上を向いて歩こう

2006.9.17(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

新約聖書 コロサイ人への手紙 3章1節〜2節
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

 ハレルヤ!先ほど読んで頂きましたコロサイ人への手紙三章一節と二節の御言葉から「上を向いて歩こう」というタイトルで学んで行きたいと思います。今日は伝道礼拝となっています。この頃教会に来はじめた方々、また今日はじめて来られた方々のためにお話ししたいと思います。では先ほど読んで頂きましたみことば、コロサイ3章1節〜2節をもう一度お読みしたいと思います。

『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』

一節、「上にあるものを求めなさい」二節、「天にあるものを思いなさい」と言う箇所があります。この場所を読んだ時、一つの曲が私の頭の中に巡って来ました。それは賛美ではありませんが、二十年ほど前に飛行機の墜落事故で亡くなった坂本九という歌手が歌い、大ヒットし、なんと全米でも一位になった「上を向いて歩こう」という歌が巡ってきました。その歌詞は皆さんご存じだと思いますが・・。

 

「上を向いて歩こう」

歌/坂本九 作詞/永六輔 作曲/中村八大

上を向いて歩こう 涙がこぼれないように

思い出す春の日 ひとりぼっちの夜

上を向いて歩こう にじんだ星を数えて

思い出す夏の日 ひとりぼっちの夜

幸せは雲の上 幸せは空の上に

上を向いて歩こう 涙がこぼれないように

泣きながら歩く ひとりぼっちの夜

思い出す秋の日 一人ぽっちの夜

悲しみは 星のかげに

悲しみは 月のかげに

上を向いて 歩こう

涙が こぼれないように

泣きながら歩く 一人ぽっちの夜

一人ぽっちの夜

一人ぽっちの夜

私は、この曲のイメージからすると、ほのぼのとした歌詞なのだろうと勝手にイメージしていました。しかし歌詞を読んでみると、「ひとりぼっちで寂しい。」「涙がこぼれないように上を向いて歩こう」という曲でした。なぜこんな歌が日本でも、アメリカでも大ヒットしたのでしょうか。みんな強がって生きているけど、やはりみんな寂しさを持って生活している。上を向いている振りをしながら、実際は上を向いて歩くんじゃなく、下を向いた生活、苦しみや悲しみの涙を流して生活している。そのためこの曲がみんなに共感したんだろうと思いました。

 話しは変わりますが、つい最近の夕方のニュースで「コンビニ」について特集を組んでいました。昨年の二月にも、この「コンビニ」についてもっと詳しく放映されていました。その番組は私にとってとても興味深いものでした。コンビニはこんな田舎町新城にもたくさんあります。こんなにできてやっていけるのだろうかと思ってしまうほどです。しかしその番組を見ると、一日に国民の四人に一人が利用しているという統計がでていました。また国民一人当たりに換算すると1年で約6万円もコンビニで使っている計算になるそうです。「コンビニに並べればどんなものでも売れる」といわれるほど、ヒット商品はコンビニから生まれていて、実は、そこには、私たち消費者の心理を巧みに操る「儲けの心理テクニック」がぎっしり詰まっているというのです。立地条件等により全部のコンビニに言えることではないみたいですが、人が入り口に入るとほとんど右側に折れて行くそうです。右から左に回ってしまうそうです。それにも意味があるというのです。それは人間は左回りに移動するのが気持ちが良いと言うのです。野球や陸上トラック、スケート、メリーゴーランドも左回りです。しかし私は入ったことがありませんが「お化け屋敷」は逆回り、右回りに作ってあるそうです。そこにも心理的に気持ちよさと悪さが巧みに使われてあるそうです。それには色々な説があり、心臓が左にあること、右脳の働きに関係があると言っていました。またコンビニの中で最も物が売れるエリアといわれるプロモーションエンドなる場所があるというのです。それは店の外からも目に入りやすい入り口すぐの陳列棚のことを言うそうです。またコンビニは、店内がとても明るい。それは床をピカピカにして、天井からの照明を反射させ店内をより明るくし、その結果、商品をよりキレイに見せる、それにより購買意欲を高めるというのです。コンビニ独特の明るい照明は、このクレンリネスの効果によるものだそうです。また特にすごいと思ったことは、「ゴールデンライン」というのがあるそうです。それは日本人の大人から子どもまでの身長を平均すると、百三十五センチだそうです。その高さよりも大きい人も視線はいつも目の高さから十度下にあるので、そのラインに売りたい商品を並べると売れるというのです。ドリンク棚なら二列目、三列目がゴールデンラインだそうです。またよく売れる定番の商品を置き、人間の視線は左を見ずに、流れ的に右側を見るそうです。だからこれから売りたい物を定番の横に置いて売れるように戦略しているというのです。考えていますよね。感心します。

