神の国を求めよう!

2006.9.10(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 マタイの福音書 6章33節〜34節
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。暑い日がまだまだ続きますが、お元気でしょうか。今日は「神の国を求めよう!」というタイトルで学びます。
 マタイ六章三十節から三十四節に、

『きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』 

 今朝、色々な心配事を持って、教会に来られた方もおられるかと思いますが、神様は、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。」と語られています。
 「明日」とは、「神ご自身」のことです。私たちは、明日があるように思いますが、明日があるかどうかは、誰にもわかりません。明日を握っておられるのは、神ご自身です。神ご自身が心配してくださるので、「あなたは明日のことを心配しなくても良い」と、力強く語ってくださっています。この言葉を受け取って、今週も一週間を始めましょう。

 先週は、「いつも喜んでいないさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」という、御言葉から学びました。一週間振り返ってみてどうでしょうか?常に喜んでいることができたでしょうか。また、絶えず祈ることが出来たでしょうか。また、すべてのことを感謝することができたでしょうか?
 この三つの中でも、「絶えず祈る」ことによって、すべてを感謝し、いつも喜ぶことができるようになると先週、学びました。今日の御言葉も、先週と関連があります。

 秋は景色が大変美しい季節です。これから紅葉の季節になります。季節の移り変わりの中で、色々な植物が出てきます。一つ一つの木々や花々を見ると、どれも綺麗に装っています。「うまくできているものだな」と感動します。私はフルーツを食べる度に、神の臨在を感じます。バナナは「さあ、お食べ!」と言わんばかりにできています。オレンジやみかんも、皮をむくと、すでに包丁まで入っています。これらは、すべて神が人類のために用意されたものです。だから、神は明日のためにも用意をされています。「心配しないでください」と語られます。
 そして、「神の国とその義」を求めるならば、「すべてがついてくる」と約束しています。
 この意味は、平たく言えば、「神、第一の生活」です。神様を私たちの生活の中心とするならば、人生はうまくいくと告げています。

 かつて人類は、地球を中心として、すべての天体が回っていると考えていました。しかし、地球を中心にして計算を合わせようとしても、合いませんでした。「計算によれば、あの星は三日後にはここに来るはずだ」と予測しても、違う方向に行ってしまいました。計算を間違えたかと、何回もやり直すのですが、毎回違った方向に行ってしまいました。
 そんな中、コペルニクスという人物が、「天体は、地球ではなく、太陽を中心として回っているのではないか」と考えを改めました。それで中心軸を変えて計算をすると、なんと計算がピタリと合いました。そこから、天文学が変わりました。
 私たちの人生も時々、自分中心で物事を考えます。自分を中心として計算したら、世界がうまく回ると考える人が多くいます。自分が中心でないと、面白くないのです。
 けれども、うまくいくように感じますが、実際はうまくいきません。こうなるはずだと思っても、うまくいかないのです。
 しかし、神中心、イエス・キリストを人生の中心において計算するならば、うまく回るのです。このように、週の初めの日に、イエス様を中心として礼拝を守ることは、素晴らしいです。これは神を第一にしている証拠でもあります。神の国を求めているのです。その結果、すべてが与えられ、明日のための心配は無用となると教えています。

 さて、「神の義」とは何でしょうか。「義」という漢字は難しいです。「義」という漢字は、「我」という字の上に「羊」が載っています。漢字は聖書の影響を受けています。我とは私です。羊とはイエス様を意味しています。人の上にイエス様が載ると義となります。それは「神中心の人生」を意味します。
 「義」という意味について辞書で調べてみました。「義とは、人として行うべき正しい道」となっていました。それは、一般的に言うならば、「良心に反しない生活をすること」です。
 そもそも、「良心」とは神から与えられた思いです。神から与えられた思いである、良心に従って歩むことは大切です。
 しかし、人間の良心や道徳の価値基準は、毎年変わっていきます。だから、義とは、人の義ではいけません。「神の義」に従い、神がどのように考えられるのか、神が正しいとされる道に従っていくならば、すべてがうまくいくのです。
 教会で何を勉強するかというと、それは、「神の義」について勉強します。人の義ではなく、神の義について知るときに、我の上にイエス様が座り、すべてうまくいくのです。

 私たちは、「これが正しい道だ、これで良い」と考えていますが、神は、「そうではない」と考えておられる事柄も多くあります。日々の生活の中で、これは正しい、大丈夫だと思い込みやすいのですが、神の思いを自分の思いとして歩みたいと願います。

