暗闇から光に

2006.10.22(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

使徒の働き 26章18節
それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

 ハレルヤ! 心から主を賛美します。皆さんのお祈りに支えられ、健康で主の奉仕ができることを感謝します。だんだん朝晩、涼しくなってきました。風邪をひきやすい時期なので、皆さん健康には気をつけてください。

 今日はゴスペルランチです。今、スタッフたちが昼の食事の準備をしていますので、皆さんはゆっくりとここで話を聞いて、おいしい食事を食べて、楽しんでいってください。

 今日は初めての方にもわかりやすく聖書の御言葉を話したいと思います。初めに使徒の働き二十六章十八節をお読みします。

『それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 先週、私はハワイに行っていました。六日間も留守をするので仕事関係の人に「一週間ほど海外に行くので、メールや電話にすぐに対応できません」と連絡をしました。「どこに行くのか」と聞かれ、「ハワイだ」と言うと、誰もが「いいですね〜」と言いました。皆さんは、ハワイでのんびりしてくるのかと思っておられるようですが、「仕事ですから・・・」と説明し、出かけていきました。

 私は以前にも一度ハワイに行ったことがあります。それは、二十二年前のことです。ハワイに行ってからすぐ耳下腺炎になり、四十度の熱を出し、何日も寝込んでしまい、どこにも行かれませんでした。唯一、帰る前日に魚と一緒に泳げるというとても綺麗な海にみんなで泳ぎに行きました。まだ私の顔は、かなり腫れ上がっていましたが、熱が少し下がったので大丈夫だと思い、泳いでしまいました。そうしたら、再び熱が上がり、帰りの飛行機の中で熱にうなされながら、その上、下痢になってずっとトイレに入っていたという有様でした。ですから、ハワイにはいい思い出がありません。今回ハワイに行くことを告げると、そのことを知っている人からは、「先生がハワイに行くと、ろくな事がないからね。気をつけて…」と言われました。その言葉の通りというわけではありませんが、私は貴重な体験をしました。

 今回私がハワイに行ったのは、来年行われるハワイミッションの総決起大会がマキキ教会という日本のお城をかたどった教会で行われることになっていて、その決起大会に出席すると同時に、本大会のための準備と話し合いのためにでした。

 十月十五日、総決起大会当日、現地時間で朝七時十五分頃、ベットの上でくつろいでいると、突然グラグラッと揺れを感じました。私は明先生と同室でしたので、「明先生、揺れてるよ」と言いますと、明先生は窓から外を見て言いました。「みんな外に出ているよ。パジャマの人もいる。あっ、裸足の人もいる」。日本は地震が多いので、大して驚きもしませんでしたが、ハワイではほとんど大きな地震は起こらないようで、ビックリして飛び出す人が大勢いました。

 震源地はハワイ島でした。そこではかなりの揺れがあり、たくさんの家がつぶれたことが報道されていました。ニュースを見た仕事関係の方から「大丈夫ですか」と、わざわざ心配して電話がかかってきました。しかし、私たちがいたのはオワフ島で、震度も四くらいだったので、たいした被害はありませんでした。シドニーに行っていた河合正博くんの家族が今マウイ島に住んでいます。彼らは決起大会の前日にオワフ島に来てくださり、近くのホテルに泊まっていたのですが、地震後「先生、大丈夫ですか。僕たち家族は、みんな外に飛び出しましたけど・・・」と電話がありました。彼らにとっても、地震は久しぶりで、結構あわてたようです。

 たいした地震ではなかったのですが、トイレに入ると電気がつかない、顔を洗おうとしてもお湯が出ないのに気づきました。地震のために、全島の電気がストップしてしまったのです。日本ならばすぐに復旧がされますが、現地に長年住んでおられる先生が「この五十年の内に地震の揺れを感じたのは三回だけだ。しかも、こんなに大きな地震は初めてだ」と言われたほど、滅多に地震がないハワイでは、対応がされていなくて、なかなか復旧されず、いろいろなところに影響が出ていました。だからみんなパニックしていました。

 その日は日曜日だったので、まずは礼拝に行きました。教会に行くと、もちろん電気がつきませんから、ロウソクを立てて薄暗いところで礼拝をしました。ちょっと異様な雰囲気でした。

 総決起大会は午後からだったのですが、大丈夫だろうかと心配しました。日本では、電気がついたと報道されていたようですが、実際には決起大会の間も、電気はつきませんでした。ある人は、行きたいけれど、ガレージのシャッターが下りたままで上がらないから車を出せなくて行かれないとか、高層マンションに住んでいるお年寄りは、エレベーターが止まっていて下に行くことができないと連絡を下さいました(私たちの部屋もホテルの十二階でしたので、エレベーターが止まって動かなくて、真っ暗な非常階段を降りていきました)。また、信号機もついていないので、交通が麻痺していて、外出禁止令も出されました。そんな状況の中でも、多くの方が犠牲を払って決起大会に来てくださいました。ロンさんも来てくださり、音源もなかったのですが、サックス一本で素晴らしい演奏をしてくださいました。どうなることかと心配しましたが、集まってくださった方達が心を一つにし、共に賛美し、日本のために、またハワイのために祈ることができて、とても恵まれた集会となりました。

