あなたの将来には希望があります

2006.7.23(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 エレミヤ書29章11節〜13節
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

 皆さんおはようございます。今日の礼拝後は大変楽しいプログラムです。「ゴスペル・ランチ」と呼んで、いつものランチより少し豪華なものが出ることになっています。ぜひ、リラックスして、楽しんで下さい。週に一度、教会に集まって心も体もリフレッシュしてから、一週間を始めるとその週は全く違います。今日初めて教会に来られた方々は、毎週教会に来る習慣を付けたら良いと思います。
 人は物を食べるとき、結構、イメージで食べています。もしも、スーパーの肉売り場で、肉に「牛の死体」と表示されていたらどうでしょうか。牛肉を買う気がするでしょうか。いくら安くても、「牛の死体」と表示が出ていたら買わないと思います。人間は、持っているイメージで行動が変わります。
 案外、「キリスト教は難しい」というイメージを持っている人が多いです。「教会も良いけど、キリスト教は難しい」「黒表紙の聖書はたまらない」と言う人がいるかも知れません。救いは努力の賜物ではありません。聖書の内容を知れば知るほど良いのですが、実は、そんなに多く知らなくても、神と会うことができます。
 例えば、テレビを買って、回路図を全部理解してから、スイッチを入れる人はいないのです。ただ覚えるのは、どこがスイッチか、チャンネルかで十分です。

 テレビと言えば、私の幼少時代、テレビが家に入るのは一大イベントでした。そのような時代を生きて来た方もおられるでしょう。この地域で、最初にテレビが入ったのは、すぐ近くの床屋さんでした。私は床屋さんには大変迷惑をかけました。相撲の時期になると、村に一台しかテレビがなかったので、初日から千秋楽まで、十両から最後の横綱戦まで、ずっと床屋に上がり込んで見ていました。散髪してもらうわけでもないのですが、特にクリスチャンホームの子どもたちが多く集まっていました。
 何しろ、テレビが入るのは一大イベントでした。当時テレビが家に入るのは、科学の最先端でしたから、電気屋さんもそれなりの自負を持ってテレビを取り付けていました。
 テレビが家に来る日、朝からそわそわしてしていました。家に帰ると、電気屋さんの軽四輪が止まっていました。作業着を着たおじさんたちが、キビキビと働いていました。それを、村の子どもたちが集まって、じっと眺めるような時代でした。
 「坊や、危ないよ…」などと言われて、あわててどいたりしました。しかし今では、誰でもテレビが手に入る時代になりました。この頃のテレビは昔のように単純ではありません。しかしそんな難しいテレビでも、スイッチを押し、チャンネルの位置さえわかれば、楽しむことができます。
 聖書も同じです。私たちがスイッチの位置と、チャンネルさえ知れば、神様との交わりを楽しむことができます。電波はチャンネルを合わせなければ受信できません。神様は、テレビの電波のように、私たちに常に語りかけています。しかし、私たちがチャンネルを合わせなければ、お話しできないのです。しっかりとチャンネルを合わせたら、神を知ることができます。
 決して教会は難しいところではなく、聖書の全てを知らなくても「イエス・キリストの名前」を知るだけで、私たちの人生は変わってきます。

 またある人は、「教会は良いけど、戒律が厳しすぎる」と言う人がいます。「あれをやってはいけない、これもいけない…」と、戒律が多いだろう。他の宗教は、そのように言わないが、教会には戒律が多いのではないか…。だからそんな所には行かないと言います。
 しかし、これも誤解です。私たちの周りには、たくさんの法律があります。たとえば、「道路交通法」があります。車を運転する時に必要な法律です。この法律がなかったら、大変なことになります。「道路交通法」一つを取っても、私たちの安全と幸せの為にあることが分かります。安全に生きるために、どうしても必要な法律として守ります。
 皆さんの中で、「道路交通法を守ることが人生そのものだ!」と言う人はおられますか?「うわぁ〜、停止線を一センチオーバーしてしまった。もうおれは駄目だ…!」とか、「黄色信号で突っ込んでしまった。もう俺は駄目だ…」と言う人はいないと思います。それらは「自分の安全のため」という前提で守ります。
 しかし案外、多くのクリスチャンが、「聖書の律法を守ることが生きがい」と考えています。しかしそれは、あまり楽しくありません。聖書にある律法は、私たちの人生を守るためのものです。「ここから突っ切ると危ないですよ。ここから入ると危ないから止めましょう」と、私たちの安全と平和な人生のために、神が定めてくださったものです。