 先日私はある教会に招かれました。それは、何と、三日間続く子どもキャンプでした。子どもキャンプでメッセージを語ることは、大変です。大人のためのメッセージは簡単です。少しぐらい意味がわからなくても、我慢して聞いてくださるからです。
 しかし、子どもたちは、嫌なら、嫌と顔や態度にすぐに出すので、話が難しいです。けれども、頼まれたからには、どんな仕事でも喜んで奉仕しようと、祈って出かけていきました。
 しかしその教会の子どもたちは、とてもすばらしい子どもたちでした。私のメッセージの時間には、ちゃんとノートまで取っていました。すごいと思いました。大人たちが、子どもたちを教育するという視点のキャンプでした。
 けれども、私がそのキャンプのために祈っていたら、「あなたが子どもに教えるのではなく、神が子どもたちに直接語って下さるよう、導きなさい」と語られているように感じました。だから私は、子どもたちに、「今日はイエス様がみんなに、直接語ってくださるから、その言葉を聞いてください。自分で悪くないと思っていても、イエス様が駄目だと言われる事があったら、止めましょう」と話しました。
 子どもたちは、「そんなものはないよ」というような顔をしていました。それから、私は、子どもたちのために祈りました。

 「イエス様、今みんなに語ってください。このことは止めなさい、と言われることがあるならば、直接、一人ひとりに語って下さい。アーメン」と祈りました。
 そして一分くらい静かにして、「さあ、イエス様からの声を聞いて下さい!」と言いました。
 彼らはじっと静かにしていました。それから、「イエス様が言われることがあったら、ノートに書いてください」と言いました。すると子どもたちが突然、ノートに向かって真剣に、いろいろな事を書き出しました。それも、カタカナの長い名前をたくさん書いていました。それは、アニメやゲームの名前でした。それを見ても、私は何一つわかりませんでした。
 私は、子どもたちに「なぜ書いたの?」と聞くと、「イエス様が止めなさい、と言われたから…」と言っていました。彼らは突然、イエス様から語られたのです。
 私は、「イエス様が悪いと考えておられるならば、離れるように祈ろう」と言って、一緒にお祈りしました。
 「イエス様が嫌われる、ゲームやアニメから離れます!悪霊とのつながりを断ち切ります。アーメン!」と祈りました。

 先週、その教会の献身者が神学校に来て、「先生。あれから、子どもたちに、すごいことが起こっていますよ。」と言われました。
 何が起こったのかと聞くと、そのキャンプの次の週から、子どもたちが自分のゲーム・ソフトやアニメを教会に持ってきて、「これを捨ててください」と頼んでいるというのです。
 キャンプに出た子どもたちが、キャンプに出なかった子どもたちにまで、そのことを説明し、他の子どもたちまでも捨てだしたというのです。なんと、二週間に渡って、子どもたちが主から捨てなさいと示されて、捨てたゲーム・ソフトやアニメの量は、すでに、ドラム缶二本ほどになったそうです。一個、何万円もするような高いゲーム・ソフトも、いとも簡単に捨てる子どもたちの姿を見て、大人たちは、「すごい。これは聖霊の働きだ。リバイバルが起こっている!」と感動していると、レポートしてくれました。

 人の義では、「このゲームは大丈夫」と思っているかも知れません。しかし、神の義は違うのです。「もしも、止めなければならないことがあったら、教えてください」と祈ってみてください。子どもたちのゲームやアニメでも、危ないものが多くあります。夢中になっているうちに、悪魔に心を捕まえられてしまいます。

 数年前、ポケモンが流行り、子どもたちが熱中していました。そんな中、新城教会で、子どもたちをリードしている上條先生が祈っていると、「明日のほさなクラブ(子ども集会)の時間に、来週からポケモンを見ないようにと、子どもたちに告げなさい」と語られたそうです。
 それで、「来週は、絶対にポケモンを見ないように!」と子どもたちに語りました。すると子どもたちは、「見たいよ〜」と言って怒っていたそうです。しかし、子どもたちは、上條先生が言ったということで、渋々、次の週はポケモンを見ませんでした。
 次の週、何が起こったのでしょうか?日本全国でポケモンを見ていた子どもたちが、突然倒れ、病院に運ばれるという事件が起こりました。
 それで子どもたちは、「あれは、上條先生ではなく、イエス様が言われたんだ」とわかりました。
 「ポケモン」とは「ポケット・モンスター」の略です。ポケットの中に、モンスター、すなわち、悪霊を入れるという意味です。そこには危険がありますので、注意しなければなりません。

