「権威ある新しい教え」

2006.10.1(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

新約聖書 マルコの福音書 1章21節〜28節
それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

 皆さんにお祈りいただき、四国のリバイバルミッションのためにお祈り下さり感謝します。今日が最終日です。皆さんにぜひお祈りいただきたいと思います。多くの方々が、集っています。今日が最終日です。ぜひ今日はいっぱいの方々が来れるようにお祈り下さい。新城からも大勢参加下さり、またお祈りで支えて下さっていることを心から感謝致します。少しだけ四国リバイバルミッションの集会の様子を見ていただきたいと思います。(DVDを見ました。)

 ではこれから「権威ある新しい教え」というタイトルで学びます。マルコの福音書一章二十二節に、

『人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。』

ここに、律法学者たちがイエス様の教えに驚いたと書かれています。「驚いた」ということばを辞書でみると、「ハッとして目が覚める」「意外なことに出くわして心に衝撃を受ける」「ビックリする」「驚嘆する」という意味があります。「眠っているような所に注意がされ、呼び覚まされる」「ハッと気がつく」というのが驚くという意味です。しかしこの時の驚いたは、とても強い言葉です。これは「打ち倒される」というようなニュアンスがある言葉です。エレミヤ書二十三章二十九節に、

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――』

とあります。わたしのことばは岩を砕くような金槌のようだ。「金槌で殴られたようなすごい衝撃」のような驚きを意味します。私たちは今日も御言葉を学んでいます。聖書は神の言葉であり、権威ある言葉です。皆さんは既にご存じですが、聖書は新約と旧約の二つに分かれています。そして聖書は千六百年間の中で四十人の記者によって、旧約三十九巻、新約二十七巻、あわせて六十六巻の聖書になっています。創世記ではとても長生きであった人が書かれています。しかし千六百年生きた人は、当たり前ですがあり得ないことです。四十人の各記者は、神様から直接、霊的な知恵を受けて書きました。しかし不思議なことに主題がすべて「イエス・キリスト」です。また世界には六千八百九の言語があり、二千二百六十一言語に訳され、世界に例を見ません。なぜなら、聖書はそれほど、重要なものであり、人のいのちに関係しているものです。聖書はベストセラーです。ただの言葉ではありません。ヨハネの福音書一章一節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。』

とあります。私たちがいつも読んでいる聖書は、神様が言われた言葉であり、神だと言っています。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

律法学者たちは驚いたのです。イエスの言葉は「権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」と驚いたのです。しかし私たちがみことばを学ぶ時、「驚くような」エレミヤ書の御言葉にあるような「金槌で殴られたような衝撃」があるでしょうか?どれほど感動して読んでいるでしょうか?いつも素晴らしい御言葉が礼拝で語られています。そのみことばを神の権威の言葉として、受け取っているでしょうか?一歩世の中出ると、それは何ら権威ある言葉ではなくなってしまいます。礼拝でみことばを受け取っても、なにか会堂に置いて行ってしまい、恵まれた気分だけを持って出ていきます。一歩出てしまえば毎日同じように忙しく、心が騒ぎながら、仕事に追われます。人間関係で悩みます。傷つきます。いつも暗い心でいるのです。『いつも喜んでいないさい。』と御言葉はほど遠く、心騒いでまた次の聖日、礼拝に来るというくり返しです。生活の中に「神の権威」が失われています。「私の生活はこんなものだ」と諦めてしまうところがあります。しかしみことばは、

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。』

と語っています。問題という堅い大きな岩があっても、みことばの権威はその大きい岩を粉々に割る事ができます。みことばは権威のある、新しい教えです。神の言葉であり、神ご自身なのです。創世記一章一節から三節に、

『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』

とあります。神が天地を創造された時、神の言葉です。二節には、『やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。』とあります。すべては暗やみでした。しかし神様が「光よ、あれ。」と言われると光ができました。言葉で天地創造をなさいました。

神の言葉で全てのものは創造されます。また詩篇百十九篇百六十節には、

『みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。』

とあります。

御言葉は真理そのものであり、永遠にすたれない言葉だと言うのです。永遠に続く権威ある言葉です。箴言三十章五節から六節に、

『神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。』

とあります。六十六巻の聖書の御言葉は、なにも付け足してはならないのです。『御言葉はすべて純粋。神をより頼む者の盾。』とあります。御言葉によって守られるという約束です。また黙示録二十二章十八節から十九節に、

『また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』

とあります。御言葉に付け足す者があれば、神は「この書に書いてある災害をその人に加える」とあります。それほどに神の言葉である聖書は大切な書物なのです。それを取り除いたら、『いのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。』とあります。取り除いてしまったならば、私たちは永遠の御国・天国にはいることができないという御言葉です。先日ある本を読んでいてなるほどと思うことがありました。それはある大阪の骨董品屋の奥さんが言った言葉です。