 また眼鏡もフレームとレンズは九十度ではありません。角度が十度かかっています。なぜかというと、人間は下を向いているそうです。実験として三人がアイマークレコーダーを五分間付けて見たそうです。すると一人は八・六度、一人は十・二度、そしてもう一人の人は十三・一度下を向いたそうです。そのため眼鏡は十度傾いているというのです。眼鏡と目の間も計算されており、あまり近すぎても遠すぎてもいけないようです。こんな事ばかり語っていますと礼拝のメッセージではなくなりますので、みことばを語らなくてはいけませんが、人は上を向いて生活しているのではない。皆下を向いて生活しているとわかりました。疲れてきっているのです。下を向いているのです。神様が与えて下さった目が下を向くだけでなく、心も下を向いています。調子が良いときはルンルン気分で上を向いています。しかし私たちは悪魔のゴールデンラインを常に見させられています。「怒りなさい」「悲しみなさい」「人を憎しみなさい」「むなしさを覚えなさい」「生きがいはないぞ」…と悪魔のゴールデンラインを知らぬ間に見させられ、まんまとその商品を手にしているのです。コロサイ三章一節から二節、

『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』

「上にあるものを求めなさい」とあります。「天にあるものを思いなさい」とあります。聖書は上を見なさいと言っています。涙がこぼれないように上を見るのではなく、神様の中に助けがある、守りがあるから上を見なさいと書かれています。

 今朝新聞を見て驚きました。サッカーくじがあまり売れないので、金額を六億円のくじにしたというのです。もし六億円の宝くじがあったとして当たっていたら、それを破って捨てるような人はいないと思います。あたり券を緊張して身から離さず、銀行に飛び込んで、換金してもらうと思います。私たちの神イエス・キリストはそんな六億以上のすばらしい宝。いやお金に換算できない宝物を与えてくださいます。「上にあるものを求めなさい」とは何でしょう。「天にあるものを思いなさい」とはなんでしょう。それは真の神であるイエスキリストを示しています。その方を救い主として信じるとき、上にある天の御国。天にある天国に行くことができるのです。天国はどんな所でしょう。聖書の黙示録二十一章三節から四節に、

『そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

天国は神といつも共に住み、涙もなく、死も、悲しみ、叫び、苦しみもない。それらはもはや過ぎ去ったとあります。ルカの十七章二十節から二十一節には、

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』

とあります。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」天国は、あなたの心にあるというのです。神がともにおられ、私たちは天の御国の支店なのです。本店は天にありますが、今も「目の涙をぬぐい去ってくださる」「死も」「悲しみも」「叫びも」「苦しみも」ない生活を送らせて下さることができる神様、イエスキリストが私たちのただ中にいるのです。私たちは実際の目が下を向いているだけでなく、心と霊も下を向き、否定的になっています。しかし覚えて下さい。今日あなたの心にイエスキリストを信じて迎え入れるなら、「神の国が、あなたがたのただ中に来る」のです。あなたの生活に神の国が訪れるのです。何度も言うように「目の涙をぬぐい去ってくださり」「死もなく」「悲しみ」「叫び」「苦しみ」がない生活、上を向いて歩くことができる人生を送ることができると教えいます。私たちにはイエスキリストを信じるとき、いつも全能の神が生活の中で共におられます。その神に祈ることができます。