 ハワイミッションは、来年の十月十九日から二十一日までと決定しました。これから色々な準備をしていきますので、ぜひ皆さんにも今から祈っていただき、実際に行っていただきたいと思います。

 集会は五時に終わり、食事をしようということになりましたが、停電で近くの店は全部閉まっていました。島の西の方は電気が回復したということを聞いて、そちらに行ってみることにしました。しかし、考えることはみな同じで、多くの人が西を目指していたので車は渋滞し、どこの店も表に人が並んでいる状況でした。向こうで有名なABCストアーというコンビニも、入るのにセキュリティーチェックがあり、一人ずつしか入れませんし、買い物の計算も電卓しかないので時間がかかり、長蛇の列ができていました。マクドナルドもすごい混雑ぶりでした。なおしばらく走っていくうちに、やっと電気が通うようになり、私たちは美味しい日本食レストランで食べることができました。電気のある生活が当たり前のようになっていますが、こんなにも電気がない生活が不便で、どんなに大きい影響があるのかを思い知りました。

 そんなこんなで、今回も、一度もビーチに行くことなく、遠くに海を見ただけで、観光地にも行くことなく、最後の日に少しだけ買い物をしただけで忙しい毎日でしたが、良い打ち合わせもでき、フルに四日間働いてやるべきことはすべて終えて帰ってくることができました。体調も万全で時差ぼけもすることがなく、楽しく行ってくることができたのも、皆さんのお祈りのお陰と思い、感謝いたします。

 日本は豊かな国になりました。この新城にも数年前にコンビニエンスストアーができ、お腹が空いたと思えばすぐに買いに行くことができます。私たちは物理的には恵まれ、飽食の時代に生きています。

 しかし、一方で、毎日のように殺人や強盗、いじめや飲酒運転など、昔はなかったような、悲惨な、暗いニュースが流れてきます。多くの人は不安を覚え、それらに押しつぶされて自殺者が三万人以上にも上ると言われています。国内だけでなく、北朝鮮の核問題、テロの恐怖、地球温暖化など、世界的にも様々な問題が山積しており、まさに暗黒の時代と言えるかもしれません。聖書の記述と照らし合わせても、世の終わり、終末の時代が近いのではないかと思わされます。

 先ほどお話ししたように、突然の地震による思いもかけない停電で、ずいぶんと人間が作り上げたシステムがもろいものか、思い知らされました。人生においても、停電のように、突然、思いがけない災難、災害があなたにも襲ってくるかもしれません。そんな思いがけない事態に、あなたは備えがありますか?

 私たちはつい、目に見えるものだけに目を留めがちですが、見えるものは時代の流れとともに移り変わっていきます。どんな流行も変わっていきます。確かなものは何もありません。

 聖書に、『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント四章十八節)という箇所がありますが、目に見えるものだけに目を留めることがどんなにむなしいことかを、ヨブという人の人生から見ることができます。

 彼には十人の子どもがおり、羊が七千頭、ラクダが三千頭、牛五百くびき、雌ロバ五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた、その地方でも有数の大富豪でした。また、彼は神様を恐れ、その信仰は神様に認められるほどでした。そんなヨブのことを、サタンが地を行き巡って神様の所に来たとき、神様は、「わたしのしもべヨブを見たか。素晴らしいしもべだろう。あんなに祝福され、神を恐れて素晴らしいだろう」と自慢しました。サタンは、「ヨブのように、あれだけたくさんのものが与えられて豊かにされていたら誰だって神様に従いますよ。でも、彼のすべての持ち物を奪ったなら、きっとあなたに向かって呪うに違いありません」と答えました。神様は、ヨブの命を取ってはならないが、それ以外のことは何をしてもよいと、ヨブをサタンの手に任せました。そこでサタンは、彼の子ども、家畜、家、すべてを奪っただけでなく、ヨブ自身に病気を与えました。今まで、自分は主を愛し、物質的にも祝福され、何でもできると思っていたヨブは、すべてを失った中で、どん底を味わい、人は無力で、何もできない罪だらけの者であることを初めて知りました。苦しみの中で、ヨブは自分の弱さを認め、もう一度主を見上げ、主に頼ったときに、彼はそれまでの二倍の祝福をいただいたことを見ることができます。

 人は生きる中で、神なんか必要ないと思っておられるかもしれません。しかし、時に神を求めたくなるときがあると思います。

 ある本にクリスチャンの船長の話が載っていました。その人は何十年も航海をし、どんな状況にも冷静に対応できる、みんなに信頼されるベテラン船長でした。海に出ると何が起こるかわかりません。年に一度か二度は、もう駄目かもしれない、もう死ぬかもしれないと思うような嵐や、出来事に遭遇するようなときがあるそうです。自然の前では人間は無力です。そんなときにはすべてを主の手に委ねるしかありません。死を覚悟するような事態が起きても、彼は心の中で主に祈り続けていると書かれていました。