「偽り物が一番多く作られるのは、本物に値打ちがあるからだ。全く値打ちのない物の偽り物など、誰も作りません。」

全く値打ちのない物はコピーを作らない。値打ちがあるからこそ、コピーを作るというのです。以前私はバリ島に執り成しのために行ったことがあります。執り成しを終えて夜バリの町を観光していました。バリの商人たちは日本観光客だとみると色々なものを売ってきます。ある人は「葉っぱある。葉っぱある」と誘ってくるのです。マリファナなど麻薬を買わないかと寄ってくるのです。また「女いる。いい女いる。」とも言われました。商店街では時計が並んでいました。高価な時計と言うことしか知らず、見たことのない時計有名な時計がずらりと並んでいました。それもなんと安いのです。「これは本物か?」と聞くと、向こうは「本物、本物…」と言ってくれるのです。日本円では何百円、何千円という値段です。わたしはその中でも安い有名ブランドの時計を家内のおみやげとして購入しました。私もおみやげとして同じ超有名メーカーの時計を買いました。しかし日本で数ヶ月して時計を使用してまもなく全く違う時間を指していました。壊れてしまったのです。偽物は形はコピーしていて、ぱっと見、分からないのですがすぐに壊れてしまいました。骨董品屋の奥さんは、「偽物が作られるのは本物に値打ちがあるからだ」と言いましたが、キリスト教の中でも言うことが出来ると思います。偽物が多く出まわっています。エホバの証人、

「世界基督教統一神霊協会」いわゆる統一教会です。また「末日聖徒イエス・キリスト教会」また少し前にテレビで放映された「摂理」等々多くのキリスト教の偽物があります。しかし聖書は本物であり、絶対的権威ある言葉です。足しても引いても駄目だ。付け加えたら災害が、はぶけば永遠の都に入ることができないと書かれています。真理は一つしかありません。マルコ一章二十二節の御言葉は、権威ある律法学者たちも「その教えに驚いた」とあります。

私たちの教会が使用している聖書は本物です。権威ある言葉として神が私たちに語ってくださった言葉です。権威とは「力」と訳すことができますが、「王が部下に命令を下すときに現れる力」「どんなに嫌でも従うべき力」とも訳すことができます。警察官が制服を着て「止まれ!」と言われれば「止まらなくてはいけない」のです。それに反したことをすれば処分されます。イエス・キリストは何者よりも優る、いや比べることすらできないほどの権威の持ち主です。律法学者たちは、聖書を勉強し、聖書のプロです。聖書のことならば何でも理解し、その道では権威ある人でした。その人たちが「新しい権威ある教えだ」と驚いています。よくテレビで大学教授が色々な分野で解説しています。「その道では権威者」だと言われると、私たちは受け入れます。地震の専門家が「あすにでも東海地震が来るかも・・・」というとすぐに受け入れて、私たちは地震に備えます。しかし今日、みことばを受け入れていますか?学者や律法学者のようではなく、上からの圧力や押さえ込む言葉、力ではなく、新しい権威で語られたみことばを受け入れていますか?

 いつも講壇から神の言葉が語られます。権威のことばです。しかし「聞いても信じて実行できない」「現実は難しい」と悪魔はささやきます。私たちの生活とみことばがかけ離れてしまいます。透明人間のような存在、「悪魔」が会堂に不信仰というバリアで、三百六十度覆っています。神の権威ある言葉を聞いても、その権威を毎日の生活に使わせないように妨害するのです。みことばを聞き、私たちクリスチャンが権威をもって祈り、宣言し、実行していくとどんな大変な事が起きるか悪魔は一番知っています。だから悪魔は御言葉を奪います。みことばをうたがわせます。学問、過去の出来事のように語ってきます。権威がなければ、彼らはまったく怖くありません。クリスチャンに恵まれたと思わせながら、みことばの権威を人々から奪い取ります。しかし今日は悪魔に対して宣言しましょう。この礼拝に張り巡らされている不信仰。神の権威を私たちに持たせないように働く力が、打ち砕かれ、権威のみことばを信じ切ることができるように、語ることができるように、祈る事ができるように、とりなす事ができるように戦って祈りましょう。

 またクリスチャンだけでなく、今日本の多くの教会にみことばの権威が失われています。病いの癒しは終わった。奇跡も起こらない、霊的戦いはおかしいなど、権威が全く無くなってしまっています。なんと悪魔はみことばの権威を剥奪しています。教会を汚い自分の足で踏みつけいます。教会は力がないのです。教会はただの交わりの場所、コミニティーになってしまっています。みことばがただの文字にしかすぎない。聖書がおとぎ話、学問になっています。しかしイエスキリストは生きています。「インマヌエル」いつも共にいて下さる神です。感謝な事に、新城教会に霊的戦いを開いてくださいました。暗やみの存在がいること、その暗やみに戦って行かなくてはいけないことを教えて下さいました。その為にはみことばに権威が必要です。戦って勝利することができるのは「みことばの剣」だとエペソの六章で教えています。エペソ六章十一節から十七節

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

みことばの剣で悪魔と立ち向かうことを教えて頂きました。みことばの権威を持つことがどんなに大切かを私たちは知ることができました。ですからみことばの権威を使い始めたら、悪魔はうち破られます。勝利が与えられます。今までも多くの勝利を頂いてきました。しかし更に新しい扉が開かれるように戦いましょう。

