ことばをとり戻せ!

2006.6.18(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 使徒の働き 2章1節〜4節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 ハレルヤ!おはようございます。今日ここで御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。今日は、「父の日」です。父の日は、母の日があるから設定されたようなところもあるのかも知れませんが、今日は十分にお父さんに感謝して欲しいと思います。私の娘が初めてプレゼントをくれました。Tシャツとカードが入っていました。

「祝・父の日。いつも本当に…」そして、次を見ると、「お父さん、ださい」
と書いてありました。「なんだ、これは…」と思いました。そしてさらに開いてみると、「お父さん。言わせてください。いつも本当にありがとう」という落ちがあり、面白いカードでした。感謝の言葉を互いに告げ合うことは嬉しいです。
 私の父・明のためにもお祈りいただきありがとうございます。七十八年の生涯で初めての手術で、入院するのも初めてで、採血するのも初めてでドキドキしたと言っていました。手術の後に「痛かった?」と尋ねると、「眠かった。」と言っていました。もうしばらくしたら退院します。

 さて、今日は「ことばをとり戻せ!」というタイトルで、御言葉を語りたいと思います。教会は、ペンテコステの日に、聖霊によって始まりました。二週間前に、ペンテコステ礼拝を守りました。教会の始まりとは、「失われたことばをとり戻した瞬間」でもありました。
 私たちは毎日の生活の中で、同じ日本語を話していますが、案外、言葉が失われています。親子、夫婦、親族などの間、さらに、色々な領域で言葉を失っています。
 言葉とは、「人間が互いに意志を伝達するために用いる主要な手段」と定義付けられています。思いを互いに伝え合うための手段です。伝達の中心は「音声」ですが、「文字」もあります。最近は、文字で言葉を伝え合うことが多いようです。メールというコミュニケーションの形態があります。お父さんとお母さんはなかなか話し合えないけれど、メールで本心を伝え合うという、少し淋しいところもあります。また親子でも「おはよう」と口に出して言えないが、メールで言うことができることもあります。
 また今日はメッセージ通訳を手話でもなされていますが、手話も言葉です。人間は唯一言語を持った、言語を操る動物です。言葉によって、互いにコミュニケーションを図ることができます。これは他の動物にはありません。人類とは、神が特別に、言葉を発するように創造されたのです。そう言うと、動物愛好家の人は、「犬だって、猫だって言葉が通じますよ」と言われます。
 私の家内は犬語がわかります。私には「ワン、ワン」にしか聞こえないのが、お腹が空いたとか、トイレに行きたいとかわかります。以前に我が家でも、犬を飼っていました。犬や猫の言葉がわからない人のためには翻訳機があるようです。翻訳機を使うと、猫の言葉がわかるそうです。しかしそれは、言語ではなく、ただの要求です。
 神は人間に、お互い、意志を通じさせるための機能を与えられました。日本人は日本語を話しています。それは当然だと思っています。しかしある意味で、話している言語が、国民性や国民感情に大きな影響を与えます。

