「神の約束」
〜あなたは圧倒的勝利者となる!〜

2006.8.13(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 ローマ人への手紙 8章35節〜39節
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日は交通も混雑しているようですが、共に礼拝できますことを感謝します。皆さんにとって、祝福された日となりますように祈っています。
 今、ゴスペルクワイヤー、「ヘブンリー・キングダム」の賛美を聞きました。たいへん素晴らしい賛美でした。その歌詞の中に、「あなたの人生の中で、最高のものはまだ来ていない」とありました。主はあなたに、まだ経験したことのない、素晴らしいことを起こされます!
 今朝は、「神の約束」「あなたは圧倒的な勝利者となる!」というタイトルで、聖書から、その秘訣を学びます。
 聖書とは、「神の約束」を著している書物です。そこには、色々な約束がありますが、一度に全部を学ぶことはできません。礼拝に集うことにより、一つ一つ神の約束を手に入れることができます。そのような中、「あなたは圧倒的な勝利者となる!」という約束について語ります。

 先日私はテレビで、ボクシングを見ていました。亀田とベネズエラの選手の試合を見ていました。彼の試合は、圧倒的勝利ではなかったと思います。私の判定によると、亀田は負けたのではないかと思いましたが、勝っていました。試合を見て、人生も、絶対に負けていると思っても、勝つことがあるのかなと思いました。
 あの試合は、ベネズエラでも問題になったようです。ベネズエラのメディアは、「勝者は明らかにランダエダだ。日本では、相手を殺さない限り勝てない」と批判をし、強い不信感を表した、報道されていました。
 あのように判定勝ち、負け、という試合もありますが、聖書が私たちに与えると約束している、「神の約束」は、判定による勝敗ではなく、「圧倒的な勝利」と教えています。
 ローマ書八章三十七節に、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

とあります。私たちの人生には、色々なことがありますが、着地は圧倒的勝利です。三十五節には、

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。』

とあります。この箇所をリビング・バイブルで読むとわかりやすいです。三十五節から三十七節に、

『では、いったいだれが、私たちをキリスト様の愛から引き離せるでしょうか。 私たちは困難や災難に会い、また迫害され、殺されるかもしれません。 しかしそれは、神様が、もう私たちを愛しておられないからでしょうか。 また、もし私たちが飢え、文なしになり、危険にさらされ、死に脅かされるなら、神様に見捨てられたことになるのでしょうか。違います。 旧約聖書にこう書いてあるからです。 「神様のためには、いつでも死ねる心がまえでいなければならない。私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」しかし、こうした中にあっても、私たちは、いのちを投げ出してまで愛してくださったキリスト様によって、圧倒的な勝利を得るのです。神様の愛から私たちを引き離せるものは何一つない、と確信しています。 』

 キリスト教の歴史を見ると、圧倒的勝利とは言い難い部分も多くあります。その歴史は、「迫害の歴史」と呼ばれます。イエス・キリストを信じるゆえに、迫害を受け、いのちを神にささげたような歴史もあります。
 今私たちは、平和な時代に住んでおり、クリスチャンになっても、迫害されるような事はありません。
 今週、八月十五日は「終戦記念日」ですが、今から六十一年前、日本には「信教の自由」はありませんでした。国家神道の元、日本教会は迫害されました。軍部によって教会は「日本キリスト教団」にまとめられ、国によって教会は監視されました。当時は礼拝の前に、「宮城遙拝」と言って天皇と皇居を拝み、講壇の上に「神棚」が設置され、神棚を拝み、「君が代」を歌ってから、礼拝を行ったという、悲しい敗北の歴史がありました。もしもそれに従わなければ連行され、いのちまでも奪われた牧師もいました。そんな迫害をたえた教会の歴史が日本にもあります。
 現在、私たちは平和な時代に住んでいますが、このような時代にあっても、信仰の基本はリビングバイブルにあったように、

『旧約聖書にこう書いてあるからです。 「神様のためには、いつでも死ねる心がまえでいなければならない。私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」』

