「心配ない!」
〜重荷を主にゆだねよう〜

2006.8.6(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 詩篇55篇22節
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

詩編94篇19節
私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。

 ハレルヤ!大変暑い中、共に礼拝を守ることができて感謝します。考えてみると、冬にこれだけ暑くしようと思ったら、どれだけ石油がいるのか分かりません。しかし神様は夏になると一瞬にして、日本全体を暖房してしまうのです。今日も、神の力について学んでいきたいと思います。
 教会では聖書の御言葉から、神がなんと語られているかについて学びます。今日も聖書を読みましたが、聖書は神の言葉です。
 先週ひとりの中学生が私の所に来て、「順先生、私は礼拝が楽しみです」と言いました。私のメッセージが良いのかな、と思いました。すると、メッセージの合間に見せる「写真が楽しみ」と言いました。だから、今朝も中学生たちの期待に応えて、何枚か写真をお見せしたいと思います。
 さて今朝は「心配ない!」というタイトルで学びます。時々私たちには、心配事があります。今日も不安でいっぱいになって、教会に来られた人もいるかも知れません。明日のことや、将来のことを考えると不安でたまらない、と言う人もいるかも知れません。しかし聖書は、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

と語っています。「正しい者」とは、「イエス・キリストを信じ、罪が赦されたる者」たちです。神はその人たちが揺るがされるようには、決してなされない、と教えています。 また、詩篇九十四篇十九節には、

『私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。』

 ある時は思い煩いがどんどん増す時があります。問題がどんどん大きくなって、先が見えない時があります。しかし、主の慰めが、私たちを喜ばしてくださいますようにと祈られています。思い煩いが増すときにも、主の慰めが私たちの魂を喜ばせてくださるようにとあります。
 教会に来ると、神からの慰めと励ましを受けることができます。今日も励ましと慰めを受けとって一週間始めたいと願います。ピリピ四章六節には、

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

とあります。色々な思い煩いがあっても、思い煩わないで、祈りなさいとあります。クリスチャンになると、誰に祈ったらよいかがはっきりとします。悶々としていないで、神にゆだねてくださいと教えています。第一ペテロ五章七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

とあります。私たちのことを神が心配してくださっているから、思い煩いをいっさいゆだねなさいとあります。神が「心配ない!」力強く宣言してくださいます。
 誰かから心配してもらえるのは嬉しいことです。「大丈夫ですか?」と心配してもらえることは嬉しいです。今までは、赤の他人のような一人一人ですが、イエス・キリストによって一つの家族として、お互いに気遣うことができます。
 イエス様が生まれなかったら、今日の集まりはありません。ここにおられるすべての方は、イエス様がこの地上に生まれてくださったゆえに、集った人々です。私はイエス様が生まれなければ、この世に生まれなかった人間です。なぜなら、私の両親は、教会で出会って結婚したからです。イエス様に感謝しています。私たちはイエス様によって一つとなり、お互い、親戚以上の付き合いが出来るからです。重荷を互いに分かち合い、互いに支え合うことができます。

 ある老夫婦がいました。奥さんはご主人のことを心配していました。なぜなら、ご主人は年をとっても車を運転していたからです。奥さんは毎日、気が気ではありませんでした。
 ある日、気がかりなニュースをラジオで聞きました。その時、ご主人はハイウェイを運転中でした。奥さんはニュースを聞いて、すぐにご主人の携帯に電話をしました。
 「あなた。気をつけて。ルート二八〇号線を逆走している狂った男がいるとラジオで注意しているから…」と告げました。
 するとご主人は、「もうすでに知ってるわい。でも、そいつが一台だけじゃあないんだ。何百台という車が逆走しているんだ。困ったもんだ!」と言いました。誰が逆走しているのだろうと思いますが・・・。