 日本語はとても便利な言語だと思います。汎用性は低いのですが、日本語は便利な言語です。たとえば、「私は教会に行きます」と言います。しかしそれを英語に訳すと、「I go to church.」と言います。文法的に言うと、日本語は主語の次に目的語が来ます。そして最後に動詞が来ます。
 しかし英語は、最初に主語で次に動詞、最後に目的語です。アメリカ人は、「私は」「行きます」「教会へ」という語順でお互いに、コミュニケーションをしています。しかし、日本人は、「私は」「教会へ…」まで語り、次に相手の顔色を見て、「教会に行こうか…、やめようか」と迷います。そして、最後に意志を決定します。最後に自分の意志決定としての動詞を加えれば良いのです。ですから、ある意味、動詞はあまり必要ありません。日本語は目的語を聞けば、大体通じます。動詞は聞かなくても推測できます。相手の様子さえ見れば、コミュニケーションがなり立ちます。ですから、日本語は便利だと思うのです。
 日本人にとっては、日本語のような語順でのコミュニケーションは普通だと思っています。しかし最初に結論を言わないので、結果的に曖昧な国民性になります。日本人は曖昧だと言われます。それは、案外、話している言葉の構文が影響している場合があります。
 日本から一歩外に出ると、みんな自分の意志をはっきりと伝えます。それで傷つくこともあります。それは先に結論を言う言語が多いからです。「私は止めます」「私は行きます」と結論を先に言ってから目的を言います。小さな頃から、このような構文の言葉を使っていれば、性格的にも強くなり、はっきりしてくるのも仕方がないのかもしれません。しかし世界にはさらに面白い言葉もあります。最初に目的語、次に動詞、主語と続く言葉もあるようです。「教会へ」「行きます」「私」という感じになります。色々な国の言葉や方言があり、世界には五千から六千の言葉があるようです。けれども、段々、言葉の数は減っているようです。
 私は三河地方に住んでいます。三河の人は三河弁を話します。この地方の人たちは三河弁が標準語だと思っていますが、結構通じないときがあります。
 何年か前に、大阪で集会がありました。その時にジャンケンゲーム大会がありました。それを仕切ったのが岡本信弘先生でした。彼はその中で、「グー、ピー、パー」と言いました。私たちはわかったのですが、皆、首をかしげていました。「ピー」というのが分からなかったみたいです。正しくは「チョキ」と言うらしいのです。そして「○○の必要な人はウラでもらってください」と言いました。「ウラ」という言葉がわからないというのです。正しくは「うしろ」です。 通じませんでした。私たちは「全日本リバイバルミッション」の働きをしていますが、そこで普通に三河弁を使っていますが、結構通じないときがあります。私も悔しいので、標準語について調べてみました。すると何と、昔は三河弁が標準語でした。江戸城は徳川家康が作りました。そこでは、三河弁が標準語として使われていたそうです。しかし、諸大名が全国から来て、麗しい三河弁が崩れのです。それで江戸弁になったのです。三河に住む者たちは、これが標準語だと思って自信をもって話せばいいのかも知れません。

 言葉は人間だけに与えられているものです。しかし、もとは神の領域から出たものなのです。言葉は強力です。言葉は人を活かし、また殺すものです。言葉の使い方はなかなか難しいです。私も言葉が多いので、祈りつつ語っています。時々、皆さんを傷つけてしまうこともあるかも知れません。高いところからですが、お詫びをしたいと思います。傷つけるつもりではなくても、「順先生。今日のメッセージで傷つきました」と言われることがあります。言葉に力があるのは、それは神の領域に属するものを、使わせていただいているからです。「新約聖書の創世記」と言われる、ヨハネの福音書一章一節から五節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

とあります。一節に、『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』とあります。「ことば」とは「イエス様」を表しています。擬人法を使って、イエス様をことばに置き換えて、「はじめに、ことばがあった」と記しています。初めにイエス様がおられたということを表しています。ヨハネの福音書一章一節から五節をリビングバイブルで見ると、

『まだ何もない時、キリストは神と共におられました。 キリストは、いつの時代にも生きておられます。 キリストは神なのです。このキリストが、すべてのものをお造りになりました。 そうでないものは一つもありません。キリストには永遠のいのちがあります。 全人類に光を与えるいのちです。そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみも、この光を消すことはできません。』

とあります。ことばとは、イエス・キリストであると教えています。創世記一章一節から三節に、

『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』

とあります。「ことば」を発せられたお方とは、ヨハネの一章と合わせると、「イエス様」であることがわかります。イエス様が、「光よ、あれ」と「ことば」を発したときに、すべてのものができたのです。ことばで天地万物を創造したのですから、神のことばの中にすごいパワーがあります。

