆を教える」と書きます。教会の一般的なイメージは、日曜日に集まって何かを教えてもらうクラスルームのような場所だと考えます。今日私は、皆さんの前に立って話しています。先生と生徒というように、会衆を教えるイメージがあります。しかし教会とは、本来、教室というイメージから、かけ離れたものです。
 昨年、天に帰られた田中政男先生が、教会も「すずめの学校タイプ」と「めだかの学校タイプ」があるとよく語っていました。「すずめの学校」とは、「すずめの学校の先生は鞭を振り振りチーパッパ…」という、権威主義的な教会。けれども、「めだかの学校タイプ」の教会は、「だ〜れが生徒か先生か…」と、どこに牧師がいるのかわからないタイプらしいのです。しかし、教室的イメージは変わりません。

 聖書は、教会は教室ではないと教えています。教える場所に止まりません。そこには、「神の家族」としての位置づけがあります。教会に来ると、一つの大きな家族になります。互いに心配し合い、祈り合い、支え合うことができます。教会の中では誰かが結婚したり、子どもが生まれたりという、嬉しいこともあります。しかし誰かが亡くなったりと、悲しいときもあります。
 先日もM兄のお母様が亡くなり、葬儀がありました。教会に来なければ、人の悲しみを背負うこともない場合もあります。教会に来たからこそ、共有する悲しみもあります。しかしこれはある意味、教会の使命です。皆で支え合う大きな家族なのです。今日ここに初めて来られた方々も、その家族の一員です。「もう家族にされたのか…」と驚くかも知れませんが、そのような意味合いが教会にはあるのです。教会に来たら霊的にも、精神的にも支えられます。

 しかし、教会には、もっと深い意味があります。教会の初めの概念は、旧約聖書にあります。教会と同一概念のヘブル語は、「カーハール」です。これは、「呼び集める」という意味です。そして、新約時代になって、ペンテコステと共に教会が出現しました。教会をギリシャ語では、「エクレーシア」といいます。「エクレーシア」という言葉は「教会」という意味合いで使われていますが、もともと「議会」という意味で使われていた言葉でした。それは、ギリシャの議会を現す言葉でした。教会を議会と同じ単語で表したのにはわけがあります。その議会で行われるのは、ただの会議ではありませんでした。それは、「種々の軍事行動に対する、作戦と宣戦布告の決定機関」(新約聖書ギリシャ語精解・バークレー著より)となっていました。
 元々「エクレーシア」という議会は、種々の軍事行動に対する作戦と、宣戦布告の決定機関だったのです。
 したがって、旧約、新約の概念を重ねた「教会」という意味は、「戦いのために、呼び集められた勇士たちの群れ」という意味になります。目に見えない世界での戦い、霊的戦いのために呼び集められた、「勇士たちの群れ」が教会なのです。その最小単位が、一人ひとりの中にあります。神様が、私たちを霊的戦いのために呼び出してくださったのです。それが教会です。

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。』

とあります。初代教会の周りには多くの戦いがありました。その戦いは、現実的戦いのように見えましたが、実は、目には見えない「霊的戦い」でした。

 現在、私たちを取り巻いている環境は、必ずしも楽な環境ではありません。5月14日のメッセージで、「時代を見分け、とりなし祈ろう」と話しました。今この世界と日本で起こっている事柄を直視し、祈らなければならないと話しました。世界中でイエス様の名前の権威を落とすような力が強く働いています。

 使徒の働き四章でも、イエス様の名前が使えないように、暗やみの力が働いていました。使徒の働き四章十七節、十八節に、

『しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。』

 奇跡が起こったことによって、イエス様の名前が高まってしまうので、時のユダヤ教の指導者たちがこう語ったのです。「イエスの名前を使うな」と迫害しました。

 現在、私たちを取り巻く環境には、ある意味で脅かしがあります。「ダビンチ・コード」という映画があり、見られたかも知れません。その小説を全部を読むと、「イエス様は神ではない、人だ」という理解に到達することが多いようです。日本人はキリスト教に対して全く知識を持っていませんので、それを読むと、イエス様が神ではなく、ただの人だと信じ込んでしまうのです。しかし「ダビンチ・コード」は、「小説」です。「この中に登場する歴史的事柄はすべて事実に基づいている」と言われても、「それも小説の一部」なのです。著者ダン・ブラウンは、「シオン修道会」から情報を得たと言われます。しかしその団体は、キリスト教の修道会ではありません。それはニューエイジ系の組織です。そのような情報で、イエス様はただの人、マグダラのマリヤと結婚して子どもがいたとか、登場する人物がイエス様の末裔だとか言いますが、それは正しい情報ではありません。

