「神が備えられた時の中を歩もう」

2006.10.29(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 エペソ人への手紙2章10節
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 ハレルヤ!おはようございます。久しぶりに新城教会で奉仕ができることを、心から感謝します。皆さんにお祈りいただき、二週間ほど、アメリカで奉仕させていただきましたが、このように無事、元気に帰ることができて感謝します。日本に帰ってきたら、柿が売り出されていたので驚きました。
 私は二週間、アメリカで奉仕しました。その内、一週間は新城の兄姉姉妹も一緒で、ジョー先生たちと共に、とりなしの祈りに行ったり、交わりを持ったりと、大変有意義なひとときでした。午後からは、アメリカのレポートをさせていただきたいと思います。

 今日はエペソ二章十節から学びます。三週間前のメッセージでも、この御言葉を引用しましたが、私の気に入っている御言葉でもあります。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 私たちは神の作品です。製品ではありません。作品とは作者が一点一点、心を込めて制作したものです。ここにおられる一人ひとりは、顔も形も性格も皆違いますが、神の作品だからです。神の作品に出来損ないはありません。神様は完璧なものとして、私たちを造ってくださっています。
 さらに、私たちが神の作品というだけではなく、そこに付随する、すべてが神の作品であると言うことを、最近教えられています。私たちが過ごす時代、空間、日々の出会い、その他、諸々の人生にまつわる事柄のすべてが、神の作品であり、私たちは、神の作品の中を生きるのです。神は、人生にまつわるすべての時間、空間、プロセスも含め、良い行ないを「あらかじめ備えて」くださっています。私たちは幸せを求めていますが、真の幸せとは、「神があらかじめ備えた時の中に生きること」が原点だと思います。
 エペソ二章一節から五節、

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――』

 イエス・キリストを信じる以前は、勝手気ままに、心の欲するままに生きており、それを自由としていました。ある人は教会に来て、「色々な規制があって不自由だ」と言います。「クリスチャンになると、やりたいこともできなくなってしまう」と思う人もいるかも知れません。
 しかし、自分の心の欲するまま、肉の欲するままに生きることは、自分で選択し、生きているかのように思うかも知れませんが、聖書は次のように指摘しています。

『空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』

 自分の肉の欲するままに、心の望むままに生きているということは、自分で選択しているようですが、実は、「霊に操られていた」ということです。これは、悪魔・悪霊どもに操られていたということです。ですから、自分では自由に歩んでいるかのように見えますが、実は、それが一番大きな不自由なのです。
 今回、ヤキマ・バリー・フェロシップ教会の中高生会で奉仕しました。そこの中高生たちはとても燃えていました。しかし、アメリカの公立中高校の状況を聞いて驚きました。もう一つの教会の牧師が、「今は公立学校には子どもたちを入れられない」と嘆いていました。それは、ほとんどの高校生が薬をやっているというのです。それは普通の薬ではなく、ドラッグと言われる麻薬です。教室の中にドラッグが蔓延していて、どこでも手に入る事が出来るというのです。
 一人のお母さんが来て、「息子のために祈ってください。麻薬中毒になっています。どうにもなりません」と言われました。初めはドラッグが人生に自由をもたらすかのように考えて、うっかり手を出すのでしょうが、実は、その背後にドラッグを通して悪魔が働いているのです。やがて悪魔に捕まえられ、どうにもならない不自由な状況が起こってしまいます。
 しかし私たちがイエス様を信じるならば、そのような支配から解放され、真の自由を得ることができると話しました。
 イエス・キリストを信じると、罪から自由にされ、罪の背後で働く悪魔の力から自由にされるのです。その結果、真の祝福を受け取ることができるのです。ということは、神が元々創造してくださった良い行い、すなわち、「神があらかじめ備えてくださった時の中を歩む」ようになるのです。
 今週一週間のテーマとして、神が私たちのために用意してくださった、時の中に生きることができるように祈りたいと思います。

