神の民 心得帳

2006.9.3(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 テサロニケ手紙 第一  5章14節〜23節
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

 ハレルヤ!おはようございます。早いもので、もう九月になりました。あっという間に夏が終わってしまいました。子どもたちは夏休みが終わって、がっかりしているかも知れません。秋は収穫の秋と言われますので、主が大きな勝利を与えてくださることを祈っています。けれども、秋は木の葉の落ちる時期でもあり、少し淋しくなる季節ですが、イエス様と共にいるならば、大丈夫です。元気を出して進んでいきたいと思います。

 昨日は、四国リバイバルミッションに向けてのトラクト配布が四国でありました。多くの方が新城から参加してくださいました。朝、三時に出かけていき、一日中歩き回ってトラクトを配布してくださいました。
 四国では「遍路」という人々が、偶像礼拝のために一日何千人も歩いて巡礼しています。そのような場所に、神の民が足を使って歩き回ることは大切だと思います。「四国リバイバルミッション」にも、ご参加いただければと思います。

 今日は「神の民 心得帳」と題し、皆さんと共に、御言葉を学んでいきたいと思います。私の中、高校生の時代には「生徒手帳」があり、校訓や生徒である心得などが書かれていて、重要なものでした。しかし最近の中高生たちに聞いたら、「生徒手帳なんてないよ」と言いました。この頃は「身分証明」のカードしかないそうです。昔は生徒手帳をなくしてしまうと、大変なことでした。
 私が高校生の時、生徒手帳をこえだめに落としてしまったことがありました。洗って干しましたが、匂いがとれません。とても使えなかったので、再申請をしましたが、それには勇気がいりました。生徒指導室に呼ばれ、理由に何と書こうかと考えた思い出があります。苦労して新しい生徒手帳を再発行してもらったことを覚えています。
 生徒手帳は生徒として、とても重要なものでした。同じとは言えませんが、私たちは神の民であり、聖徒として心得なければならない「聖徒手帳」があります。それを守るとき、神の民として幸せに生きることができるのです。

 今お読みした御言葉は、神の民の心得として記されている言葉です。五章二十三節に、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

 あなたが「全く聖なるもの」となりますようにと記されています。神様が私たちに願っておられることは、「聖」、きよくあること、すなわち、「霊、魂、体が完全」であるようにと願っておられます。
 聖書によると人間は、「霊と魂と肉体」の三つが一つであると教えています。霊というと、精霊、悪霊、幽霊などありますが、霊とは一つの機能です。それは、「霊的存在と結びつくための機能」です。ですから、人間には宗教心があります。目に見えない世界につながっていこうという心理が働きます。
 猿と人間を比べると、あまり変わらないかも知れません。人間の中で一番猿に似ている人間を立たせ、また、猿の中で一番人間に似ている猿を連れてきたら、どっちが猿で人間であるかわからないかも知れません。
 私の友人はたいへん毛深いです。彼は夏、腕を蚊に刺されたことがないと言っていました。なぜならば、蚊の方が毛に絡まって死ぬからです。人間と猿は似ていますが、人間だけに「霊」という機能があります。今日、教会に来られたということは、皆さんは人間です。なぜならば、神様を知りたいという思いがあるからです。そして神が私たちに願っていることは、肉体だけが健康ではなく、魂も、霊も健全であるようにと願っておられます。
 教会は素晴らしい所です。神様がおられるので、私たちの霊も魂も健康にしてくださるからです。教会に来て、一週間を始めるのは、魂の健康にたいへん良いです。同時に、真の神、イエス様につながることを教えるので、霊の機能が整理されます。その結果、体も健康になるという、三拍子揃った健康を得ることができます。その為にも、第一テサロニケ五章の心得は大切です。

