あなたに委ねられた「神の権威」パート2

2006.10.8(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 エペソ人への手紙2章1節〜6節
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。先週は、「四国リバイバルミッション」のためにお祈り下さり、遠くまで励ましのために、ご参加下さった方々も多くおられ、心から感謝いたします。また、多くの献げものにより、リバイバルミッションも支えられています。心から感謝します。

 聖書には、「受けるよりも、与えるほうが幸いです」とありますが、教会の祝福は自分たちの教会だけでなく、外部に祝福を与えるために存在しています。来年はハワイ、ホノルルでリバイバルミッションが開催されることになっています。ぜひ祈って支えていただきたいと思います。

 毎年のように、アメリカからジョー・ハイト先生一行がこの教会に来て下さっていますが、「新城からもヤキマに来てください」と言われました。それで、今週は、私を含む十二名が新城教会から、ヤキマに行くことになりました。あちらでは、とりなしの祈りや、交わりをします。また、私は礼拝で奉仕することにもなっています。ぜひお祈りください。来週はジョー先生の教会、「ヤキマ・バリー・フェロシップ」で奉仕をします。さらに、私は向こうに残り、再来週の日曜日はタコマで二日間ほど奉仕することになっています。

 今は秋祭りのシーズンです。クリスチャンにとっては、あまり愉快な時期ではありません。花火の音が聞こえたり、笛や太鼓の音が聞こえ、悪魔・悪霊に対する礼拝がなされています。しかし私たちはそのような中にあっても、勝利者になると聖書は教えています。

 今日は「あなたに委ねられた神の権威」というタイトルで学びます。先々週も同じタイトルで語りましたが、「パート2」です。

 先週は上條先生が、「権威ある新しい教え」というタイトルで語りました。今、教会か「権威」というテーマで学ばされている時のようです。それは、人の権威ではなく、神の権威です。神の権威について理解したら、私たちの生活は大きく変わります。エペソ人への手紙二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

とあります。これは私の好きな御言葉の一つです。私たちは神の作品とありますが、私たちの生きる空間や時間も、すべて神の作品の一部です。私たちが神によって造られたことは理解ができますが、生きる空間や時間、また、出来事もすべて含めて神の作品であるという理解を持つことが大切です。今週も、皆さんの生活のすべてが、神によって造られた「神の作品」です。作品とは、オーダーメイドです。製品とは同じものがたくさんできますが、作品とは作者が心意気を持って造る、世界で唯一の存在です。今日ここにおられる一人一人は、神の作品として「良い行ない」が備えられていると三回も記されています。

 今日は礼拝後に婚約式があります。上條真輝兄と里田愛美姉が婚約します。また明日は、滝元与世夫兄と村田晃子姉の結婚式があります。私は彼らの幼少時代から知っていますので、時代は変わったと思います。人生には色々な展開があります。しかしそれらはすべて、神によって創造されたものであり、神が造られたものに悪いものは何一つありません。

 時々「この、できそこないめ!」などと言われて、傷つくことがありますが、神が製作するものに、できそこないは絶対にありません。人間が造るものは「できそこない」があります。しかし神が造られるもので、できそこないはありません。それは全て完璧で、すべて良いものというのが聖書の主張です。

 しかし人生が良いものとは、およそ信じられないようなことが起こってきます。「なぜ?」というような事柄が人生には起こってきます。

 けれども、なぜそのような事柄が起こってくるかについても、聖書は教えています。良いものが、なぜ悪くなるのか、その原因をしっかりと知り、良きものに戻すためにはどうしたら良いかを知るならば、一度しかない人生はすばらしいものになります。

 今回、「四国リバイバルミッション」の為に、ロン・ブラウンさん、マキーダさん、ドク・パウエルさん、ランド・リチャードさんがアメリカから来てくださいました。彼らは超一流ミュージシャンですが、皆、クリスチャンです。

 先週の火曜日は、ロン・ブラウンさんと一行の皆さんがこの教会で、コンサートを行ってくださいました。彼らの証を聞いてみると、たいへんな中から救われたことが分かります。

 先週は新城教会のラジオ番組、「ゴスペルステーション」に、ロン・ブラウンさんが出演し、生演奏とトークを豊橋のスタジオでやってくださいました。新城教会のホームページからも聞くことができます。彼はいつも「私は麻薬で落ちるところまで落ちました。」と話します。麻薬には絶対、手を出してはいけません。彼も、初めは楽しいと思って手を出しましたが、それは人生を破壊し、どのように努力しても麻薬から抜け出すことができなかった、と言いました。良い人生のはずが、ひどい目に合いました。

