あなたに委ねられた「神の権威」

2006.9.24(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 マタイの福音書8章5節〜13節
イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日、このようにして、御言葉を語ることができて感謝します。

 今週は、木曜日から日曜日まで、「四国リバイバルミッション」が開かれます。集会に参加される方もおられますが、現地に行くことができない方も、ぜひ祈りに覚え、支えていただきたいと思います。そこにロン・ブラウンさんをはじめ、有名な音楽家たちが来日し、奉仕してくださいますが、十月三日には、新城教会にて、コンサートがあります。緊急に決まりましたが、ぜひ、お友達をお誘いになってお越し下さい。

 九月になってだいぶ涼しくなり、過ごしやすくなりました。私は二週間前の日曜日、礼拝が終わってから、エジプトに向かいました。アスワンという街にも行きましたが、そこは気温が四十五度近くありました。毎日、四十二度から四十三度あったそうですが、私たちが行った日は、特に暑い日でした。ドライヤーの風を直に浴びせられているような感覚でした。日本の暑さは、エジプトの熱さに比べたら、まだ良いと思いました。しかしすばらしい、とりなしの旅ができたことを感謝します。

 時々、聖書を読んでいるときに、あたかも個人に語られているかのような、感覚を持つことがあります。聖書の素晴らしさは、ただ、歴史的な事実や、誰かに語られた言葉と言う領域を超えて、個人的に語られるという聖霊による体験を持てることです。皆さんも聖書を読む中で、「これは神が私に、直接語ってくださった!」という体験があると思います。神が御言葉によって語ってくださるという体験は、素晴らしい体験であり、健全な事だと思います。

 数年前、私はイスラエルに行きました。エルサレムで朝早く起き、主の前に祈りながら聖書を読んでいました。

 すると突然、一つの御言葉が、光を照らされたかのように、私の心に響いてきました。それがイザヤ書三十三章二十節から二十四節の御言葉でした。

『私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

 エルサレムの市街を眼下に見渡しながら、聖書を読んでいるときに響いてきた言葉でした。特に二十三節から二十四節に、

『あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

 この言葉が強く、私の心に響いてきました。この時、主が私に語ってくださった事は、「あなたは、帆柱に結びつけられている人たちを解く働きをするように」という事でした。

 悪魔は私たちを縛り、どこかの帆柱に綱を結びつけ、動けないように束縛します。しかし主は、「その綱を断ち切り、帆柱を倒す働きのためにあなたを用いる」と語られたように感じました。そして、その働きを続けていくと、「多くの人が救われ」、「私は病気だ、という人がいなくなる」と教えられました。

 当時すでに、霊的解放という領域で働くように導きを受けていましたので、強い印象とともに、この御言葉を受け取りました。

 それ以来、主は、私を色々な場所に遣わして下さるようになり、帆柱に結びつけられている縄を解く働きをさせてくださるようになりました。

 特に私たちは、日本のリバイバルの為に祈っていますが、日本を束縛する帆柱が立っているのは、日本国内だけでなく、海外にあることを教えてくださいました。それは、二〇〇三年頃から導かれ、海外へのとりなしの道が開かれて行きました。

 私は今年五月に、『神の栄光を取り戻せ!』という本を出版しました。まだ、読まれていない方は、ぜひお読み下さい。この本を書きながら、私は、日本を解くために、また個人が解かれるためにも「エジプト」という国を調査し、そこに結びつけられている縄を解くように祈らなければならないと感じるようになり、一年間ほど祈っていました。

 そのような中、先々週、エジプトにとりなしの祈りのために行くことができました。皆さんが私たちのために支え、祈ってくださっているのを常に感じました。

 午後は「エジプトとりなし報告セミナー」を開催します。また、皆さんと一緒に、とりなしの祈りに行けたら良いと思っています。

 綱を断ち切り、帆を倒す祈りは、結果として「多くの分捕り物」すなわち、悪魔に渡ってしまった魂が救い出され、「病気だ」という人がいなくなるとあります。もしも海外に帆柱が立てられ、縄が結ばれていたらどうでしょうか。それに気付かなければ、なかなか病も癒されません。それが断ち切られたら、自由になります。エジプトについては、午後からのセミナーで詳しく話したいと思っています。