 私たちは、「神の義」の中に生活する必要があります。神の国と、神の義の中に生きるならば、明日の心配は無用になると聖書は教えています。人の義ではなく、神の義に生きることが大切です。この御言葉は賛美になっています。

神の国と神の義をまず求めなさい
そうすれば 皆与えられる
ハレル ハレルヤ

 人の義ではなく、神の義に生きるときに、明日のための心配は無用という保証がついてきます。

 さて、「神の国」という言葉をキーワードに聖書を研究していくと、神中心の生活という意味を超えて、更に深い意味があることがわかります。
 イエス様の働きは、実に、神の国の拡大でした。先ほど、「主の祈り」を祈りましたが、「主の祈り」とはどのような祈りであったのでしょうか。それはイエス様が教えてくださった、唯一の祈りです。その中には、すべての要素が含まれているように思います。だから「主の祈り」はとても重要です。

天にまします、我らの父よ
願わくは御名があがめられますように
御国が来ますように
御心が天でおこなわれるように、地でおこなわれますように

と祈りました。神の国が来ますように、御心が天でおこなわれているように、地でもおこなわれますようにと祈りました。それがマタイの六章十節にあります。

『御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』

 主の祈りの日本語訳は、大変優しい訳になっていますが、元々のギリシャ語は「命令形」になっています。それも単なる「御国が来ますように」、「御心がおこなわれますように」という優しい感じではなく、とても強い意味として記されています。大地を足で踏みしめながら、「御国よ、来たれ!」「御心よ、成されよ!!」という力強い宣言の祈りです。
 私たちの祈りの中心は、神の国の到来です。そして、御心がなされるように祈らなければなりません。神の国においては、神の計画は百パーセント成就していますが、この地上において、すべて成就しているとは教えていません。そこにはギャップがあります。そして、神の国の到来とは、地上における神の計画の実現です。そして、神の国をとどめる力があるのです。それを打ち砕く祈りが、「主の祈り」です。
 「神の国」、「御国」と並んで、もう一つ「第三の天」という言葉も同義語として使われています。第二コリント十二章二節に、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。』

 パウロは、人生の中で臨死体験をしました。それは一度死んで、天国に行ったという体験です。彼は色々な体験をしましたが、それが最も強烈な体験であり、かつ、最も素晴らしい体験でした。それは、「第三の天」を見るという体験でした。この体験は、死とはどのようなものかについても教えています。
 私たちは、やがてこの地上から去って行かなければなりません。このように楽しく礼拝を守っていますが、ある日私たちは、天に帰って行かなければならない、ある意味、淋しい現実が待っています。今まで、この教会でともに神を礼拝をしていた方々が、すでに多く天に帰っていきました。
 けれども、私たちクリスチャンは、死がすべての終わりではない事を知っています。ですから、死を恐れません。パウロは、

『肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。』

 パウロは、人々に捕らえられ、石打の刑に遭い、死んだものと思われて、城壁の外に投げ出されました。しかし彼は起き上がって、城内に入っていきました。その時に、この体験をしたのではないかと考えられています。
 彼の魂は、肉体からで出て、第三の天に立ったのです。死というものによって、意識が分断されるように思いますが、そうではありません。瞬間的に、肉体から魂は抜け出し、神の国に入るのです。意識は連続しています。パウロは、肉体から離れたのか、離れなかったのか自分では分かりませんでした。気付くと、天国に入っていたのです。
 仏教は、死後の世界について語っていません。その概念はメチャクチャです。しかし聖書ははっきりとしています。死んだらどうなるのか。それは、一瞬にして神の管理下に入り、永遠に生きるのです。地上では、しばしの別れの淋しさがあるにしても、永遠の世界で再会できると教えています。これが神の国です。神の国とは、死も苦しみも叫びもない場所です。