 聖書の原則を知るときに、私たちは幸せを得ることができます。今日お読みした聖書の箇所は、神がどんな意志を持っておられるのか、どんな御心を人類に対して持っておられるのかについて、神ご自身が私たちに告げて下さった言葉です。この言葉だけでも覚えたら良いと思います。エレミヤ書二十九章十一節から、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 「わたし」とは、神ご自身のことです。今日、神が私たちのために立てている計画は、「わざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望与えるためのものだ」とあります。
 日本人で、「将来と希望を与える神」という神概念を持っている人は少ないことと思います。日本の神は突き詰めていくと、よく拝めば神にもなり、拝まないと鬼にもなるという存在です。だから、鬼にならないように、常に神としていてくれるように、真剣に拝むのです。「年忌だ、盆だ、祭りだ」と真剣に祀ります。なぜかというと、怠ると鬼と化するからです。「神にもばれば、鬼にもなる」という霊的存在は、元々、「鬼」なのです。それは、将来と希望を与えてくれるような神ではないのです。

 人間を創造し、生かしておられる神様は「イエス・キリスト」です。イエス様は、私たちにわざわいをもたらす神ではなく、将来と希望を与えて下さる神です。
 今お読みした聖書の箇所は、エレミヤを通して神が人々に告げられた言葉です。実は、エレミヤが働いた時代は、イスラエルに大きな変化が起こった時代でした。なぜならば、王様が神に立ち返った時代だったからです。
 エレミヤの時代の王とは、ユダ十五代目の王、「ヨシヤ」でした。その時代、国に大変化が起こりました。それまでイスラエル(ユダ)は、困難とわざわいを経験していましたが、ヨシヤが王となり、国を改革した結果、神から将来と希望の言葉が語られました。
 ヨシヤについては、第二歴代誌三十四章一節から三節に記されています。

 

『ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。』

という記録が残っています。ヨシヤ王は八才で王になりました。もちろんこの年で王といっても、ただのポジションだけではあったと思いますが、彼が王として座を設けたのが、八才の時でした。しかしヨシヤの治世は、平穏な治世となりました。ヨシヤの人生を通し、私たちの人生がどのようであるべきかについて学ぶことができます。

『彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。』

 ここに人生の秘訣があります。平穏で、将来と希望に満ちた人生を送るための重要な条件は、「先祖ダビデの道に歩む」とあります。これは、天地宇宙を造った一人の神、「イエス・キリストの道を歩む」ということです。

 イエス様が語られた言葉に、「わたしが道であり、真理であり、いのちです」という言葉があります。イエス様は歴史に実在された人物です。こんな言葉を語るのは、二人にひとりです。

 もしも私が、「皆さん。私が道であり、真理であり、いのちです」と本気で語ったらどうでしょうか。来週から、ここに誰も来なくなると思います。そして、親切な新城教会の方々は、私に病院を紹介して下さると思います。

 こんなことを語る人は、よほど頭に問題がある人物か、神かのどちらかに違いありません。イエス様はこの言葉を語りましたが、イエス様についてきた人はこの二千年間、絶えることはありません。そして何と、イエス様のためにいのちをかけた人たちもいます。イエス様は、神が人となられたお方です。

 「先祖ダビデの道に歩み」というのは、新約聖書的概念を重ねるなら、イエス・キリストの道から、右にも左にもそれなければ、将来と希望があると言うことです。

 「彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始めた」とあります。何年か前に、十七才の高校生が多くの事件を起こした時期がありました。最近はどうでしょうか。当時、十七才は危ない年代だと言われ、なぜ、十七才の少年たちが事件を起こすのだろうか、と論議された時代がありました。

 ある意味で、十六才、十七才というのは、重要な転換が起こる年頃かも知れません。思春期という誰もが体験する、心も体も不安定で何かやり場のないエネルギーに満ちあふれる時期です。ヨシヤが個人的に神を求め始めたのは、彼が十六歳の時でした。

 私は生まれて気がつくと、牧師の家庭に生まれていました。好んで牧師の息子に生まれたわけではなく、気がついたら家が教会でした。私の身にもなって下さい。生まれてやっと歩けるようになって、外に出て屋根を見たとき唖然としました。家の屋根に十字架がついていたのですから。「何だここは。教会か」でした。

