神はあなたを忘れない

2006.7.16(SUN)
新城教会牧師 滝元 明師

旧約聖書 創世記46章2節〜4節
神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

 ハレルヤ!おはようございます。長い間、私のために覚えて祈ってくださり、今日はこのように元気になり、礼拝できることを感謝します。
 六月十六日に手術をしてから、一ヶ月になります。手術後の礼拝は十八日でしたが、私は病室の中で一人で守りました。三日間ほど個室でした。一人だけの礼拝は淋しいものです。しかしたくさん主の前に賛美し、聖書も十章ほど読みました。ちょうど六月十七日が結婚記念日でしたので、自分が書いた、『若き日の伝道者の恋い』という本を読み、初めの愛に戻ったような気がして感謝しました。
 次の週の二十五日は外泊をもらって礼拝に来ましたが、私はつくづくこの教会で力一杯賛美できることを感謝しました。聖餐式の時は涙が溢れました。私は四十数年間、礼拝を休んだことがないので、礼拝を守ることができることを感謝しました。皆さんの祈りと愛によって、ここまで支えられたことを心から感謝します。

 今日は、「神はあなたを忘れない」というタイトルで話します。一九七〇年に私は田中先生とともにクルセードを始めました。宇都宮の教育会館で奉仕しました。私は力を入れて「皆さん!」と語ると、体の中から「ビリッ」という音が聞こえました。それは「ヘルニア」になった瞬間でした。それから薬局に行って薬を買って飲んだり、三十六年間保たせてきました。しかし腸は段々出てきて大きくなり、右側だけではなく、左側も少し悪くなっていました。医者もそれを見て驚いていました。
 今回、全身麻酔で手術をしました。それに伴い、健康診断をしました。今まで私は健康診断をしたことがありませんでした。採血、CT、レントゲンなど、今までやったことのない事ばかりでした。初めて心臓が左側にあることがわかりました。検査する人に、「どうですか」と聞くと、「悪いところはないです」と言われました。すると医者が、「医者の目と検査技師の目は違います」と言われ、色々な検査をしました。血圧が少し高かったですが、私は糖尿を心配していました。しかし検査の結果、その心配もなく、心臓も特に異常はありませんでした。申賢均先生も糖尿病で亡くなったし、田中政男先生も血圧が高くて亡くなったので、心配がありましたが、大丈夫だったので感謝しました。
 六月十二日に入院し、十六日に手術をしました。心臓が悪いと手術ができませんが、手術することができて感謝しました。痛みもなく、皆さんの熱い祈りに支えられ、守られました。
 私は生まれて初めて入院したので、少し不安がありました。今年五月十五日に入院について考えながら聖書を読んでいると、御言葉が与えられました。御言葉は不思議です。読んで通り過ぎてしまうような時もありますが、御言葉は生きているとあるので、語りかけられるときがあります。創世記四十六章の御言葉でした。

『夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。』

とあります。「ヤコブよ、ヤコブよ」とあるのは、私の名前を神様が呼んでくださり、「明よ、明よ」と呼ばれました。そして、

『彼は答えた。「はい。ここにいます。」すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。」』

 エジプトとは、私にとって病院でした。「病院に行くことを恐れてはいけない」と語られました。『「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。」』という御言葉が、私の心に迫ってきました。
 「わたし自身があなたといっしょに病院に下り、またわたし自身が必ずあなたを再び導き上る。」と語られました。

 私たちの信仰は神の御言葉、聖書です。聖書を信じること、そして、神は御言葉を通して語ってくださいます。「わたし自身があなたといっしょに病院に行き、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。」と言われました。ですから、今日このように健康で、ここに立つことができたのは神の素晴らしい恵みです。

 今回たくさんの御言葉をいただきました。六月十日には、イザヤ書五十四章四節の御言葉をいただきました。

『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。』

 「恐れることはない、手術を受けても辱めを受けることはない」と語られました。またイザヤ書五十四章十四節を読みました。

『あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。』

 皆さんの祈りと御言葉があるのは素晴らしいです。聖霊様が、どこにでもいてくださるからです。手術をしたことは、平安で感謝でした。病室の中で色々と話していたときに、同室の人に、「感謝だ。楽しみだ。手術が受けられるから。」と言ったら、「楽しみ?私は恐いよ…」と言われました。主が私とともにいてくださるので、恐ろしいことはなく、平安のうちに手術を終えることができて感謝です。
 六月十二日は入院しましたが、出エジプト記三十三章十四節の御言葉を語りかけてくださいました。、