 彼が苦しんでいるときに、一人の友人が、「私はあなたのために祈ります。」と、彼のために断食して祈ると約束してくれたそうです。その友人は真剣にロンさんのために祈ったそうです。それが、以前、この教会で演奏してくれた世界的サックス奏者「カーク・ウェーラム」さんです。すると不思議に、ロンさんに力が注がれ、それまで何をしても止めることができなかった麻薬を、一日で止めることができたと証ししていました。彼の人生は一瞬にして、良い人生に変えられました。

 マキーダさんも素晴らしい歌声を聞かせてくださいました。実は、明日の与世夫兄の結婚式では、彼女が歌ってくださるようです。彼女も今回、過去の赤裸々な証をしてくださいました。どん底の中から、彼女もイエス様によって助け出されました。

 昨年の十二月、日本でのコンサート直前に、マキーダに一つのことが発覚しました。それは、彼女が乳ガンを患っているということでした。それも腫瘍は一つだけではなく、いくつもあり、医者から、「日本に行くことはできない、すぐに手術しなければならない」と言われたからです。

 私たちはその知らせを聞いてたいへん驚きました。コンサートのために宣伝し、すでにチケットも販売している最中の出来事でした。コンサートはともかく、彼女自身のいやしのために真剣に祈りました。そうしたら、神が奇跡を起こしてくだいました。なんと、ガンが癒され、彼女は新城に来ることができました。だから彼女は、今回のコンサートの中で、「新城の皆さん、ありがとうございます。お祈りによっていやされました。」と言われました。

 今日、色々な問題を持って教会にこられた方もいるかも知れませんが、イエス様は私たちに、良い人生を回復してくださるお方です。

 私も、四国ミッションで奉仕しましたが、大変嬉しいことがありました。三年前の「沖縄リバイバルミッション」に、一人の女性が神戸から来られました。まだ四十才前の娘さんです。その方は、以前、少し精神的障害がありました。しかし主によって癒され、人生が新しく始まるという直前にガンが発見され、すでに手遅れと言われたからです。初めに診断を行った病院では、彼女に「あと一年の命」と宣告したそうです。彼女は大きなショックを受け、あと一年しかないのなら沖縄リバイバルミッションに参加しようと、沖縄まで来られました。暑い最中でしたが、私の所に来て、「私はあと一年しか生きられない。祈ってください。」と暗い顔で言いました。

 しかし私は、イエス様がその方を癒してくださるようにと、真剣に祈りました。その時、神が不思議なことを行ってくださいました。何と、お腹の中に誰かが手を入れたかのような感じがして、何かをつかみだしたような感覚を覚えたそうです。

 不思議とその日から、癒しが始まりました。一年といわれた命が二年になり、二年半にまでなりました。そして、今年は完全に癒されたのです。色々なところに転移していたガンが徐々に消え、最後にあった大腸のガンも消えてしまいました。

 以前、彼女は、幾つかの病院に行って診察してもらいました。しかし同じ診断結果でした。ある病院では、「あと半年しか持たないかも知れません」と言われたそうです。しかし癒されたのです。

 そして近頃、再び病院に行ったそうです。彼女のカルテを見て、医者が驚きました。「あんた、まだ生きていたの?どこでどういう治療を受けたんですか。聞かせてください!?」と言われたようです。

 彼女は「私はイエス様によって直りました」と言うと、医者は、「そんなこと信じられない」と言ったそうです。そして「神か仏か知らないけど、そうでないと直せない…」と言ったそうです。今回の四国ミッションには、彼女の教会の牧師も一緒に来て、癒されたことを共に喜んでいました。

 イエス様は、不可能を可能にしてくださるお方です。なぜ私たちが、そのような奇跡を体験できるかというと、一つの法則があるからです。エペソ二章一節から六節に、

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 イエス様を信じるものは、どのような霊的ポジションにあるのかというと、「ともに天の所に座っている」という権威です。何と、よみがえりのイエス様の権威と同列に置かれるというのです。私たちに委ねられている神の権威は、よみがえられたイエス様が受けた権威と同一です。その権威があなたにゆだねられているというのです。

 聖書を読むときには、色々な視点があります。真理はそれほど、大きなものなのです。どこから食いついても、味わい深いものです。そのような中、「権威」という視点から、聖書をひもどいていくと、人類には神が大きな権威を与えていることがわかります。