 「はじめにことばがあった」という「ことば」とは、どんなものだったのでしょうか。低い声だったのか、高い声だったのか、しゃがれ声だったのか、うなり声だったのか、また、美しいハーモニーだったのかわかりませんが、何らかの、完璧な言語が発せられたはずです。それを日本語に翻訳すると、「光あれ」ということばでした。それで、地球ができ、神の創造の奇跡が現されました。イエス様がすべてを造られたということは、今日ここにおられる一人一人は、神のことばによって創造されたのです。
 日本人は不思議なもので、霊的な存在は否定しません。「おばけ」、「幽霊」など、霊的存在は認めています。しかし、「創造主」となると、あまり認めることができないようです。
 先々週、中高生の「レッツプレイズ」がありました。百八十名程が集まりました。中高生が一年に二回くらい集まります。それは恒例になっており、近くの中学校、高校にチラシ配布をすると、多くの子どもたちが集まってきます。それはすごい光景です。何を目的に来るかというと、第一にステーキ食べ放題だからです。その後にコンサートがあり、メッセージタイムがあります。私は色々な所でメッセージを語らせていただいていますが、一番辛いのは、「レッツプレイズ」です。今日は皆さんが真剣に聞いてくださり感動していますが、中高生たちは、メールを打っていたり、一人がトイレに行くと、十人位が一緒に立って行くような状況です。いつも私にメッセージをするように頼まれます。私は、「ここで負けてはいけない」と思い、真剣に祈って御言葉を語ります。今回も何を話そうかと真剣に考えていました。
 そして、「ねえ、みんな、霊体験したことがある?」と切り出しました。すると、みんなが私を注目しました。「金縛りにあったことがあるか」とか、「霊を見たことがあるか」と聞くと、皆が真剣になりました。学校に行っても、私のメッセージが評判になって、「あの教会の牧師は恐ろしい話をした」と評判になっていたようです。やはり皆、霊的な存在に対しては、興味があるようです。何か目に見えない力があることを感じています。
 しかしそれに引き替え、天地を造った創造主というと、「そんなことがある?学校では猿から進化したと教えられたよ」と言います。しかしそれは違います。人間は猿から進化したのではなく、元々、神によって作られたのです。猿に言葉を教えて、どのくらいまで発達するかという実験が何度か行われたそうです。しかし猿たちは、うまく習うことができなかったそうです。言語を習得できるのは人間だけです。
 人間は子どもの頃のほうが言語能力が高いようです。新城教会にはインターナショナルのミニストリーがあります。土曜日の夜にたくさんの方々が集まります。スペイン語やポルトガル語を話す人たちが集まります。中には子どもたちもいます。子どもたちは皆、日本語を話しています。それも三河弁です。またポルトガル語もスペイン語も普通に話しています。日本人は学校で英語を習っても、なかなか話せません。しかしアメリカに行くと、三歳くらいの子どもたちが普通に話しています。言語は神が与えた特殊な能力だと思います。人間だけが言語を習得する能力があるのです。
 今日、日本語を話すことができるとしたら、あなたは神によって造られた、特別な存在なのです。神様があなたを人として、言語能力を与え、この地上に造ってくださったのです。創造主なる神がおられます。そしてことばの神が、創造の力が込められている、ことばの一部を人類に貸し与えました。ゆえに、人類は、神に似た創造的働きができるのです。神の言語は完璧なもので、神はご自分が思っておられることを、完全に伝え、実行する能力をお持ちです。
 先ほど、教会は言語の回復から始まったと話しました。エルサレムにおいて、弟子たちが一箇所で祈っていたときに、風が吹いてきたとあります。

『天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 ここで、聖霊が注がれた様子がレポートされています。最初は突然、「天から激しい風が吹いてくるような響きが起こった」とあります。
 声はなぜ出るかというと、肺から息が出て、狭い箇所に息が集中して入ってきます。すると声帯が震えて響きが起こり、その響きを舌がコントロールして、明瞭な言葉になり相手に伝わります。
 家全体に響き渡り、一人一人の頭の上に炎のような分かれた舌があらわれた、と記されています。ガリラヤ弁しか話すことができないような人たちが、今まで習得したことのない外国語を自由に話すという、奇跡が起きました。すると、その後エルサレム中に住んでいる外国人たちが集まり、弟子たちが話す自分たちの国の言葉に傾けました。「彼らはガリラヤ人なのに、なぜ私たちの国の言葉を知っているのだろうか…」と、何と、それまでコミュニケーションができなかった人たちと、聖霊によってコミュニケーションできるようになったのです。
 人生の色々な領域で言葉が失われます。誰かと言葉が通じなくなり、問題が起こることが多いのです。しかし神の霊はあなたに、言葉を回復させ、取り戻し、今までコミュニケーションできなかった人たちと、コミュニケーションできるように回復すると教えています。
 教会に来て神の霊に触れられるときに、今まで壁の向こうで交わることができなかった人たちとも、交わりを回復してくださいます。
 もし皆さん中に、「私はあの人と言葉が通じない」と言われる人がいたら、言葉を取り戻し、コミュニケーションが回復するように祈りましょう。
 ある方は夫婦の間で、言葉を失っている人がいるかも知れません。しかし聖霊が訪れるときに、今まで通じなかった言葉が通じるようになります。また親子の間で言葉が通じない人がいたとしても、聖霊が訪れるときに、言葉が通じるようになるのです。
 そもそも人類は、神とのコミュニケーションの手段を失っていました。しかし聖霊によって、神とのコミュニケーションが再開されるのです。