 日曜日になると、日頃の生活の場が片付けられ、人々が入ってきて歌い、祈ったりし、昼ご飯まで食べて帰って行く不思議な場所でした。「ひどいところに生まれてしまった」と思いました。

 私の両親は一生懸命、伝道しましたが、なかなか人が教会に来ませんでした。この辺りは田舎なので、教会には来にくい環境です。待てど暮らせど人が来ないので、両親は困り果て、相談したようです。「人が来ないのなら、自分たちで産んで増やそう」そして、両親は七人子どもをもうけました。

 しばらくすると、お隣がクリスチャンになり、何と十二人産んでくれました。三軒目に住んでいたのが岡本家です。そうしている内に、教会の目の前の伊藤さんがクリスチャンになりました。そこには六人の子どもたちが産まれました。たったの四軒で、四十人ほどの日本の平均的教会ができました。新城教会は、特殊なところから始まりました。

 私は両親を見ながら、「よその人たちはどうでも良いから、我々をかまって欲しい」と思いました。七人もの、難民のような子どもたちがごろごろしているのに…、と思っていました。

 牧師の息子がクリスチャンになり、尚かつ、牧師をしていたら、「キリスト教は本物だ!」と信じても差し支えありません。本物でなかったら、私はやっていません。そんな中で私はイエス様が神であることを知りました。

 しかし、私が本当にイエス様と個人的に出会ったのは、十六才くらいかと思います。高校一年生くらいの時に、私もイエス様に仕えていきたいという気持ちになりました。

 今日もユースクワイヤー(小学生から高校生のクワイヤー)が賛美をして下さいました。彼らは、小さな頃から教会に来ています。礼拝中、落書きをしていたりして遊んでいますが、これで良いのです。そうしているうちに御言葉が心に入り、人生を豊かにしていくのです。

 今日、十六才以下の方々にぜひお勧めしたいです。イエス様と個人的な関係を築いてください。そうしたら、問題が少ない人生を送ることができます。

 しかし年を取ってからでも、一日も早くイエス様を受け入れるならば、将来と希望に満ちた人生を送ることができます。これが聖書の教えです。伝道者の書に、

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』

とあります。若い時にイエス様を信じることは大切です。ヨシヤは、十六才で神様と個人的な関係ができたことにより、神が答えて下さいました。そして国に関わる将来と希望の法則を伝授して下さいました。

 私たちが神を呼び求め始めると、神様は私たちに対して、将来と希望の法則を伝授して下さいます。神は人間を自由という法則の中に創って下さいましたので、私たちが神を求めても、求めなくてもそれは自由です。本物の神様を求めようとも、どんな宗教に入ろうとも、自由ですが、真の神を求め始めるなら、神は私たちに、将来と希望の法則を与えて下さいます。

 最近聞く話題は、明るい話題が少ないです。暗い話題が多いです。私の子どもの頃とは比べることができないくらい、社会に問題が溢れています。私は牧師をしていますが、教会に来られる方々の大半が、人生の中で大きな問題を体験して来られます。私も朝から晩まで、色々な方々の問題を聞き、その方のために祈り、助ける働きをしています。

 教会は皆さんの人生を助ける存在です。ぜひ、教会を利用して下さい。色々な問題があったら、教会に持ってきて下さい。そうすれば、教会はそれに対して、普段では考えても見ない視点で、解決のアドバイスをさせていただきます。

 時々「借金で苦しんでいます。どうしたらいいでしょうか。」と言われます。お金を差し上げるわけにはいきませんが、「どうしたら借金地獄に陥らないか」という秘訣を伝授することができます。

 教会の視点は全く違ったものです。それは神の法則ですので、考えても見ないような所に解決の鍵が落ちています。

 ヨシヤが、神を求め始めたときに、国を改革する方法を神は教えました。

『彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。』

 何と、荒れ果てた国に対し、若い王様ヨシヤに神は何を命令したのでしょうか。ヨシヤは政治力も経験もありませんでした。ないものずくめでした。どうやって国を改革したら良いのか、神を求めました。

 すると神様は、「まずあなたの国から高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除きなさい。」と語られました。

 日本の神々について先ほど話しましたが、そのほとんどが「手で作った神々」です。それも、石や木や金属で作った神々です。そんな神々を一生懸命拝んでいるのです。「今朝も仏壇に手を合わせて来ました」と言われる人もいるかも知れません。