 どんなに平和であっても、私たちは神のためにいのちも惜しまない、という心構えでいるようにと教えています。しかし神は、私たちに、敗北ではなく、圧倒的勝利をもたらしてくださるから、心配しないようにと励ましています。
 死ぬ気になれば何でもできると言いますが、ある意味で、神様のためにはいのちをかける、という意気込みがどんな時代にあっても必要だと思います。日本も今は平和ですが、これから、どんな時代になるのかわかりません。歴史は繰り返すと言われますから、もしかしたら、六十年前と同じような状況になるかも知れません。今度の首相選挙で最も論議されていることは、「靖国神社参拝」です。そんな論議の中、再び、偶像礼拝を中心とする国家になる可能性も、なきにしもあらずです。ですから、クリスチャンは平和ぼけしないで、「いつでも主のために死ぬことができる」という意気込みで、国のために祈っていかなければならないことを教えています。

 クリスチャン生活は、ある意味でいのちがけです。今週は「盆」という時期で、一番偶像礼拝が強くなされる時期です。多くの人は、「盆」が仏教の教理のように思っていますが、仏教とは関係がありません。それはヒンズーから来た輪廻を背景にした考え方です。原始仏教には「盆」などはありませんでした。人間が死んだらどうなるかについて、仏教は回答を出していません。しかし聖書は、はっきりと、死後の世界について教えています。私たちは死んだら空中に漂っていて、誰かに拝んでもらわないと行くところにいけない、ということは決してありません。瞬間的に神の御手に戻ることができます。神によって造られた者は、神の元に戻るのは当然だと思います。拝んでくれないと誰かに祟るということもありません。皆さんが先祖になったら、誰かに祟りたいと思いますか。
 ほとんどの日本人が、死んだら空中にいるのか、地獄に行くのか、天国に行くのか、はっきりとかわかっていません。
 盆行事には矛盾が多いです。盆は年間に一度、地獄の蓋が開き、先祖が三日間ほど自宅に帰って来ると言います。先祖がわかるようにと、かがり火を焚いて迎えるというのです。隣の家も火を焚いたら、先祖は混乱するのではないかと思います。
 三日間は先祖が帰って、共に食すると言っています。しかし人々はその時期に墓参りに行きます。家にいるのなら、墓に行く必要はないのではと思います。
 三日間家に滞在した後、また地獄に帰って行くようです。帰るときに、このスピード時代、きゅうりやなすを串にさして馬を作り、それに乗せて帰すというのです。それも、橋の上から投げ捨てて、先祖を送るというのです。最近では、それでは川が汚れるということで、特別、盆の時のゴミ収集場が用意され、市の焼却場に持って行って焼かれ、地獄に帰って行くようです。
 一年のうち三六二日間は地獄にいるのです。にも関わらず、留守の仏壇を拝みます。考えてみると矛盾だらけです。皆がやっているから、やるというようなものです。
 いずれにしても、この時期は一番偶像礼拝が盛んです。なぜ皆が偶像を拝むかというというもう一つの理由があります。それは、盆の時期に霊体験をするからです。先祖が現れたとか、音を聞いたとか、感じたなどの体験により、盆行事が継続されて来ました。
 しかしそれは先祖の霊ではありません。それは、先祖の振りをした死の霊であり、盆は死の霊を家に招いているのです。ゆえに、盆は死の力が働く時期なので、しっかりと立ち向かい、とりなし祈らなければなりません。
 この時期、クリスチャンとして、負けることなく、死者礼拝をすることなく、真の神以外には決して礼拝しないと、家族に宣言しましょう。
 また、家族がクリスチャンでないため、困難な中にあっても、やがて圧倒的な勝利者としてくださるという、約束があります。「あなたの人生に、最高のものはまだ来ていない」と賛美されたように、これから、皆さんに最高のものが与えられます。

