「耳のある者は聞きなさい」

2006.10.15(SUN)
新城教会牧師 上條 実師

新約聖書 マルコの福音書 13章9節
耳のある者は聞きなさい。

 ハレルヤ!今日はとても短い御言葉から学びたいと思います。マタイの福音書十三章九節の「耳のある者は聞きなさい」というみことばです。十三章を読みますと有名な種のたとえ話があります。道ばたに落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、そしてよく耕された地に落ちた種です。良い地に落ちた種は、百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍実を結んだとあります。先々週、私がここで語たらせて頂いた御言葉は、「権威ある新しい教え」というタイトルです。また先週は滝元順先生より「あなたに委ねられた「神の権威」パート2 」というタイトルで「神の権威」が語られました。今日もその権威ある神のみことばを信じましょう。エレミヤ書二十三章二十九節に、

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――』

とあります。今も御言葉は生きています。「わたしの言葉は火のように。」また「岩を砕く金槌のようだ」とあります。まさに金槌で叩かれたような衝撃のある、御言葉で語ってくださいます。家庭集会や礼拝でメッセージを聞くとき、また静まって御言葉をひとりで読む時、時にかなって、必要な御言葉を語ってくださいます。いつも神のグッドタイミングで御言葉を頂くことができます。ヘブル四章十二節に、

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

とあります。私たちは多くの問題があり、悩み、どのようしたら良いかと考えます。しかしヘブルの四章十二節を権威ある神のみことばと信じて読んで下さい。主は生きています。力があり、もろ刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目をも刺し通すとあります。無理だあきらめてしまう事柄に、みことばが働きます。今まで動かなかった出来事も、動き始めるのです。今日色々な問題を持っておられる方、誰か人が助けてくださるのではなく、この御言葉である、神様があなたを助けてくださるのです。あなたがこの神の権威を信じ始めたら、全てに勝利が始まります。悪魔はあなたにその権威を持って欲しくありません。みことばが神の権威があって今も生きているとは信じてほしくないのです。権威を持ち、信仰を持ち、使い始めたら、悪魔は敗北です。ですから悪魔は御言葉を信じることができないよう働いてきます。現在にいやしはない。奇跡なんかあるはずがない。と教えます。みことばを信じさせない、しるしと奇跡をあきらめさせます。特に日本の多くの教会でそのように学んでいます。しかし今日は「耳のある者は聞きなさい」とあります。あなたの霊的な耳を開かせていただきましよう。みことばは一点一画も変わることはありません。今も生きています。

 話は変わりますが、一冊の本に面白いことが書いてありました。幼稚園の子どもたちに「お母さん」というタイトルで似顔絵を描かせました。自分で輪郭、口、目、鼻等を書かせます。その中で児童心理学者は、このように言っていました。幼稚園児の絵を見て、ほとんどの子どもが、一つのものを大きく書くそうです。それは口です。お母さんの口を大きく書くというのです。それはなぜかというと児童心理的には、「ああでもない、こうでもない」とお母さんが口うるさくいつも語るので、口を大きく書くようです。また多くの子どもが書き忘れるものがあるそうです。それは耳だそうです。耳は髪に隠れているので忘れるのかも知れませんが、子ども達はお母さんに聞いてもらいたいことがたくさんあります。しかしお母さんは忙しいのです。聞いてもらいたいことがあっても「お母さんはちょっと忙しいから、あっちに行っていて…。」と言ってしまいます。コミュニケーションはとても大切だとはわかっています。しかし聞いているようで、子どもから言わせれば聞いてもらっていないので、耳を書き忘れるそうです。子どもだけでなく私たちも、聞かないために、失敗してしまうことが多くあります。コミュニケーションの大切さと難しさをつくづく思います。

