愛のあるところに

2006.6.25(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 12章30節〜31節
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

コリント人への手紙 第一 13章1節〜2節
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

 ハレルヤ!おはようございます。今朝このように、御言葉を語ることができて感謝します。先週はワールドカップがありましたが、日本は負けてしまい、とても残念でした。人生はある意味で、サッカーの試合のように一喜一憂します。神の軍勢が攻め込んで、悪魔の陣営を陥れます。しかし、ある時には悪魔の軍隊にゴールを奪われ、一喜一憂するようなこともあります。けれども、クリスチャン人生の素晴らしさは、スリリングな事もありますが、最後には必ず、神の軍隊の勝ちだからです。
 実は私はサッカーをよく知りません。今月号の「新城教会ニュース」を見ました。体験コーナーに、「カカ」という人物が出ていました。私はてっきり、新城教会に来ている外国人だと思っていました。「どこのアパートに住んでいる人だろうか?」と思っていました。すると、「有名なサッカー選手だ」と言われびっくりしました(恥ずかしい・・・)。

 今日は「愛のあるところに」というタイトルで学びます。先週は、「ことばをとり戻せ!」というタイトルで話しました。ペンテコステの時に聖霊が注がれ、教会が誕生し、ことばが取り戻されました。その証拠として、弟子たちが他国の言葉で話し出したという奇跡が起こりました。今日のメッセージは、そこにも通じるものです。第一コリント十三章一節から二節、

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。』

とあります。私たちは、聖霊によってことばを取り戻すことができますが、その中に、愛がなくては値打ちはないと教えています。
 人間には愛があります。愛は見えませんが、確実に存在します。広辞苑で「愛」という言葉の意味を調べました。そこには、「思いやり、相手を慕うこと、かわいがること…」などの意味が記されていました。男女の間、親子の間、ペットに対してなど、愛の対象があります。また、自分を愛する自己愛もあります。
 愛という字は「いとしい」とも読みます。「いとしい」と聞き、連想する言葉は「せつない」とある本に書かれていました。いとしい心が満足しないとせつなくなり、また、怒りにも変化するというのです。
 愛はある意味で、怒りの裏返しのような面があります。「愛しさ余って憎さ百倍」という言葉があるように、愛はある時には、憎しみに変わってしまいます。人間の持っている愛とは、大変扱いにくいものです。
 しかし聖書は、「愛を加えなさい」と教えています。私たちは、人の持っている愛ではなく、聖書が示す愛を知らなければなりません。
 昨年二千五年の世相を現す漢字第一位は「愛」でした。なぜならば、「愛・地球博」が開かれ、「愛」という漢字が人々の心に残ったからです。私たちは日本で最も愛を知っている県、「愛知県」に住んでいます。愛を知りたいという意味で愛知県にしたのかも知れません。
 愛はどのようなものかと、精神分析学者や、哲学者は定義しよう試みています。ユダヤ人を父に持つオーストリアの精神分析学者「フロイト」は、「愛とは、無意識の中に隠れた性衝動」としました。そして、愛を生物学的、生理的現象としたのです。それは、悲しい分析結果です。愛とはそんなものなのでしょうか。私たちは、愛が重要であることを知っています。
 さて、聖書は愛についてどのように教えているのでしょうか。ギリシャ語では、愛という言葉が三種類あります。一つは「エロス」という言葉です。それは男女の愛です。もう一つは「フィリア」です。それは、理性的な、静かな、友愛という意味で使われています。母が子どもに持っている愛は、男女の愛情とは違う犠牲的な愛です。男女の愛は、何らかの奪う愛です。メリットがあるから愛するところがあります。けれども、フィリアは限定された範囲での犠牲的愛です。
 またもう一つ、聖書の中で「神の愛」を示す言葉として、「アガペ」という言葉が使われています。これは「無条件の愛、与える愛、自己犠牲的愛」であり、人間が持ち合わせていない愛です。しかし神は、人間が持ち合わせていない神の愛を、与えてくださるというのです。愛とは、神から受け取るものです。それは、神からの無条件の愛です。
 教会には十字架がありますが、十字架は神の愛を表すものです。人類に対する神の愛です。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んで下さいました。