 私は今月号の教会ニュースに「クリスチャンはいつでもどこでも祈れます」と書かせて頂きました。その教会ニュースが先週日曜日に新聞折り込みがされました。その日に私宛に電話がかかって来ました。「豊橋の○○です。今日新聞にそちらの新城教会ニュースが折り込みされて見させて頂きました。いつでもどこでも祈っても良い。そして教会にいつでも電話下さったらお祈りしますと書いてあったので…。私の友達のために祈ってください」と言われました。沖縄の方のためと祈って下さい言われましたので、私は祈らせていただきました。クリスチャンは祈ることができます。それも全能の神にいつでもどこでも祈ることができ、祈ったら必ず答えられるのです。マタイの福音書二十一章二十二節に、

『あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』

とあります。今日何か心配があったら、思い煩いがあったら神様に祈ってみてください。祈り方は簡単です。「イエス様」または「天の父なる神様」と祈れば良いのです。イエスキリストの名前は力があります。その名前を言った後ご自分の言葉で、「今こういう問題がありますから助けてください」等何でも結構ですから祈ってください。祈っては行けない項目はありません。どんなことでも良いのです。聞いて下さるのは神様です。そして最後に「アーメン」と言って下さい。誰でもどこでも祈ることができます。教会ニュースにも書きましたが、新城市の南部地区のおばあさんですが祈りについて、その方の畑でお話しする機会がありました。私はその方に「どこでも祈れるよ。いつでも祈れるよ…」とお話しし「お婆さんのためにお祈りしようか」と訪ねると、おばあさんは目を輝かせて、「あんたの神様に祈ってくれ」と言うのです。何でかというと、「ワシの信仰している神様は、畑で困ったことを思い出して、これは祈らなければいけない…と思うと、まず自分の家に行き、お風呂に入り、綺麗な服に着替え、神様の前に座って拝むそうです。しかし段々年を取ると、帰ってきてお風呂に入り、着替えているうちに何をお祈りするのか忘れてしまう」というのです。私はその畑の真ん中で、おばあさんと祈りました。そして「イエスキリストを私の神様として信じ受け入れます」とお祈りしました。お祈りしたことにすごく喜んで下さり、何回かその方の所に行って一緒にお祈りさせて頂きました。教会に一度も来たことはありませんでしたが、いつもお祈りしました。その方は既に天に帰られましたが、誰であれ祈ることができます。また色々な思い煩いや問題がありますが、ピリピ四章六節に、

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

とあります。あなたの思い煩いを神に話してみて下さい。祈ってみて下さい。牧師や教会スタッフは、皆さんの為に何でもお祈りします。だいぶ前になりますが、一人の方が私に身の上話、特に思い煩いや苦しみを、こちらが口を挟む余裕もなく機関銃のように語って下さいました。私はただ聞いていました。そしてその方が話すのが終わると、突然「良いアドバイスをありがとうございました」と言われました。私は何も言っていませんが、人に言うだけで、人が聞いてくれるだけでも落ち着くようです。私たちは秘密を厳守しますが、友達に言うと、どんどんあからさまになっていき、なぜこんなことをこの人が知っているの?という時があります。しかし助けてくださり、守ってくださり、私たちとともにいて下さる神様に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあるように祈りましょう。そうすれば必ず答えを頂けます。またヤコブ五章十三節に、

『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。』

とあります。苦しんでいる人も祈りなさいとあります。また私たちは色々な病気があります。自分の病気、家族、知人の病気もあります。ヤコブ五章十五節から十六節に、

『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』

とあります。祈ったときに病いが癒されます。また互いに罪を言い表すときに罪が赦されます。私たちは神に頼り祈ることができます。そして私たちは涙も悲しみも叫びもない、そのような祝福を私たちの生活の中に与えてくださいます。神の国はあなたがたのただ中にあります。あなたが祈ることができなかったら私たちが祈りますので、是非申し出てください。共にお祈りさせて頂きます。またヘブル二章十五節に、