 今回私たちは、新城教会に集われている方々の名簿を持って行き、全員のためにお祈りしました。もしも、新城教会の兄弟姉妹が、エジプトに帆柱が立てられ縛られていたら、断ち切られるようにと祈りました。

 今日は、「あなたに委ねられた神の権威」というタイトルで話します。今、お読みした箇所は、イエス様が百人隊長の信仰について、「あなたの信仰姿勢と理解は素晴らしい!」と感動された箇所です。そして、百人隊長の願いは答えられました。

 私たちも、百人隊長が持っていたのと、同じ理解を持つならば、イエス様は私たちを喜んでくださり、祈りも答えられると思います。特にそのテーマは、「権威」ということでした。

 百人隊長はしもべを持っていました。しかししもべは、中風で苦しんでいたようです。「中風」とは、今で言う「脳梗塞」のような病気ではないかと思われます。百人隊長は、しもべがそんな状態なのを見て、何とかならないだろうかと思っていました。しかし当時の医学では、何ともならなかったのです。

 ある日、イエス様が多くの病を癒されているという情報を得て、彼はイエス様の所に行きました。

 「イエス様。私のしもべが中風で苦しんでいます。何とかしてください。」と頼みました。するとイエス様の答えは素晴らしいです。

『イエスは彼に言われた。「行って直してあげよう。」』

 イエス様はとても忙しいお方でした。常に群衆が押し迫っており、とても忙しい毎日でした。イエス様にはできないことはなく、どんな病も瞬時に癒すことができたのです。百人隊長がイエス様の所に来てお願いすると、イエス様の方から、「行って」直してあげよう、と言われたのです。

 私はここを読むごとに感動し、「イエス様は素晴らしい」と思います。イエス様は「直れ!」と遠隔でも、直すことができたはずです。しかしイエス様は、「行って直してあげよう」と言われたからです。

 ということは、イエス様のミニストリーは「一対大勢」という構図ではなく、「一対一」のミニストリーを展開されていたと言うことです。私たちもかくありたいと願います。

 今日ここにおられるおひとり一人に、イエス様は一対大勢という関係で関わっておられうのではなく、一対一の関係で見つめられ、「あなたの所に行って直してあげよう」と、あなたに関心を持っておられるのです。ここを読むだけでも、心が温かくなります。

 そんな素晴らしい言葉を聞いたのにもかかわらず、百人隊長はイエス様にこのように言いました。

 「あなたに来ていただくには及びません。私の家にあなたをお入れすることはできません」そして九節、

『と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」』

 なんと、彼はイエス様に、「来なくても良いので、言葉を下さい」と言いました。百人隊長という意味は、「百人に対する権威」という意味です。

 彼には百人の部下がありました。百人に「このようにせよ!」と言うと、そのようになるのです。「私は権威の下にいるので、私自身が言葉を使うと、言葉通りになる、だから、イエス様に言葉をいただけば、その通りになることを知っている、だから家まで来てくださらなくて結構です。お言葉を下さい」と言いました。

 私たちはイエス様に、「私の家に来てください。私のところに来て助けてください」と祈ります。しかし私たちは、神の権威の下にある者なので、実際は、「おことばだけで十分」なのです。イエス様から言葉をもらうとは、神の権威の下にある者にとっては、「言葉通りになる」のです。

 私がエルサレムで、御言葉を読んでいたときに、神から言葉をもらいましたが、「御言葉だけで十分」なのです。言葉をもらったならば、権威の下にある者にとっては、言葉通りのことが起こるのです。

 神が語られる言葉は、権威ある言葉として、権威下の者たちに伝達されます。百人隊長がイエス様からもらった言葉は、ただの言葉ではなく、それが実現していくという法則を知っていたのです。