 ある二人の人が道を歩いていました。一人は音楽家、もう一人はお金の事ばかり考えている人でした。二人が道を歩いていると「君、今チャリンと音がしなかったかい?」とお金ばかりを考えている人が言いました。しかし「いや、聞こえなかったよ。」と言ったそうです。今度は音楽家が「今、あの草むらで素晴らしい虫の音が聞こえたけど聞こえたかい?」と言うと、「いや、聞こえないよ」と言ったという話を聞いたことがあります。自分の気になっていることしかわかりません。今日は「耳のあるものは聞きなさい」とあるように、常に私たちの心の耳がしっかりと開いているかを確認しましょう。霊的の耳を開いていますか?耳のある者は聞きなさい。神のことばを聞き始めたら三十倍、六十倍、百倍の実を与えてくださるという約束です。神のことばを聞いているようで聞いていないため、道ばたや土の薄い岩地、またいばらに落としてしまい「どうしよう。こんな大変な状況になってしまった。」と嘆くのです。心の耳を開きましょう。霊的な耳を開き、神の声を聞きましょう。三十倍、六十倍、百倍の恵みを頂くことができます。しかしなかなか礼の耳を開く事ができません。マタイ六章三十三節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

とあります。私たちは毎日、忙しい生活を送っています。イエス・キリストを第一にしなくてはいけないことは知っています。しかし毎日の生活で、忙しさを優先してしまいます。イエス・キリストは生きています。素晴らしい恵みを与えてくださる神様であると知っています。今日どんなに忙しくても、仕事中でも、家事中でも、心の耳を開きましょう。三十倍、六十倍、百倍の祝福を与えてくださいます。先ほどのたとえ話しのように、音楽家はお金の音は聞こえませんでした。お金のことばかり考えている人はきれいな虫の音が聞こえませんでした。一つの事に没頭すると他が全く聞こえないで終わってしまいます。どんな時でも神第一の生活をしましょう。神様はもしかして仕事中、勉強中に多く語っているかも知れません。何が語られているか、しっかりと耳を開いてください。ローマ書十二章二節に、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

とあります。この世と調子を合わせてはいけないとあります。あなたはこの世と調子を合わせ、神様を自分の生活から追いやっていませんか?困ったときだけ、「神様来てください。私とともにいて下さい。助けてください」と、困ったときの神頼みのような信仰ではありませんか?特に世と調子を合わせ、罪の中に浸ってはいませんか?この世と調子を合わせてはいけません。『いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』とあります。あなたが神のみこころは何んなのか?何が良いことなのか?神に受け入れられた生活をしているいつも、チェックしなくてはいけません。あなたが神様を常に意識して、神に従う時三十倍、六十倍、百倍の祝福を受け取ることができます。悪魔はいつも私たちにこの世をちらつかしてきます。力づくでも聞こえないように、遠ざかるように、御言葉を受け取らないように働いてきます。今日この世に働き、生活の中で神様を見えなくさせる来る、悪しき力が打ち砕かれるように祈っていきましょう。心の一新によって自分を変えましょう。また申命記二十九章四節に、

『しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。』

とあります。このみことばはモーセが出エジプトをした時のみことばです。紅海を渡り、マナを降らせ、岩から水を出すなど様々な奇跡を見、聞き、経験したあと語られたことばです。五節には、

『私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。』

四十年間も着物や靴がすり切れなかったとあります。奇跡です。こんな事は絶対あり得ないことです。荒野の気候と地形の中では着物も靴もすり切れないなんて考えられません。そんな奇跡を見ていながら、神様は「あなたに悟る耳と、目を与えてくださらなかった」とあります。神様が与えなかったというのです。昼は雲の柱、夜は火の柱で民を導き、いつもともにいて下さったのに、なぜ聞く耳が閉ざされていたのでしょうか。それはイスラエルの民の不信仰です。神の奇跡をいくら見ても、不信仰であったと記されています。モーセがシナイ山に上がったとき、モーセがなかなか山から下りてこないため、アロンを中心に何をしたかご存知でしょうか。今まで導いて下さった誠の神様の代わりを造ろうではないかと言ったのです。神の代用品。金の子牛、偶像を造ってしまいました。神様の奇跡を見ながら、不信仰のため、イスラエルの民は耳をふさがれてしまいました。不信仰のゆえです。指導者がいなくなれば不安になるのです。牧師やスタッフがいなければ不安になるのでは困ります。人が守るのではありません。守り、祝福を下さるのは神様です。詩篇五十八篇四節から五節に、