『その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。』

権威があり、今も生きて働くみことばをそのまま受け入れましょう。みことばは信じて宣言した時悪魔に打ち勝つことができます。そしてイエスの評判はすぐにガリラヤ全地の至る所に広まったというのです。今日四国リバイバルミッションは最終日です。権威ある神の力があらわされるように祈りましょう。今回のミッションに大勢の方が集うようにと、暑い中トラクト配布をしました。また決起大会、新聞折り込みなどお金や労力を使って来ました。何よりも多くの祈りが積まれてきました。今日神の権威が四国リバイバルミッションにあらわされるように祈りましょう。

『「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。』

四国の至る所まで、イエス様の評判が速やかに広まるように信じて祈りましょう。ヘブル書十一章一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものす。』

とあります。素晴らしい言葉です。あなたが信じたら、見えない物が必ずなるというのです。またマタイ八章十三節に、

『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』

とあります。先週礼拝で学んだ御言葉です。百人隊長が「しもべが今病んでいます。神様、権威の言葉を下さい。そうしたら癒されます」と言いました。するとイエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われました。するとそのしもべは癒されたのです。イエス・キリストのことばを頂いただけで癒されました。今日も多くの方がベットに伏せって苦しんでいたりするかも知れません。病気をお持ちかも知れません。しかしこのマタイ八章十三節をあなたのみことばとして信じてください。癒されます。またヨハネ一章十二節に、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

とあります。イエス・キリストを信じたら神の子とされる特権を下さるというのです。なんと素晴らしいみことばでしょう。私たちは罪を犯したため裁きの場所に行くことが定まっていました。しかしイエスキリストを信じたら、天国に行けるという約束です。それだけでなく神の子どもとされる特権を下さるのです。特権とは「特定の身分や地位の人がもつ、他に優越した権利」でそうです。イエスキリストを信じた者だけがもつ、他に優越した権利を使うことができるという最高の特権を私たちは頂く事ができています。またマルコ十一章二十四節に、

『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

とあります。すごい神の言葉です。あなたが祈ったらその通りになるのです。わたしたちはもっともっと、なんでも祈りましょう。またルカ四章四十節に、

『日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。』

とあります。イエス・キリストは癒し主です。またルカ五章五節から六節に、

『するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。』

あなたの仕事は祝福されていますか?弟子達は漁師でした。寝ずに頑張ったにも関わらず何も取れなかったのです。人一倍働いても収穫がなかったのです。しかしイエス様が一言「右に網を降ろしなさい」と言われました。時間を掛け、体力を使い、寝る暇を惜しんで彼らは一晩中とっても何もとれなかったのに、なんと一度でたくさんの魚が入り、網が破れそうになったとあります。神の言葉に従うときにその通りになります。あなたが神のみことばに従う時、今までは全くダメであっても祝福を下さいます。また使徒の働き五章十六節に、

『また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』

とあります。病気の癒しと同時に汚れた霊に苦しめられている人たちも癒されて、解放されたとあります。先ほどのマルコによる福音書1章にあるように、汚れた霊に疲れた人に「黙れ。この人から出て行け」と言われた。その時解放されたことが書かれています。また全部がいやされたとあります。今日あなたがみことばを聞き、また自分が聖書のみことばを読むとき、権威を受け取りましょう。聖書イコール神であり、私たちの人生の絶対的マニュアルである。聖書に書かれている一言一句はまちがいない。このみことばを権威を持って、信じて生活の中で使いましょう。宣言しましよう。また不信仰の壁を全部取り除いていただきましょう。今まで病んで他人も、長年の間の祈りの課題があった人も、苦しんでいた人も、霊的束縛も、どんなことでもあなたがみことばには権威があると信じて、宣言しはじめる時、事は成就します。マルコの一章二十八節に、

『こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。』

とあります。この新城市及び周辺の町々にイエスキリストの名が至るところに広まるように祈りましょう。

『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』

とあります。今日は覆いをかぶせている不信仰の壁を打ち砕き、主に期待しましょう。この礼拝で語られるみことば、家庭集会、毎日聖書を読む中でいつも衝撃的なみことば。生きているみことばを受け取りましょう。絶対に駄目だと諦めていたところに剣を差し込みましょう。どんなことでもみことばにあることは今も働いて下さいます。何十年も駄目だと諦めていた硬い岩のような問題。必ず勝利することを信じましょう。あなたがたが各々の場所で信じて祈り始めたら、日本は変わります。権威ある新しい教えとして今私に語って下さい。不信仰を打ち砕いて下さい。霊的戦いの中新しい扉が開かれるように、いやされるように、悪習感から解放されるように、今まで流した涙が喜びの笑いに替えられるように、何よりも多くの方が救われて、神の子どもとなる特権をいただけるように祈りましょう。あなたには何もありません。しかし神には不可能なことはありません。権威のある、新しい教え。信仰もって祈り始めましょう。お祈りします。


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