 徳川家康が人生について語りました。「人の一生は重き荷を負いて、遠く道を行くがごとし」
 案外、人生とはそのようなものかも知れません。七十年、八十年と生きていると、色々な出来事があると思います。特に、八月は日本は「終戦」と言っていますが、「敗戦記念日」があります。その中を生きてきた方たちがおられます。飲まず食わずで国のためと言って戦いました。しかし結果的には、日本人だけで三百万人ほどが戦争の犠牲になりました。その時の不安と心配はいかほどであったかと思います。今は平和な時代に生きることができて感謝です。人の心配は、ある意味、気遣ってはくれますが、解決にはならない場合が多いです。
 しかし聖書は、「主があなたのことを心配してくださる」と約束しています。翻訳は単語の色々な意味の中で、どの意味を選ぶかで違って来ます。聖書は原典においては間違いのない神の言葉ですが、翻訳においては多少の意味の違いが出てきます。
 「心配する」と訳されている言葉は、「支える」という意味合いの方が強い語です。さらに、支えるという意味合いだけではなく、「養う、育てる、備える、背負う、阻止する、守る、養護する」という、生活一般に適応される意味があります。
 私たちの重荷を主にゆだねるならば、主があなたを支えてくださるのです。だから心配しないでください、と語られています。この言葉を、神様が個人的に語っておられるとして、受け取りましよう。今日、主が、あなたに、「重荷をゆだねなさい。わたしがあなたを支えてあげます。」と語られます。

 神は人々を完璧にご存知です。聖書を見ると、人間は神から見捨てられておらず、神に知られている存在であると教えています。ここにおられる一人ひとりを知っておられます。ただ知っているのではなく、個人的に関心を持っています。
 神はあなたを、個人的に「名指しで」呼ばれています。ザアカイという人について聖書は記録しています。当時のイスラエルはローマの植民地だったので、ユダヤ人から税金を集めてローマに納める取税人は嫌われていました。ザアカイはその取税人で、皆から嫌われていました。しかし、エリコの町にイエス様が来られたときに、イエス様はザアカイの名前を、個人的に呼ばれました。ルカ十九章五節に、

『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』

 ザアカイはイエス様が来られるという噂を聞いて、いちぢく桑の木に登っていました。イエス様は木の下を通られ、立ち止まって、「ザアカイよ、下りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから。」と言われました。一番嫌われているような、ザアカイを呼び、家に泊まりました。
 ここにおられる方で、「私は罪まみれで、嫌われ者で、何の価値もない」と思っている人がいたとしても、心配はありません。
 イエス様は、あなたのことを個人的に知っておられ、名前を呼んでくださっています。あなたは、誰かに誘われて教会に来られたかと思います。または、自主的に来られたかもしれません。しかしそれは、偶然ではなく、神が導いてくださった結果なのです。偶然はなく、あなたを個人名で呼び出してくださいました。
 ということは、今抱えている問題も、心配いりません。あなたの重荷を全部ゆだねてくださいと神は語られます。
 また、生まれる前から選ばれていたとあります。イザヤ書四十六章三節に、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

 神様は、私たちがお母さんの胎内にいる時から知っておられ、既にあなたを支えておられたのです。
 さらに、そればかりか、胎内に形作られる前からあなたを知っていたという、御言葉があります。エレミヤ書一章五節に、

『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」』

 これは、エレミヤという人物に対して語られた言葉です。お腹の中に形造られる前からエレミヤという人物をどのように用るかも決めていました。
 しかしこれはエレミヤだけではなく、全員について言えることです。人にいのちを与え、いのちを引き取るのは、神以外にありません。どんな背景で生まれてきたとしても、この地上に生を受けた以上、神のみこころです。
 ある時は、人の罪や傷によって地上に生を受けた人もいるかも知れません。しかしそれらを全て含んで、すべては御手の中にあり、神は私たちが生まれる以前から知っておられたのです。あなたの人生は、すでに定められているのです。エペソ一章四節には、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

とあります。胎内に造られる前どころか、「世界の基の置かれる前から」私たちは選ばれているのです。そうなると、私たちには考えが及びません。宇宙がどうやってできたかというのは科学でもわかりません。宇宙はある時、一瞬にしてできたというのが定説です。しかしその前はわかりません。これは、科学の世界ではなく、すでに霊的世界です。何しろそんな時から、すでに神は私たちを知っておられたのです。
 神様の意志を知るだけで、私たちは力強く生きることができます。色々な心配がありますが、「心配ない!」と神は語られます。深い計画の中で造られたあなたは、ゆるがされることはないのです。