 私は魚釣りが好きです。最近、なかなか行けませんが、魚釣りは釣れる所に行かないと釣れません。人生は魚釣りのようなもので、良いものをつり上げようとして、色々なところに出かけますが、ポイントを間違うと釣れません。教会は天地創造の素晴らしい神と出会う最高ポイントです。

 聖書中に出てくる人物は、苦しみが多かった人物が多く登場します。先週も学んだように、モーセは苦しみが多かったですが、最終的には、イスラエルをカナンの地まで連れて行くという、大きな働きをし、圧倒的勝利者となりました。
 新約聖書の中で、最も苦労したと思われる人物は、「パウロ」です。彼の人生を見ると、たいへんな苦労をして、福音を伝えました。
 私たちも時々、苦労しますが、彼に比べると、まだまだ、楽なのかも知れません。彼は自分の人生について、次のように述べています。第二コリント十一章二十三節から二十九節、

『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。』

 パウロは、神の霊に支配され、力強く働きましたが、彼の人生には苦労が多かったのです。
 パウロはローマ八章でも語りました。「私たちを神の愛から引き離すものは誰ですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。」そして、「それらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者になることができる」と、圧倒的な勝利者となる秘訣について語っています。

 もしかしてあなたも、困難に出会っているかも知れません。しかし神の約束は、現在、どのような状況にあっても、着地は「圧倒的勝利者になる」という約束です。
 ピリピ人への手紙四章十三節に、

『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』

とあります。パウロは「私は弱い」とコリント人への手紙で告白しています。しかし一方では、「私は私を強くしてくださる方によってどんな事でもできる」と語っています。この御言葉を、自分に語られている言葉として宣言しましょう。

『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』

 「フジツボでも太平洋を渡る」ということわざがあります。フジツボは岸壁に付いている、貝の一種だと思います。それは自分で泳ぐこともできない、自由に移動もできないような生物です。しかし、そのフジツボでも、太平洋を渡るのです。それは、太平洋航路の船にくっついて渡るのです。
 私たちは弱いかも知れませんが、「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」とあります。自分の力ではなく、神によって、私たちはどのような局面も乗り越えることができると教えています。
 私たちも、フジツボのような存在かも知れませんが、「イエス様」という大船にくっつくことによって、どんな荒海をも乗り越えて、目的地に着くことができると聖書は教えています。

 ローマ書八章には、幾つかの「キーワード」があります。ローマ書八章二十六節から二十八節に、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 パウロが多くの苦しみに出会い、弱さを体験しましたが、圧倒的勝利者となった秘訣は、「御霊が私たちのために、とりなしてくださる」ということに気付いた為でした。
 そして、ローマ書八章のキーワードは、「とりなし」です。何度か出て来ます。そして、とりなしの祈りが、いかに大切であるかを教えています。とりなしの祈りがあるならば、あなたは圧倒的な勝利者になるのです。この秘訣を、私たちはしっかりと受け取らなければなりません。

 「圧倒的勝利」という言葉は、ギリシャ語では「ヒュペルニカオ」という言葉です。新約聖書中、この箇所以外には使われていません。それは、「度を超えて打ち勝つ」という意味です。私たちが度を越えて打ち勝つ、すなわち、「圧倒的勝利」のためには、とりなしの祈りが必要であると教えています。
 エペソ六章十四節から十八節に、

『では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 ここでは私たちに、霊的に「武装しなさい」と教えられます。「腰には真理の帯、胸には正義の胸当て、足には平和の福音の備え、手には信仰の大盾、御言葉の剣、そして救いの兜をかぶりなさい」と教えています。兵士と同じように武装しなさいと教えています。そしてその結論として、「どんな時にも御霊によって祈る」、「絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈る」という、「とりなしの祈り」によって武装するよう勧めています。私たちは聖霊様の促しによって、お互い、とりなし祈り合う特権があります。