 イエス様はその法則を理解していたことに対して、「あなたの信仰は素晴らしい!」と称賛されたばかりか、その言葉通りの事が起こされました。

『「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』

 私の小学生時代は、腕力の強い者が友達関係を制していました。昔はどこの地域にも番長がいて、仲間を支配していました。番長には腕力がありました。それで私が小学生の頃は毎日のように、喧嘩をしていました。

 しかし中学生になると、腕力では勝てないことがわかりました。今度は知力が必要です。知恵がなくては勝てなくなります。しかしもっと成長し、やがて必要となるのは経済力です。経済力がなくては、いくら頭が良くても生きていくことができません。

 けれども、やはりこの世界で最も強く生きていくためには必要なのは、権力です。今回、安部晋三さんが日本の総理大臣に任命されました。彼は五十二才です。私は今年、五十五才ですが、彼は五十二才で日本の最高権力を握ったのです。しかしその権力は、奪い取ったものではなく、委任されたものです。今は民主主義の時代なので、主権在民であり、国民からその権威を委任されたということになります。しかしその権威は絶大です。ですから、ある意味、自分の好きなように周りのスタッフを動かすことができます。また思い通りに、仕事ができるのです。今までの、官房長官の立場とは全く違う権威を受けとりました。それを国民から委任されたのです。

 同様に、私たちも権威を神から委任されるのです。イエス・キリストを信じると、今まで持っていなかった権威を委任されるのです。

 まず、イエス様を信じると、「永遠のいのち」を受けることができます。人生はこの地上だけで終わりません。やがて、私たちは、この地上から出て行かなければなりません。しかし私たちは、神の支配下で生きることができるのです。

 先々週も話しましたが、クリスチャンにとって、死後も心配はありません。神が永遠のいのちを用意してくださっているからです。一緒に礼拝を守っていた多くの兄姉姉妹が、すでに天に帰っていきました。その方々は、シャボン玉のように壊れて消えたのではありません。彼らは天において、イエス様の側でとりなして手となって、毎日、祈っています。雲のように証人として、取り囲んでいると聖書にあります。今日も、この礼拝を見ていると思います。

 「今日も順先生がメッセージをしているから、祈らなくては。」と、祈っていると思います。やがて私は、その人たちと再会できる、素晴らしい特権があります。私たちは天からも祈られ、支えられていると思います。

 イエス様を信じたら、「永遠のいのちが与えられる」という素晴らしさがあります。「クリスチャン生活は、辛くても、苦しくても、悲しくても、永遠の世界があるのでじっと我慢しましょう」というように、捉えられていた時代もありました。

 しかし神がこの地上を造られたのは、この地上に役割があるからです。それゆえに、地を造られました。神が何の目的もなく、人間を造るはずがありません。人も物を作る時に、必ず目的を持ちます。同じように、神がこの地上に人を造られたのは、地上において働く使命があるからです。

 人間の使命はどこにあるのでしょうか。「詩篇八篇五節」に神が人を、どのようなポジションに造られたかを記しています。

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 この箇所は、日本語の聖書では、「人を神よりいくらか劣る者」と訳されていますが、一部の英語やスペイン語の聖書では、「あなたは人を天使よりもいくらか劣る者とし…」と訳されています。この「神」、「天使」と訳されている原語は「エロヒーム」です。それは、「神」としか訳す事ができない言葉です。しかし過去の聖書翻訳者たちは、それが信じられなかったようです。

 「人が神よりいくらか劣る者」とは信じられないと考えたのです。「いくらか」という表現は、「ちょっぴり」という意味です。まさか、人が神よりちょっぴり低い存在などとは信じられなかったので、神ではなく「天使」と訳したようです。