 言葉はどんどん変わっています。近代の日本語が話されるようになったのは、明治維新以後のことです。江戸時代の日本語は、私たちにはわかりません。万葉集を読んでも、意味がわかりません。昔の人たちは、違う言葉を話していました。段々言葉は変わっていきます。
 そもそも最近の若者が話している言葉はわかりません。先日、警視庁が最近の子どもたちが使っている言葉を調査したそうです。そうでないと、取り調べができないというのです。最近警視庁が確認した若者言葉によると、
「おにでん…しつこく電話すること。けいばん…携帯電話の番号 ばちこく…嘘をつく やばい…とってもすごい きもい…気持ちが悪い うざい…うざったい はずい…恥ずかしい むずい…難しい じこる・じこった…交通事故を起こした こくる…告白する」という具合です。
 先日、私の甥が来て「順先生。僕、告っちゃった」と言うのです。それは「結婚してください」と告白したという事でした。私にはわかりませんでした。日本語がどんどん乱れています。
 「乱れる」という漢字をご存じですか。左側は舌です。そして右側は右足です。この二つが組み合わさって「乱れる」という漢字になります。漢字は中国から来ていますが、聖書のストーリーから作られている漢字もあります。
 創世記十一章一節から九節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

とあります。人々が集まって、「町を立てよう、塔を建てよう」と計画をし、それを実行しました。その時に神の怒りに触れ、言葉がバラバラになり人々が散らされました。聖書の記録によると、当時は一つの話し言葉でコミュニケーションができたとあります。この時に神様が十一章六節に、

『主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』

とあります。これは、人類が創世された時、人類が神から与えられ語っていた言葉は、「心一つにして事を行ったら何でもできる」というような、強力な言語状態の中にあったのです。「できないことはない」とは魅力です。人類はそんなすごいパワフルな言葉を持っていました。しかし、神の怒りに触れ、言葉がバラバラにされ、全世界に散らされてしまったとあります。
 「乱れる」という漢字は、舌と右足が組み合わさっています。言葉が変わり、言葉が通じなくなったために、人々が散らされたという意味です。舌がもつれて、皆が違う言葉を話すようになり、一所で暮らすことができなくなり、人々は町から出ていったことを現しています。「乱」とは、バベルの塔のストーリーが中心にあります。
 神が人間に素晴らしい言葉を与えて、その言葉によって一つになって事を行えば、「何でもできる」状況であったのに、なぜ、人々は散らされてしまったのだろうかと疑問に思うかも知れません。
 創世記十一章一節から四節をリビングバイブルで読むとわかりやすいです。

『そのころ、人類はみな同じことばを話していました。人口がしだいに増えると、人々は東の方に移って行きました。 こうしてバビロンの地に平原を見つけ、大ぜいの人がそこに住みついたのです。やがて大都市を建設しようという話が持ち上がりました。 永遠に残る記念碑として、天にも届くような塔の神殿を造り、自分たちの力を見せてやろうというのです。「こうやって一致団結すれば、あちこちに散らされる心配もなくなるというものだ。」 そう豪語すると、人々はよく焼いた堅いれんがをうずたかく積み上げ、アスファルトを集めてモルタル代わりにしました。』(リビングバイブル)

 町を作ったときに、人々は、町の中心に塔を建てました。これが「バベルの塔」です。その塔とは、「天にも届くような塔の神殿を作り」と記されています。バベルの塔は一つの「神殿」でした。塔の頂上で霊を呼ぶ、それも本物の神ではなく、悪霊を呼ぶ降霊のための塔でした。これは考古学的にも証明されており、「ジグラット」と呼ばれています。塔の上に立って霊を呼びつける行為を人が始めたときに、神は舌を混乱させ、人々は全地に散らされました。