 しかしクリスチャンになると、今まで拝んでいた相手が何物であるのかが、わかってきます。一般的に言って、石や金属を神とするなんて、普通ではないと思います。しかし日本人にとっては、それが普通なことです。

 たとえば、自分の息子が河原で石を拾って来て、それを床の間に置き、父親がいるのにも関わらず、「僕の父さん」と名前を書いて毎朝、「お父さん、おはようございます」と挨拶をしたらどうでしょうか。

 また水を持ってきて、「お父さん、喉が渇いたでしょう。水をいっぱいどうぞ!」と言って石のところに供えたらどうでしょうか。父親は、「おい、大丈夫か。このままじゃあまずいぞ。病院に行こう」というに違いありません。

 しかし、石を拾ってきて、「僕の父ちゃん」ではなく、「僕の神様」と書き、「神様、おはようございます。お水をどうぞ」とやっているのを見て、誰も頭がおかしいとは言いません。それが普通になっています。それが日本人には暗黙の了解のようになっています。石や木や金属を拝むことは、西洋から見るとばからしいと言われます。

 第二次世界大戦後、多くの宣教師がアメリカから送られてきました。日本人が拝んでいる神々を見て、バカに見えたようでした。「ニホンジンハ オロカデスネ。イシヤ キンゾク オガンデル。バカジャ ナイデスカ。」と言いました。それを聞いた日本人は頭に来たようです。

 「うるさい。お前らにわかるか。俺たちはこれで神様を感じているんだ」と言いました。日本の神々礼拝は千年、二千年、三千年と受け継がれているものです。石、木、金属はただの物ではなく、何らかの霊感を感じているのです。今までに、霊体験をしたことがある方は多いと思います。金縛りや仏間で不気味な声を聞いたりと、色々な霊体験をしたことがあると思います。それも石や木や金属の神々の関連で霊体験が起こります。

 先日もある人が、夜寝ていると仏壇の中から人がぞろぞろ出てきて、自分のお腹の上を歩いて行ったと言うのです。

 またある人は、お勝手で音がしたので行ってみると、よろい兜を着た武士が洗い上げをしていたというのです。そのような霊体験はたいてい、恐怖体験になり、「先祖のお告げかも知れない、拝まなくてはならない」と言って、なおいっそう拝むようになります。しかし、拝んでいる相手を「よく見極めなければならない」と聖書は告げています。

 人間は神様が造られた作品として、ある意味、三次元の物体の中に魂をとどめることにより地上に生きる生物として造られました。

 人間のいのちは不思議です。いのちを保つためには、肉体を維持するのです。肉体を管理維持することにより、魂は肉体の中にとどまることができます。肉体の維持を止めてしまえば、魂は肉体に宿ることができません。ですから、私たちは常に、肉体の維持を心がけます。今日もゴスペルランチですが、食事は楽しいです。しかし食事とは、究極的には、いのちを体にとどる為の行為です。食事がなくては、私たちはこの三次元の物体の中に入っていることはできません。人間をそのような構造として神は造られました。

 神はまた、色々な種類の生物を造りました。目に見えない領域で、体を維持管理しなくても自己保存できる生物も造られました。

 そんな中、三次元の存在が、四次元や五次元に住む存在に手を出すなら、いずれも神々しい感じがすると思います。人間よりも優れた存在ではないかという感覚を持つのかも知れません。しかし、そのような霊的感覚を覚えても、それがすべて神なのでしょうか。もしもそれが悪魔や悪霊であったら大変です。そして、石や木や金属を拝んだとき霊的なものを感じたとしても、それは神ではないと聖書は教えています。本物の神は、そんなちっぽけな所に限定され、霊感を感じさせるような存在ではなく、天地宇宙を支配されている大きな方です。物体に霊を感じても、絶対に騙されてはいけないのです。

 最近起こっている事件を見ると、およそ人手によるのではなく、何か霊的な力が介入したのではないかという印象を受けます。先週も語られていましたが、秋田県で起こった事件は、我が子を橋の上から投げ捨ててしまうなど、信じられない行動です。それぼかりか、隣の子どもまでも殺めてしまうとは、信じられません。本当に人間の域を超えています。それは、容疑者が、「コックリ」に手を出してから、おかしくなったと報道されていました。