 時々神様は、私たちの計画とは、別の所で計画をお持ちです。自分ではうまくできなかったと思う所に、神の計画があり、神の計画が実現する場合があります。ですから、色々な祈りの課題とともに教会に来るとは思いますが、それらがすべて、神の計画と一致しているとは限りません。時々、祈っても聞かれないようなこともありますが、神が持っておられる計画は良いものであり、必ず、良いものを与えてくださると知るべきです。
 今朝も、賛美の中で「主を恐れよ」とありましたが、初めて教会に来られた方は、それを聞いて、「神様は恐ろしい存在か」と思ったかも知れません。それは「畏敬の念を持つ」ということです。神様を尊敬するという意味です。やたらに、恐がるのではなく、神様は私たちにとても大きな、良い計画を持っておられるので、そのことに関して畏敬の念を持つのです。

 時々、神は、私たちが考えもしない計画をお持ちです。自分自身の思いがうまく通るか、通らないかわかりませんが、そんな中にも、すべて神のご計画があることを認めて歩んだら良いのです。
 皆様も日々、大変忙しく生活しておられると思いますが、私も、この秋は大変忙しく、目まぐるしい毎日を送っています。使っていただいているときが花なので、感謝しています。
 先週、火曜日にアメリカから帰り、翌日、水曜主日礼拝を終えて、群馬県で奉仕しました。群馬の奉仕を終えて、遅くなったので東京に住んでいる、息子の家に泊めてもらいました。
 すると彼が、「この近くに、日本一美味しいラーメン屋がある。それを食べたら、ラーメンの世界が変わる」と言いました。私は以前からそのことを聞いていましたので、そのラーメンをぜひ食べてみたいと思いました。翌日は、夕方までに名古屋の「ざわめき・ワーシップシャウト」に行けば良かったので、ラーメンを食べてから名古屋に移動しようと思いました。
 そこはかなりマニアックな店で、午前中に六食ぐらいしか作らないようです。それも注文があると、全部一つずつ手作りで、一つが完全に終わらないと、次のラーメンに取りかからないというものでした。十一時半に開店するから、少し早めに行かないとあり付けないと言われ、わたしと家内と息子夫妻の四人で、出かけていきました。
 店に着くと、なんと先客がいました。そして、何とあと三食しかないと言われました。私はたいへんがっかりしました。そこで、誰が食べるのを止めるかということになりました。しかし、息子の仕事の時間も迫っていたので、今回は全員あきらめるということになり、駅まで送ってもらいました。
 ふてくされて、ぶらぶらと歩いていると、後ろから突然、「順先生!」と言う声がしました。「何だろう?」と振り向くと、広い東京で、知り合いのご夫妻が立っていました。奥さんは、涙を流さんばかりに喜んで、家内に抱きつきました。
 そのご夫妻は、数ヶ月前に新城教会に来られ、色々な問題があり共に祈った方々でした。現在もなお、戦いの中にあって、ちょうどその日はすごく落ち込んで、昼ご飯も喉に通らないので、ご夫妻で散歩に出かけたようです。
 歩いていると、なんと、私たちに出会ったのです。彼らは「祈ってください!」と言われました。それで、私たちは彼らのために真剣に祈ることができました。
 彼らは、「これは神様の計画だ!!」と言って、手放しに喜んでおられました。しかし私は、ラーメンを食べられなかったという悔しさが残りました。けれども、あそこでラーメンを食べていたら、彼らのために祈ることはできませんでした。神の時は不思議なものです。