 現代社会は、すべて経済活動を中心に回っています。しかし縄文や弥生時代は、宗教活動そのものが生活でした。しかし現代は経済活動が中心です。
 人間は何を中心軸に歩んだら、幸せになれるのでしょうか。マタイの福音書六章三十三節から三十四節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 聖書は、生きる中心軸として、「神の国と神の義を第一に求めなさい」と告げています。そうしたら、すべてがうまくいくと教えています。
 経済活動が中心のような生活をしていますが、私たちは、神を中心に生きなければなりません。
 昔の人たちは、宗教活動中心の生活でした。彼らの生活は偶像礼拝でしたから、求める対象は違っていましたが、考え方としては間違っていなかったのです。彼らの生活の中心は、経済活動より神々を礼拝する事にありました。拝む対象は間違っていましたが、原則的には間違っていませんでした。私たちも、神の国と神の義を第一にすることが大切です。
 私たちを救ってくださるイエス・キリストを、生活の中心におくならば、経済活動も、その他すべてが後から付け加えられるのです。
 幸せとは、何かを求め、捜すのではなく、ついてくるのです。幸せが追ってくるのです。「災難がいつも私を追って来る」という人がいるのかも知れませんが、イエス様を信じると、幸せが追いかけてくると教えています。そんな素晴らしい人生を歩むのです。
 そのためには「神の国とその義を、まず第一に求めて下さい」という勧めです。そうすれば、それに加えて「すべてのものが与えられる」のです。ですから、「明日のための心配は無用です」と書かれています。

 明日のことを心配している人はおられますか。明日のことを考えると、憂鬱だと言われるかも知れません。そのような人は、心配するなと言ってもなかなか難しいかも知れません。しかし、すべてを神にお任せすることが大切です。
 「労苦はその日その日に十分ある」「明日のことは明日が心配する」とあります。人間は明日を持っているようですが、実は、明日を持っていない存在です。次の瞬間、何が起こるのか、わからない世界に住んでいます。
 先週私は、「神の守り」について話しました。神を信じる者たちには、神の守りがあり、あなたの右に千人が倒れても、左側に一万人が倒れても、あなたを守るという力強い御言葉の約束を学びました。
 人間に明日は保証されていませんが、明日のことは明日が心配するとあります。「明日」とは「神様ご自身」です。神は、過去も現在も未来も、すべて現在形で支配しておられます。私たちが仕える神は、あなたの過去も、現在も、未来も、「現在形」でもっておられます。その方が「心配ない!」語られます。だから私たちは、神を中心軸として生きるのです。
 私たちは、常に経済活動の中にありますが、その中心に、イエス様を認めることです。仕事の中でも、イエス様を認めること、勉強の中でも、イエス様を認めること、常に、祈りとともに仕事をし、勉強に励むならば、神はすべてを導いてくださると教えています。どのような領域にも、イエス様の名前を宣言し、生活を営むようにと語られています。

 「心配する」という言葉は、ギリシャ語においては、「分解する」という意味があるそうです。私は機械物が好きですが、電化製品が壊れたら時々、自分で修理しようとします。
 先日、CDラジカセが壊れました。それは三つのCDが同時に入るものです。メカが複雑なので、CDがうまく出なくなってしまいました。故障だと思い、すぐに分解に取りかかりました。そして、引っかかっているところをドライバーでつつきました。すると「ボキッ」という音がしました。それっきり、全く動かなくなってしまいました。
 もしもすぐに専門の修理屋さんに持って行けば、二千円ほどで直ったと思います。しかしボキッと音がした時点で、すでに買った方が安くなってしまいました。
 私たちは分解せずに、イエス様に心配事を丸投げしたらいいのです。「あなたの心配事をゆだねなさい」とありますが、英語では、『Cast your burden on the Lord』とあります。イエス様に丸投げすれば良いのです。分解せずに、神にゆだねたら、あなたの重荷を神が背負ってくださると言われます。詩篇六十八篇十九節に、

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神』
 
 私たちの神は「毎日」あなたの重荷を負ってくださるのです。「今日は自分でやれよ」と言うのではなく、日々、あなたの重荷を負ってくださると約束しています。だから、明日のことは心配しないで良いのです。そのような信仰で毎日を歩むようにと勧めています。そうしたら必ずゴールが見えると教えています。