 先週の国際ニュースでは、イギリスからアメリカに飛び立つ予定の飛行機が、テロリストによって狙われ、爆破される計画あったというニュースがありました。計画が事前に察知され、とどめられたのです。日本では盆の人が動く時期に発覚したので、海外旅行者にとっては大迷惑です。現在、アメリカやヨーロッパに向かう飛行機の機内に持ち込めるものは、チケットと財布、そして、パスポートだけです。特に、ペットボトルをなど、液体を持ち込むことができないようです。なぜならば、テロリストがペットボトルの半分に水を入れ、半分には液体爆弾をはめ込んで、機内に持ち込んで爆破しようとしていたからです。そんな危険な計画を、よくぞ見破ったと思います。良かったと思いました。それが実行されていたら、大変なことになっていたと思います。

 なぜ、見つけることができて、大惨事とはならなかったのか…。それは事前情報があったからです。パキスタンがその情報を入手し、イギリスに伝え、今回の犯人逮捕に至ったようです。事前情報がなかったら、大惨事が起こったと思いますが、事前に敵の動きを察知したことによって、事なきを得ました。事前情報はとても大切です。
 先月、北朝鮮からミサイルが飛んでくる事件がありましたが、あのときも、ミサイル発射の何日も前から、「北朝鮮がミサイル発射の準備をしている」というニュースが流れていました。そうしたら、本当に打ってきました。どうしてわかったかというと、偵察衛星が敵の動向を観察していたからです。その行動に対して、日本政府が動いていたから、事なきを得ました。

 私たちの人生にも、同じことが言えます。私たちを敗北させるために、敵の力が動いています。私たちに攻撃を加えようとして、色々な企みを持っています。しかし御霊によるとりなしの祈りがあると、敵の情報を事前に察知して、圧倒的勝利者となるのです。
 それは事前に敵の情報を入手し、打ち破るからです。パウロは人生の中で色々な難に出会い、大変な苦しみを通して最終的に理解したのです。「難」が起きるのは、環境的なものではなく、敵の力が働いているからだとわかりました。そして、それらを打ち破るために必要なのは、「聖霊によるとりなしの祈り」と、「キリストの体による、各器官のとりなしの祈り」が大切であると語っています。
 それゆえに、パウロはエペソ六章で、「御霊によって祈ってください。」「私たちのために祈ってください」と手紙を書いています。

 旧約聖書に出てくる預言者エリシャは、聖霊による、とりなしの祈りの力を受け取っていた人物でした。第二列王記六章八節から十二節に、

 

『アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 神の人エリシャは、アラムの王がイスラエルを攻撃するために、ひそひそと自分のお后と寝室で、「今度はイスラエルを攻めようではないか。兵隊をあの場所へ秘密に送り、イスラエルを不意打ちして、やっつけてしまおう」と話していても、察知して聞くことができたようです。
 それでエリシャは、「あの道に兵を送りなさい。あの道をアラムが下ってきますから…」とイスラエルの王に教え、エリシャの声を聞いた王は、その道に事前に兵士を配備しました。
 すると本当にそこに敵が攻めてきました。「エリシャの言ったとおりだ…」と、事前に準備があったので、イスラエルは事なきを得ました。これを度々体験したアラム王は、家の中にスパイがいるに違いないと思いました。しかし、スパイがいたわけではありません。神の力によって、エリシャが敵の策略を事前に察知していたゆえに、罠にかかることはありませんでした。とりなしの祈りは、敵の策略を事前に見抜いて、打ち破ることができるのです。