 神は人をご自分より、いくらか劣る存在として造ったのです。今日、皆さんは神様とすごい差がある存在ではなく、「ちょっとだけ」劣る存在なのだと教えています。

 時々、「私のような、とるに足りない、塵芥のような者を救ってくださって感謝します」という祈りを聞きますが、それは間違いです。人類は、神様と比べても、あまり劣らない存在として、造られたのです。創世記を見ても、「神は人をご自分に似せて創造した」とあります。人間は高価で尊い存在です。

 しかし、猿と人間を比べると、構造上、あまり変わらないと思います。けれども、神は人を特別に、目的を持って造られたのです。

 もしも今日、「私は駄目だ、私には価値がない」と思われている方は、騙されてはいけません。聖書は、「あなたは、神に似たものであり、神より、いくらか劣る存在として造られた」とあります。ですから、自信を持って生きてください。

 さて、この表現は、権威のオーダーを表しています。人間は、神に次ぐ権威の序列として造られたことを表しています。人間を造ったときに、神は人間に対して言葉を語られました。それは人間の使命を表す、重要な言葉でした。創世記一章二十八節に、

『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 これが初めの人類に対して、神が最初に語られた言葉です。それは人間の使命を表す重要な言葉でした。その内容は、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」という命令でした。

 人間は、太い牙や強い肌を持っているわけではありませんが、すべての生物を支配しています。アフリカに行くと、たくさんの動物がいますが、人類は、太い牙を持っている動物をも簡単に支配しています。環境保護などが叫ばれていますが、人類の手の中で、動物は自由自在に保護されたり、淘汰されたりします。

 最近、里に熊やイノシシがよく出てきています。「熊に注意」という立て札があります。熊が出没して、人を脅かしたりするようなニュースが先週はいくつもありました。しかし、いくら熊が出没しても、熊に日本国政権が乗っ取られるとか、イノシシが日本を占領し、安部政権を倒し、イノシシ政権が誕生することはありません。人類は全てをコントロールています。

 さて、創世記三章では蛇が出てきます。蛇とは「地をはう生き物を支配せよ」という族中に含まれる生物です。しかしこの蛇は、私たちが田んぼのあぜ道で見かけるような蛇とは違います。それは「悪魔・悪霊」を意味しています。蛇は、悪魔や悪霊を表現するのに一番ふさわしい存在と思うかも知れませんが、そうではありません。その意味は、悪魔・悪霊は人間よりも高次元に住み、知恵ある存在かも知れないが、権威的ポジションにおいては「地を這う生きもの族」に属するのです。

 私たちは時々、悪魔・悪霊どもを恐れますが、恐れなくても良いのです。彼らはいくら高次元に住み、知恵があっても、生物のカテゴリーから言うならば、人間以下の地を這う生き物族です。

 創世記三章では、蛇とエバの会話が記されています。蛇はエバに、「神様はこの園の中に取って、食べてはいけないと言われたですか?」と問いかけ、「善悪の木の実は本当は、とって食べても良いのです。」と言いました。

 「とって食べてみなさいよ。美味しいですよ。それを食べると、目が開かれて神のようになることができます」と言いました。エバは蛇の言うことを聞いて、木の実をとって食べてしまいました。そこから、人類の堕落の歴史が始まりました。人類の最初の罪とは、蛇に騙され、「善悪を知る木の実を食べた」と理解されます。

 それはもちろん罪なのですが、エバはそれ以前に、間違いを犯していたことがわかります。

 神が人類が創造された時に、「地を這う生き物を支配しなさい」と語られました。ですから、本来はエバは、地を這う生き物の言うことを聞くのではなく、蛇を支配しなければなりませんでした。けれども、その使命を怠ったことが最も大きな間違いでした。エバは人類に与えられた、一番大きな使命を忘れてしまいました。与えられた使命を果たすことができないばかりか、何と、蛇の言うことを聞いてしまったのです。その結果、人類は神がしてはいけないと言われた、罪にまで手を出してしまいました。

 ここに一つの権威の流れを見ることが出来ます。神は人間に命令を下されました。それは、「生き物を支配する」ということと、「善悪を知る木の実を取って食べてはいけない」ということでした。