『彼らは毒蛇のように口に毒を含み、熟練した蛇使いの声にさえ耳をふさぐコブラのようです。』   (リビングバイブル)

とあります。私たちは、みことばを信じ、告白してしまうことは、どんなに恐ろしく、大変かをアクマは知っています。そのためサタンどもは私たちの耳をふさぎ、私たちが聞かないようにします。みことばを聞かせないように、道ばた、薄い岩地、いばらの地に落ちた種は、途中までは成長しますが、いばらなどがあるために、成長できずに実を結ぶことができません。悪魔はよくこの手を使ってきます。私たちは素晴らしい御言葉だ。良かった、平安だ、助かったと感動はするのです。しかし感動で終わりになってしまいます。神の権威を持たさないで、持ったような気持ちにさせ、感動するのです。しかし新たな問題を持ってきます。アクマは私たちの耳をふさいで、神の声を聞かせないのです。マタイの十三章十五節に、

『この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

とあります。「心が鈍くなり、その耳は遠くなった」とあります。神様の声はある時、細い声かも知れません。エレミヤ書七章二十三節、二十四節に、

『ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。』

とあります。「耳を傾けず、聞かなかった」とあります。自分の考えた道とは違う道に行きなさいと語られるかも知れません。しかしすぐに改めることができません。プライドがあるのです。すぐにひざまずき、悔い改めるのができないのです。子どもたちはすぐに「ごめんなさい」と謝ることができます。しかし大人になると、不従順になってしまいます。悔い改めることが何か恥ずかしいこと、辛いことのように見せかけてきます。しかし悔い改めは祝福への入り口、門だと知って下さい。第二テモテ四章三節から四節に、

『というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。』

とあります。みことばを自分の都合の良いように解釈していませんか。「これは良い。この御言葉だ。」と一部分だけを見てませんか?第二ペテロ一章二十一節に

『それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。』

とあります。私的解釈して都合の良いこと、自分の生活にみことばをあわせるようなことがあってはなりません。みことばに私たちの生活を百パーセントあわせることが必要です。ここには「空想話にそれていくような時代だ」とあります。神の声を聞きましょう。みことばを付け足したり、はぶくことは恐ろしいことです。祝福をもらい損なうだけでなく、さばかれてしまいます。また数年前に与えられたみことばに、ルカの福音書二章二十七節からの御言葉があります。

『彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。』

とあります。「彼が御霊に感じて」という御言葉です。イエス・キリストが生まれて、宮にささげるため、マリヤとヨセフがイエスを連れてきました。そこに年老いたシメオンという人がいました。彼は「救い主を見ない限り死なない」という預言を受けていました。その方が御霊に感じて宮に入ってきました。お年寄りですのでゆっくりと歩き、時間がかかったと思います。しかしちょうどタイミング良く、宮の回廊でイエス様を見ることができました。イエス様を祝福することができました。彼は御霊に感じたとあります。私たちも、上からの油注ぎを更に頂き、御霊に感じることができるように祈りたいとおもいます。時を支配する神様です。彼が一分でも三十秒でも遅かったら、会うことはできませんでした。「今、このようにしなさい」と時を神は語ります。時にかなって美しい祈りをささげようではありませんか。御霊に感じさせて下さいと祈っていきたいと思います。ルカの十章四十二節に、

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』

とあります。このみことばはマリヤとマルタの家にイエス様が訪れた時のことです。姉であるマルタは、イエス様をもてなすために一生懸命給仕していました。しかし妹マリヤはイエス様の足もとに座り、御言葉に聞きいっていました。その時、姉マルタはイエス様に、妹マリヤが給仕を手伝うように言ってほしいと言ったのです。その時イエスは「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」とマルタに答えました。別に給仕することが悪いのではありません。しかしみことばはそれ以上に大事なこと、日常生活より大事だと教えています。神はいつでも、どこでも「耳のある者は聞きなさい」と語っています。主婦であれば、一番忙しい家事をしている時、学生ならば授業中、また会社にお勤めの方は仕事中語られるかも知れません。自分の意識からイエス様を除外している時に語られるかも知れません。しかしいつ神の語られる時かわかりません。マタイ一章二十三節に、