 また、聖書は権威ある書物ではなく、加筆や校正が加わり、徐々にまとまって成立したと言います。元々、新約聖書の資料は八十くらいあり、その中でマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが生き残ったというのです。これも全く事実に反したことです。そのような情報に毒されてはいけません。初代の教会の歴史家である「エウセビオス」が記しているのですが、初めの教会がエルサレム、アンテオケ、アレキサンドリア、ローマなどにできたのですが、初代教会の中心で最初から使用され、採用されていたのが「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」の四福音書であると記しています。「ダビンチ・コード」では、八十くらいの資料から、都合の良い書物が生き残ったかのように言っていますが、それは違います。「ダ・ヴィンチ・コード、その真実性を問う」という本が出されているのでぜひお読み下さい(いのちのことば社)。

 全世界的に、イエス様の名前が使えないようにという、暗やみの力が働いています。その根底は、ヨーロッパの長いカトリック支配に対する反発から出た、「理神論」が強く影響を与えています。この度私は、『神の栄光を取り戻せ!』という本を書きました。そこにも詳しく書いてありますので、ぜひお読み下さい。理神論は矛盾に満ちています。神の存在は認めるが、不思議やしるし、聖書の啓示性は認めないという矛盾です。「理神論」とは、「有神論」から「理神論」、さらに振り切って「無神論」になる中間的なものです。十八、十九世紀、その考え方がかなり力を持っていました。そして、それが形となったのが「フリー・メーソン」という団体です。今回の「ダビンチ・コード」も、フリー・メーソン的思想が背景になっています。悪魔は、イエス様の神性を何とか落とそうとしています。初代教会は、「不思議としるしを現してください!」と祈っていますが、日本の多くの教会は、「不思議としるしは認められない」といいます。私たちの教会は、今でも不思議としるしが起こるという立場に立っています。教会で不思議としるしが起こらなければ、何も意味がないのです。今でも不思議としるしは起こります。外側は古くなっても、内側は日々新たにされているのです。激しい聖霊様の働きは、今もあります。

 しかし、日本の多くの教会が「それは過去のことで、聖書が成立する当時にはあったかも知れないが、ただの記録に過ぎない」と言います。そして、現代のクリスチャンは、その記録である聖書の言葉を知ることであると考えています。その根底には、「ダビンチ・コード」と同じ、「理神論」の影響があるのです。それは人間の理性で神を解き明かそうという高ぶった考え方です。世界の背後に、神の法則を人間側から解き明かすという、おごり高ぶりがあります。そして、神の権威を地に落とそうとする、悪魔の働きがあるのです。

 同時に日本国内でも、戦後六十年という事で、色々な動きがあります。「これからの日本は大丈夫だろうか…」と思います。最近、政治関連のニュースを見るだけで、ハラハラします。六十年は還暦と言います。還暦は輪廻との関係があります。還暦なのですべて一巡した、過去をすべて水に流してしまおう、と言うのです。六十年間我慢したから、これで良い、アメリカから押し付けられた憲法を捨て、独自のものを作っても良いのではないか…。そして、日本の伝統と文化を尊重する教育をしなければならない、という気運が高まっています。「新教育基本法」では、日本の伝統と文化を教育するねらいがあります。それは神道教育です。「神社は日本の心のより所で宗教ではない」と言っています。それをサポートするために、小泉首相は靖国参拝をし、徐々にその方向へと進んでいます。

 先週、「共謀罪」という法律がクローズアップされました。共謀罪は、国際テロとの関連で成立が図られていますが、世論としては大きな反発があります。しかし政府は、その法案を何とか通そうとしています。その法律が制定されると、ちょうど第二次世界大戦時のような環境が生まれる危険性もあります。これから、どのように展開していくのかわかりませんが、祈りが必要です。

 私たちクリスチャンは、そのような環境をしっかりと捕らえ、「主よ。今、御手を動かしてわざを行ってください」と祈らなければなりません。初代教会の祈りは、現代にも通じる祈りです。

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。』

 今週、この祈りをご自分の祈りとしてください。

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 周囲の環境は大変でしたが、信じた者たちが心を一つにして、すべての持ち物を共有にしていたというのです。その時、大きな恵みが信じた者たちの上にあったとあります。周りがどんなにハードな環境であっても、私たちは心を一つにし、すべての持ち物を共有にすることが大切です。けれども、「すべての持ち物を共有する」とは一体、どのような意味なのでしょうか。

 教会とは、キリストのからだであって、一人ひとりが各器官です。そして、器官とは賜物であると前回語りました。共有するとは、霊的賜物を一つにし、共有するという意味です。ヤコブ四章六節から七節に、

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 ここには、『神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。』という一つの対比があります。へりくだることは、謙遜な態度とも理解できますが、聖書の「へりくだる」とは、「神に従う」という意味です。この「従う」とは、ギリシャ語の「ヒポタソー」という言葉が使われています。そして、「従う」とは、「元々軍隊用語であり、指揮下に服従させる、配備につくという意味」(織田昭「ギリシャ語小辞典」より)です。