 フロイトと背景がよく似た、オーストラリア生まれのユダヤ人哲学者「マルチン・ブーバー」は、「対話の哲学」を展開し、多くの人に支持されました。彼は、人が生きるための関係づけについて分析しました。彼によると、人は「他者をかけがいのない価値を持ったものとして承認し、直接的な相互関係、我と汝という関係の中で生きている」と言いました。しかし一方では、各人が、「他者を知って利用はするが、実際的には他者を評価することもしていない、間接的な利己的な関係」の中でも生きているというのです。すなわち、人は「我と汝」「我とそれ」という二つのグループに分けて生きる、と分析しました。そして彼は、その原則を宗教の世界にも適応しました。

 ある社会学者は、人間は相手を三段階で評価して生きていると言いました。第一グループは人を人と認める領域です。けれども、第二グループは「機械グループ」です。銀行に行くと窓口の女性が、入出金の手続きをしてくれます。しかし今では、入出金はATMで十分できます。ゆえに、窓口にいる人は機械と同じ役割だというのです。その人がいないと、自分の生活が成り立たないので重要です。しかし存在評価としては「機械」なのです。またもう一つのグループは、人を単なる風景としか評価していないというのです。
 私は先週、新宿に行きました。月曜日の夜十時三十分から「全日本リバイバル徹夜祈祷会」でメッセージを語るために、夜の十時頃、新宿駅に降り立ちました。夜十時、新城市周辺ではだれ一人外に出ていません。しかし、新宿ではすごい人の流れでした。私は人に押し流されて、どちらに行けば良いのかわからず、大変でした。新宿は人が多いのが普通です。新宿から人がいなくなったら、新宿ではなくなってしまいます。多くの人がいるのは、一つの風景なのです。

 さて、マルチン・ブーバーは、「宗教とは神について語ることではなく、神に語りかけることだ」と主張しました。彼によれば、「聖書は神と人との対話にある」、「人はあらゆる出会いにおいて、神から語りかけられている存在であり、常にこの語りかけに対して自らを開き、自らの全存在を持って応答する用意ができていさえすれば、そのことに気付くようになる」と語りました。彼はたぶんユダヤ教徒だと思いますが、鋭い分析をしました。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 「わたし」とは、イエス様のことです。イエス様は私たちを愛しておられ、私たちを高価で尊いと語られます。これは全人類に対して語られている言葉です。しかし人類は、神から愛を語りかけられている存在であるのにも関わらず、それに対して心を開かなければ、一生涯、神の愛を知ることができず、体験することもありません。実に、愛とは神との対話の中に成立し、体験できるのです。聖書は神の意志を知る手がかりとなります。そして「知る」とは、一方的に、知識的に知るのではなく、神との対話の中で、愛を感じるようになるのです。ゆえに、「愛とは対話」と定義できるかも知れません。

 さらに、マタイ二十五章三十五節から四十節では、「愛は行動」の中に表されることを学ぶことが出来ます。

『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 この箇所を結論的に言えば、「神は愛ある行動の中におられる」ということです。
 トルストイが、『靴屋のマルチン』という有名なストーリーを書きました。しかし『靴屋のマルチン』というのは、本当のタイトルではありません。このストーリーの本当のタイトルは、『愛のあるところに神もある』です。愛によって動機付けられた行動の中に、神はおられるのです。
 さてここで、『靴屋のマルチン』のストーリーを朗読してみたいと思います。

 
 くつ屋のマルチンは ひとりぼっちで淋しく住んでいました。彼の最愛の妻は、はやく病気のために死んでしまいました。それからは、残された一人の息子とふたりで生活していました。
 ところが、その息子も病気のために死んでしまったのです。マルチンは何のために生きているのか、生きる望みもありませんでした。
 ある日、いつものようにマルチンが仕事をしていると、入り口から見かけたことのない人が入ってきました。その人は旅を続けている老人でした。どうしたことか、マルチンはこの老人に自分の受けた不幸を話し、自分は何のために生きているのかわからない、神様なんかいないと語りました。老人はマルチンの話を泣きながら聞いてくれました。そして、「それでも神様はあなたのことをご存じですよ」と言いながら、聖書を一冊残して、「これを毎日読み、神様にお祈りするといい」と教えてくれました。そして、「きっと幸せになる」と言い残して、去っていきました。
 マルチンはそれから一生懸命に、神様のことを考え、聖書を毎日読んで「神様がもし本当におられるのでしたら、私の所に来てください」と祈るようになりました。

