あなたの目は健全ですか?

2006.6.11(SUN)
新城教会 上條 実牧師

新約聖書 ルカの福音書11章32節〜36節
ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。

 ハレルヤ!久しぶりに御言葉を語ることができますことを感謝いたします。先週は恵まれたペンテコステの礼拝を持つことができました。クリスチャンになると、見えるものではなく、見えない世界に目が開かれる。そもそも、聖霊とは目に見えない存在です。約二千年前にお生まれになったイエス様は見える存在でしたが、教会は目に見ない聖霊様から始まり、私たちはその見えない聖霊の働きによって、天に帰られたイエス様を捉えることができると学びました。第二コリント四章十六節から十八節

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

私たちは見えない世界に目を留め、見えない世界で勝利を与えてくださる聖霊様に目を留めていくなら、勇気を失うことはありません。今も現実に生きておられる神です。その神によって不思議としるしがどんどん起こされるように、私たちは信じて祈りつづけましょうと教えられました。では今日特別学んでいきたいみことばはルカの福音書十一章三十四節の御言葉です。

『からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。』

ここに「目が健全なら」という言葉があります。いかがでしょう?あなたの目は健全ですか?「はい。視力は良いですよ。一・五あります。老眼でもなく、白内障や緑内障でもなく、はっきり見えます」と言われる方がいるかも知れません。しかし今日学びたいのは、実際に見えるものではなく、見えない世界に目を留め、見えない世界で勝利を与えてくださる聖霊様をどれだけ、目を留めているか?あなたの霊的な目がどれだけ開かれているのか?健全であるのかどうかを学んでいきたいと思います。

私たちクリスチャンでも多くの問題があります。全く問題がないと言い切れる人は余程の鈍感な方かも知れません。誰もが問題を持っています。ある方は非常に大きな問題に直面しているかも知れません。またある方は重たい病いだったり、多くの負債があり、経済的に窮している方がいるかも知れません。しかし私たちは祈ることを知っています。みことばで祈れば、何でも答えられるとわかっています。その時は目に見えない方に目を留めなくては行けないと信じて祈ろうと思います。しかし一歩教会から外に出てしまうと、もう現実の世界だけに生きてしまうことが多くあります。主はあなたに素晴らしい祝福を与えてくださると約束されています。祈れば必ず祝福下さる。完全勝利を与えて下さると言うことはわかっています。しかし現実の世界を見せられて、大丈夫か不安になります。すると訴えるもの悪霊が、さらに語りかけてきます。ある人は病気になると、すぐに自分に罪があるのではないか思わせます。また悪霊の攻撃にやられたのではないかと思わせます。自分は汚れている。霊的戦いの祈りなんかできる器ではない等、自分を責めはじめ、諦め始めます。訴える者は「そうだ、絶対にそうだ」とさらに否定的なこと、現実の世界を受けとめさせます。そして見えないものは見えなくなります。信仰がなくなります。祈れなくなります。目が不健全になり、信仰どころか、悪霊のことばを信じてしまいます。そして自分しか見えなくさせます。他の人はすばらしく祝福されているが、自分は神に愛されていない。やはり私は神に愛される資格のないものだ。他の人がどんなに困っていても気にならない。極端に言うと、そんな状況になってしまいます。ものごとがすへて自己中心的な考えになってしまいます。

 六月三日土曜日。夜九時からテレビで大変興味深い番組がやっていました。それは「世界がもし百人の村だったら」という放送でした。皆さんの中でもご覧になった方がいらっしゃるかも知れません。息子が見ていて、「お父さん見た方が良いよ」と勧めてくれて、見始めました。まず始めに、ウクライナという国の九才の男の子。その子は父親に暴力され、家から逃げだして路上生活をしていました。ストリートチルドレンです。父親がエイズにかかり、彼も感染していました。マイナス二十数度という極寒の中で、たくましく生き延びているのです。マイナス二十数度なので、金を稼くために車が雪にはまり込んでしまっている所に行き、雪かきをし、わずかなお金で得ていました。ある日本の女優がレポートしてしていましたが、寒空の中「今日初めての食事」と言って、粗末なものを食べていました。しかし少年はそのレポーターに「食べる?」と勧めていました。やっと得たわずかな食物。しかし他の人を顧みているのです。なんとすごいことだろうと思いました。

また、ガーナという国では十一才と六才の男の兄弟がカカオ農場で、学校に行けずに働いていました。日の出とともに起きてまず二十分ほど歩いて行き、水をくみそれを、また二十分かけて持ち帰る。その作業を三、四回繰り返していました。その後真夏の炎天下の中木に登ってカカオの実を落とす作業をする。ボーとしていたら制裁をかけられる。大変な状況でした。学校にも行けず、兄さんが持っていたたった一本のボールペンでインクがな