 「コックリ」とは悪霊を呼ぶ行為であり、たいへん危険です。それは船員たちにより、アメリカからもたらされた降霊術ですが、根源はヨーロッパ系の魔術です。魔女のような悪霊がきて、人々に色々な指示を出します。

 「殺してしまえ、殺してしまえ…。子どもを殺せ…」と告げるのです。そのような霊的指示が語られると、およそ人にはできないことをしてしまうのです。

 それらに手を出ししてはいけません。神様はそんな小さな方ではありません。特に日本人は騙されています。日本人の宗教観の根底は、「物に霊が宿る」という、宗教学的用語で言うならば、「アニミズム」という世界観にあります。

 日本人は、遺骨を大切にします。数年前、ハワイ沖で実習船「えひめ丸」が沈没し、多くの若者たちが犠牲となりました。事件後、日本の遺族たちは真剣に、「船を一刻も早く引き上げて欲しい。遺体をくれ」と言いました。遺体を引き上げるまでには時間がかかり、もしかしたら、骨になってしまっているかも知れません。それでもいいから遺骨をもらいたいと言っていました。

 ちょうどそのころ、私はホノルルに行きました。そこでは世界中のメディアが報道合戦を繰り広げていました。欧米のメディアはこう報道していました。

 「日本人はどうして、すでに亡くなっている体を海底から引き上げることに真剣になるのだろうか。引き上げても骨だけではないか。それよりも、引き上げの費用を、遺族に分配してあげた方がいい」と。

 船を引き上げることにより、いのちが助かるならば引き上げても良いが、お金をかけて骨を拾っても何の助けにもなりません。しかし、どうしても日本人は骨に執着がありました。

 「骨をあきらめたら一億円差し上げますから、どちらかを選択してください」と言われたら、どちらを選ぶでしょうか。骨はカルシウムの固まりです。犬の骨を渡されて、「これがあんたの肉親の遺骨だ」と言われても、専門家でないかぎり、わからないかも知れません。しかしいくらクリスチャンでも、「お金を下さいと言ったら、冷たいと思われるかも知れない」とか、「親族から何か言われるのではないか」と心配して、なかなか「お金が欲しい」とは言えないと思います。

 それは、日本人の根底に「骨の中に霊が宿る」という考え方があるからです。アメリカ人にはそのような考え方は薄いです。

 真珠湾には、日本の先制攻撃で沈んだ、「戦艦アリゾナ」があり、その上に記念館が建っています。アリゾナの船内は千数百体の兵士たちが、いまだに、そのままになっているそうです。そして、誰も引き上げて遺骨をくれとは言わないそうです。なぜ、引き上げるようには言わないのでしょうか。

 日本人に、「なぜあなたたちは引き上げろと言うのですか」というと、日本人は、「家族を愛しているからですよ」と言います。するとアメリカ人は言うでしょう。「家族を愛しているのは、どこの国でも同じでしょう。だから遺体を引き上げること愛とは違うでしょう」と言います。

 その違いは「宗教観の違い」だけです。日本人には「骨の中に霊が宿る」という考えが根底にあるゆえに、遺骨に異常な執着があるのです。

 日本の偶像礼拝、「物体を拝む」背景には、「物に霊が宿る」という考え方があるゆえに、騙しの力が働いているのです。

 物には決して霊は宿りません。クリスチャンであっても、聖書の中に神の霊が宿っているかのように錯覚することがあります。クリスチャンになって長い方は、聖書が何冊もあるかも知れません。読み切ったボロボロになった聖書が何冊もあるかも知れません。しかし、聖書をゴミ箱に捨てることができるでしょうか。何か神の霊が隙間に住んでいるような気がして、捨てられません。聖書を捨てたら罰が当たるような気になってしまうのです。

 やはり日本人には、そのような考え方があるようです。この頃、携帯電話を持っている方が多いです。携帯電話を江戸時代か室町時代に持って行ったらどうでしょうか。電話から声が出てきたら、人々は驚くと思います。その時代の人々は携帯電話を知らないので、中から出てくる声は、「中に神様が住んでいる」と考えるかも知れません。

 「あなたはどなたですか」と尋ね、「俺は神だ」と告げられたら、信じるでしょう。「俺の所に金を持ってこい…」と言われれば、金を持ってくると思います。「食い物を持ってこい」と言われた、ら持ってくると思います。中から出る声に、全て支配されます。中に神が住んでいると騙されているからです。