 時々、自分たちの思いとは、全く違った方向に展開していきますが、そこに神の時があるのです。今週、そのような場合があったとしても、この話を思い出してくださり、神は更に良いものを用意してくださると期待してください。
 神の時とは、自分を楽しませるというよりも、「誰かの益となるため」に備えられているのです。
 クリスチャンになると、これまで考えてみなかった法則を身につけることができます。それは、「受けるよりも、与えるほうが幸いです」という法則です。
 この世の法則は、一円でも多く儲けた方が勝ちだという法則ですが、霊的な世界の法則は、自分が受けるためではなく、「与える時に祝福が注がれる」というものです。
 クリスチャンになったら、与えることに目が開かれなければなりません。ある意味で、礼拝の時間も神にささげる時間です。礼拝は自分のためではなく、神のために時間を使う事です。また、礼拝後、献金がありますが、献金は与えることです。そのことを通して、宣教が進み、多くの人が救われます。
 新城教会には、このように、ゆったりとした会堂があり、教育館も、カフェもあります。施設が整えられています。気がついたら、このように整っていました。べつに一生懸命計画したわけではありませんが、こうなっていました。それは、先に救われた方々が真剣に祈り、支えてくださったからです。最初に救われた人たちがケチで、「絶対に献金なんかしない」と言っていたらどうでしょうか。多くの人が教会に来ることはできなかったかも知れません。「与える」という祝福を理解していたがゆえに、このように会堂も建ちました。
 ですからクリスチャンになったら、「受けるよりも与えるほうが幸い」という言葉を受け止めなければ幸せになれません。また、神が備えられたものは、自分のためではなく、誰かの益となる事柄を用意されているのです。
 ですから、「神の備えられた時を歩もう」とは、自分だけではなく、誰かのためです。しかしそれが、結果的に自分自身の祝福に還元されます。人の祝福が自分を富ますという原則があります。

 「時」という概念の中、私たちは一秒一秒を刻んで生きています。新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、ギリシャ語の「時」の概念には二つあります。一つは「クロノス」という概念であり、それは継続した時の流れを表わす言葉です。
 もう一つは「カイロス」という言葉です。この言葉は、連続した時の流れの中にあって、ある瞬間に起こる、「特定の時」を意味します。
 特に「神の備えられた時の中を歩もう」という、この「時」とは、クロノス的な連続的時間に訪れる、瞬間的な「神の時」と呼ぶことが出来ます。それが「カイロス」です。カイロスに生きるならば、私たちは良い行いに歩むことができ、神が用意した良い人生を歩むことができます。
 今週、皆さんに神様はクロノス的時間とともに、神の時である「カイロス」をもたらそうとされています。それは、私たちの考えとは全く違った方法でやってきます。東京のど真ん中で出会ったご夫妻にとっては、「カイロス」でした。しかし私にとっては、ラーメンを食べ損ねた時間の延長でした。しかし、お客さんが一人少なかったら食べていたのです。これらはすべて神の計らいです。神のカイロスとは、距離と空間を超えて訪れるものです。

 旧約聖書の中から、その例を見てみたいと思います。旧約聖書中に「ヨナ書」があります。ヨナ書のストーリーで、神のカイロスと、そのカイロスに従ったときの現実と、従わない現実を見ることが出来ます。ヨナ書一章一節から三節、

『アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。』

 「ニネベ」はアッシリアの主要な都市であり、ヨナが住んでいたイスラエルからは何千キロも北に位置した街でした。距離的には大きく離れている状況下二カ所に、同時に起こった出来事です。
 ある日、ヨナという人物に、神から声がかかりました。ヨナは、イエス様が育ったナザレの近くに住んでいたと言われています。ヨナは普通に生活をしていましたが、突然、神が彼に語り始めました。