 ヤコブの手紙四章七節に、

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

と記されています。私たちが住んでいる地上は、悪魔の支配下にあります。しかしそんな中でも、イエス・キリストを信じる者たちは、神の民として生きることができます。なぜ神に近づき、従わなければならないのでしょうか。その理由について、「悪魔に立ち向かいなさい」と記されています。
 教会は、神との関係だけではなく、人類の敵についても知る所です。しかし教会は近年まで、神との関係だけを話してきました。「もっと神様に従いましょう、近づきましょう」という事を中心に話してきました。それはとても重要なことです。
 けれども、それだけに終始すると、すべてが神から発し、神に戻ると考えるようになります。究極的には、それは正しいのですが、それだけだと「すべての試練や問題、そして悪さえも神から来る」と考えるようになります。試練や苦しみを通してのみ、神に近づくことができると考えます。ある意味で、そのような側面もありますが、それがずっと続くと疑問がわいてきます。
 「神様は、私にどれだけ近づくことを要求されるのだろうか。どれだけ近づかせたら気が済むのだろう。いつになったら、神は満足してくださるのだろうか…」
 神から遠くなると、神は私たちに試練を与え、懲らしめのパンチを飛ばし、苦しめます。すると人は神に近づいて行きます。すると、「よしよし。よく来たな…」と言い、また、しばらくすると、懲らしめのパンチが飛んでくるのです。それが繰り返されると、「神様は本当に意地が悪い」と考えるようになります。
 しかしこれは間違った考え方です。神は「良い方」なので、決して私たちに試練を与えたり、苦しみを直接的に与えて、苦しめるようなお方ではありません。

 このように話すと、「先生。聖書をよく読んでくださいよ。聖書を読むと、神の裁きについても書かれていますよ」と言われます。
 しかし旧約聖書を読むと、イスラエルがさばかれたとき、神ご身が手を出されたのではなく、当時のカナンに住む、悪い王たちがイスラエルをさばくために使われたのがわかります。それは、敵に関わられる理由を、イスラエル側が作ってしまった為でした。それで結果的に、イスラエルに良からぬ事が起こりました。
 聖書は、試練や問題が起きる背景に、敵の勢力が使われることを教えています。神ご自身が悪を持って私たちに何かをするのではなく、私たちの中に問題があり、その為に、敵の勢力が用いられるのです。
 神に近づき従うことは、「私たちが神様に従った分だけ、敵に立ち向かうことができる」という事を意味します。
 なぜ神に近づく必要があるのでしょうか。それは、神に近づいただけ、悪魔に立ち向かえるからです。
 私は霊的戦いについてよく話しますが、それは、言い換えれば、「神の領域に近づくこと」です。霊的戦いの結論は、神に近づくことです。そうすれば、悪魔に立ち向かうことができるのです。私たちが敵と戦うために、どうしても神に従うことが要求されます。私たちは教会で、神に従うことについて学びますが、今度は出て行って、「敵に立ち向かう」のです。神に近づいた分だけ、敵に立ち向かうことができます。
 五章十四節に、

『兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。』

 テサロニケ人への手紙は、テサロニケの「教会」に対して書かれた手紙です。教会には色々な方がおられます。中には気ままな人もいます。そんな、気ままな人には戒めを、小心な者には励ましを、弱い者には助けを、すべての人に対して寛容な場所であるべきと教えています。
 しか、「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」とは、生活態度について戒めるかのように理解しやすいのですが、実はこれは「軍隊用語」です。

 新約聖書はギリシャ語で書かれてました。実は、「教会」とは、どのような場所であるかです。日本語の「教会」という言葉は、昔からあったわけではありません。クリスチャンの会衆を誰かが見て、その集まりを表現する単語を作りました。それが「教会」となりました。
 「教会」とは、「会衆を教える」と書きます。今日も私が皆さんに教えています。はじめて見た人は、教室のようなイメージを持つかもしれません。しかし、オリジナルの概念と、日本語に訳されている教会の概念は、必ずしも一致するとは限りません。