 しかし人類は、その命令に従うことができないばかりか、木の実を取って食べてしまいました。それは言い換えるならば、「神の権威に反抗する行動」でした。それも、「蛇の提案」によって手を出したのです。その結果、人類は、神に次ぐ権威ある存在として造られていたにも関わらず、人類よりも権威的に下の存在に、その地位を明け渡してしまったのです。

 悪魔・悪霊は元々天使族でしたが、彼らが神の言いつけにそむいたときに、地に落とされました。同様に、人類も取って食べてはいけないと言われた、神からの命令に反したことにより、天使がかつて悪魔になったのと同じように、人間も罪ある存在となってしまいました。それとともに、それまでの「神、人間、悪魔・悪霊」という権威のオーダーが狂い、「神、悪魔・悪霊、人類」という順序に入れ変わってしまったのです。

 今、全世界を見ると、人類が悪魔に苦しめられている姿を見ることができます。時々、「神様がおられるのに、なぜこんなに不幸なんですか」と言われます。しかし聖書を見ると、「全世界は悪い者の支配下にある」と書かれています。

 なぜならば、初めの人間が悪魔に許可を与えてしまったからです。それゆえ、悪魔が私たちの上に、権威を振うようになったのです。

 そんな人類を救うために、神自ら人となってこの地上に来てくださいました。それがイエス様です。

 イエス様は、人類の罪の身代わりとなって、死んでくださいました。人類を造られた方が人類の身代わりになって死んでくださったことにより、人類の廃棄処分決定が中止となったのです。

 それだけではなく、イエス様は、死なれただけではなく、よみがえってくださいました。これは、「人類の仕事がもう一度回復された」ことを意味します。

 私たちがイエス様を信じると、イエス様の十字架の犠牲、復活のゆえに、かつては罪によって悪魔の支配下に陥っていたのが、元々、神が計画された権威の順列に戻ることができるのです。私たちは、「神に次ぐ存在」のポジションを回復することができるばかりか、今度は、その権威を使うことができるのです。

 教会に来ると、色々な問題を持った人々が癒されたり、回復されたり、自由になったりします。なぜならば、それまでは悪魔の支配下にあった立場が、神に次ぐ存在として回復するからです。また、人の上に唯一存在する、神の言葉を受け取ると、神の権威によって、言葉が人生に実現されるのです。さらに、その命令を、下部の組織に宣言して生きるなら、悪魔は私たちに手出しできなくなります。ゆえに、問題は打ち破られ、自由になるのです。

 今日、まだイエス様を信じておられない方は、イエス様を救い主として信じるなら、人に元々与えられていたポジションが回復します。権威が回復したら、権威をなくすことがないように、傷つかないように注意をしなければなりません。神の命令に従う必要があります。それは、自分のポジッションを守るためにも、大変重要なことです。罪を犯さないことは、悪魔に権利を与えないために、重要なことです。私たちが二度と、権威を悪魔に与えないように、神の命令を守る必要があるのです。

 マタイ十章一節に、

『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』

 十二弟子に「汚れた霊どもを制する権威を授けた」とありますが、これは人が元々、神に次ぐポジションとして造られたことを代表しています。私たちはイエス様の弟子なので、同じ権威の中に生きることができるのです。

 百人隊長が、「言葉を下さい。そうしたら、その通りになりますから」と言いました。彼は軍隊で生活していたので、権威がどのように伝達され、命令がどのように伝わるのかを体験していました。ですから、特に、イエス様が家に来なくても、言葉だけもらえばその通りになると、日頃の生活の中で理解していたのです。

 百人隊長がイエス様から、「あなたの信じたとおりになるように」と言われ、その瞬間、しもべが癒されたとあります。神の言葉を受け取るとは、権威が回復された者にとっては、それがただの言葉ではなく、実現するのです。

 今週は、神の前に出て、祈りつつ聖書をお読み下さい。そうしたら、聖書の言葉が直接、皆さんに語りかけます。その言葉は、権威あるものとして、現実の世界にも事が起こってきます。