 私は時々、「これだけ多く、イエス様のために働いているから、天国に行けばきっと、たくさん褒美をくれるかな」と想像します。
 天使が来て、「順さん、よく地上で働いてくださいましたね。あなたには、天のマンションが用意されていますよ。どうぞ、お入りください」と言われたら嬉しいです。天使が私に、「これがあなたのマンションの鍵ですよ」と渡してくれます。しかしもしも、鍵を受け取ったら、天使に聞いてみたいと思います。
 「天使さん。今、鍵を受け取りましたが、外出の時には、天国でも戸締まりが必要ですか?」
 すると天使の顔が一瞬曇り、「そうなんですよ。最近、天国も物騒になったので、よく戸締まりをしてください。」と言われたらどうでしょうか。
 また、しばらくしたら、救急車の音が聞こえます。「天国にも救急車があるんですか。急病人ですか。」「そうです。急病人です。交通事故も増えていますから、気をつけてください。天国病院は患者さんでいっぱいです。…でも時々イエス様の手が空いたときに、来てくれて手を置くと癒されますので、ご心配なく…」と言われます。しかしいくらいやしがあっても、天国に事故や病気があったら、そこはすでに天国ではありません。不幸な人たちがたくさんいるようでは、もはや、そこは天国ではありません。天国には病気はありません。地上で体験する悪が全くない場所、それが天国です。天国に悪があったら、天国ではありません。いくら景色が綺麗でも、そのようなものがあったら天国ではなくなってしまいます。
 やがて私たちは、「第三の天」に行くことができます。しかし、神の国の真理とは、さらに深いところにあります。

 聖書は、「神の国が地上に下りてくる」と教えています。主の祈りでは、「御国が来ますように!」と命じています。
 教会の中で、よく、奇跡や癒し、悪霊からの解放を体験します。それは神の国の実現です。神の国が私たちの生活のただ中に下りてきたら、どうでしょうか。そこには病気や悪魔の影響はないはずです。悪しきものは、神の国にとどまることはできません。だから、地上における神の国とは、「神の支配の実現」であり、天国の支配が地上に及ぶように祈りなさいと教えているのが「主の祈り」です。それは激しい、戦いの祈りです。「御国よ、来たれ!」「御心よ、成されよ!」という祈りです。

 「神の国と義を第一に求めること」は、ただ、神中心の生活という意味だけではなく、神の国の支配が、生活のただ中に現されることを意味します。
 「神の国」というキーワードで検索すると、色々な御言葉が出てきます。第一コリント四章二十節に、

『神の国はことばにはなく、力にあるのです。』

とあります。神の国について語るのはたやすいのですが、神の国とは、言葉ではなく力です。神の国は、神の力が解き放たれている場所を指します。逆に言えば、神の力が現されているのを見て、神の国を確認できます。パウロは正に、その働きをしました。第一コリント二章四節に、

『そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。』

 パウロはそんなに雄弁ではなかったようです。しかし彼の働きはとても力強かったのです。彼の働きは、御霊と御力の現れ、すなわち、神の力がともにありました。

 先週は「絶えず祈る」ということを学びました。絶えず祈ると聖霊の導きの中で、今度は預言的に祈ることができると学びました。
 私は自分でも、「今週は、預言的に祈ることができますように。聖霊様の導きの中で主のわざが現されますように」と祈っていました。
 すると、先週は、神様が素晴らしい御力を現してくださり、大勢の新しい方が教会に導かれました。そして、悪しき力から解放されるという光景も多く見ました。

 先週の日曜日の午後、「油の注ぎ祈祷会」が教会でありました。その祈祷会が終わると、一人のおばあちゃんが来て、私に言いました。
 「順先生。ちょっと脇腹が痛いので、祈って下さい」
祈ってから、おばあちゃんは家に帰っていきました。しかし私は、なぜか胸騒ぎがしました。おばあちゃんの所に様子を見に行こうと思いました。それで翌日、おばあちゃんを見舞いました。
 「おばあちゃん。大丈夫?」と聞くと、おばあちゃんは動けなくなっていました。「昨夜は痛くて眠れなかった。右半分が動かない…」と言って横たわっていました。おじいちゃんも、一緒におろおろしていました。「やばいなあ。私の胸騒ぎが当たったな」と思いました。
 しかしこれで終わってはいけないと思いました。御霊と御力が現されるように祈らなければと思いました。けれども、おばあちゃんを見て、私は少し勇気を失いました。
 おじいちゃんがこう言いました。「ばあちゃんだから、どこか悪いところがあっても当然だよ。骨が折れているかも知れないよ…。だいたい、骨が皮を背負っているような体だから…」
 私は「早く病院に行っておいでよ。」と言いました。しかし次におじいちゃんが、「おばあちゃんは、三日前から元気がなかった。ある人がここに来て、おばあちゃんをすごく責めたてた為に、たいへん悲しがっていたんだ。だから、脇腹にそれが貯まっているんだよ」と言いました。
 私は、そんなことがあるだろうかと思いました。いつもおしゃべりなおばあちゃんが、痛がっていて、あまり話しませんでした。
 私は、「そんな悪いこと、誰が言ったの?」と聞きました。おばあさんを責めた人は、ある神社の境内に住んでいる人でした。特に、豊川稲荷と深い関わりがある人でした。