 「教会」の根源にある意味は何でしょうか。教会は新約聖書だけでなく、旧約聖書からも流れている概念です。
 旧約聖書はヘブル語で書かれました。ヘブル語で教会を表す概念は「カーハール」です。それは「呼び出された者」という意味です。
 新約聖書はギリシャ語で記され、教会のことを「エクレ−シア」と言います。ヘブル語の「カーハール」と、ギリシャ語の「エクレ−シア」が合体して、「教会」という概念が出来たのです。「エクレ−シア」とは、ギリシャの議会を表す言葉として使われていました。しかしこの議会は、単なる議会ではなく、「戦争に関わる、宣戦布告などの決定機関」でした。
 ですから、教会のオリジナルの意味は、「戦いのために呼び出された者たちの群れ」と定義することができます。
 私たちが住んでいる世界は、悪魔の支配下にあります。神の民の集団である教会は、戦いのために呼び出された者たちの群れなのです。教会を通してのみ、暗やみの力が破られるのです。
 ある意味で、教会は軍事基地のようです。それは、霊的戦いのための軍事基地です。「気ままな者を戒める」とは、「隊列を離れる」という意味です。昔、戦争に行かれた方々はわかると思いますが、隊列から離れると敵の攻撃にさらされます。だから、隊列から離れてはいけないと戒められます。教会は霊的戦いの基地のようなものですから、暗やみの力に立ち向かう機能を持たなくてはなりません。

 私は何回か、沖縄の嘉手納基地にある教会に行ったことがあります。東洋で一番大きなアメリカの空軍基地です。そこには教会があります。私が霊的戦いについて語ると、彼らも戦いをする人たちなので、気に入ってくれました。
 「皆さん。戦争をするときには、地上戦から始める人はいません。必ず、空爆から始まります。まずは、空中の支配権を取ってとってから、地上戦を始めるように、私たちクリスチャンも同じです。まずは、空中の支配権を打ち破ってから、福音を伝えるのです」と語りました。彼らは現実にも、その仕事のために励んでいますから、たいへんヒットしました。「空軍に属していることは、霊的にも、空中の支配者と戦う勇士です!」と話しました。
 基地は一つの都市です。スーパーマーケット、学校、病院などすべての機能が備わっています。そこには色々な仕事がありますが、一つの目的があります。それが「戦い」です。
 教会も同じです。教会の中には色々な働きがありますが、目的は人類を攻撃する暗やみの力に立ち向かう場所です。それが教会の使命です。
 私はその基地に行ったときに、軍服を着たごつい男性と話しました。彼は湾岸戦争に参加したと話していました。私は、「すごいですねぇ。どんな戦いをしたのですか?」と聞いてみました。
 すると彼は、「私は食事を作っていました」と言いました。彼は湾岸戦争に参加して、にんじんを切っていたというのです。最前線で兵士たちの食事を作っていました。しかしそれがなくては、腹が減っては戦はできません。だからその機能は大切です。

 教会も同じです。最前線で働く人もいますが、後方で働く人たちもいます。また傷ついたら、病院のような場所もあります。また学校のような場所もあります。色々な機能がありますが、すべては「神に従いなさい」、そして「悪魔に立ち向かいなさい」という使命があるからです。
 『気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。』とは、そのような目的がある教会に対して語られたことばです。
 教会には色々な方がいますが、互いに励まし合い、共に戦って行かなければなりません。

 ここに、「すべての人に寛容でありなさい」とあります。
 一人一人に役割がありますが、仕事が違うと時々、腹が立つこともあります。けれども、お互い、使命の違いとして受け取っていかなければなりません。

『悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。』

 「悪に対して悪で報いる」とは、一般的考え方です。社会の法律も、「やられたらやり返す」という概念が基本にあります。罪を犯したら、それに見合うだけの罰則を与えます。交通違反も取り締まられます。最近、駐車違反が厳しくなりました。先日東京に行くと驚きました。道路が空いていました。それは少しでも車を止めると、時間的容赦なく、すぐに違反切符が切られるからです。先週は大阪の教会で奉仕しましたが、大阪も道が空いていました。皆、法律をよく守るようになったと思いました。それは、それだけ罰則がきつくなったからです。
 聖書は「悪をもって悪に報いないように、互いの間で善を行うように努めなさい」と教えています。特に私たちが人間関係の中で心がけなければならないことは、悪をもって悪に報いないようにということです。今週も、腹が立つ人がいたら、「よし、意地悪されたから、意地悪仕返してやる」と思ってはいけません。負けるが勝ちです。いつも善を行うように努めなさいとあります。日本全体がこれを身につけたら良いと思います。悪をもって悪を報いることがなくなり、善で報いるようになったら、日本は幸せになると思います。