 今の時代の人で携帯電話の中に人や神が住んでいると信じる人はいません。電波によって支配されている「媒体」にしか過ぎないとわかりますので、騙される人はいません。

 しかし多くの日本人には、物に霊が宿るという騙し事があるので、物を神として拝んでしまいます。ゆえに霊感も感じるのです。それに手を出せば、騙すような神ですから、「鬼」なのです。「悪魔・悪霊」です。そんなところに手を出したら、パクッと食われてしまいます。

 イエス様が言われた言葉に、ルカの十一章十九節から、

『もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。』

 「あなたがたの仲間が、あなたがたをさばくようになる」とは、一体どういうことでしょうか。
 ある時、あなたが誰かに脅されます。そしていのちの危険さえも感じます。そんな時、どこからともなく正義の味方がやってきて、「どうしたんですか。何があったのですか?」と言うのです。「実は、ある人から脅されていて、いのちの危険さえ感じています」と言うと、正義の味方は、「そうですか…。私があなたの敵を追い払ってあげましょう。つきましては、手数料がいります。一万円です」と言われ、「手数料は払いますので、追い払ってください」と頼んだとします。すると正義の味方が、「お前は近づくな!出て行け!」敵を追い払います。
 「良かった!あなたは正義の味方ですね。ありがとうございました!」と礼を言います。
 しばらくは平安な日が続きます。そうすると、またどこからともなく違う敵が来ます。どうしようかと思っているときに、「そうだ!!この間の正義の味方に頼めば良い。そうしたら私を助けてくれるはずだ」
 「すみません。また違うところから脅されています。助けてください。」と言います。「そうですか。じゃあ、力になりましょう。」と言います。
 「しかし今度の敵は前回よりも、ちょっと強そうなので手数料を倍にして下さい。この間一万円だったので、二万円でお願いします」
 要求通り、二万円を支払うと、またしても敵を追い払ってくれました。「あの人は私の守り神」と思って、その後もずっと頼ります。
 しかし、後から「脅しをかけてきた存在と、正義の味方として出てきた存在が、実はつるんでいた」と分かったらどうでしょうか。一方では脅しにかかり、一方では助ける振りをします。つるんでいるので、どうしようもありません。
 私たちの人生の中に起こっていることは、「あなたがたの仲間があなたをさばく人になる」ということが多いのです。

 家族の中に問題が起こったらどうでしょうか。例えば、子どもに問題が起こります。引きこもってしまったとします。押しても引いてもどうにもならないと言うときには、家族や親族から色々な意見が出ます。「カウンセラーに相談しよう」と言います。しかしそのうちに、誰かが言い出します。
 「お宅、良いことが最近ないんじゃない。悪いことばかりじゃない。もしかしたら、祟られているかも知れないよ。拝んだ方が良いよ。あそこによく当たる占い師がいるから、拝んでもらえば良い道に向くかも知れない」と言います。
 考えてみると、おじいちゃんとおばあちゃんは先祖崇拝をよくやっていたけれど、私のお母さんとお父さんはあまりやっていないから、「孫に出たのかも知れないねぇ」と言いながら、霊能者の所に行きます。
 霊能者は、「よくいらっしゃいました。まず一万円いただきます」と言い、支払うと祈祷をします。
 「わかりました。十年前の先祖が祟っています。これから先祖崇拝を一生懸命してください」と言います。家に帰って、仏壇を綺麗にして、水やご飯をあげて、「ご先祖様。申し訳ありませんでした。あなたをおろそかにしたので、こんなことが起こってしまいました。ごめんなさい。これからよく拝みます」と言って毎朝行います。
 そうすると、不思議なことが起こります。それまで周りに合った問題がなくなったりします。それで、「やはり先祖崇拝は大事だ」ということになります。
 しかし人はのど元過ぎれば熱さ忘れるというもので、しばらくすると段々テンションが下がります。問題が解決すると、普段の生活が戻ってくるので、拝みをやらなくなります。そうすると、また新たな問題が持ち上がります。
 「わぁ、またこんな問題が起こってしまった。そうだ、あの霊能者の所に行こう」そして霊能者の所に行くと、言われることは決まっています。
 「あなたはせっかく先祖供養を始めたのに、止めてしまったでしょう。更に先祖さんが怒っていますよ。これを鎮めるためには一万円ではできません。二万円下さい」