 ある日のこと、遅くまで聖書を読んでいると、確かにだれかの声を聞いたように思いました。
 「マルチン、マルチン。明日、通りをよく見ていなさい。お前の所に行くからね。」マルチンは目をこすって、驚いて立ち上がりました。「これは夢だろうか。それとも神様のお告げなのだろうか。」
 翌朝、マルチンは昨晩の出来事を思い出しながら、神様を迎えるために、ストーブに火をつけ、お湯を沸かし、部屋を暖かくしました。それから仕事をはじめましたが、昨晩のことが気になって、なかなか仕事に身が入りません。目が通りの方ばかり見ています。いつもあまり通りを見ていませんでしたから、こうして通りをよく見てみると、色々な人たちがいます。
 その日は特に寒い日でした。やがて通りの雪かきをする、ステパノじいさんが、寒そうに歩いて来ました。マルチンは久しぶりに、ステパノじいさんに温かい紅茶でもご馳走しようと思いました。ステパノじいさんは嬉しそうに、マルチンの家に入って来ました。それで、温かい紅茶とクッキーを出してあげました。
 しばらくすると、赤ちゃんを抱いた女の人が、この寒さの中、オーバーも着ないで町を歩いていました。そしてマルチンの家の窓の側に来て、うずくまってしまったのです。知らない女の人でした。それを見てマルチンは大急ぎで声を掛け、二人を家の中に入れて、暖炉の側に座らせました。「暖まったら赤ちゃんにお乳を飲ませなさい」と声を掛け、台所に行って、朝からお客さん用に準備をしたパンとシチューを食べさせました。そしてマルチンは自分が持っているオーバーを、その人にそっと着せてあげました。

 夕方近くになりました。マルチンの店の前を色々な人が忙しそうに通り過ぎています。しかし天使らしいもの、神様らしい人は通りません。マルチンは昨晩の出来事はやっぱり夢だったのか、と思い始めていました。
 辺りが暗くなった頃、一人のおばあさんがマルチンの窓の前に、重そうなかごを肩から降ろして、座り込んでしまいました。かごにはいくつかのリンゴが入っていました。すると、向こうの方から見窄らしい、少年が歩いてきました。少年はリンゴ売りのおばさんの前に来ると、突然手を出し、かごからリンゴをひとつ取ると、さっと逃げ出しました。
 リンゴ売りのおばさんは、「泥棒 泥棒!早くつかまえて!」と叫びました。マルチンは大急ぎで通りに出て行って、少年を捕まえました。そして二人の間に入り、おばあさんには、「赦してあげなさいよ。もう二度としないだろうから。」
 また少年には「おばあさんにちゃんと謝りなさい。もう二度とこんなことはしてはいけませんよ。」と話しました。少年は泣き出して、素直におばあさんに謝りました。マルチンはかごの中からリンゴをひとつ取りだし、「この代金は私が払うからお食べ」と少年に差し出しました。

 辺りはもう暗くなりました。マルチンはランプを灯し、仕事場のあと片付けをして、いつものように棚から聖書を取り出しました。
 すると突然、後ろにだれかが近づいてくるような気配を感じ、振り返ってみるとどうやら人影らしいものが立っています。そして彼の耳には、こういう声が聞こえました。
 「マルチン マルチン。お前にはわたしがわからないのかね。」「どなたですか?」とマルチンは聞きました。「わしだよ」と声が聞こえました。
 「ほら、わしだよ」・・・暗い片隅から、雪かきのステパノじいさんが出てきて、にっこりと笑い、雲のようにもやもやっとなって消えていきました。
 「これもわしだよ」・・・また暗い片隅から、赤ちゃんを抱いた女の人が出てきて、にっこりすると赤ちゃんも笑いだし、これもじきに消えてしまいました。
 「これもわしだよ。」・・・と、おばあさんとリンゴを手にした男の子が出てきて、ふたりはにっこりしたかと思うと、同じように消えていきました。マルチンの心は喜びでいっぱいになりました。

 心温まるストーリーですが、これはマタイの福音書二十五章を題材に、トルストイが作った物語です。
 私たちは神と出会いたい願います。しかし、私たちが愛の行動を取るとき、そこに神がおられます。今週は神の声を聞き、神がおられる場所に、足を向けていきたいと思います。