くなるまで、弟に勉強を教えていました。そんな中、ふと現実に帰って我が子を見ると、ソファーに寝ころびながらアイスクリームを食べ「すごい世界があるんだなあ」と感心していました。私たちは恵まれ過ぎています。既にご存じかも知れませんがもう一度「世界が百人の村だったら」と記事をご紹介したいと思います。

「世界が百人の村だったら」

『五十七人がアジア人で、二十一人がヨーロッパ人、十四人が南北のアメリカ人、八人の アフリカ人です。

 女性が五十二人、男性が四十八人。

 七十人が黄色人種、三十人が白人。

 七十人がキリスト教徒以外で、三十人がキリスト教徒。

 八十九人が異性愛者で、十一人が同性愛者。

 六人が世界全体の富の五十九パーセントを所有し、その六人ともがアメリカ合衆国である。

 八十人が標準以下の居住環境に住み、

 七十人が文字が読めず、

 五十人が栄養失調。一人が死に一人が生きている。

 一人、そうたった一人が大学で教育を受け、

 一人がコンピューターを所有している。

 もしこのように縮小された全体図から私たちの世界を見るならば、相手をあるがままに 受け入れること、自分と違う人を理解すること、そしてそういう事実を知るために教育 がいかに必要かを火を見るように明らかです。次のこともじっくり考えてみましょう。

 もし、あなたが今朝目が覚めたとき、病気でなくて健康だなと感じることができたなら、 あなたは今生き残ることができないであろう百万人の人よりも恵まれています。

 戦いの危機や投獄される、孤独や投獄の苦難、あるいは飢えの悲痛を一度も経験したこ とがないならあなたは世界の五億人の人よりも恵まれています。

 もしあなたの家の冷蔵庫に食糧があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場 所があるなら、あなたはこの世界の七十五パーセントの人よりお金持ちです。

 もしあなたが銀行にお金を持ち、お財布にもお金を持ち、家のどこかに小銭の入った入 れ物があるならば、あなたはこの世界の中で最も裕福な者の上位八パーセントのうちの 一人です。

 もしあなたがこのメッセージを読むことができたならば、あなたは全く文字を読めない 世界中の二十億人の人よりも恵まれています。

 世界の多くの人々が置かれている状況とあなたが置かれている状況を比べて見て下さい』

この文章を読んでどのように思われますか?あなたは今、世界視野で見た中で、どの位置に立っていますか?先ほどご紹介したウクライナという国の九才の男の子。ガーナという国の十一才と六才の男の子。その子ども達と比べて見て下さい。何と自分は恵まれているのだろう。食べるものが有り余り、寝る場所があり、お金があり、世界の中でも最高の位置に立っています。あなたが今どんなに問題があっても、経済的に乏しいと言っても、あなたの立場は、飛行機で言うならば、ファーストクラス。いや王様のような立場にいるのです。自己中心な心から、世界に目を向けて下さい。最悪と思っていた出来事も、最高に恵まれているとわかってきます。目に見えない存在ですが、聖霊に目をとめてください。すべてみこころの中で、私たちは生かされています。私たちを今現在のポジションに立たせてくださっています。見えるものではなく、見えない世界に目を留め、見えない世界で勝利を与えてくださる聖霊様を信じましょう。せっかく神様より一日二十四時間を日々与えられているにもかかわらず、その時間を喜びがなく、悲しみに満たされて闇の中を過ごしていませんか?見えない世界に目を留めましょう。見えない世界で完全勝利を与えてくださる聖霊様を信じましょう。霊的な目を健全にして頂きましょう。「すべての事について感謝しなさい」とあります。目の見える所でふりまわされるのではなく、既に完全勝利があることを信じてください。あなたが悲しんでいること、また病んでいること、どんなことも既に勝利があります。戦い始めて下さい。あなたが戦い始める時、見えない世界で完全勝利を与えてくださり、それが目に見える部分が完全勝利することができます。またウクライナのエイズにかかっているあの少年は、究極的に貧しい中でやっと得た食糧。一人で食べても足らない食事の量にもかかわらず、見も知らずの日本から来た女優レポーターに「これ来れ食べる?」と分け与えていました。また十一才と五才のガーナの子は、お兄さんが一生懸命弟に勉強を教えていました。十一才の子は弟に「僕が一生懸命働くから弟が学校に行けたらいい」と語っていました。どんな境遇の中でも、自分のためだけではなく、人のために分け与える愛を持っていました。またその子どもたちが夢を語っていました。僕の夢がこれだとハッキリと語っていました。すべてに考え方が前向きです。しかし私たちはどうでしょう?捨てるほどものがあるにも関わらず、人を愛せません。いや今の世界では自分がすこしでも都合が悪いと、人を殺してしまうような時代になってしまっています。また最高の学びができているのに、学校に行きたくない等の理由で、自分から学びをやめてしまっている人がいます。今あなたはどこに立っていますか?見えない世界はもとより、目に見える部分でも、全く目が見えなくなってしまっている状況です。私たちは今日空調設備が整う中素晴らしい音響システムがあり、照明システムがあり、最高の条件の中礼拝を守っています。また礼拝後は教育館やカフェ、マルイチの出店などで何を食べようかと迷うほどのものがあります。何を食べようか悩んでしまうほどです。心から感謝しましょう。こんな素晴らしい国、町、家、教会に住まわせて頂いています。私たちは悪魔の訴えを聞いてしまっています。神様が良くしてくださると知りながら、悪魔がささやく言葉に「そのとおり」と信じてしまい、目が目隠しに、不健全になっています。そしてダメだと告白してしまっています。今日あなたが今立っている場所を点検してください。世界の中で、最高の祝福の場所に立っています。自分中心で自分のことしか考えられなくなっていませんか。主に目を健全にしてもらいましょう。ルカ十八章四十一節〜四十三節には

「彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」

とあります。あなたが「主よ。目が見えるようになることです。」と願う時、イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」目を開かしてくださいます。今朝ルカ二十四章を読みました。イエス様がよみがえられた後のことが書かれています。ルカ二十四章十三節から十八節に

「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

とあります。そして二十九節から三十二節

「それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

「食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」とありました。聖餐式をしました。すると「目が開かれた」のです。私たちも今日聖餐式を持ちます。その聖餐式で目を開かせて頂きましょう。目を健全にしていただき、目に見えない聖霊様の働きをしっかりと見せていただきましょう。しるしと不思議をしてくださる神様です。

また先週はペンテコステの日でした。教会はペンテコステの時に生まれました。教会は第一コリント十二章十四節に、

『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。』

またコロサイ一章十八節に、

『また、御子はそのからだである教会のかしらです。』

とあります。教会は聖霊降臨によって生まれ、御子であるイエス様がかしらであり、私たち一人ひとりは各器官です。また第一コリント十二章十八節に、

『しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

とあります。あなたは各器官です。その各器官がここに書かれているように、

『神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

あなたはみこころに従って備えられた。神の計画の中であなたがこの教会に特別選ばれて、一つの器官をになっています。神のみこころがあなたにあります。あなたは神の計画で、新城教会という体の一つの器官をになっています。人間のからだは二百六個の骨があり、四百種類の筋肉があり、循環器や消化器と呼ばれる十個の内臓と呼吸器、感覚器という表面の器官から成り立っていると言われています。その筋肉や骨のひとつが正常に動かなければ、体は不自由になります。私は二年前の名古屋リバイバルミッションの少し前に、自分の不注意で右手の中指に傷をしました。あまりにも痛みがあったので病院に行くと、骨には異常がないが、腱が切れていました。そのため切開手術をして腱を結びました。目に見えない部分ですが、腱が切れると大変不自由です。そのままにしていたら、固まって指が曲がらなくなったと思います。あなたに教会の一部分として、目に見えない部分であっても、正常に動かないならば教会は困難を覚えるのです。第一コリント十二章二十二節から二十七節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

からだはイエス・キリストがかしらで私たちは各器官です。あなたが苦しめば、全てが苦しみます。また比較的弱いと見られる器官ほどなくてはならないものだというのです。今日教会の中でも「目を健全に」していただきたいと思います。我が家で昨年末から今五歳になる男の子を預かっています。大変元気の良い子です。それまでの五人の家族の中に、たった一人、それも幼子の五歳の男の子が来ました。今まで男三人を育てて来たので、今回も大丈夫だと安易に思っていました。しかし現実はそうではなく、大変なことが色々あります。たった一人その子が入ってきただけで、我が家は変わりました。食べ物がまず変わりました。カレーも辛口が甘口になりました。また火曜日はお休みをいただいていますが、今までは自分勝手のやりたいことをしていましたが、先月は動物園にその子どもを連れて、何年ぶりかに行きました。子どもと弁当を持って動物を見て回り、乗り物に乗ったりしました。時間の使い方も変わりました。お風呂や彼の部屋には皆さんから頂いたおもちゃで溢れ、彼中心の生活です。ひとりが家族に加わっただけでこんなに変わるものだと実感しました。教会はイエス様がかしらで私たち一人一人が各器官です。先日も感謝な事に三人の方がバプテスマを受けられ、神の家族に加わりました。本当に多くの人が信仰を持つことは素晴らしい恵みであり、祝福です。今日の礼拝も三百数名の方が来会し、素晴らしい賛美をささげ、祈り、御言葉に耳を傾けています。私たちは神の家族が多くなることは感謝な事ですが、どれだけ神の子どもが増えたことを、意識して祈っているだろうかと我が家と比較しながら教えられました。目が不健全になってしまっています。良いですか?五人の中にひとりの子どもが入ってきただけで、生活ががらっと変わりました。何もかもが彼中心に動いています。しかし私たちは神のからだであって、神の家族です。その体に新しい方が加わって家族になったにもかかわらず、あまりにも関心がないのです。他の人どこに住んでいて、どのような生活しているか?何を悩み、どんな問題を持ち、どんな病を持っているのか、全く分からないのです。私たちのからだが痛んでいても、全く痛みがわからないのです。教会の体も、自分しか見えず、他が全く見えない、痛みがわからない程、教会が大変な病気にかかってしまっています。体が生きていません。生きているようで死んでしまっています。しかし第一コリント十二章二十六節に、

『もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』

とあります。今日も受付で、週報を頂いたと思います。その中に祈りの課題があります。週報を見て、今日の日曜日だけ祈り、その後祈らずに終わっていませんか?体の中の器官が一つ苦しめば共に苦しむのです。バプテスマを受けられた方々の祝福と成長のために、お祈りしていますか?「目が健全でありなさい」目を開かせて頂きましょう。全員の方々のお名前を覚えることはむずかしいかも知れません。しかし週報の中には色々な情報があります。誕生日者、病気の方、奉仕者そして祈りの課題等多く書かれています。ぜひ、週報を見て祈ってください。あなたは毎週配布される週報をどうしていますか?是非すぐに処分しないで、それを見てとりなして下さい。あなたの知らない方々のお名前が掲載されています。是非覚えてお祈り下さり、互いに交わり、祈りの課題を交換し、祈りあい、愛し合いましょう。もっと関心を持ちましょう。「互いが分裂がなく」とあります。一つになっていくことが大切です。そうすることによって教会は健康体になっていきます。教会が健康になるということは、私たちの病や問題も健全になっていきます。あなたが教会のために、各器官のために祈り始めたら、主は不思議なことをしてくださいます。「目を健全にして下さい。」一人加わっただけでも我が家は、大変な騒動!!しかし教会は体にもかかわらず、一人加わった事で感謝してもその方に対して、全ての兄姉に対して全く無関心ということはおかしいことです。もっと体に関して関心持ってください。あなたが一つの器官として何をしたらいいのか、見えていなかったところを見せて頂きましょう。とりなしましょう。兄姉と交わり関わりましょう。

『神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

あなたのみこころは何かを教えて下さい。しっかりと目が見えるように、「目が健全であるよう」お祈りしましょう。あなたが一つの器官として祈り始めていくならば、教会に不思議としるしが始まります。始め読んで頂いた聖書箇所に

「ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

とあります。ヨナがニネベで伝道しました。ニネベはその当時イスラエルを統治し、植民地としていたアッシリアの首都でした。そこにヨナが行き、四十日経ったらこの国は滅ぼされると語るように言われました。ヨナはその言葉に従えませんでした。しかししかし信仰を持って出て行ったときにニネベの町が変えられました。王様までもがが灰をかぶって悔い改め、祈りました。「しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」とあります。真の神であり、何でもできる神様が、今日あなたと共にいます。あなたが自分のことだけではなく、目を健全にして頂き、兄姉のために祈り初め、問題、病のために祈り始める時、素晴らしい勝利を頂くことができます。今までは問題があっても「これは運命だ」「自分の蒔いた種」とあきらめていませんか?しかしあなたの目が開かれて、何が原因なのか?何に対して戦っていったら良いのか?戦わなければいけない敵が見えてくると、勝利があり「見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないもの。神の備えてくださったものは皆そうである」圧倒的な勝利と祝福に満たして頂くことができます。お祈りしましょう。

「ハレルヤ、天の父なる神様。今日のみ言葉を信じて祈ります。どうかあのペンテコステの時、教会に聖霊が注がれ、素晴らしい祝福を与えて下さいました。今日も同じ聖霊を注いでください。しるしと不思議が起してください。まず私たちの目が開かれますように、目が健全でありますように。何を祈らなければいけないか?何に対して戦わなくてはいけないか?目を開かせて下さい。霊的な目が健全でありますように。一つの器官として役割を果たすことができますように。聖霊の力を注いでください。今日も不思議としるしが現されますように。イエス様の御名を通して、勝利を宣言してお祈りします。アーメン」


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