 バルネイという頭の良い、知恵ある有名な学者がいました。彼は無神論者でした。あるとき、彼は故郷を離れて船旅をしました。嵐に遭い、暴風に見舞われました。もう死ぬかもしれないと覚悟したときに、「神様、助けてください」と大声で叫びました。彼が唱える無神論を信望している人たちがそれを聞き、「バルネイの無神論は、丘の上では通用するが、海の上では通用しない」と言い、その噂が町全体に広がったそうです。

 自分の力で生きている、自分の人生は自分で切り開いくものだ。また、努力したら何でも叶えられる、と信じて頑張っている人も大勢いると思います。確かに、努力して勝ち取ることのできることもたくさんあります。でも、仕事に失敗し、落胆し、将来に不安を覚えるとき、人間関係に悩み、苦しんでいるとき、生きていても仕方がないと自暴自棄になったとき、自分では解決できないような困難に直面したとき、人は神を求めるものではないでしょうか。皆さんはどうでしょうか。

 私たちにそんな暗やみをもたらすものは何でしょう。聖書には、それは「あなたの罪だ」と教えています。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・』(ローマ書三章二十三節)

 私たちは神によって造られ、神によって生かされているにもかかわらず、そのまことの神を神として認めることをしないという大きな罪によって、神様の栄誉を受けることはできないと聖書が教えています。

 ここにいる人の中で、私は一度も罪を犯したことがないという人はいないと思います。一+一=二というのは、小学生の誰もが知っています。しかし人を憎むこと、偽りを言うことは誰に教わらなくても知っています。たとえジャングルで育った子で、何も教えられていなくても、嘘をつくことでしょう。それは、人から教えられるものではなく、私たちの心にある原罪という罪の種があるからです。それにより、罪を重ね続けてしまうのです。また、人の背後に働いて、私たちに罪を犯させるものがいます。それがサタンです。サタンは、常にあなたの幸せ、祝福を奪い去ろうとしてつけ狙っています。私たちの人生を、暗やみに引きずり込もうとします。

 皆さんは真っ暗闇を体験したことがありますか。昔は八時くらいになるとこの辺りも真っ暗でした。昔はランプで過ごしていたような時代もあったようですが、今では、どこにでも電気があり、夜でも光があります。しかし、山の方へ行くとやっぱり暗いです。以前、夜、県民の森に行ったことがありますが、月も星も出ていなかったので真っ暗で、側溝にはまってしまったことがあります。懐中電灯を持っていたなら安心して歩けたのに、真っ暗な道は本当に不安です。

 人生も同じです。光がなければ、行くべき道もわからず、不安ばかりで心がふさがれます。しかし、まことの神様は、私たちの光となり、人生を導いてくださるお方です。

『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』(ヨハネ八章十二節)

 イエス様は「わたしは世の光です」と言われました。私たちがどんな暗やみを歩いていても、光なる神様が私たちとともにいてくださり、私たちがイエス様に従うならば、闇の中を決して歩むことがないと約束してくださっているのです。

 子どもは時として遊びに夢中になってしまうものです。しかし、ふと気付いたとき、親が近くにいないと途端に、不安になり、遊びどころではなくなってしまうのです。子どもにとっては親が近くにいることが安心であり、おもちゃよりも遊びよりももっと重要なのです。

 私たち一人一人の人生も同じです。私たちは自分で生きていけると思っているかもしれません。夢中でがむしゃらに頑張っているときはいいかもしれませんが、それがうまくいかなくなったとき、挫折したとき、あなたは信頼できる、安心を与えてくださる方を知っているでしょうか。私たちを生かしてくださっている神様は、いつも私たちのかたわらにいてくださり、私を助け、私に恵みを与えてくださいます。そのことを知っているなら、平安な人生を送ることができるのです。

『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ローマ書三章二十四節)

 そして、神様は私たちに代償を求める方ではなく、ただイエス様を信じるだけで値なしに義としてくださり、罪のない者としてくださるのです。また、この世で罪を赦し、平安を与えてくださるだけでなく、御国を受け継がせる者としてくださると約束してくださっています。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ三章十六節)

 神様は愛するひとり子イエス・キリストを十字架にかけてくださるほどに、あなたを、私を愛してくださいました。その十字架の死によって、私たちは生きる者とされました。私たちがただそのことを信じるならば、滅びることなく、永遠のいのちを与えられ、天国に行く者としてくださると約束されています。

 初めに読んだ御言葉の通り、イエス・キリストはあなたの心の暗やみに光を差し込んでくださり、あなたの行くべき道を示してくださいます。神様は今も生きて、働いておられます。そして何よりもあなたを愛しておられます。このイエス・キリスト、真の神様を信じて、神様と共に歩むなら、暗やみから光へと移してくださり、御国を受け継ぐものとして生かしていただけるのです。そのことを多くのクリスチャンたちが体験しています。

 みなさんに、神様の恵みと祝福があるようにお祈りします。


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