 ある方は、病の中で苦しまれているかも知れませんが、イエス様が、「あなたが信じるとおりなるように」と語られたらどうでしょうか。その言葉通りになります。

 同時に私たちに委ねられた権威があるので、その権威を行使することができます。聖書はあらゆる問題の根源に、敵の力が関わっていると教えています。だから私たちは、いただいた権威を使わなければなりません。私たちを脅かす悪しき力に対して、近づくことはできないと宣言するのです。その時、問題をもたらす暗やみの力が打ち砕かれ、周りの環境も変わっていきます。

 この権威は、クリスチャンに与えられています。さらに、クリスチャンたちの集まり「教会」に権威が与えられていることを聖書は教えています。マタイ十六章十八節から十九節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 この御言葉を、ローマ・カトリックは、「権威がペテロ」に与えられ、ペテロの化身である「法王」でなければ、この権威の鍵を使うことができないとしています。そして、法王を頭とするローマ教会を通してのみ、鍵を使えると教えています。

 しかしそれは、大きな間違いです。この箇所をよく読むと、弟子たち全員に鍵が与えられていることがわかります。キリストの弟子たちの集まりである、「神の教会」の全てにです。教会には、つないだり、解いたりする権威の鍵が与えられています。そして教会の最小単位は個人です。私たちと共に主がおられます。また、その集団、聖徒たちの集まりの中に、神は権威を置いているのです。

 時々、「教会に行くことに何の意味があるのか?」「イエス様を信じていれば、十分ではないか」と言われます。もちろんそうです。イエス様を信じていれば、天国に行くことができます。しかし、神があえて教会を地上に造られたことには意味があり、一人ひとりはキリストのからだの各器官なのです。

 人間の体も、心臓、胃、腸、足、手など、色々な器官が一つになって形成されているように、大勢いる一人ひとりには、それぞれ役割があり、それが一つに集まると、一つの体を形成するのです。そして、一つの使命に生きるのです。

 教会という集団の中に、大きな使命があります。ゆえに、教会に属することは、とても重要です。なぜならば、自分には持っていない権利を、他の人がサポートしてくれるからです。神はそれぞれに賜物という、特別な能力を与えてくださっています。私にも能力があるかも知れませんが、皆さんに与えられている能力は、持っていません。

 けれども、教会に属する時、互いが互いを霊的にサポートし合い、一人ではできないことができるようになります。教会に属するとは、とても重要であり、安全なことです。

 神が新城教会に与えて下さっている使命があります。その使命を果たすために、神は色々な人を集め、一つの使命に生きるように、体である教会を形成しています。それぞれに役割があり、その役割に生きるように、神が計画されているのです。その権威を使ってお互いに奉仕するときに、一人ではどうにもならないようなことが、集団の中で起こされるのです。

 教会としての祈りは大変重要です。先日、エジプトに行きましたが、兄弟姉妹が祈ってサポートしてくださったことは、素晴らしい体験でした。

 今日もこのように集められ、皆で心を一つにして祈っていますが、それぞれに神の権威が委ねられており、全体で一つの使命が与えられています。ですから、キリストのからだとしての使命を果たすことができるように、祈る必要があります。私たちは権威ある言葉を神から受け取り、また、その権威を伝達していかなければならなりません。

 百人隊長が神から預かった権威を受け取り、しもべが癒されたように、私たちも権威の中で生きることを理解しましょう。そうするならば、神があなたの人生の中に、偉大な勝利を現してくださいます。

 今日私たちに権威が委ねられていることを確認し、また、権威を決して悪魔に奪われることがないよう、きよい歩みをしましょう。

 今から聖餐式を行います。私たちは、イエス様の権威の下にあります。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして、私たちの権威を回復してくださったことをもう一度、確認するときです。私たちは神に次ぐ存在として造られ、神から権威が委ねられていることを信じて、聖餐式に預かりましょう。

 「あなたに委ねらている神の権威」があります!


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