I know!(知ってるよ!)

2006.7.9(SUN)
アルセ・アドリアン師

旧約聖書 ヨシュア記3章1節〜5節
ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」

<アドリアン先生の紹介>
 アドリアン先生を八年ぶりに新城教会にお迎えできて感謝します。初めて会う方もおられると思います。八年前までは新城教会の「インターナショナル部会」の牧師として、五年間に渡り奉仕してくださり、良い実を結んでくださいました。現在、その働きはフェルナンド先生夫妻に受け継がれ、力強く歩んでいます。その基礎を作ってくださった先生たちです。
 新城教会は不思議なことに、今まで宣教師を送って下さいとお招きしたことはありません。しかし神様が送って下さいました。ちょうどインターナショナルの働きを、これからどうしようかと思っているときに、主が先生方をアルゼンチンから送って下さいました。
 当時彼らは奥山先生のMTC宣教師訓練センターに来ており、一ヶ月間夏休み中、新城教会に滞在させて下さいと言われました。それがきっかけで、主がこの教会で奉仕をするようにと語られ、五年間に渡って奉仕されました。
 その後アルゼンチンに帰られ、色々な働きをされました。現在は、世界的に有名なビリーグラハム伝道協会という大きな団体のコーディネーターとして、三年前にはアンゴラで、その次はフィリピン、今年は沖縄で十一月に行われるフランクリン・グラハムという、ビリーグラハムの息子の集会がありますので、そのコーディネーターとして、沖縄に移住して働かれています。奥様と子どもたち三人と共に、ご家族で来て下さいました。歓迎しましょう。

 おはようございます。昨日、私たちは東京から家族と一緒に来ました。雅也先生が豊橋駅まで迎えに来て下さり、一緒に新城まで来ました。新城に八年ぶりに来ると、「あれはなかった、これもなかった…」と新しいものがたくさんありました。教会に来ても、これが新城教会かと、間違えたのではないかと思う程でした。
 子どもたちに新城教会に行くことを話していました。子どもたちはかつて新城教会に住んでいるときに生まれました。彼らは、新城教会に行けば思い出すだろうかと言っていました。しかし、新しいことばかりで、覚えていないと悲しくなりました。そしてたぶん、会堂に行けば覚え出すと言いながら会堂にはいると、覚えていないのです。順先生の声は覚えていましたが、あとは覚えていませんでした。八年が経ち、変わったことがたくさんあります。
 しかし、賛美の時に、八年前と同じ火が燃えているのを感じました。新しい賛美が多くて、私たちはその賛美を知りませんが、賛美できなくても心に火が燃え始めました。そして今日はメッセージできることを感謝します。言葉が足りないところもありますが、祈って話したいと思います。わからないところもあるかも知れませんが、神様が語って下さることを信じます。お祈りします。嬉しくて私は緊張しています。
 ヨシュア記三章一節から五節までを読みましたが、四節には、

『あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」』

とあります。民はヨルダンに行くのを待っていました。行く前に神様は、契約の箱の後ろに進みなさいと語られました。神の契約の箱とは、神の臨在です。民はヨシュアの導きではなく、神様に導かれてヨルダン川に向かいました。
 私たちも神様の導きを必要としています。これが第一のポイントです。私たちの前をイエス様は進まれます。そして私たちはその後ろを進みます。人間の導きではありません。人間を通して、神に導かれて行かなければなりません。
 また箱との間に距離を置いたことが書かれています。それは神様は聖なる方なので、簡単に近づくことはできないことを意味しています。

 次に「あなたがたはその道がわからない」と書かれています。イスラエルの人は紅海で奇跡を体験していました。彼らは、今起こっていることはその時よりも小さな事だと思っていたのかも知れません。「これは簡単」という考え方もあったのかも知れません。しかし、神様がその民に与えた言葉は、「あなたがたは行くべき道がわからない。あなたがたは今まで通ったことがないからです」と言われました。

 私はアルゼンチン人です。アルゼンチンというと、ワールドカップのサッカーで負けて、一つのプライドも残っていない程です。アルゼンチンの高ぶりには問題があります。自分でよくわかります。アルゼンチンは南米の一番素晴らしい国だと考えています。そのようなことで高ぶってしまうときが多いのです。この御言葉が与えられたときに、道がわからないということについて考えました。私たちは「道がわかる」という確信があるかも知れません。私たちは、これをやるために必要な知恵があると思いますが、神様は、「お前は何もわからない。道がわからないから」と言われます。道がわかるときには導きは必要ありません。すべきことがわかっていると一人でできます。道がわかるという考えではヘブル人はどこにも行けないのです。神様は「道はわからない」と教えています。