『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

とあります。「一生涯死の恐怖につながれて」とあります。私たちは強がって毎日明るく強く生きています。しかし人間は、死について真っ向から見ることを嫌います。色々な病院に行き、たとえば五〇二号室に入院していますと言われて行ってみると、四階であったりします。「死」ということ、四という数字でさえ嫌う世の中です。言葉さえも嫌うほど死を恐れています。しかし今日覚えてください。「死の恐怖につながれて奴隷になっている人々を解放してくださるためでした」とあります。今日この礼拝後、お年寄りの方々の為に、祝福のお祈りをする事になっていますが、クリスチャンのお年寄りは素晴らしいです。いつもお話ししていますように、私は教会の冠婚葬祭を担当させて頂いています。そのためにクリスチャンのお年寄りの方と死について、葬儀についてお話しします。「私の時はこうしてください」とか、「私や家族が亡くなったら、葬儀お願いします」などと言われます。クリスチャンは死ぬことは恐くありません。天国に行けるという確信があるのです。希望があります。また先に亡くなった方と、天で再会することができるという喜びがあります。これは素晴らしいことです。強がりを言っているのではありません。クリスチャンはイエスキリストを救い主として信じ受け入れると、『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』死ぬことが恐くありません。死の恐怖から解放されます。やせ我慢、修行や何回祈ったとか、何回聖書読んだからでもありません。難行苦行では救われません。救いは恵みです。イエス様を信じ受け入れるならば、救われ、死からも勝利ができるのです。

 日本で葬儀をするのは、とても高いです。インターネットで調べてみました。日本消費者協会の調べによると全国の葬儀費用の平均総額は、二百八十六万八千円だそうです。葬儀一式の費用は百十一万一千円、また通夜からの飲食接待費用は五十三万円、香典返しの費用は四十四万五千円。宗教者のお礼七十二万二千円。その合計が二百八十六万八千円になります。私はこれを見てクリスチャンで良かったと思いました。教会はキリストが頭で私たちは各器官です。クリスチャンは家族よりも親密で、お互いがキリストのからだと言っています。だから教会は親身になって葬儀をさせて頂きます。葬儀屋を全く通さずに、全て教会が担当させて頂いています。遺体搬送から、役場の手続き、何もかもさせて頂きます。だからお金は心配ありません。逆に遺族の方にお金をお返しするほどです。教会は商売でしてはいません。いやそれ以上に死も恐ろしくない。どんなにお金を支払ってもいただくことのできない救いと平安が、イエスキリストの中にあるのです。「上にあるものを求めなさい」「天にあるものを思いなさい」いつも神を求めてください。イエスキリストに祈り始めて下さい。祈りが答えられます。上を向いて行く事ができます。昔の話ですが、人力車に乗ってもらったお客が重たい荷物を背負った乗っていました。「お客さん、人力車に乗ったんだから荷物を降ろして下さい」というと、「乗せてもらっただけで十分です…」と言って荷物を背負ったままいたそうです。聖書の中に

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

とあります。重荷を持ったままで造り主なる神様のもとへ来て、「よろしくお願いします」と言えば良いのです。重荷と共に、自分自身を活ける神様に委ね、この真実なお方を信じる時、新しい人生が始まります。私達人間の持っている一番大きな重荷は罪です。自己中心な生き方です。その罪のために、イエス・キリストはあなたのために十字架にかかり、身代わりとなって死んでくださいました。私達の重荷と共にすべてを引き受けてくださいました。ここに救いがあります。 毎日が「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

いつも「上を向いて歩く」事ができます。上を向いて歩きましょう。お祈りします。


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