『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』

このみことばをよく見てください。「インマヌエル」とあります。インマヌエルとは「神が私たちとともにおられる」という意味です。あなたから遠くにいる神様ではありません。時々訪れる神でもありません。常にともいて下さる神です。あなたと四六時中ともにいて下さいます。あなたがどんなに忙しくても、神様を忘れてしまっていても、いつもともにいて下さり、神様が声を出してくださっていることを覚えてください。ヨハネ十五章十六節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』

とあります。今日あなたをイエス様が選んでくださいました。あなたを任命し、かだらの一つの器官として、役割を任命して下さり、託して下さり、神がいつもともにいて語ってくださいます。耳を開いてください。羊という動物は羊飼いの言うことを聞きます。羊は臆病な動物だと聞いています。有名な詩篇二十三篇には、

『主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

羊飼いと羊の関係を知って下さい。羊は羊飼いに守られ、羊飼いただ付きしたがっているだけです。羊は明日の食事を心配することはありません。心配するのは羊飼いです。どんな危ない場所であっても羊はどんな場所なのかは知らなくて良いのです。死の影の谷を歩くことがあってもわざわいを恐れないとあります。私たちが危険に会いそうな、身震いするような状況にあっても、心配し助けてくれるのは神。私たちはただどんな場所でも楽しく過ごせばよいのです。「あなたは私たちのために食事を整え、油を注いでくださいます」どんなにサタンの攻撃があったとしても、どのように攻撃してくるか等考えて対応するのは、羊飼いです。しかし私は駄目だ、自分は力がないと心が騒いでしまいます。一緒に祈ってくれる人がいないと不安で、恐怖です。しかしいつでもどんなときにも神はあなたとともにいてくださる神様だとわかれば、私たちは羊で神が羊飼いと分かれば、羊の言うことだけに耳を貸せばよいのです。羊飼いは全能なる神様であり、勝利者です。「私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」とあるように、私たちが生きている限りいつくしみと恵みがおってくる。恵みが追いかけて来るほどの祝福だというのです。口で告白することも必要です。御言葉を「イエス・キリスト名前によって宣言します」と声を出して読み上げてみてください。それが「霊的戦い」です。あなたが御言葉の剣を告白したら、振り上げたら、関節と骨髄の分かれ目さえもさし通すことができます。見えなかったところ、動かなかったところ、堅く閉ざされたところが勝利することができます。人生は一度しかありません。その中でアクマに邪魔されながら、悲しみの人生を送る必要はありません。「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」恵みが常に追ってくるというのです。私たちが今日信じている神様は、最高の祝福を下さる神です。今日既にハワイリバイバルミッションの決起大会と各打ち合わせのために、滝元明牧師と岡本信弘先生が出かけています。出発前に「スーツを持って行った方が良いか」と話し合っていました。向こうはアロファシャツが公式な服装なのでいらないのではないかと話しながら思いました。名古屋のセントレアからハワイに出かけましたが、先生方はハワイリバイバルミッションのために、どんな打ち合わせをしたらよいのか?何をしなければならないかなど話し合いながら出かけていったことだと思います。しかし隣りでは始めての海外旅行で、期待に胸踊らせていると思います。何を何を食べようか?どんな買い物をするのか?おみやげは誰に買おうか?等々ワクワクしながらハワイに行きます。同じ所に行くのに、片方は仕事、片方はバカンス。行く気持ちも、心の状態も全く違います。人生は旅にたとえられます。人生は片道切符です。あなたはイエス様という最高の権威をもって、ファストクラスに座りながら、ゆっくり乗る事ができます。しかし今は満員のエコノミーシートの中で、隣は大柄の人が座り、それに加えてあなたは荷物を沢山ひざの上に置いて旅しているような窮屈な状況かも知れません。しかし今日神様に期待しましょう。「耳のある者は聞きなさい」あなたが神様の言うことを聞きつつ生活できたのなら、神様は最高の祝福をくださるどころか、恵みが追ってきます。今日神の声を聞き、神の権威を信じていくならば、もっと素晴らしいポジション、三十倍、六十倍、百倍の祝福を頂くことができます。今日どんな時でも神の声を聞くことのできる、耳が開かれるように祈りましょう。お祈りします。


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