 私たちは八年前まで新城に住んでいました。その時は一番幸せでした。その頃は写真をあまり撮りませんでしたが、新城教会の事、また皆さんの顔がいつも私の心の中にありました。私たちがアルゼンチンに帰ったとき、毎週、新城教会のことを夢で見ました。三年間、毎週、新城教会の夢を見ました。私たちの心が、この教会にありました。何ヶ月もの間、バンビーナさんに、「昨日また夢を見た。」と言うと、彼女は「どこでしたか。」と聞き、「新城」と答えました。いつも新城だったので、最後には言うのを止めました。私のことを頭が悪いと思っているかも知れないと思いました。しかし新城教会を覚え、皆さんのことが頭にありました。
 アルゼンチンに帰ることを決めた時、私たちは「道がわかる」という考え方を持っていたと思います。アルゼンチンに行ってから、あそこに行ってこうしようという計画がありました。よくわかると思っていましたが、実際は道がわかりませんでいた。
 アルゼンチンに行くと苦しみました。そして、なぜ、私たちは新城から帰ってきたのだろうかと考えました。そして全部わかると思って帰ったことがわかりました。それから何年かの間、イエス様の道を求めていました。イエス様の導きがありましたが、苦しかったです。この箇所にもあるように、私たちがその道がわかると思うと危ないのです。「気をつけなさい」と聖書に書いてあります。今回、このようなことを考えながら、新城に帰ってきたことがとても嬉しいです。
 昨日はバーベキューをしました。新城に帰ってきて良かったと思いました。心から神様に感謝します。今日は「道がわかるか」と言うことについて一緒に考えていきたいと思います。

 アルゼンチンに行ったときに、色々な学びができたことは良かったです。日本語になかなか訳すことができなかったので、助けてもらい訳しました。私たちが何かを教えられるときに、四つのステージがあります。その一つは、「知らないことを知らない」ということです。「知らないことは知らない」ので心配がありません。しかし情報が入ると、次に「知らないことを知っている」に移ります。「これは知らなかった」と意識して、自分で「知らないことを知っている」になります。
 さらに勉強をして、「知っていることを知っている」という考え方に進みます。全部覚えたから、今知っているということになります。
 まずこの三つのステージについて考えたいと思います。「知らないことを知らない」ということは、知らないことは知らないから大丈夫だと思います。だから心配がありません。しかし、そのステージにいると教えられることはないのです。私たちは知る必要がないと思っているからです。
 「知らないことを知らない」というのは、とても危ない状況です。「教えられる必要はない」という考えでいくと、何もなりません。成長することができません。ですから、何か変わらないといけません。
 また、「知っていることを知っている」という考え方も必要です。時々確信がないと何もできません。知っていることは知っている、何年間もやったからよくわかるという、確信があると何とかできます。
 私たちはイエス様のことを知っています。しかし神様のことをよく知っていると思うときに、「知っていることを知っている」という危ない状態です。
 私はクリスチャンになって二十年になりますが、二十年間、毎週教会に来ると教会のことを知っています。教会に来て賛美をし、祈りをします。何回も聞いて覚えてわかっています。だから教会のことをよく知っています。メッセージも、先生も知っているとメッセージの情熱もわかります。先生が腕を曲げて手首を見るときに、「もうすぐ終わる」とわかると思います。聖書を閉じると、もう終わる時だとわかります。また話すときに音楽が流れると、次に何が来るかがわかります。そのように、教会の行うことを知っていると思います。仕事をする時にも仕事を知っていないとできません。ですから、知っていることは知っているという確信があります。それは悪いことではありません。
 けれども、「知らないことを知っている」という考えがないと、教えられることができません。
 「知らないことを知っている」という考えを持った人たちがいます。聖書にもそのような人たちがいます。一人はモーセです。モーセは、神様に呼ばれたときに、「モーセ、あなたは行きなさい。私の民をエジプトから連れ出しなさい」と命令されました。するとモーセは、「私にはできない、話すことができません。私はあなたの名前について聞かれたら、何と答えればいいですか」と困っていました。彼は知らないことを知っていたからです。
 またエレミヤに神様が、「わたしの民に御言葉を語りなさい」と言われました。するとエレミヤは、「私はまだ若くてそんなことは話せない」と言いました。聖書の歴史を考えると、神様はこのような人たちを用いました。知らないことを知っている人たちを用いられました。「私は知っている」と言う人を用いるのは難しいと聖書には書かれています。
 この御言葉が与えられたときに、私は今どこにいるのかについて考えました。私はこの三つの考え方のどこにいるのかを考えました。
 「知っていることは知っている」、「知らないことは知らない」、この時に私たちは心配がありません。しかし外側にプライドが出てくる問題があります。ヨシュアはこの道がわかると考えたのかも知れません。そして民もこの道がわかると考えていたのかも知れません。しかし神様は、「あなたがたはこの道を通ったことがない」と言われました。