 先日私の息子が帰ってきていました。私の家の一階に一つ部屋があり、そこに泊まっていました。壁の向こうには父の家があります。大きな声を出すと、隣に聞こえます。隣りに四歳になる甥のけいが来て騒いでいました。そのとき、息子が壁越しに「けいちゃん、けいちゃん」と声をかけたそうです。
 彼はどこから声が聞こえるのかわからず、とまどっていました。そして、再度、私の息子が、「けいちゃん、けいちゃん」語りかけたそうです。すると、彼は、「誰ですか。イエス様ですか。イエス様ですか?」と答えたそうです。
 イエス様は私たちにいつ語りかけられるのかわかりません。イエス様は、私たちの行動のただ中で語りかけてくださり、そこに主は住んでおられます。

 クリスチャン人生には、神の導きがあります。マタイ二十五章に、「あなたはわたしが牢にいたとき、わたしを尋ねてくれた」とあります。尋ねた人は、「主よ、いつあなたが牢におられ、またご病気のときにあなたを見舞ったでしょうか」と聞いています。彼はそれに気付いていませんでした。彼は自然に、そのような行動がとれていたのです。

 神様を信じる人生は、気付くと愛ある行動に向かわされるのです。そして結果的に、それが愛の行動となり、神との出会いであるという素晴らしさがあります。
 私は牧師をしていて、毎日のスケジュールが絶妙なタイミングで、聖霊の支配の中にあることに気付かされ、恐くなることがよくあります。
 先日、教会に来られている一人の方が、「私の姉は教会が大嫌いで、いつも迫害します」と言われました。そのように聞くと、「恐いお姉さんだ」という印象がつきます。
 しばらくして、「先生、あの姉は病気で、今にも死にそうなのです。」と言われました。
 私は、「じゃあ、あなたがイエス様のことを話して、天国に行けるように導いてあげてくださいよ。」と言いました。
 すると、「それができると良いのですけどね…。話を受け付けるような姉ではないのですよ。」と言われました。
 私は先週、ある方から頼まれて、ある街へ祈りに行きました。前から約束していましたが、なかなか行くことができませんでした。スケジュールの調整をして、出かけることにしました。
 すると、その街の近くに、キリスト教嫌いのお姉さんが入院していることがわかりました。そして、「順先生、もしそっちに行くならば、ちょっと足を伸ばして、病院を訪ねてください」と言われました。私は、「そう言われても、遠回りになるし、その後のスケジュールもあるしどうしようか…」と思いました。
 しかし、最終的に行くことにしました。「その人は教会のことが好きではないし、嫌な顔をされるかも知れないし…病室に入りにくいなあ」と思っていました。けれども私は、案外打たれ強いところがあり、どこにでも入っていく特技があります。その人の永遠がかかっていると思い、私は勇気を持って見ず知らずの人の病室へ入っていきました。
 入ってみると、お姉さんが大変な状況であることがわかりました。ご主人も付き添っておられましたが、「私は牧師です。様子を聞いたので訪問に来ました。お話ししても良いですか?」と聞くと、了承してくださいました。
 私はすぐに、その方に近づき、話しかけました。「イエス様を信じるならば、永遠の希望がある。苦しいかも知れませんが、イエス様に祈ってください。イエス様があなたに、永遠のいのちを与え、救ってくださいます。」と語りました。
 たいへんこころが堅いと聞いていましたが、私が話しかけると、うなずいてくださいました。私の家内も真剣に話しました。その間、ほんの二十〜三十分でした。
 祈りおわったら、看護師さんが入ってきて処置が始まり、その後二時間位は病室に入ることができませんでした。素晴らしいタイミングで、二、三十分だけ病室に入り込んでお祈り出来たのです。

 次の日の朝、お姉さんが亡くなった、という知らせが届きました。「あれは神様の計画だった」とつくづく思いました。タイミングがほんの少しでもずれていたら、病室に入ることはできなかったし、祈ることもできませんでした。時間を神がコントロールしてくださったと思いました。近頃、そのようなことがいくつか起こっています。スケジュール、時間、その他すべてが、神の支配の中にあることを教えられます。
 そのような働きは、誰に対する働きでしょうか?もちろん誰かに対する働きです。しかし聖書は、それが「イエス様に対する働きである」と教えています。毎日の働きの中で、聖霊の支配の中、気付いたらそのような領域に足が向き、結果的に、愛ある行動となり、それがイエス様に対する奉仕であった、という人生を送りたいものです。