 聖書に出てくる人物を見ると、「この人の人生は大変だっただろうな・・・」と思う人が多いです。神様はある人を手本にして、神の働きを紹介しています。そのような人物は、平凡な人ではなく、けっこうメリハリのついた人物が選ばれています。苦しむときには思い切り苦しみ、神によって助けられるときには思い切り助けられるというような、人物が多いです。
 ヨブ記を読むと、ヨブは大変苦労した人物でした。最悪の展開です。しかし、最後の着地は良く、ヨブは倍の祝福を受けたと記されています。
 しかし聖書中、最も荷が重かった人物は、「モーセ」だと思います。何年か前に、『プリンス・オブ・エジプト』という映画がありました。それは、エジプトに奴隷になったイスラエルの民を脱出させるストーリーです。そのすべてがモーセの肩にかかっていました。聖書の記録によると、徒歩で歩ける男性だけでも「六十万人」とありますので、女性や歩けないようなお年寄りを含めたら、百二十万、いや、二百万人にもなると思います。そんなに多くの人を引き連れて脱出したのです。ほんとうに大変だったと思います。
 それを現代版に置き換えるならば、今、北朝鮮の人々は大変苦労していますが、北朝鮮に行き、そこから人々を二百万人連れ出して日本まで連れて来るようなものです。
 もしも、あなたがその役を担ったらどうでしょうか。拉致され、苦しんでいる人たちを引き連れ、北朝鮮から脱出したらどうでしょうか。背後からはテポドンが飛んで来ます。日本海が前に立ちはだかります。しかし祈ると、日本海が真二つに割れるのです。そこを、二百万人の北朝鮮の民を引き連れ、日本まで来ることは大変です。
 しかしモーセの働いたエジプトは、もっとひどい所でした。行く手には紅海だけでなく、砂漠も拡がっていたからです。
 しかしモーセは、それをやり遂げたのです。すごい事だと思います。彼の人生の中には、重荷を軽減する秘訣が隠されています。

 イスラエルの民が、エジプトから脱出して二年後、砂漠の真ん中で民はモーセに文句を言いました。民数記十一章四節から六節に、

『また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」』

 神はマナを降らせ、イスラエルを養いました。しかし人々は、マナに飽きて、きゅうりやすいか、にら、たまねぎ、にんにく、肉も食べたい、それをよこせとモーセに文句を言いました。砂漠の真ん中に、スーパーがあるわけではありません。出張販売業者がいるわけでもなく、モーセは頭を抱えて悩み言いました。
 民数記十一章十三節から十五節に、

『どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」』

 時々、このような心境になるかも知れません。「これ以上、私を苦しめないでください。私を殺してください」と神様に文句を言いたくなるような時もあるかも知れません。
 しかしそんな時には、モーセと比べてください。モーセは、二百万人を背負ってこのように叫びました。それと比べたら、私たちの苦しみ、悩み、重荷は、まだまだ、序の口です。モーセの心境が何となくわかるような気がします。「俺はもうやめた!」というような心境でした。しかしその時、神は一つの方法を教えました。
 神の答えは民数記十一章十六節から十七節にあります。

『主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。』

 実は、モーセがそれまで、普通の人では絶対にできない仕事ができたのは、自分の力でやっているようでしたが、そうではありませんでした。モーセの上に、神の霊が注がれていたから出来たのです。神の霊が注がれていたゆえに、不可能のような仕事をやり遂げていました。彼は、自分の力でやっているように誤解していました。
 しかし実は、自分でやっているようでも、そうではありませんでした。神の霊がモーセを使っていたのです。
 普通では負うことができない重荷を負う秘訣は、「神の霊に満たされる」ことです。私たちがイエス・キリストを信じるときに、神の霊に満たされることができます。そして、自分であるかのように思うのですが、実は、神の霊に支配されているゆえに、仕事ができるのです。
 ある意味モーセは、神の霊に支配されていたことを忘れていました。何か、自分の力でやっているかのような、錯覚をしていたことでしょう。

 その時神は、「あなたがたの民の中から七十人を選び、あなたの上にある神の霊を分けてやりなさい」と告げました。「そうしたら、あなたの重荷は軽減される」と語られました。
 モーセは、そのことによって、自分の力ではなく、神の力で動かされていたことを再認識したと思います。
 同時に、神の霊に満たされた人が「七十人」できたことにより、民をカナンの地まで移動することができました。
 二百万人に対して七十人とは、ほんの僅かな人数です(0.0035%)。しかしこの僅かな神の霊に満たされた人物たちによって、大集団が道を間違えずにカナンの地まで行くことができました。
 重荷を軽くするためには、神の霊に支配されるようにと教えています。それは、「神の国とその義を第一に求めなさい」という御言葉に通じます。神の霊の支配を求めましょう。
 今日の午後は、「夏休み油の注ぎ祈祷会」が行われます。モーセがいただいた同じ力をいただきましょう。モーセが油注ぎを受けたことにより、普通ではできないことができました。
 同じように私たちも神の霊に支配されるならば、重荷は軽減され、背負うことができなかった重荷をも、負うことができるのです。