 今私が奉仕しているのは、ビリーグラハム伝道協会というビリーグラハム先生がやっているクルセードの働きに参加しています。先生はすごい人です。五十年間伝道クルセードをしています。そしてやり方を五十年間でよく教えられていると思います。私たちは経験から、やり方がわかるので大丈夫だと思います。
 三年前に、アフリカで伝道クルセードがありました。アンゴラというとても貧しいところに行きました。クルセード中、スタッフの中の子どもたちがマラリヤで亡くなりました。スタッフの中で三十人中、七人〜八人が働けなくなりました。それはマラリヤがあったからです。クルセードを始めた時、知っているから大丈夫、一緒にクルセードをしましょうという思いで行っていました。しかし、うまくいきませんでした。最初にクルセードに来た人は少なかったです。これは、知っているから大丈夫と考えたからかも知れません。その日は祈るしかありませんでした。神様の導きを求めて祈りました。すると、その次の日から最後まで、素晴らしい伝道クルセードを行うことができました。
 そして、フィリピンに行くことについても大丈夫だと思いました。私たちは何回も他の国に住んだことがあったので、大丈夫だと思っていました。しかし、フィリピンで友達は一人も出来ませんでした。その時、知っていることを知っているという考え方でやったので駄目だったと思いました。

 フィリピンのクルセードを終え、次に沖縄に来ました。今度こそ、知っていることは知っているという考え方ではなく、「知らないことを知っている」という思いで沖縄にきました。そして、そのように歩みたいと願っています。私たちは道を知りません。
 私たちの願いは、日本のリバイバルです。私たちは祈っています。できるだけ捧げて全力で働いています。リバイバルが来るように祈っています。しかし、リバイバルが与えられる方法を私たちは知りません。知っていることは知っていますが、知らないことが多いのです。神様は神様です。神様のように私たちはすべてはわかりません。神様は神様ですので、リバイバルの歴史を勉強しても、私たちはすべてを知りません。あの頃はこうだった、韓国のリバイバル、アルゼンチンのリバイバルはこういうふうだった…と、勉強しても神様の方法を誰も知りません。ですから、私たちは道を知らないのす。私たちの道は知らない、今まで通ったことがない、だからイエス様を求めること、神様の導きを求めるしかできません。神様を求めて、その導きによって歩むのです。

 私たちの願いはリバイバルです。心からリバイバルを信じて祈っています。新城教会の歴史を見ると、新城教会が新城市に素晴らしい影響を与えていることがわかりす。日本全国の教会を見ると、毎年教会に行っている人は少なくなっています。三十六人〜三十五人になっています。しかし新城教会は違います。素晴らしい教会です。賛美が素晴らしいこと、祈りも素晴らしいです。これは普通ではありません。新城に来ると新城市は成長しています。現実的にも拡がっています。新しい店があります。これには霊的な理由があります。霊的な理由は教会の働きです。一生懸命祈り、働き、祝福が街に与えられています。イエス様を求め、霊的戦いでこのように進んでいることは素晴らしいと思います。
 しかし、神様がなさることについて、私たちは何年間もやったので知っていると思わないで下さい。私たちは道を知らないので、イエス様を求めてその道を教えていただけるという約束があります。どのようにリバイバルが起こるのかを考えるときに、私たちは全くわかりません。だから楽しみにして、ある日リバイバルが来ると信じています。今日かも知れない、私たちは知りません。来週かも知れない、祈りの中である日、イエス様が成してくださると信じています。私たちは知らないので、イエス様を求めましょう。勝利があるという約束が聖書にあります。最後には勝利があると聖書に書かれています。だから大丈夫です。しかし歩むべき道、行くべき道を毎日教えられ、イエス様に導かれて歩むことが大切です。

 私たちは沖縄に住んでいます。十一月に沖縄で伝道クルセードがあります。そのクルセードが終わってから、新城にもう一度来たいと思っています。皆さんに会いたいです。その時に沖縄に大きな恵みがあることを祈っています。そして今年は四国リバイバルミッションがあります。リバイバルミッションによる祈りが燃え、伝道クルセードもあり、また、北海道の牧師たちが何かすることを願っています。また福岡でもしたいという動きもあります。

 また日本のために祈っている国々が多いです。南米のアルゼンチン、チリ、パラグアイ、ボリビア、アメリカ、カナダの教会、アフリカの教会が日本のために祈っています。アフリカからは、祈りの課題を送って下さいとメールが来ました。アンゴラ、南アフリカの教会、ヨーロッパの教会も日本のために祈っています。またイギリスの宣教師とマニラで出会いましたが、彼も今度は日本のために祈っていると言われました。

 また、韓国からも香港からも、台湾も日本のために祈っています。世界中の教会の兄姉姉妹が、同じように日本の救い、リバイバルを願っています。皆が神様が日本のために何かを行ってくださると信じて願っています。一緒に祈り、私たちは道を知らないので神様の導きによって進み、リバイバルが与えられるその日まで、諦めないで奉仕し、イエス様のための働きましょう。共にお祈りしましょう。私たちは道がわからないので道を教え、導いて下さいと祈りましょう。


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