 この繰り返しです。これは敵と問題解決を提供する側が組んでいるのです。これではどうにもなりません。そのサイクルから抜け出さない限り、問題は解決しません。ですからイエス様が言われように、「あなたの仲間があなたをさばく」、「あなたに害を与える」のです。
 悪魔に手を出してはいけないのです。皆さんもやがて先祖になりますが、先祖になって祟りたいと思う人はいるでしょうか。先祖になったら、絶対に祟ってやると言う人はいないと思います。
 石や木や金属に霊感を感じても、それを拝んではいけないのです。神はヨシヤに告げました。「アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除きなさい」
 彼はそれらを除きました。その時に回復が訪れたというのが、第二歴代誌四章に記されているストーリーです。

 教会に来ると、神様がどのような方であるかがわかります。神様は決して私たちに害を与える方ではなく、良い方であることがわかります。拝んだら神になるが、拝まなければ鬼になるというような存在ではありません。
 また物の中に住んでいる存在ではありません。「私たちの方こそ、神の中に行き、動き、存在している」と聖書は教えています。私たちはどこへ行っても、神の中にいるのです。ですから神を限定された場所で感じるのではなく、生活のただ中で交わることが出来るのです。
 あなたが会社にいる時も、学校にいる時にも、家庭にいる時にも、どこでも神の霊を感じることができると教えています。私たちは三次元にいますが、神様はもしかしたら五次元のお方かもしれません。平面は二次元です。聖書の一ページは二次元です。それが集まると三次元という立体になります。平面である二次元は、立体の中に限りなく含まれます。しかし、三次元が二次元の中に入ることはできません。
 私たちは霊的存在の中にどっぷりと入っているのかも知れませんが、四次元、五次元的存在が私たちの中にはいることはないのです。
 「私の中に悪霊が入っている」と誤解している人がいるかも知れませんが、悪霊は人の中には住めません。なぜならば、悪霊は人間以上の次元に住んでいるからです。私たちは悪しき力に取り囲まれ、含まれることはありますが、中に入ることは決してありません。私たちの神様は、それ以上の次元のお方ですので、私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。
 そして神が持っている計画は、「わざわいではなく、将来と希望をあなたに与えるもの」と語られています。すべての方々が天地宇宙を造られ、あなたを造られた神・イエス様の計画を受け取って、「わざわいではなく、将来と希望」を受け取ってください。

 もしも今までの人生の中で、繰り返しわざわいが起こっているのなら、まず考え方を改めて下さい。手で作った神々に霊感を感じ、礼拝をささげていたかも知れませんが、それが敵が住んでいる所でした。神様はそんな石や木や金属に住む方ではありません。私たちは敵の感覚を捕らえていたのです。そこから手を放したら、幸せになります。

 日本人にとって大変なことは、「偶像を捨てる」ことだと思います。持っている偶像を捨ててくださいと言われると、なかなか捨てることができません。特に、仏壇が捨てられません。それは色々な人間関係があるからです。しかし、一番捨てることができず、執着のある偶像が、「悪魔の拠点」なのです。絶対に捨てられないので、悪魔はそこに安住の地を見出し、人々を縛っているのです。私たちがそこから手を放すならば、幸せになることができます。
 しかし教会に通うようになると、段々、自分の意志で理解できるようになります。神様はそんなお方ではなく、手で作った木や石や金属の中に住むものではない、私たちは騙されていたとわかり、考え方が変えられます。そして本物の神様とのコミュニケーションが始まり、将来と希望を見出すことができるのです。

 エレミヤ書二十九章十一節、
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 「本当の神様を呼び求めてください。」とあります。呼び求めたら、あなたに出会ってあげると教えています。
 今日はイエス様を呼び求めましょう。暗やみの力を打ち破り、今日は将来と希望をいただいて帰っていただきたいと願います。お祈りします。

(祈り)
 「イエス様。今私はイエス様だけが神であることを信じ、受け入れます。私は神の中に存在していることを心から感謝します。私を癒してください。包んでください。励ましてください。将来と希望を与えてください。今まで手で作った神々を、神として拝んでいたことを赦してください。物の中に霊が宿るという考えに支配されていたことを赦してください。一切の暗やみの力との関係を断ち切ってください。今日から神の中に生きることができますように。将来と希望を私に与えてください。将来と希望を受け取ります。イエス様の名前によってお祈りします。アーメン。」


[バックナンバー]