 先々週、私は同じテーマでメッセージを語らせていただきましたので、そのメッセージも参考にして、今日のメッセージを受け取っていただきたいと思います。

 前回、人間は元々、「神に次ぐ存在」として造られたと話しました。イエス様は人間として、この地に来てくださいました。イエス様のこの地上での働きは、権威ある働きでした。十字架において死なれましたが、三日目によみがえり、死に打ち勝ちました。何と、それと同様に、私たちも目に見えない世界においては、「ともによみがえらせて、ともに天の所に座らせてくださった」という、大きな権威が授けられているのです。

 聖書は色々な読み方がありますが、部分的に拾い読みすると大変恐ろしい箇所もあります。ですから、聖書は、初めから終わりまで、順序正しく読むことが大切です。また、テーマを理解して読むことも大切です。

 有賀先生がよく言われますが、聖書をぱっと開いて、「ユダは外に出て行って首をつった」という箇所を読み、続いて聖書を開くと、「あなたも行って同じようにしなさい」という箇所が出てきたという、大変な話をされます。毎朝、占いのように聖書を開いて、「これ」と指さすことは良くありません。

 聖書の中には、「この人の人生は大変だった。こういう人生は歩きたくない。」というような登場人物もあります。しかも、その人は神を信じていたという設定です。神を信じても、こんな人生ではたまらないと思います。その筆頭にあげられるのが、「ヨブ」という人です。

 ヨブ記を読むと、「ヨブと比べたら、私はずっとましだ…」と思います。ヨブ記一章十三節から、

『ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」』

とあります。ヨブは富豪で、たいへん幸せな家庭を持っていました。彼は裕福でしたので、いつも宴会のような生活でした。そんなある日、突然、知らせが入りました。「ヨブさん、大変なことが起こりました。あなたの使用人たちが皆、死んでしまいました。また、あなたが持っている動物たちも、死んでしまいました。」という知らせでした。

 ヨブが理由を尋ねると、それは犯罪に巻き込まれたというものでした。また、神の火が天から下り、焼き尽くしたとあります。「神の火」とは多分、「雷」のことだと思われます。雷が落ちて死んでしまいました。それは自然災害です。それだけでも十分心が揺さぶられます。

 そうこうしている内に、今度は最悪な知らせがもたらされました。何と、「あなたのご子息と娘たちが死んだ」という知らせでした。なんと、自分の子どもたちが一日の内に、全員死亡するという不幸にヨブは遭遇しました。それだけではなく、周りの人々も死んでしまいました。時を同じくして、そのような事件が突然起こりました。この時のヨブの悲しみと辛さは、いかほどであったでしょうか。

 色々な辛さの中でも、子どもを失うことほど辛いことはないと言われます。

 私が小学生の時、私の妹が三ヶ月で亡くなりました。それはとても悲しかったです。私の両親はたいへん悲しんでいました。ヨブは、一度にすべての子どもを失ったのです。それも、「大風が吹いて来て、家の四隅を打って家が倒れた」とあります。これは自然災害です。そんな大きな試練がヨブを襲いました。

 そうこうしていたら、今度は、ヨブ自身に試練が襲いました。それは健康上の試練でした。彼は大きな病になりました。頭の先から足の裏まで、悪性の腫物ができ、土器のかけらでかかなければならない程のかゆみを伴う、でき物ができたのです。ゴウヤという食べ物がありますが、朝起きたら、頭から足の裏まで、そんな状態になっていたらどうでしょうか。考えただけでゾッとします。それは死にたくても、死ねない病でした。そんな試練が同時に彼を襲いました。彼はどうにもならない状況に陥りました。ヨブのような人生は、絶対に送りたくはないと思います。しかし、ヨブは神を信じていたのです。信じている人たちの中でも、特に、神に真剣に仕えていた人物でした。にも関わらず、そんな人生になったヨブのことを思いながら聖書を読むとゾッとします。

 神様はひどいお方だ、なぜ、こんな試練を忠実なヨブに与えたのだろうか、と考えます。しかし聖書は、注目に値する悲惨な出来事を題材にして、色々な霊的法則を教えるための書物でもあります。その中から、私たちは目に見えない法則を学ぶのです。ヨブの人生は人類の代表者のように、犠牲となっているところがあります。その中から学ぶとき、全人類が助け出される、重要な情報を神は提供しています。