 マルチンは自分の奥さんと子どもを亡くし、深く傷ついていました。彼は靴屋で、靴にはいつも関心を持っていましたが、靴を履く人には関心がありませんでした。彼は通りを全く見ていませんでした。通りには、多くの人が行き交っていましたが、彼は靴には関心がありましたが、靴を履いている人には関心がありませんでした。
 しかし神が言われたのは、「マルチン、外を見なさい」でした。今まで、彼にとっては、通りを歩く人たちは機械の一部であったり、風景の一部であったり、自分の糧を持ってくる媒体でしかありませんでした。けれども神は、「外を見なさい。人を見なさい」と言われました。

 私たちは、家族や周りの友人には、人として評価しますが、少し遠くの人はものであったり、風景であったりすることが多いのかも知れません。しかし今週は、通りを見ることができるように祈りましょう。

 イエス様が語られたもう一つのストーリーに、ルカの福音書十章三十節から三十七節、

 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 エルサレムからエリコに下る道は、山賊が出るような淋しいところで、険しい所でした。そこを通ることは、ある意味で命がけでした。時には道ばたで倒れている人がいましたが、そんな人と関わっていたら、自分も襲われる危険性と環境が周りにはありました。
 しかし、このサマリヤ人は、旅の途中にそこに居合わせ、彼を見てかわいそうに思い、介抱し、宿屋に連れて行き、「足らなかったら帰りに払います」と愛を実践したのです。
 イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。私たちの町には、同様に、傷ついて倒れている人が大勢います。
 「強盗に襲われた」とありますが、「強盗」とは、前後を見ると「悪霊」であることがわかります。人々が悪霊によって傷つけられ、倒れている姿をこのストーリーは暗に示しています。
 慈善的な働きも大切ですが、よほど力を入れない限り、長く継続できません。イエス様が最も「行動して欲しい」と願われている愛の行動とは何でしようか。
 今、イエス様が何をされているのか、それは、みこころを実践するための一つの鍵となります。ローマ八章三十四節に、

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

 イエス様の働きは、現在「とりなし」の働きです。そしてイエス様が私たちに、隣人になってあげなさいと語られている、「隣人」とは、もちろん、人道的支援も含まれますが、それ以上に、主が望まれていることは、「とりなしの祈り」です。

 「とりなし」という言葉は、英語では「インターセッション」と言います。この語源を調べると、「インテル」と「ケデーレ」という言葉からなり立っています。「インテル」とは、「間」という意味で、「ケデーレ」とは、「入っていく、従う、仕える、代価を払う」という意味です。環境と環境の間に入っていき、代価を払うことがとりなしです。
 サマリヤ人の根底にあったのは、「深い憐れみ」です。「憐れみ」とは、「コンパッション」という言葉です。これはコムとパティという言葉からできています。「コム」とは「共に、一緒に」という意味であり、「パティー」とは、「苦しむ、痛みを覚える」という意味です。憐れみとは、共に痛み、苦しみを覚えるという意味になります。
 私たちも毎日の生活の中でAとBの間に入り、共に苦しみ、イエス様と同じように神の前にとりなしの祈りをすること、それが、「良きサマリヤ人の働き」です。
 私たちがとりなしの祈りをするとき、自分の家族、親族、教会の方々のためには人としてのグループとして、一生懸命とりなしをします。しかし一歩外に出て、通りを見て祈るかというと、なかなか祈ることができない現実を反省しています。イエス様は、通りを見て、一緒に苦しみ、とりなしなさいと語られています。それが主が願っておられることであり、靴屋のマルチンと同じように、イエス様に仕えることであり、神の御心を実現することなのです。
 マタイの福音書二十五章三十一節からに、

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、』

 やがてイエス様は帰ってこられ、羊と山羊を分けるように、人々を分ける時が来ます。その日、神からの正当な評価があります。この世の歴史は永遠に続くものではなく、やがて終止符が打たれ、イエス様が帰ってこられます。いつ帰ってこられても良いように、準備しなければなりません。その時には、正当な評価が神からあるという御言葉です。
 しかしながら、このストーリーをよく読むと、ある意味で逆説的です。イエス様が再臨されるときに、イエス様と顔と顔を合わせます。けれども、その後に続くストーリーは、それ以上に、「地上であなたがたは神と出会うことができる」という展開です。
 ここで教えられている事柄は、やがてイエス様と出会うから、その時のために準備しようという意味も含め、「あなたがたはこの地上において、生活のただ中でイエス様と会うことができる」と告げているのです。
 生活のただ中で、イエス様と出会うことは確かです。それも愛の行動の中で、イエス様と出会うのです。
 「愛のあるところに主がおられます」お祈りします。


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