 聖書は、聖霊の油注ぎによって、重荷やくびきが砕かれると教えています。イザヤ書十章二十七節に、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」』

 「その日になると」とは何でしょうか?この箇所の日本語訳に欠けている部分があります。それは、くびきは「油そそぎのゆえに」肩からもぎ取られる、という意味です。聖霊の油注ぎのゆえに、くびき、重荷が取り除かれるのです。聖霊の油が注がれる「その日」に、問題が打ち砕かれるのです。
 クリスチャンになったら、次の段階として、聖霊の油注ぎを切に求めなければなりません。家族の中で、聖霊の油注ぎを求めると、家族の問題が打ち破られていきます。そして家族が全員聖霊の支配を求めるとき、暗やみの力は立ちはだかることができなくなります。重荷が打ち砕かれます。

 以前、皆さんにお話しした証しがあります。それは、今年の新年PPHの時に、一人の女性のガンが癒されたことです。その人は末期ガンでしたが、主は聖霊の油を注ぎ、癒してくださったことを話しました。
 先週、その方の属している教会のK牧師から、私に電話がありました。電話での話し方には一人ひとり個性があります。どのような展開で結論に到達するかは、人によってパターンがあります。それによって、会話の途中でドキドキしたり、早くから結論を知ったりします。K先生の電話はこんな感じでした。

K牧師「順先生、ガンが癒された人を知っているでしょう。」
私「はい、知っていますよ」
K牧師「あの人、最近体調が悪かったんですよ。」(これを聞いて私はドキッとしました)
「それで私は病院に行くようにを勧めました。」
K牧師「前回、胃までは検査したのですが、ガンの患部ははっきり検査していなかったんですよ…」(ここまで聞いて私は、ガンが再発して、死んでしまったのだろうと思いました)
K牧師「私は彼女に病院へ行くように勧め、彼女は病院に行って検査してもらいました。今回、ついに腸を検査したんです」
私「それでどうなったのですか?」
K牧師「そうしたら、順先生。ガンが本当に直っていたんですよ!!」

 K牧師の電話には、最後の最後まで脅された気分でした。医者が、「これは不思議だ」というと、彼女は、「イエス様に祈ったら直ったのです」と答えました。
 すると医者が、「これは神さんか仏さんか知らんけど、それしか直せんわ…」と言ったそうです。
 癒したのは、仏ではありません。イエス様です!良かった、と思いました。もっと早く結論を言って欲しいとも思いましたが。皆さんも色々な出来事を人に伝えるとき、結論から先に言ってください。

 奇跡が起こる瞬間は、神の霊が注がれるその時です。抱えていた問題が打ち破られます。モーセが多くの民を引き出すことができたのも、油注ぎのゆえであり、その注ぎが七十人に拡大したとき、更なる勝利へとつながったのです。クリスチャンたちが神の霊に満たされるならば、日本に何かが起きます。

 日本人はイエス様について、わからないかも知れませんが、本能的に、「霊的な存在と関わると、道が開ける」という考え方があるように思います。
 なぜなら、日本人は色々な問題が起こると、霊を受けに行くからです。そのために専門に働いているのが、「霊能者」や「占い師」たちです。何の問題もなくて霊能者や、占い師の所に行く人はいません。しかし問題がある時、霊能者に頼んで霊を呼んでもらったら、問題が軽減されるという、考え方があるように思います。しかしそれらに関わると、人生はさらに大変になります。

 実は、霊能者の根源はエジプトにあります。聖書も霊能者の根源がエジプトにあると教えています。私たちは近いうちに、エジプトへとりなしに行こうと考えています。ぜひ祈ってください。日本においても霊能者や占い師が暗躍しています。そして、神の霊ではなく、悪霊を引き下ろし、人々に関連づけています。その結果、さらなる問題が起こっています。それらの根源がエジプトです。
 南米に行くと、「マックンバ」、「サンテリア」と呼ばれる魔術が多く行われています。それらの魔術は、すべてアフリカから持ち込まれたものです。それはエジプトで発展し、アフリカ全土に拡大し、巡り巡って現代にまで影響を与えているものです。ですから、魔術の根源が置かれている場所まで行って、その力を打ち破る祈りをしてきたいと願っています。
 最近、エジプト行きのチケットが一番安い時期を調べると、九月でした。なぜならば、エジプトはその季節、メチャクチャ暑くて、観光客が少ないからです。近頃、名古屋のセントレアから都合の良い便が就航しました。ですから、九月に行こうかと思っています。世界で暗躍している魔術師や霊能者、占い師の力が打ち砕かれて、日本に神の霊が注がれるように祈ってください。