 ヨブは犯罪に巻き込まれたり、自然災害によって痛めつけられたり、また病によって苦しめられましたが、私たちも同じような事柄を、新聞紙上やテレビで見聞きしています。

 また皆さんの人生の中にも、少なからず、何らかの犯罪に巻き込まれたり、自然災害に遭ったり、病気にあったり、事の大小の差はあるものの、ヨブと同列の事柄が起こっているかも知れません。程度の差はありますが、いつもそのような事柄が私たちの中に起こっています。

 ヨブ記の記述を通して、神が更なる情報を私たちに提供しています。ヨブ記一章六節から十一節に、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」』

 何と、ヨブがこんな大きな試練を受けた背景に、ヨブは全く知らなかったのですが、「天で一つの会話が成されていた結果」によったのです。それは、神と天使たちが集まっているところに、何と、サタンが侵入していたという事実です。サタンは悪霊どもの親分です。神の会合の中に、サタンが顔を出しました。すると、神がこのように質問しました。

 「サタン。お前はどこから来たんだ?」サタンは、「私は地を行き巡り、歩き回ってきました。」と答えました。これも一つの霊的情報です。サタンという親分は、ヒマラヤの山頂や、どこかの寺に住んでいるのではなく、「世界中を行き巡っている」のです。ある時は、私たちの側を通り過ぎたかも知れません。

 すると神は、「お前はヨブという人物に目を留めたか。彼ほど素晴らし人物はいないぞ。」と、神がヨブのことを自慢しました。それに対してサタンは、「あなたはヨブを守っているではないか。ヨブが災害に遭わないように、完璧に守っているではないですか。だからヨブはあなたに仕えているんですよ。もしも、あの守りを全部取り去ってご覧なさい。きっとヨブはあなたを呪いますから…」と言いました。

 すると、神はサタンに、ヨブを苦しめる許可を与えました。

 「よし、では、彼の守りを取ってみるが良い。」その許可を持って、サタンは出て行きました。すると、ヨブの使用人たちは全滅し、家畜も全滅し、あげくの果てには、子どもたちも死んでしまったのです。これだけ読むと、聖書の神はひどいと考えてしまいがちです。

 ヨブ記の二章七節から九節からに、

『サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」』

 「世界の悪妻」というのがあるようですが、その一人がヨブの妻です。

 「それでもあなたは自分の誠実を保つのですか。神を呪って死んでしまいなさい!」とは、ひどいことを言う奥さんだと思います。しかしそれほどヨブは大変な状況だったのです。見てはいられない、死んだ方がましだと見えたのです。それは裏返せば、ヨブの妻の愛の現れのようにも思います。

 サタンが出て行って彼を打ったことによって、ヨブは病に陥ってしまいました。それも自分たちが全く知らないところで、気づかないところで、サタンと神との間に会話が成され、そこで許可が与えらたことによって、現実の世界に問題が起こったのです。

 私たちもヨブと同じような問題を見聞きしますが、ある意味で、その中の多くが天の会議で決定されたことが、地上で起こっていたとしたらどうでしょうか。ヨブ記は霊的世界の情報提供なのです。

 エレミヤ書二十三章十八節に、

『いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。』

とあります。普通は私たちは神の会議には参加できません。最近、国会中継がなされています。新しく、安部政権になり、彼の答弁を聞くのは興味深く、面白いです。野党が突っ込んできますが、のらりくらりとかわしています。私たちは、その会議中継を見ることができます。そのように、天における会議も同時中継してくれたら良いと思います。

 エレミヤは「一体誰が、主の会議につながったのでしょうか」と言っています。そして更に二十二節では、

『もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。』

と語っています。「もしも彼らが、神の会議につながったのならば、あんな悪い道には行かなかったのに…」と嘆いています。私たちは、現実の世界に住んでいますが、同時に目に見えない世界が同時存在しているのです。そして、そこで私たちのことが話題になっていて、その場所で決定したことが、地上に実現するという、見えない法則があるのです。

 そして私たちがイエス・キリストを信じていない霊的環境についても、聖書は告げています。エペソ二章一節から二節に、

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』

 私たちがキリストを信じる以前は、空中の支配者、霊どもに従って歩んでいたとあります。それは「悪魔・悪霊に支配されていた」という意味です。それゆえに、天の会議で悪魔の訴えが受け入れられるような状態が常にあったことを教えています。

 しかしイエス・キリストによって救われるとは、どのような権威のポジションに置き換えられるのかを、エペソ二章五節から六節は告げています。

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 私たちがイエス・キリストを信じるとは、どのような立場になるのかというと、それまでは「天の会議に参加することなどできなかった者が、イエス様と同列の権威あるポジションに置かれる」ということです。それは「天の会議に参加できるようになる」ということです。