『「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」』

と語ってくださいました。この御言葉は素晴らしい慰めになりました。イエス様ご自身がいっしょに病院に行って、あなたを休ませようと語ってくださいました。
 私はクリスチャンになってからずっと働き続け、休みを取ったことがあまりありませんでした。病院では、出される食べ物を食べ、休みました。また六月十五日には、詩篇二十六章十二節の御言葉が与えられました。

『私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。』

 どんな時でも平らでなければ、危険があります。私たちはどんな時にも、安全な場所にいることを感謝しました。皆さんの祈りと恵みによって守られたことを感謝しました。初めて病院に入ったときは、循環器の検査のために三階に入りました。同室の人は心筋梗塞で死にかかった人で、点滴をしていました。すると彼はすごく怒っていました。私が入った日に点滴がとれることになっており、「これで退院できるのか?」と医者に聞くと、「いいえ、もう二週間入院です」と言われていました。彼は、「俺、逃げようかなあ。医者の奴、長く入れておけば儲かるもんで…」などと、言っていました。私は「すっきりと直した方が良いではないですか。」と言いました。
 私が四階に移ると、彼は私を何回か見舞いに来て、励ましてくれました。病院の良いところは、同じ病気の人がいることです。手術の為に病院に入った時、私を含む三人がヘルニアで、一人は目の病気の人でした。同じ病気だったので、みんな友達になり、話しました。隣の人が先にヘルニアの手術をし、夜眠れずに苦しんでいたので、私は起きて布団を掛けてあげたり、世話をしてあげました。また、いただいたみかんを分けてあげたりもしました。
 また私の部屋に、エホバの証人の伝道者がいました。「私は牧師です」と言うと、「私も似たような仕事をしています」と言われるので、何をしているかを聞くと「エホバの証人」と言われました。
 「嫌な奴がいるなあ…」と思いましたが、すぐにその考えを止め、エホバの証人ということを忘れて、一人の人間として付き合っていこうと思いました。彼にも、いただきものをあげたり、世話をしました。すると、とても良い友達になりました。
 エホバの証人の人は、他の団体のパンフレットを読みません。私が『われ土方なれど』の本をあげても読みません。「エホバの証人は他の書物を読まれないのですね」言うと「はい。うちの物もたくさんありますから…」と言われました。しかし、何日間か一緒にいる間に良い友達になり、退院する日には、話を聞かせてくださいと来て、色々な話をしました。すると「こんなことがなかったら、滝元先生と一緒に病室にいることはなかった。俺は幸せだ。人生で忘れることができない。」と喜んでくださいました。

 苦しんでいる人もいました。ある方が痛そうな顔をして苦しんで歩いていました。その人と同室になりました。私はかわいそうに思い、彼のために真剣に祈りました。
 そして次の日、私は手術を受けました。良くなったとき、その方と食堂で出会いました。「良かったねぇ。直った?」と聞くと、「直りました。元気になりました!」と言われました。「私はあなたのために真剣に祈りましたよ」と言うと、「お宅さんは聖書を真剣に読んでいるようでしたね。ありがとうございました。お宅は聖書を読んでいたので、違った人だと思いました」と言っていました。
 カーテン一枚で四人部屋です。私が豊橋の病院を選んだのは、娘の家が近かったからです。毎日、娘と孫が来て祈ってくれました。孫のケイが、「おじいちゃんの病気が直りますように。アーメン」と毎日祈ってくれました。するとその方が、「子どもさんが毎日祈っているのを聞いて、私は泣けて仕方がなかった」と言うのです。その方にも『われ土方なれど』の本をあげました。
 「あなたはどんな病気になったのですか」と聞くと、その病院で初めての病気だと言われました。得体の知らない病気だというのです。一週間の間、四十度の熱が出たというのです。それはツツガムシ病だったようです。その方とも良い友達になりました。来年は家に遊びに来て下さいと誘われました。伝道するというのではなく、良い友達になることができ、傷を見せ合ったりしました。