 実は先週、この教会に属する方が大変な目に遭いました。それは、スーパーを経営しているOさんです。なぜなら、彼は強盗に襲われたからです。彼の店はたいへん繁盛しています。だから、強盗も目をつけたのでしょう。夜中の十二時頃、彼が店を閉めて帰ろうとしたときに、強盗に遭遇したそうです。
 「そこに座れ!金を出せ、殺すぞ…」と言われたそうです。何と、強盗は、右手に包丁、左手にはバアルを持って立っていたそうです。しかし、彼はその強盗に立ち向かいました。バアルを振られて、目の上を切りましたが、何と、強盗を撃退したのです。彼は強盗をやっつけました。彼には勇気があります。恐くなかったというのです。私は彼からその時の様子を聞きました。
 私は、「包丁とバアルを持っているのに、よく戦ったねぇ。」と言うと、彼は、「実は、暗くてよく見えなかったので、バアルと包丁を持っているとは思わなかった」と言いました。彼は強盗に飛びかかってから、強盗が包丁とバアルを持っているのに気付いたというのです。
 しかし彼はなかなか落ち着いていて、包丁を見て、これはあまり切れない包丁だとわかったそうです。もみ合っているうちに、強盗はバアルを落としたそうです。Oさんの方が体力があったので、強盗を押し戻していったのです。
 しかし彼はクリスチャンの鏡のような人です。強盗に対して暴力を振るわなかったというのです。強盗を傷つけてはいけないと思い、細心の注意を払って戦ったというのです。
 たぶん、私だったら性格上、落ち着いて考えられないところがあり、何をしたかわかりません。
 二十年ぐらい前ですが、新城教会に集っている方からSOSが入りました。強盗ではありませんが、家の中に暴漢が押し入り、暴れ回って大変だから助けて欲しい、という連絡でした。私は警察より先に現場に駆けつけました。男が暴れているのを見て、私は到着すると同時に、男に飛び蹴りを入れていました。男はその場に倒れました。
 これは二十年前の話です。今は少し、きよめられていると思います。Oさんは自分が傷つけられても、強盗が傷つかないようにして戦ったというのです。
 しかし一歩間違えれば、彼は大変なことになっていたと思います。スーパーの鮮魚コーナーに犯人が立っていたそうです。そこにはよく切れる包丁がいっぱい置いてありました。だから、包丁がある場所に犯人を行かせてはいけないと、注意を払って戦ったそうです。
 Oさんは犯人をしばらく捕まえていたのですが、最終的に手を放したようです。Oさんは、「あんたは最後の所で詰めが甘い」と家族から怒られたようです。犯人を捕まえていたら、彼も相当、有名になったかも知れません。しかし、守られて良かったと思いました。
 私も事件の一報が入ったとき、たいへん驚きました。Oさんの息子から、「お父さんが強盗に襲われました。血を流しています」と、生々しいメールが入ったので、驚きました。

 けれども、この事件の背後には、とりなしの祈りがありました。この教会には色々な職業の方がおられ、夜中に、この近所のコンビニに商品を配送する仕事をしている方がいます。浜松方面から、新城方面に配達し、豊川・豊橋を巡り、朝方、再び浜松に戻る仕事をしています。その人は毎晩の仕事で、車を運転をしていますが、ある晩、主から「とりなして祈りなさい。賛美をしなさい」と語られたそうです。
 それで、神が語られた通りに、店を回りながら、真剣に祈るようになったそうです。そして行く先々で、とりなしの祈りをしながら、真夜中に働いているのです。特に、彼は、新城教会に属する兄姉姉妹のために、とりなし、祈っています。
 「私たちが眠っている間にも、備えてくださる」と聖書にありますが、正に、そのようです。その人がとりなしているので、守られていると思うことがあります。