 けれども、「悪、善」という定義自体が曖昧です。その定義は、日を追う事に変わります。なかなか悪と言っても、善と言っても定義付けが難しいのです。定義を付けようと思っても、宗教的、哲学的概念が重なり、入り混ざり、なかなか定義しにくいのです。しかし聖書はそれをはっきりと定義付けています。
 私はある時、善と悪について調べました。広辞苑で調べると、「善とは、悪の反対概念」とありました。そして悪を調べると、「悪とは、善の反対概念」と書かれていました。これでは全く意味がわかりません。
 しかし善とは、「創造主なる神様そのもの」です。突き詰めると、神ご自身です。ゆえに、神に従うとは、善に生きることです。善とは、一つの概念、観念ではなく、存在なのです。善が存在であれば、「悪も知的存在」です。ですから、聖書は悪には、悪しき力との関連性があると教えています。
 神は人の中に、律法をプログラミングしました。誰でも、どこの人でも、勉強をしなくても、これが善でこれが悪だとわかります。人の物をとったら、悪いとわかります。また嘘をつくことは悪い、人を殺したら罪とわかります。それは神様が私たちの心に、律法を書き記されたからです。
 しかし、知らなければいけないのは、悪いことをしたら必ずその後ろに、存在が付いて来るということです。悪霊がその背後に手を回しているのです。
 「悪はどんな悪でも避けなさい」とありますが、悪を避けるとは、究極的には、「悪しき存在から身を避ける」ということです。私たちが悪と善について知ることは、背後で働いている存在から身を避けることです。私たちが良心に反する生活をしているならば、確実に、後ろに悪しき力が手を回し、危険なところにいるということを意味しています。
 時には、悪いことは楽しいです。しかし、悪は後ろに巨石が転がってくるようなものです。ちょっと押されたら、石の下敷きになって死んでしまいます。ですから、悪の背後には敵の力がいることを知らなければなりません。
 第二コリント二章十節から十一節に、

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

とあります。これは神の一つの原則です。私たちが誰かを憎んでいると、神は私たちを赦してくださいません。誰かを赦せないと、悪魔の策略にはまってしまうと教えています。赦せない心を持っていると、悪魔の策略にはまり、人生は破壊されてしまうのです。「私があの人を憎むのは当然だ」と言っていると、後ろに巨石が転がってきます。
 憎む者ではなく、赦す者でありたいと願います。人間関係の中で、赦せない気持ちがある人は、後ろにある大きな石を取っていただきましょう。
 テサロニケ第一の五章十六節から十八節に、

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

とあります。これは三つで一つのような言葉です。神様は私たちに、何と考えておられるのでしょうか。それは、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事ついて、感謝しなさい。』という事です。
 「いつも」、「絶えず」、「すべて」と、全体を包括するような言葉が一つ一つの単語の後ろに付いています。これがイエス様が私たちに望んでいることです。これは簡単な賛美になっています。

いつも 喜んでいなさい
いつも 喜んでいなさい
絶えず 祈りなさい
絶えず 祈りなさい
すべての事について 感謝しなさい
すべての事について 感謝しなさい

 これは歌うには簡単ですが、実行することはとても難しいです。今日、皆さんは喜んでいますか。「喜びがないから、教会に来ました」と言う人がいると思います
 いつも喜ぶことは重要です。この教会でだれが一番喜んでいるだろうか、と考えます。「私が一番だ!」と言いたいのですが、そうではないようです。
 この教会で一番喜んでいるのは、毎週授産所から来られているT君たちだと思います。彼らは、時々私の携帯に電話してくれます。「順先生、喜びはありますか。先生のために祈っていますよ。」
 また、喜びがないと、「祈ってください」と言ってきます。彼らは大変な環境下に住んでいますが、いつもニコニコしています。
 「すべての事について感謝しない」と言われても、感謝できないことがたくさんあります。ですから、この三つのことを心得帳に書かれても、困ってしまいます。
 しかし、そんな中、それを実行する鍵を神は与えています。いつも喜ぶこと、すべての事について感謝すること、それは、なかなかできないかも知れません。
 しかし真ん中の、「絶えず祈る」ことは誰にでもできます。ここに鍵があります。私たちが絶えず祈り心を持って生活すると、その祈りが神に到達し、答えてくださいます。神が答えてくださったと知ると、嬉しくなり、また、感謝します。そして、喜びます。すると、自然と祈るようになります。そして、また、祈りが答えられ、感謝があり、喜ぶことができます。
 ということは、「いつも、喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」というのは、真ん中にある「絶えず祈りなさい」という言葉が鍵です。