 手術の後、三日間ほどお腹が張って大変でした。孫に祈ってもらうと、その夜すぐに直りました。今は正常になって感謝です。素晴らしい恵みをいただきました。皆さんに祈られ、支えられ、御言葉があり、主が共におられること、クリスチャンは最高だと思いました。
 イザヤ書四十四章二十一節に、

『ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。』

と書かれています。「ヤコブよ」とは、私に語って下さっています。また、イスラエルもヤコブの名前が変わっただけなので同じです。この御言葉を、ご自分の言葉として受け取ってください。

『ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。』

 皆さんは十字架によってあがなわれているので、信じた人は「わたしのしもべ」だと言われます。「あなたはわたしに忘れられることはない」とあります。時々、私たちは目の先が真っ暗とか、道がわからないという時があります。私も色々と検査をしているとき、御言葉を思い出しました。
 「あなたはわたしに忘れられることがない」今、この時も覚えていてくださる、そして「エジプトに下ることを恐れるな。わたしがあなたといっしょに行って導き上る。」「わたしがあなたといっしょに行ってあなたに安息を与える」、手術の時にもイエス様がいっしょにいて下さると、すごい平安です。
 私たちは礼拝に集まっていますが、礼拝の時には何か一つでも、御言葉をつかまえるべきです。「あなたは、わたし自身のしもべだ」「あなたはわたしに忘れられることがない」これだけでも捕まえてください。今日、「私は忘れられてはない」と信じましょう。イザヤ書四十章二十七節から三十一節に、

『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。』

 「こんなに祈っても、祈りが聞かれないと言うことは、神に見過ごしにされているのか…」と言うときがあります。しかし、

『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。』

とあります。永遠の神とは、いつでも存在し、「あなたのことを忘れることはない」ということです。そして、『疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。』疲れている方は、この御言葉を読みましょう。

『若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

とあります。私は手術が無事終わりましたが、この先のことはわかりません。この後、何年生きるのか、明日どうなるのかわかりませんが、私の願いはあと十年間は日本のリバイバルを見るために生きると信じています。今月、二十三日から八月一日まで伝道に行くので、またお祈り下さい。

『主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

とあります。イザヤ書四十九章十四節から十五節に、

『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。』
                 
 クリスチャンでも、時々苦しくて、「神様は私を忘れられた」と言ってしまうようなことがあります。主を信じていても、毎日晴れではなく、雨や曇り、また嵐の日もあります。しかしどんなときが来ても、主は私を見捨てない、忘れられません。

『「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」』

とあります。
 今日、テレビを見ていると、悲しい事件がたくさんありました。秋田で自分の子どもを橋から突き落としたとありました。新聞を見たら、「彼女はコックリという占い事をしてからおかしくなった」とありました。彼女は悪霊にやられたと思います。
 しかし本当のお母さんなら、『「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」』のです。お母さんは忘れない。しかし神様はそれ以上に、あなたを決して忘れないと言われます。
 『このわたしはあなたを忘れない』のです。「わたしは、明を忘れない」のです。主は生きておられます。時々苦しみにも遭いますが、その時を通して、神様を知ることもできます。マタイの福音書十章二十九節から三十一節に、

『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』                                                                 
とあります。一アサリオンはユダヤの一番低いお金の単位です。昔の文語体の聖書には、「二羽の雀は一銭で売っているでしょう」とありました。
 私が小学校六年生の時に生まれて初めて海を見ました。修学旅行で伊勢に行きました。海が見れるので嬉しくて、一晩中騒いでいました。親父に怒られ、「うるさい。お前の小遣いを減らす」と言って、五円くれるはずが三円にされました。三円もらいました。ここに一銭とあります。昔は一銭もらって飴を買いましたので、一銭とは今の十円くらいかも知れません。そんな雀の一羽でも、忘れないと書かれています。
 私はよく雀を見て声を掛けます。ツバメにも声を掛けます。神様は一羽の雀をも忘れておられないとあります。ルカの福音書十二章六節から七節には、