 従うことは、配備につくという意味です。神様は、一人ひとりに賜物を与え、「あなたはこの場所で配備について下さい。この場所を守ってください。ここを祈ってください」と命じられます。へりくだるとは、神様から与えられた役割にしっかりと位置付くという意味です。その時、一同に豊かな恵みがもたらされ、不思議としるしが教会の中に現れるのです。それはすなわち、一人ひとりの使命が果たされることです。

 教会は各現場にあります。本部教会は、現場に物資を送り、力を送る場所であるべきです。最近、コンビニエンス・ストアーがたくさんありますが、コンビニには必ず本部があります。しかし本部は目立ちません。各売り場が目立ちます。本部の役目は、売り場が困らないように、いつも商品を供給する役割です。

 本部教会も同じです。現場教会が困らないように、必要な聖霊の力や油注ぎ、情報を提供する場所でなければなりません。なぜなら、教会は脅かしのただ中にあるからです。主は不思議としるしを持って、私たちに答えてくださいます。すでに、配備について祈ってくださっていることを感謝しています。

 私は牧師として、皆さんが霊的に欠けることがないように、真剣に本部としての役割を果たしたいと願っています。会社や家庭に、聖霊の力が注がれるように日々祈っています。

 先日素晴らしい証を聞きました。ここには、色々な職業の方々がおられ、色々な働きをされています。夜勤で、夜中に配達に行くような仕事の方もおられます。

 そのような仕事をされている方から、こんな証を聞きました。彼はいつも夜中に運転をしています。すると、神様からこのように語られました。「新城教会はいつも祈っているが、夜中は祈りが薄くなる時だから、あなたが祈りなさい」と語られたそうです。それで、その使命を果たすことを決意し、真夜中に祈りながら仕事をするようになったそうです。

 ある晩、祈っていたとき、突然、幻を見せられたそうです。天からこの地域を見るような幻だったそうです。すると新城市が見えました。周囲の地域には厚い雲が覆っていたそうですが、新城市の上だけは、ぽっかりと光り輝いていたそうです。雲がなかったそうです。そして、教会がはっきりと見えたそうです。

 また、自分が祈りながら通った所は、光る筋がついていたというのです。それを見て、たいへん嬉しかったそうです。自分の祈りは聞かれていると励まされたそうです。

 私もそれを聞いてとても嬉しかったです。そして私たちが最近、「この地域を祈らなければならない」と示されていた場所に、特に黒い雲が覆っていたそうです。神がキリストのからだの中で、配備についている人に祈りを与えてくださいました。祈りは決して無駄ではありません。

 先週は教会スタッフたちが、その祈りに一晩加わらせていただきました。皆さんの祈りが暗やみの力を破るために用いられます。使徒の働き五章十二節から十六節に、

『また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』

 周りはハードな環境でしたが、一同が配備について祈ったときに、初代教会に素晴らしい神のわざが現されました。教会には来ないが、人々はクリスチャンを尊敬していたとあります。そして、同時に救われる人が次から次へと起こされ、最終的には、ペテロが通るときの影に触れるだけで病人は癒されたというのです。そして、

『大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』

とあります。このような業を起こしていただきたいと切に願います。今日も、病や苦しみの中で教会に来られた方がいるかも知れません。ここに、「その全部が癒された」と記録されているならば、昔よりも新たにされている教会には、もっとすごいことが起こっても良いのではないでしょうか。

 不思議としるしがどんどん起こされるよう、信じて祈りつづけましょう。教会の誕生日であるこの日に祈りましょう。初代教会の祈りを、私たちの祈りとし、「主よ。いま、御手を伸ばしてください!」と心から叫び、祈りたいと思います。

 そして、一人ひとりが役割を果たすように、聖霊に満たされ、配備につくことができるように祈りましょう。

 使徒の働き四章二十九節から三十節の御言葉を宣言して祈りましょう。

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。』

 「ハレルヤ、主よ感謝します。今私たちはこの御言葉を、私たちの祈りとしてささげました。どうか初代教会に聖霊が注がれ、その場が揺り動いたように、今日も同じ聖霊を注いでください。そしてあなたのみ業、しるしと不思議が起こりますように。今、この日本と世界で、あなたの御名が落とされるようなことが多く起こっていますが、あなたこそ神であり、救い主であることがはっきりとわかるようなみ業を現してください。今、私たち一人ひとりを配備につかせてください。学校、会社、家庭の中において、あなたの場所に配備され、役割を果たすことができますように。聖霊の力を注いでください。そして使徒の働きに記されているような事が、この教会にも起こされますように。今日も不思議としるしが現されますように。主のみ業が現されますように。すべての栄光をお返しします。イエス様の御名を通して、勝利を宣言してお祈りします。アーメン」

 


[バックナンバー]