 ここで、言葉がが通じなくなる原因について教えています。人間関係、性格、環境が悪いと考えますが、実はもっと深い理由があります。そこをしっかりと押さえないと、人々はどんどん混乱し、散らされ、コミュニケーションができなくなるのです。そして、その原因が「神ならぬ神々を呼び寄せる」という「降霊」にあります。
 先にも語ったように、日本人は霊的な存在に対してとても敏感です。皆さんの中に何らかの霊体験をしたと言われる方がいると思います。
 先週、ある人が来たので、「霊体験はありますか?」と聞くと、「たくさんある」と言われました。「死んだおじいさんが怒り狂って出現し、おじいさんにぶっ飛ばされた」とか、「おじいさんがお腹の上にのってジャンプした」などと言いました。
 色々な不思議な体験があります。そのような体験は、仏像を拝んだり、石仏を拝んでいたり、何らかの宗教施設と共にあります。
 日本人が拝んでいるものは、石や木や金属です。西洋の人から見ると「この人たちは大丈夫だろうか」と思うようです。
 戦後アメリカから、焼け野原になった日本に宣教師たちが送られました。彼らは日本人が石や木や金属の神を作り、拝んでいるのを見て、「日本人は野蛮な人たちだ」と思いました。それで、日本人に対して、「愚かなことはやめなさい」と言いました。それを聞いた日本人は、宣教師たちに反発しました。「うるさい、お前たちにはわからないけど、俺たちには感覚があるんだ」と言いました。

 皆さんの子どもたちが、どこかの河原に行って石を拾ってきて、お父さんがいるのにも関わらず「僕のお父さん」と書いて、「お父さん、おはようございます。お水を一杯どうぞ」と言っていたら、「大丈夫か。病院に連れて行こう」と言うと思います。しかし石を拾ってきて、「僕のお父さん」ではなく、「僕の神様」と書いて「神様、おはようございます。学校に行ってきます!」と言っても、だれも「頭がおかしい」とは言いません。「これで良い」と問題にしません。日本人全体に暗黙の了解のようなものがあります。日本人にとって、それはただの石や木や金属ではないからです。拝むと何らかの霊が関わって来るということを、体験的に理解しているからです。霊体験がなければ、石や木や金属を拝む習慣が、千年も二千年も続くわけがありません。それがずっと続くのは、何らかの体験があるのです。
 けれども、いくら霊体験があっても、それを信用してはいけないのです。それは、神の振りをした悪霊であり、それと関わると、言葉が通じなくなり、人々との関係が遠くなる。そして、真の神が見えなくなり、悪霊が見えるようになるので気をつけなさい、と言うのです。

 バベルの塔のストーリーは、今から何千年も前のもので、現代には関係ないように思うかも知れません。しかし今でも、バベルの塔はあります。近代化した、バベルの塔のミニチュア版があります。それが「偶像」です。バベルの塔は町の中心にそびえ立つ、巨大な塔でその上に神殿が乗って、霊能者たちが霊を呼んでいました。しかし今はそんな大きなものはないですが、それと同じ性質のものを人類は作り出しました。それが私たちの周りにある「偶像」です。
 たとえば、仏壇は突き詰めていけば、「先祖の霊を効率よく降ろすための装置」です。また、近くにある神社も、「日本神話の神々を効率よく招くための手段」に過ぎません。ということは、性格的には「バベルの塔と同じ装置」です。日本人は多くの手で作った神々を拝んでいますが、実は、霊的な存在を引き降ろす行為をしているのです。そして、その結果は、バベルの塔と同じように、舌がもつれ始め、足が動き出すのです。散らされていく現象が起こるのです。
 皆さんの家庭の中に、もしも言葉が通じないような現象が起こっていたならば、単に自分のコミュニケーションの仕方が悪かったとか、生活が悪かったからと思わないでください。その一番の原因は、家庭の中にある偶像礼拝です。それゆえに、言葉が通じなくなり、関係が遠くなっているのです。ここから解放されないと、コミュニケーションの回復はありません。