 ヨブが生きていた、旧約聖書の時代は、まだイエス様の十字架と復活による権威は完成されていませんでした。ですから、ヨブは神を信じていましたが、よみがえりの権威を受け取ることはできませんでした。だからある意味、目に見えない世界で訴えられていたのだと思います。ヨブ記の解釈は大変難しいのですが、大きなテーマは、「何の理由もないのに、神は手を下すことはない」というものです。すらっと読むと、何の理由もないのに神が悪魔にヨブを苦しめる許可を与えているように見えますが、よく研究すると、そうではありません。ヨブには、「訴えられるだけの理由があった」というのがヨブ記の結論です。

 何れにしても、私たちがキリストを信じない立場、すなわち、旧約時代の立場は、「天の会議に口出しはできない」というポジションです。

 しかしイエス様を信じるとは、「ともに天の所に座らせてくださいました」と過去形で表現されています。

 私たちはやがて死んでも、よみがえると聖書は告げていますが、イエス・キリストを信じるとは、「信じたその瞬間に、権威的にはよみがえったのと同じ」、「天の会議に参加できる特権」が与えられるのです。

 毎朝起きたら、「私はイエス様と同列の、天の会議に参加している」と悪魔に宣言しなければなりません。そうすれば、悪魔に良いものを奪われることは決してありません。

 イエス様がよみがえられたときに、次のように語られました。マタイ二十八章十八節から二十節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』

 この言葉は、イエス様がよみがえったとき、初めて語られたことばです。「わたしには天においても地においても、いっさいの権威が与えられています」

 イエス様は公生涯においても、大変権威あるお方でしたが、宣教の初めと終わりにはサタンに関わられました。悪霊を追い出す権威もありましたが、「その権威は限定付き」であったということです。

 しかし、イエス様がよみがえられたときに、「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」と宣言されました。

 そしてイエス様は、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と告げられました。

 「出て行って福音を伝え、バプテスマを授ける」というのが、イエス様の命令でした。なぜイエス様は、このように語られたのでしょうか。既に、多くの方がバプテスマを受けられました。バプテスマを受けることは大事です。

 私は小学校二年生の時にバプテスマを受けました。バプテスマは瞬間的に水の中に浸かって出るという、キリスト教会入会式のように考えます。私は小学校二年生の時に受けましたが、受けた理由は不純なものでした。それは聖餐式にありました。昔はイエスさまを信じていても、バプテスマを受けて教会員にならない限り、聖餐式を受けることはできないという考えがありました。

 当時の教会は少人数でしたので、聖餐式のジュースとパンの分け前も多かったです。それを見て、私は早くバプテスマを受けたいと思いました。それも、聖餐式は昼ご飯の少し前におこなわれるので、ただ見ているのはたいへん辛かったです。早く一緒に食べたいと思っていました。バプテスマを受けたら聖餐式に参加できるというので、私は受ける決心をしました。それも冬ではなく、夏が良いと思いました。場所も桜淵に決めました。バプテスマを受けたら、ついでに川で泳ごうと思っていたからです。何の意味もわかっていませんでした。

 しかしバプテスマには、深い意味があるのです。バプテスマについて、はっきりと聖書は教えています。コロサイ二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 今日、語っている御言葉をつなぎ合わせると、主を信じる者になぜ権威が授けられるのかについて、よくわかります。エペソ人への手紙には、「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました」とありました。

 そして、天においても、地においても、いっさいの権威を受け取られたイエス様が、「バプテスマを授けなさい」と語られましたが、なぜ、「バプテスマを授けなさい」と命令されたのかの理由が、コロサイ二章に書かれています。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

とあります。

 バプテスマは、イエス様が死んでよみがえられた道筋を瞬間的にたどるものです。その結果、イエス様のよみがえりの権威を、バプテスマを通して共有化できるのです。ゆえに、「私たちはよみがえらされ、ともに天の所に座らされた」のです。イエス様と同じ、天の所に座っているということは、バプテスマがそのような意味合いを持っていたからです。

 そしてバプテスマの中身は、罪を悔いるならば、「罪が赦される」と約束しています。また、罪による債務証書が無効になると告げています。

 悪魔はなぜ、ヨブを訴えることが出来たのでしょうか。そこには理由があったからです。悪魔とヨブの間に、何らかの契約関係があったと考えられます。なぜ罪が恐ろしいのかと言えば、罪とは、もう一方では、悪魔と結ばれる契約書が発行されるからです。契約書があるゆえに、悪魔は天の会議に自由に出入りできるのです。その結果、私たちは訴えられ、地上において、様々な問題を受け取ってしまうのです。