 時々私たちを傷つけたり、ショックを与える言葉を語る人がいます。それは、語るその人が悪いと思いますが、その背後に、暗やみの力が働いているのです。そのために、人を傷つけるような言葉を語らせるのです。だから私は、「語った人を憎むのではなく、背後の悪魔を打ち破る祈りをしよう」と言いました。
 私は、ある人物の言葉の背後に働いた、悪霊が破られるようにと、真剣に祈りました。
 「イエス様の御名によって、おばあちゃんを苦しめた、豊川稲荷とその周辺の悪霊が破られますように!おばあちゃんのところに、神の国が来ますように!」と真剣に祈りました。
 おばあちゃんはその時、床から起きあがって祈りを受けていましたが、祈りと共に再び倒れてしまいました。
 すると突然、今まで動かなかった右半分が、グニャグニャと波打って動き始めました。私は何が起こったのだろうかと、興味深く見ていました。すると、おばあちゃんは、意識を失ってしまいました。
 しばらくすると、おばあちゃんは突然起きあがり、「あっ、直った!ハレルヤ!!」と叫ぶのです。
 今まで動かなかった手を回して、「直った!何でも持てる、持てる!!」と言って喜んでいました。おばあちゃんは瞬間的に癒されたのです!

 先週は、おばあちゃんと、おじいちゃんと一緒に、責めたてた人の背後の悪しき力を打ち砕くために、とりなしの祈りに行きました。「その人を赦します。背後の悪しきわざが砕かれますように。」と祈りました。すると、さらにすっきりして、完全に体が良くなりました。
 神が預言的に、とりなしに導いてくださったと感謝しました。

 これは御霊と御力の現れである、神の国の働きです。御霊と御力が現されるときに、主の癒しと解放が起こってきます。今日、皆さんの所にも、聖霊様が働かれ、神の力・神の国が下りてくることを教えています。

 「神の国」という言葉を更に見ていくとマタイ十二章二十八節に、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

とあります。またルカの十一章二十節に、

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

とあります。イエス様がこの地上に来たときに、今まで起こらなかったことが起こりました。それは、人々の間で隠れて働いていた、悪霊の力が暴き出されたからです。皆には何が起こったのか、わかりませんでした。それで、イエス様が「ベルゼブル」という、悪の力を背景にその働きを行っていると批判しました。
 するとそのことに関してイエス様は、

『わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

と語られました。悪しき力が追い出されなければ、神の国は確立しません。悪霊が追い出されるとは、言い換えれば、「神の国の現れ」なのです。神の国は、「暗やみの力が破られるときに確立する」のです。

 また、ルカの福音書では「神の御霊」を「神の指」と記しています。「神の指」とは、イエス様が、何を意識して語られた言葉でしょうか。出エジプト記八章十九節に、

『そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。』

 モーセがエジプトから、イスラエルを脱出させる前に、一つの戦いがありました。それはエジプトの霊能者との戦いでした。霊能者もモーセたちに対抗して、色々な奇跡を行いました。杖を蛇に変えたり、ナイル川を血に変えたり、蛙を出したりしました。
 しかしモーセがブヨを出したときに、エジプトの呪法師たちは、それに追従することができませんでした。その時、エジプトの呪法師たちは言いました。「これは正に、神の指だ!」

 イエス様はこの言葉を意識し、「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているならば、神の国はあなたがたの所に来ているのです」と語られたのです。モーセによって率いられた出エジプトも、神の国の現れによったのです。

 実は、私は、本日の礼拝が終わってから、エジプトへ執り成しの祈りのために出かけます。
 私は今年、『神の栄光を取り戻せ!』という本を出版しました。それは、神の国の働きが、世界規模であることをレポートしています。
 霊的世界では、日本をつなぎ止めるために、他の国々に杭が打ち込まれ、それゆえに日本が霊的に動かないという現実があります。それを解くためには、実際に、他の国々に執り成しの祈りに出向く必要があることを、レポートしました。