『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』

とあります。一般的には「二羽の雀が一アサリオン」なので、四羽で二アサリオンです。しかし、五羽になっているのは、「一羽おまけ」です。そのおまけの一羽をも、神は忘れておられないというのです。

 人生で落ちこぼれや、私は駄目だと思われる人は、絶対に駄目だと思ってはけません。必ず、神があなたを知っておられます。時々、天才といわれる人がいます。天才はバカ呼ばわれされることがあります。それは物の見方が違うからです。エジソンも天才と言われ、普通の人と視点が違いました。
 ある人は数学ができず、国語ができない、しかし絵の才能があります。また、ある人は走るのが速い人もいます。神様は、たとい何もできなくても、私を覚えていてくださると知ってください。ルカの福音書十二章の中にも、

『「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」』

とあります。
 私が開拓伝道に入ったときは、非常に苦しい時がありました。いくら仕事を探してもなく、親からも怒られるという戦いがある時に、よく山の中に入って祈りました。私の母親が妹に、「おい、明が山の中に入ったので見て来い。自殺をするといけないので…」と言われてついてきました。
 私は親の前でどんなに悲しくても、泣いたことはありませんでした。しかし山の中に入ると、イエス様の前に泣きたいだけ泣き、「イエス様。悲しいです。仕事を与えてください。家をください。」と泣きたいだけ泣きました。
 すると妹がこっそり見ていて、「アキ兄は山の中でわんわん泣いていた」と言ったそうです。そんな泣き終わったあとで与えられた御言葉は、人生の宝となりました。
 ヘブル書六章九節から十四節でした。

『だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。』

 東京で救われ、路傍伝道をしたこと、家庭集会をしたことなど、色々なことを思い出しました。あの時のことをイエス様が覚えていてくださると思いました。また次に、

『そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」』

 私はこの御言葉を読んだときに、あたかも私の前に神様がいて、語りかけてくださったように感じました。文語体の聖書で、

『われ必ず、汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん。』  

と語られました。神様がアブラムに約束してくださったことを、私にも語りかけてくださいました。
 あれから四十六年間、ずっとこの言葉を忘れないことは、主は私を忘れていません。この伝道生活五十七年間を導いてくださったことを、覚えて感謝しました。
 皆さんも必ず、「恵み恵まん、殖やし殖やさん」です。今はどうであっても、必ず恵まれます。

 私は父親に話しました。「これから日本を救わなくてはいけない」と言うと父は、「バカ野郎。家もないのに日本を救わにゃあいかん?バカを言うな!恥ずかしくてしょうがない。俺は村を歩けん」と言われました。
 父は村長代理をやっていました。「お前が人の家に謝りに行きやがって、気が狂ったとか言っているじゃあないか。バカ野郎!」と言われました。「お父さん、俺が泥棒して逮捕されたとか、人殺しをして刑務所に入ったなら恥ずかしいけど、盗んだ物を返したんだ。酒もたばこも飲まなくなって、正しくなって何が悪いのですか」と言いました。
 その当時から見ると、人生が祝福されると聞いても、信じられないことだと思われました。しかしイエス様が、ここまで導いてくださいました。今考えると感謝だと思いました。入院していてもメッセージする人はたくさんおり、恵まれた教会があります。イエス様は素晴らしい方だと思います。

 イエス様が十字架にかけられた時、両隣に二人の強盗がいました。一人の強盗がイエス様の悪口を言いました。ルカの福音書二十三章三十三節から四十三節に、

『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』

とあります。最初にイエス様とともに天国に入ったのは、強盗でした。

 今日イエス様に覚えられていることを知りましょう。たとい悪いことをしていても、へりくだって、「主よ、私を赦してください」と祈りましょう。イエス様は、必ず忘れることはないと書かれています。あなたはイエス様が覚えてくださっています。家庭や問題にも解決があります。大丈夫です。病気の方も大丈夫です。一番大切なことは、イエス様がともにいるということです。たとい手術をすることがあったとしても、イエス様がともにおられます。経済的に困難があるかも知れませんが、イエス様がともにおられたら大丈夫です。家庭の問題も子どもの問題も、イエス様がともにいて下さったら大丈夫です。イエス様とともに歩みましょう。一言お祈りします。


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