 「絶えず祈る」これはイエス・キリストを信じる、神の民にとっての特権です。かつては祈りを聞いて欲くて、偶像を拝んでいた事でしょう。偶像礼拝には、絶えず「巡礼」が伴います。そして、礼拝のためには拠点が必要です。
 昨日、多くの方が四国でトラクト配布をしてくださいましたが、四国には、八十八箇所霊場があり、そこを遍路と言い、歩いて巡っている人たちがいます。八十八箇所をトータルすると千何百キロもあります。しかし、八十八箇所全て回って「満願」というのです。けれども、それでもなお足らず、最後には高野山にまで、行かなければなりません。大変なことです。そこまで願をかけなければ、祈りが聞かれないというのです。八十七箇所まで巡ったけれど、もう一カ所と言うところで倒れたらお終いです。偶像礼拝は必ず場所に行く作業が必要です。家の中の仏壇や神棚を拝むときも、必ず、仏壇の前に行かなければなりません。「今日は先祖さん、台所から拝むからよろしくね」と言っても駄目なのです。また神棚に、おしり向けて拝んだら大変なことです。
 しかし、イエス様を信じる私たちには、新しい規定が与えられます。サマリヤの女がイエス様と出会ったときに、このことを質問しました。「イエス様。真の礼拝はあの山においてですか。この山ですか?」と聞きました。するとイエス様は、「そのような時代は過ぎ去った。霊と真を持って礼拝する時が来た。今がその時だ」と言われました。
 私たちはいつでも、どこでも祈ることができます。仕事をしながらでも祈ることができます。また、風呂の中でも祈れます。普通、風呂の中で祈るなんて、失礼だと見えるかも知れません。さらに、トイレの中でも祈ることができます。
 我が家のトイレに一度招待してあげたいです。なぜならば、トイレに祈りのリストが貼ってあるからです。家内がそのようにしました。私たちクリスチャンは、絶えず祈ることができます。今週、絶えず祈ってみてください。祈りの時間を持つと言うよりも、「祈り心」で一週間を過ごし見てください。必ず、皆さんの人生に素晴らしいことが起きます。どちらを選ぶべきか、決断すべきかを祈りつつ行うときに、答えが来ます。その結果、感謝でき、喜びが沸き上がります。ですから、たえず祈ることが大切です。十九節から、

『御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。』

とあります。続いて、「絶えず祈る」ことから「聖霊の導き」を感じるようになります。神の霊が祈りを導くのです。祈りを与えてくださいます。その時に、人生が預言的になります。将来、どのような道を歩むのかわかりません。しかし、将来歩むべき道があたかもわかっているかのように、行動を取るようになります。
 預言をないがしろにしてはいけないというのは、私たちが聖霊によって祈るときに、知らないうちに預言的に祈るようになるのです。
 「あなたはこのことを実行してください。祈ってください、あの場所に行ってください、あの人のために祈ってください」と、預言的なとりなしを与えてくださいます。それを捕まえて祈るとき、素晴らしい結果が現れます。
 私は牧師としての仕事をしていますが、突き詰めれば、預言的に祈れるかどうかに働きがかかっています。常に預言的に祈り、預言的にメッセージを語り、預言的な行動を取ったら、教会も祝福されるはずだと思います。だから預言的になれるように、祈ってください。
 絶えず祈ることから、聖霊が働き、預言的に祈るようになるのです。