 エジプトは魔術が盛んに行われた場所です。神はそんな魔術の世界から、イスラエルの民を救い出したのが出エジプトのレポートです。
 特に、占いや霊媒に頼る結果について、聖書は次のように告げています。イザヤ書十九章一節から四節、

『エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。――万軍の主、主の御告げ。――』

 エジプト人たちは魔術を行い、占い師や霊媒師に頼る生活していました。その結果はどうなったのでしようか?
 その生活の結果は、「兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う」とあります。
 霊能者に関わると、結果は家がもめ出すのです。兄弟同士でもめたり、親子がもめたり、国と国、地域と地域がもめ始めるのです。そして「エジプト人を厳しい主人の手に渡す」とあります。だから絶対に、占いや霊媒などに頼ってはいけないのです。
 クリスチャンになる以前、霊能者に頼ったことがある人は、よくわかると思います。祈りが答えられることもありますが、必ず最後は、人間関係が壊されていきます。これは「魔術の結果」です。「降霊術の結果」です。
 新城教会に魔術の力が影響を及ぼすことのないように、根源に行って祈って勝利を宣言したいと考えています。エジプトの九月は体感温度五十度だそうです。ドライヤーを側で当てられるような感じらしいです。四日間でアレキサンドリアから南のアスワンまで行きます。今から体力作りと、祈りによって備えたいと思っています。
 また十月には、ジョー先生がヤキマに招待してくださり、ツアーを計画しています。ぜひご参加下さい。ヤキマ・バレーフェローシップ教会と、とりなしと交わりを計画しています。

 人々は心配になると、重荷軽減のために、何らかの霊に頼ろうと願います。本物の神である「聖霊」に満たされるならば、重荷は軽減されますが、偶像の神々を背景にした悪霊に頼るならば、結果はもめ事が始まり、人生は厳しい主人の手に渡るのです。

 マタイの福音書十一章二十八節から二十九節に、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』

 聖書は文脈を捉えらえて読むことが大切です。四福音書は相互に補完し合っています。この御言葉が、どのような背景から語られたのかを、考えながらお読みいただくと良いと思います。マタイ十一章は、ルカ十章にも関連があります。
 七十人の弟子たちがイエス様から任命を受け、町々に遣わされました。この時も「七十人」でした。遣わされた弟子たちが帰ってきたとき、「あなたの名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と報告しました。
 彼らが福音を伝えたとき、神の権威によって、悪霊どもは追い出され、病は癒されるという奇跡が起こりました。それを体験した弟子たちは、喜んで帰ってきました。
 その時、イエス様は「すべて疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と語られました

 私たちが重荷に感じることは、環境的や人間関係が起因して重荷を感じるようになることもありますが、実は、重荷の背後には霊的な力が関わっているのです。
 七十人が出て行って、悪しき力が打ち破られたときに、弟子たちは喜んで帰ってきました。そして、「すべて重荷を疲れた人、重荷を負った人」とは、人々の重荷とは「霊的重荷」であることを示しています。
 私たちは、時々、霊的戦いは大変なものだと考えます。敵の力と戦うことなど、専門家に任せて、戦いなんてしたくはないと思います。
 しかし、霊的戦いは決して大変なものではなく、軽いものだと教えています。七十人の弟子たちを見てください。彼らは恐る恐る出て行ったのでしょうが、帰りは喜々として帰ってきたではありませんか。
 彼らは上からの権威を受け取り、行く先々で勝利を治めました。戦いは決して辛いものではなく、もしも、戦いに疲れたのであれば、「わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげる」と語られています。特に、霊的な疲れを、イエス様は担ってくださるという視点で、この御言葉は語られています。

 もしも少し、霊的戦いに疲れたと言われる方は、心配しないでください。イエス様は休ませてあげると語っておられます。霊的戦いは、もともと楽なものですが、もしも傷ついたとしても、それを休ませてあげると約束されています。
 主は私たちの重荷を担ってくださり、引き受けてくださり、心配してくださり、支えてくださいます。詩篇五十五篇二十二節に、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

一言お祈りします。


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