 先週の月曜日、スーパーに強盗が入った夜、なんと配送の車に、新城教会のスタッフが二名乗車して、とりなしの祈りを強化していました。その夜は三人で、地域のために祈っていたのです。
 その夜も、いつものルートを通って、浜松から新城に入って来たそうです。配送車は、道が決まっています。
 しかしその夜は、新城に来てから、少しコースを変更したそうです。まずは、新城教会に来て、教会前で祈ったそうです。そしてその後、「今夜はOさんのスーパー行って祈ろう」と言うことになったそうです。
 それで、スーパーの前に行って、とりなし祈ったそうです。それが、十一時頃だったそうです。そして、その一時間後、十二時頃に強盗が入りました。もしも、あのとりなしが無かったら、Oさんはどうなっていたかわかりません。とりなしがあったので、守られたのだと思います。
 しかし、同行したスタッフたちは少し落ち込んでいました。「もしも、もう少し真剣に祈っていたら、その場で犯人が逮捕されたかも知れないし、強盗は来なかったかも知れない…。申し訳ない。」と落ち込んでいました。
 何れにしても、主は、不思議なことをされます。そのような危険がOさんに迫っていたので、「今日はOさんのスーパーの前で祈るように!」と促されたのだと思います。ゆえに、あの程度ですんだと信じます。
 アメリカにいる私の娘からもメールが来ました。「驚いた。前日に、Oさんのために祈らなくてはいけないと思っていたところだ」と言っていました。そのような御霊によるとりなしがあります。ぜひ、キリストのからだに属する機能を働かせて、互いのために祈り合ってください。そうしたら事前に、エリシャがアラムの王の策略を見抜いたのと同じように、危険をカバーすることができます。
 今回も危機一髪のところで、主が敵の策略を打ち破ってくださったことを、心から感謝したいと思います。

 「圧倒的な勝利」という言葉は、「ヒュペル・ニカオ」という言葉が使われています。これは、「度を超えて」という言葉と、「打ち勝つ」という言葉が合体して出来た言葉です。
 「打ち勝つ」という言葉は、「ニカオ」という言葉です。この「ニカオ/打ち勝つ」という言葉が最初に出てくるのは、ルカの福音書十一章二十節から二十二節です。

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。』

 これはイエス様が語られた言葉ですが、ここに「打ち勝つ」とあります。この言葉は「ニカオ」という言葉が使われています。「圧倒的勝利」という言葉と同じ、ニカオが使われています。
 「打ち勝つ」とは、「彼に」と、いうように「相手」がいます。ここにある「強い人」とは、「悪魔とその一味悪霊ども」です。そして「もっと強いもの」が襲ってきてとありますが、「もっと強いもの」とは、神の霊である「聖霊様」の力です。神の指とは神の霊です。
 破壊的・敗北的事柄が起こる背後に、この世の強いものが関わっているのです。そこに「もっと強い者」が加わるならば、打ち勝つことができると聖書は教えています。
 私たちは日々聖霊に満たされて、強いものに打ち勝つのです。

 なぜ私たちには、圧倒的勝利が与えられるのでしょうか。それは、イエス様が十字架において大勝利を取ってくださったからです。かつて、ローマ帝国は太陽礼拝を中心とする偶像礼拝の国でした。しかしコンスタンチヌスという王が太陽礼拝を捨て、真の神に仕える決断をし、国が変わりました。その決断により、一つの戦いが起こりました。そして、コンスタンチヌス王率いる軍隊は、もう少しで破れそうになりました。
 しかし、コンスタンチヌスは天に十字架を見たのです。そこには、「この十字架の旗の下に戦え」という文字が記されていました。彼は十字架旗を作り、その旗の下、すなわち、イエス・キリストの元で敵に戦いを挑みました。その結果、戦いは勝利へと向かい、敵の軍隊を打ち破り、ローマはキリスト教化していった歴史があります。
 教会は十字架をシンボルにしていますが、これは決して礼拝の対象ではありません。イエス様の勝利のシンボルです。
 イエス様が十字架についたのは、殺されたのではありません。自ら、十字架に進まれ、自ら、いのちを捨て、自らそのいのちを受け取りました。自らの力でよみがえったと聖書は告げています。イエス様の十字架の勝利が、私たちを圧倒的勝利へ導くのです。