 しかしイエス様を信じて、バプテスマを受けるならば、天の所に座らされたとあります。私たちを、それまで訴える根拠となっていた「債務証書が無効にされた」とあります。

 さらに、それだけではなく、「神はキリストにおいてすべての支配と権威を武装解除をしてくださる」とあります。「すべての支配と権威」とは、「サタンをかしらにした悪魔の組織」です。その「武装が解除される」と告げています。これは問題解決を意味しています。

 悪魔は全世界の人々を、同時に苦しめることができる強力な武器を持っているようです。軍隊も武器を持っているなら戦えます。しかし武器を取り上げられたら、戦うことはできません。同様に、悪魔も色々な武器を持って人々に挑戦してきます。ある人は病という武器、ある人は精神的問題という武器、またある人は、経済的武器で苦しめられます。ある人は、犯罪に巻き込まれるなど、色々な領域で悪魔は私たちを苦しめます。

 しかし私たちを責め立てていた、悪魔の軍団とその武器が武装解除されるのです。

 教会に来て、多くの問題解決を見ることができます。それは、あなたを訴えていた債務証書が無効となるとともに、悪魔が持っていた武器が武装解除されるゆえに起こるのです。

 今、主が新城教会に強く働かれているのを感じます。かつてない程、多くの人が教会に自ら来てくださるからです。しかし、来られる方々の背景には、色々な問題があります。ある意味で、天で訴えられている、ヨブのような状況下で来られます。しかし私たちは、イエス様と同じポジションに立つ者として、その権威を行使することができるのです。私たちは、人々に対して、悪しき契約書を無効にし、悪魔・悪霊の武装解除の祈りをします。すると、何と、その問題が打ち砕かれ、人々が解放される姿を毎日のように見ています。

 先週は神学校があり、大変忙しかったですが、合間に何人もの人々の為に祈りをし、力強い解放を見ました。神が強く働かれ、まさに、悪魔の手から武器がもぎ取られ、人々が解放される姿を見ました。それが、バプテスマを受けるときに、神が人に授けてくださる権威なのです。そればかりか、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 「悪霊どもが捕虜とされる」のです。これまで天の会議に入り込み、悪しき訴えをしていた悪霊どもが捕虜となり、天の会議には参加できなくなるのです。あなたは権威ある者として、逆に悪魔に権威ある権限を行使することができるのです。こんなに素晴らしいポジションを、神は人に与えてくださいました。ですから、まだバプテスマを受けられておられない方は、一刻も早く、バプテスマを受けた方が良いと思います。

 聖書を見ると、バプテスマ・クラスを長い間受け、聖書をよく理解してからバプテスマを授けよとは書かれていません。「信じたその日」に、人々はバプテスマを受けています。日本では、色々なしがらみがあるので、少し時間をおいてからバプテスマを受けますが、引き延ばしても良いことは何もありません。まだバプテスマを受けていない方は、ぜひ受けて下さい。バプテスマはほんの瞬間、水中に入るだけです。水から上がった瞬間、額に十字架のあざが浮かび上がったとは、聞いたことがありませんから心配いりません。

 しかし、霊的ポジションが一瞬にして変わります。何と、イエス様のよみがえりのポジションに置き換えられ、イエス様の横に座ることができます。そして天の会議に私たちは参加できます。ゆえに、聖霊様は私たちに情報を与えて下さいます。祈っている時に、神の声を聞くことがあります。もしも神の導きを感じるならば、そもそも、天の会議に参加している証拠です。聖霊によって神の声を聞いて行動できるということは、天の会議に参加している証拠なのです。ですから、ヨブのように訴えられることはないのです。それが聖書全体の結論です。

 それゆえ、「あなたの人生は良きもの」であり、敵に奪われていた良きものが回復されるのです。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 一度しかない人生が、良いもので満たされますように。悪魔に奪われたものがあったら奪回され、人生が回復しますように。

 ヨブも大きな試練を体験しましたが、最後には、彼はかつての持ち物の二倍をもって回復されたとあります。試練もありましたが、神は失ったものを倍返しで祝福して下さったという、ハッピーエンドです。旧約聖書においても、神に従う者は、決して揺るぐことがなかったのです。

 今日、私たちはよみがえりのイエス様の時代に生きています。更に素晴らしい権威あるポジションをいただいています。神の権威を持って、この地上を歩んでいきたいと願っています。最後にお祈りします。


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