 今から二ヶ月ほど前、私はある場所に行って祈らなければならない、と思わされました。その思いを、見分けることも必要ですが、気になる場所があったら祈る必要があります。また、自分で祈りに行く自信がなかったら、教会に連絡してください。私たちはそれに協力します。教会は祈りの情報が集まるところなので、常に祈りの情報を受けて行動しています。
 二ヶ月ほど前に気になった場所とは、ある場所に位置する「トンネル」でした。そこは幽霊が出るということで有名です。特に夏になると、そのような話が多いのです。そしてその悪しき体験を通して、破壊的な人生になります。夏になると多くの人たちがその場所に行き、霊体験をし、悪い影響を受けるので、先に行って祈らなければならないと思いました。それで私はもう一人を誘って祈りに行きました。そのトンネルは霧がかかっており、とても暗い感じがしました。中に入って、祈ってきました。その後も、教会からスタッフたちがもう一度、祈りに行きました。

 すると面白いことがありました。先々週、私は静岡県の三島市で奉仕をして帰ってきました。帰る途中に電話がかかって来ました。
 「先生祈っていただきたいことがあるのですが…」と言われました。ある教会からの紹介でしたが、六名の少年少女たちの事でした。
 彼らは盆前に、二台の車を連ねてトンネル心霊体験ツアーに行ったそうです。トンネルに差し掛かると、「キャーッ」という女の悲鳴が聞こえたそうです。トンネルを通過すると、今度は、ガラスを誰かが「トントン」と叩く音がしたそうです。
 しばらくすると、車内に霧が出て、真夏にもかかわらず車内に霜が降り、あげくの果てに、車のまどに内側から人の手形がべとっりついたそうです。皆はパニックして気持ち悪くなり吐いてしまったそうです。すると次に、リーダーが突然半身が麻痺して倒れてしまい、意識不明になってしまったそうです。それで夜中の一時頃、ある教会に連絡をしたそうです。すると、「礼拝に来てくださいと」言われたそうです。
 彼らは問題が解決しないので、「お祓いをしてもらわなければ」と言い、霊能者の所に行きました。みんなの写真を持ってくるようにと言われ、写真を差し出すと、霊能者はそれを見て、「今までに、これほどまで強い霊を見たことがない…」と言いました。
 彼らはさらにパニックしました。また霊能者に、「あんたたちは事故を起こして死ぬ」と言われたそうです。
 それでまた、教会に連絡したのです。それで、その教会から、私に協力してくれるように連絡が来たのです。

 私はそのような事柄を聞くと燃えます。ワクワクします。
 そのことを聞いて、私は、その場所は二ヶ月前に行って祈ったので大丈夫だと思いました。祈りの結果として、連絡が来たのではないかと思ったからです。

 私は6名の少年少女に、その体験が神からではなく、悪霊からのものであると話しました。そして、イエス様を信じないと、大変なことになると言いました。彼らは、真剣に私の話を聞きました。そして、教会は敵の力に勝利する場所だと希望の話をし、最後に悪しき力から解放されるように祈りました。
 すると彼らに、聖霊の力が注がれ、解放されて喜んで帰っていきました。それは神様の計画だと思いました。
 すると後日、私にメールが来ました。初めは誰からのメールかわかりませんでした。
 「先日はありがとうございました。あれからぐっすりと眠ることができるようになり、肩の痛みもすっかり取れました。九月十日には洗礼を受けることになりました。今後とも、よろしくお願いします。」と書かれていました。
 しばらくして、そのメールがそのグループのリーダーからとわかりました。彼らは、それから、教会に行くようになったのです。

 「罪の支払う報酬は死」とあります。また「悪はどんな悪でも避けなさい」とあります。私たちは神の民心得帳から、どんな悪も避け、絶えず祈り、いつも喜び、感謝することを学びます。
 また、預言的祈りの中で、将来起こることを捕らえて、生きることを学びます。私は、牧師という立場で、預言的な祈りを与えられのだと思います。
 同様に、皆さんお一人ひとり、それぞれの立場において、預言的に導いてくださると信じています。

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

「神の民心得帳」を受け取ってお帰りになっていただきたいと思います。


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