 一九九二年二月、新城教会に新しいことが起こりました。祈っている中で、激しい聖霊の訪れを体験しました。そして同年七月、この地域を支配する悪しき力に立ち向かう、地域に対するとりなしの祈りが開かれました。それまでの新城教会は、霊的な敵の存在には関心がありませんでした。ある意味で、教会は敗北していました。教会の中には、いつも問題があり、問題を押さえる為にモグラたたき状態でした。そんな中で、何十年も教会は過ごしていました。
 しかし一九九二年七月、教会を攻撃する敵の力、地域を支配する暗やみの霊について目が開かれ、地域を支配している悪しき力に立ち向かう、とりなしの祈りに導かれました。
 今まで負けていた教会が、敵に対して立ち上がったのです。しかし敵に立ち向かっていこうとすると、悪魔も真剣に教会に対抗しました。
 「もうこれ以上、戦うことができない」という場面に遭遇し、追い詰められました。私の人生の中で、最も苦しかったのは、一九九二年の出来事です。
 今日の午後、「ざわめきワーシップシャウト」がありますが、そのとき、DVDを見せます。それは、甲子園ミッションの記録DVDです。甲子園ミッションの時には、私たちは疲れ、「もう駄目だ。これ以上、一歩も進むことができない」という心境にまで追い込まれました。
 そんなピークの中、私はあまり霊的に敏感ではありませんが、一九九二年七月三十一日、名古屋の空にはっきりと十字架を見せられました。
 それまで私は、イエス様の十字架の勝利について聞いて信じていましたが、時には、「本当かなあ」と思って、現実的に捕らえることが出来ませんでした。
 しかし霊的戦いの最中に、目の前に十字架が現れました。そして主が、必ず、圧倒的勝利を現してくださるから心配するな、と語ってくださいました。
 そしてイエス様の十字架と復活の勝利の中身について教えてくださいました。それから、私の迷いはなくなりました。イエス様が、私の罪の身代わりとなって十字架にかかり死んで下さり、よみがえってくださった。そして、完全な勝利を現してくださったゆえに、私は圧倒的勝利者になることができる、と信じました。
 「今は色々な問題があり、苦しいかも知れないが、必ず主は決着をつけてくださる」と信じました。

 あれから十四年立ちましたが、失ったものは髪の毛くらいのもので、ある意味で圧倒的勝利と言わざるを得ません。
 それで、甲子園ミッションの時、甲子園球場に大きな十字架の舞台を作りました。この集会を実行する前に、大きな戦いが教会にありました。しかし、神は甲子園ミッションに大勝利を与えてくださいました。
 新城教会においても、甲子園ミッションが終わってから、クリスチャンになった方々が多いと思います。すでに神は勝利を与えて下さいました。
 コロサイ二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

とあります。イエス様を信じて、バプテスマを受けると、私たちは、完全勝利の立場に置き換えられます。
 イエス様を信じたら、バプテスマをお勧めします。これはクリスチャンになる、また、団体に入るという儀式ではありません。バプテスマを受けたら、十字の入れ墨が刻まれるわけではありません。しかしそこには、神秘的な力が働きます。バプテスマを受けると、イエス様の公生涯の権威ではなく、「よみがりの権威」に置き換えられます。イエス様の公生涯は力あるものでしたが、その中でイエス様は、悪魔の攻撃にさらされたこともありました。
 しかし、よみがえられた時、「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を受け取った」と宣言されたのです。

 「よみがえり」は、「イエス様が圧倒的勝利を受け取った瞬間」でした。バプテスマを受けると、その勝利を共有できると教えています。イエス様の十字架と復活を、瞬間的に辿るのが「バプテスマ」です。

 バプテスマを受けるならば、罪が赦され、背後で私たちを訴えていた悪魔の債務証書が無効にされ、悪魔・悪霊の武装が解除され、悪魔・悪霊どもが捕虜となるという、完全勝利の権威を受け取るのです。まさに、彼らに「圧倒的に打ち勝つ」と約束しています。

 コロサイ書二章十二節とから十五節の御言葉を確信しましょう。バプテスマをすでに受けた方は、圧倒的勝利のポジションに立っている確信を持ちましょう。今あなたがどんな状況であっても、イエス様は、あなたに圧倒的勝利を与えようとされていることを知って下さい。一言お祈りします。


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