 この本を書く中で、「エジプトという国を、執り成して祈らなければならない」と強く思いました。それで、一年ほど祈りながら、エジプトについて調査していました。「ちょうど良い環境が整ったときに、エジプトへの道を開いて下さい」と祈っていました。すると、今回、神様が道を開いてくださいました。ぜひ、皆さんに祈りの応援をお願いしたいと思います。
 「エジプトなんて、全く日本と関係がない」と思うかも知れません。しかし大きな関係があります。日本には多くの仏像があります。それはエジプトに起源があります。そこに霊的な縄が結ばれていて、仏教によって日本を引き止めている霊的支配構造があるのです。日本を仏教の束縛から解放するためには、原点に立って暗やみの力が砕かれるように祈る必要があります。また、エジプトには、「霊能者」というテーマと起源もあります。

 「わたしが神の御霊によって悪霊を追い出しているなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです」とイエス様は言われました。ということは、「神の国とは、霊的戦いとともにある」ことを教えています。暗やみの力が支配していたところに聖霊が下り、支配権を奪回する事が、神の国そのものだと教えています。
 私たちは気軽に、「神の国」「神の国の拡大」という言葉を使います。それは多くの場合、単にキリスト教的概念を持つ人々が増える事を意味して使用します。
 けれどもそこには、さらに深い意味があります。神の国とは、「暗やみの支配、悪魔の力が打ち砕かれ、確立するもの」ということです。

 イスラエルにイエス様によって神の国の種が落ちました。それは最初、からし種のように小さなものでした。しかしそれを拡大するならば、やがて大きな木になって鳥が巣を作るほどになるとイエス様は語られました。
 しかし残念ながら、イスラエルでイエス様が始められた霊的戦いは、途中で中断してしまいました。中断するとどうなるかについてイエス様は、「七倍の悪しき力にのっとられる」と言われました。
 正に、イスラエルは神の国の拡大を拒否してしまいました。ある意味で現在、国は七倍の悪しき力に押さえつけられているような状況です。神の国が一度始まったならば、戦い続けなければならないのです。

 そして、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」という言葉は、神を第一に生活しなさいということも教えますが、イエス様の発言を総合して言えるのは、「神の国とは、悪しき力が打ち砕かれること、すなわち、霊的戦いそのものだ」ということです。
 ゆえに、神の正義に立ち、霊的戦いを最前線に持ち出して行くならば、すべてが付け加えられる、明日のことは心配するなと教えているのです。

 一九九二年に私たちの教会に霊的戦いが始まりました。初めは色々な混乱があり、大丈夫だろうかと心配しました。
 しかし十四年間、「宣教は霊的戦いそのもの」と位置づけて、霊的戦いを最前線としてきました。そして、振り返ってみると、不思議と、すべてのものが付いてきたと実感しています。「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、すべてのものが付け加えられる」という御言葉には、深い意味があったと今、再確認しています。

 戦争に行った兵士たちは、戦っている以上、後方から食糧や衣料、医薬品など、すべてに補給があります。
 けれども、一端、戦争が終わって兵士たちが家に帰ると、生活一般については自分で整えなければなりません。しかし、最前線にいるならば、すべてが整えられて、必要は後から付いて来るのです。
 ある意味でクリスチャン人生も同じです。私たちが戦いの最前線に身を置くときに、すべてが付いてくる、明日のことは心配ないのです。
 そしてこの戦いは主の戦いなので、傷ついたり、倒れる者は誰一人いない、霊的戦いに犠牲者はいないと教えています。
 ギデオンの戦いは、今の時代においては「霊的戦い」に対応しているように感じます。彼は、たったの三百人の勇士たちと共に、ミデヤンの大群を打ち破りました。しかしギデオンの三百人の勇士たちは、誰一人として命を落とす者はいませんでした。そればかりか、「彼らは、疲れていたが、ミデヤンその残党を追撃した」と記されています。

 神の国の拡大である、「神の指によって悪霊どもが追い出される」ことが第一になるときに、すべては備えられ、与えられ、明日のための心配は無用、明日のことは明日が心配すると言う約束が実現するのです。

 今週も普段どうりの働きのように思うかも知れません。しかし人生は、「霊的戦い」です。いつも祈り、すべてのことを感謝し、喜んで働いていきたいと願います。今まで悪魔が支配していたところに神の国の力と神の領域が現され、人生においても、家族にも、地域にも、国にも、神の国が拡大するよう、祈っていきたいと願います。

 お祈りします。


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