 教会に来ると何が起こるのでしょうか。偶像礼拝から離れるのです。今まで拝んでいた偶像が単なる物体ではなく、悪霊との取引の現場であることがわかりますので、そんなものを拝まなくなります。本物の神様をイエス様の名前で礼拝するようになってきます。そうすると、聖霊が注がれます。聖霊が注がれると、分かれた炎のような舌が一人一人にとどまり、今までコミュニケーションができなかった人たちと、コミュニケーションが回復し、失った言葉をとり戻す、というのが本日のメッセージです。
 もしも皆さんの中で、言葉を失っておられる方は、偶像礼拝の罪を悔い改め、家系的な偶像礼拝の悪しき契約を断ち切り祈りましょう。創世記十一章六節に、

『主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』

とあります。元々、神は人にそのような能力を与えました。一つとなり、一つのことばを話し、本物の神・イエス様の名前によって「あなたに不可能はない、何でもできる」という、能力があるのです。しかしそんなにも強力な能力をもった人類が、悪霊を呼ぶ神殿を作り、悪霊を呼ぶ行為をしたことによって、言葉がバラバラになり、遠くに散らされました。
 さて、バベルの塔から一番遠くに飛ばされた民族は誰でしょうか。それがアジアの人々です。私の著書、『神の栄光を取り戻せ』にも記しましたが、アジアの人々を総称して「モンゴロイド」と呼びますが、モンゴロイドは北アメリカ大陸、さらには南米の先端チリのフエゴ島にまで移動して行きました。なぜ、そんなに遠くまで旅をしたのかわからないと人類学者は言います。
 しかし宗教学者は言います。「霊を呼び、お告げにより、彼らは駆り立てられるようにして移動していったのだろう」…悪霊を呼ぶ行為により、人々は悪魔の声を聞きました。「もっと遠くに行け!!」
 人々は駆り立てられるように、散らされ、チリの先端まで移動して行きました。
 偶像礼拝は人々を引き裂いて、遠くまで追いやってしまう力です。すべて引き裂かれ、分断してしまうのです。聖書はそこから離れるようにと語っています。しかし、聖霊によって言葉が回復され、元々神が与えた一つの民、一つのことばで交わるならば、「彼らのしようと思うことでとどめられることはない」という、神が持っておられるオリジナルの言語に回復されるのです。
 使徒の働き二章四十一節から四十三節に、

『そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。』

とあります。弟子たちがエルサレムでいくら伝道しても、言葉が通じませんでした。しかし「イエスが神などと信じることができない」と言っていた人たちと、聖霊によりことばが通じるようになり、一日の内に三千人が弟子に加えられ、多くの不思議なわざと証の奇跡が行われたとあります。病気の人が癒されたり、どうにもならないような問題が解決したり、すごい奇跡がありました。それはことばの回復から始まったものでした。初代教会にとって、彼らのしようと思うことでとどめられることはなかったのです。
 今日私たちは、イエス・キリストを信じ、ことばを回復してくださる神の霊である聖霊様を歓迎しましょう。神が私たちに用意してくださった言葉を受け取ることができるよう、祈りましょう。今週は言葉が通じなかった人々と言葉が回復することを願っています。

 今まで教会は地域や国に対して、言葉を語ってきましたが、通じませんでした。しかし教会に聖霊様が訪れると、地域と教会の間の壁が崩れ、言葉が通じるようになります。最近徐々にそのことを見せていただいているように感じます。更に、私たちはことばを回復していただき、神が私たちに与えようとされている、オリジナル言語をいただき福音を宣べ伝えたいと願います。そして神と交わり、また、人とも交わることができるようにお祈りしましょう。

(祈り)
「イエス様。今私たちはイエス様の名前で一つになります。一つの言葉を話します。イエス様こそ私の救い主です。イエス様を私の神として受け入れます。信じます。私のことばを回復してください。かつて、バベルの塔に関わったことを赦してください。偶像礼拝を行ったことを赦してください。その時から生じた、ことばの混乱と交わりの混乱を回復してください。奪われていることばをとり戻してください。今、聖霊によって、私のことばが変えられますように。人々と通じることばを与えてください。聖霊様、私の所に来てください。満たして下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」

 


[バックナンバー]