『「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」』

 ニネベは偶像礼拝の町でした。そこでは日々、偶像礼拝が繰り返され、多くの犯罪や汚れがあり、神の前に悪が増大していました。
 今、日本や世界の都市においては、多くの問題があります。色々な街々に行って感じることは、「神はよくこのまま放っておかれる」と思います。あまりにも悪が増大している現状があります。犯罪があり、殺戮があります。神は人間が心の欲するままに、肉の欲するままに歩むことを、ある意味、放っておかれる時代があります。
 しかし神の前には、人間の罪の目盛りがあり、それがある一定まで達すると、「カイロス」が来ます。それはさばきのカイロスです。神はきよい神ですから、悪を放っておかれません。人間が思いのまま、肉の欲するままに生きても、ある程度までやることができますが、やがて神の時がやってくると教えています。日本も罪を悔い改めなければ、やがてカイロスが来ます。大きなさばきの時が来るのかも知れません。だから私たちは、それが止められるように、祈らなければなりません。
 しかし、神は愛なるお方なので、むやみやたらに裁かれません。さばきの瞬間が、救いのカイロスでもあります。
 その時に遣わされたのが、ヨナでした。神はヨナに声をかけて、「あの大きなニネベに行って叫びなさい。」と語りました。しかし、ヨナはそのようなカイロスを迎えていたのにも関わらず、神の声に従うことができませんでした。彼は神の声に背を向けて、ヨッパという港町から、船でタルシュシへ逃げていきました。
 すると地中海の真ん中で大嵐になって、ヨナは海に放り出され、大きな魚に飲み込まれて、あわや死ぬ寸前まで行きました。
 ヨナが神の御心に反した行動の背景には、自国を愛する民族的な要因がありました。当時、アッシリアは世界を制覇していた国でした。イスラエルにもアッシリアの危機が迫っていたのです。ヨナはアッシリアに占領されてしまう位なら、「あんな街は滅びてしまえば良い…」と考え、そのような行動を取ったと推測されます。
 しかしそんな罪深いアッシリアの町ニネベをも、助けたいと願っておられました。それで、ヨナをニネベに遣わそうとされました。しかし、ヨナはそれに応じませんでした。その結果、ヨナは大きな試練に遭いました。

 時々人生には試練があります。しかし試練は、私たちを単に苦しめるためではなく、試練を受ける理由があるとともに、それが決して無駄にならないで、神の時に引き戻す糸口になると教えています。
 近頃、教会に来られる方々の九十パーセント以上が、人生に色々な問題を感じて来られます。どこに持って行っても、どうにもならない状況で教会に来ます。ある意味で、魚に飲まれてしまったヨナと同じような状況で、教会に来る方が多いのです。
 しかしそんな試練の中、イエス・キリストを信じ、今度は神の時・カイロスを捕まえるのです。それをきっかけに、人生が軌道修正され、神の時に生きるようになるのです。色々な試練があっても、神はそれを無駄にはされません。必ず、神の良いご計画の中に引き戻すために、用いられるのです。
 神は良い計画を持っておられます。辛い試練にある方も、神はそのことを用いて、すべてを益としてくださるという、霊的な法則を知るべきです。ヨナは辛い試練によって、神のカイロスに引き戻されました。
 ヨナ書三章一節から五節に、

『再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。』

 ニネベにも神の時が訪れていました。それははさばきの時でしたが、もう一方では救いのカイロスでした。
 一方、ヨナにも神の時が訪れていました。ヨナが神の時に戻ったときに、ニネベに遣わされ、「四十日もするとこの町は滅ぼされてしまう!」と叫びました。すると、その言葉をニネベの人たちは受け入れ、神を信じて悔い改めました。
 その結果、四十日経ってもさばきは起こらず、ニネベは助かったのです。これはある意味で、神の時を捕まえることによって、多くの人が祝福された良い例です。
 クリスチャンは、ヨナと同じような使命を帯びた者たちです。神は私たちを呼び出して、「神の時の中を生きなさい」と言われます。神の時をつかんで歩むならば、自分自身も守られ、多くの人も変えられ、祝福を得ることができます。

 では、どうしたら神の時を知ることができるのでしょうか。「神の時」とは、言い換えれば、「天の御国」や「神の国」と同じ概念になります。神の時は、「神の国の現れ」です。私は、何度か、「神の国」というテーマで話しましたので、参考にしてください。
 新約聖書は、イエス様の働きについて記されており、そのテーマは、神の国の拡大です。また、旧約聖書から新約聖書までを「神の国」というキーワードで見ていくと、そこには、大きなテーマと奥義を含んでいます。神の国の現れは、神の時の瞬間的な現れだとイエス様は語られました。イエス様は「神の国、天の御国」について、色々な方向から、様々な例話を話されました。
 マタイ二十五章一節から三節、

『そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。』

 十人は灯火を持っていましたが、油を持っている人は五人しかいませんでした。そして六節から十三節、

『ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。』

 私たちは普段の生活の中で、どれが神の時であるかは知りません。私が東京でラーメンを食べ損なったのが、まさか神の時であるとは知りませんでした。しかし、結果的に、それが神の時であったことを知るのです。神の時に対応するために必要なのは、「ランプに油を持っている者たちだ」とイエス様は語られました。油を持っていた娘たちは、賢い娘たちと呼ばれ、「そら、花婿が来た出迎えよ…」という瞬間に、即、対応できました。ランプを持っていたが油を持っていなかった娘たちは、花婿が突然来たときに対応できなかったというストーリーから、「油を絶やしてはいけない」と教えています。
 私たちが常に、神が備えた時の中を歩む秘訣は、「これが神の時だ、この道を歩め」とわからないかも知れませんが、常に、油を持っていたら良いと教えています。油とは、「神の霊に支配される」ということです。それは「聖霊の油注ぎの中を生きていく」ということです。イエス・キリストを信じる以前は、自分の肉の欲するままに生きていました。それはこの世の支配者である、悪魔・悪霊によって支配されていたゆえに、自由と思って手を出したものが不自由でした。
 しかしイエス様を信じたら、今度は聖霊様によって支配されます。そうすると、気付かなくても、聖霊の支配があり、油があるゆえに、瞬間的に訪れる神の時に対応できるようになるのです。
 私たちは聖霊の満たしを受けることができます。神は三位一体の神様です。イエス様は救い主、父なる神様は神そのもの、しかし、助け主なる神は「聖霊様」です。それは三で一つのお方ですが、働きは違います。私たちの内に、聖霊ご自身の働きがあります。今、私たちは、イエス・キリストを信じて歩んでいますが、神の霊に支配されて歩んでいます。

 あなたは、神の霊に支配されて歩んでいるという実感がありますか。常にその事を意識する必要があります。「私は神の霊に支配されて生きているのだ」と。
 朝起きたら、「今日も神の霊によって私を支配してください」と祈ってください。神の霊によって支配されるとは、油を持っていることです。「そら、花婿が来た!」すなわち、「神の時が来た。対応しなさい」と言うときに、聖霊の支配があると対応できますが、聖霊の支配がないと対応できず、扉が閉められてしまいます。
 私たちは常に、聖霊に満たされることを求めなければなりません。聖霊の導きは、皆さんの人生の中で起こる、突然の神の時に対応させる力です。

 さて、この賢い娘と愚かな娘のストーリーに続く二十五章の後半、二十五章三十一節から三十四節に、

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』

とあります。これはやがて来る、世の終わりに現される御国について語られている箇所です。この世界は、やがて神の支配に委ねられる日が来ます。人々が自分勝手に生活をし、どうにもならなくなる時、神が歴史をストップされるのです。そして私たちは、やがて神の前に出て、評価を受ける日が来ます。そんな厳粛な神の時がやがて来ることを信じますか。
 今、世界は混沌としています。このままではどうにもなりません。神が「ここまで」と言われ、世界をリカバリーされる日がきます。その日、人間の評価が決まると教えています。ちょうど羊飼いが、羊と山羊を分けるように、人々を分けられるのです。それは神を信じるグループと、信じないグループです。イエス様を信じることは、素晴らしい恵みです。やがてこの世の終わりの日に、右側の羊グループに入ることができるからです。この地上では、すべてのことは教えられませんが、やがてわかる日が来ます。
 「よかった。イエス様を信じていて…」と思う日が来ます。それは、私たちがこの地上を去る日かも知れません。それとともに、世の終わりの日には、もっとはっきりします。「イエス様を信じていて良かった。私は、神の国に入ることができる」という、瞬間を迎えます。
 ですから、イエス・キリストを信じるとは、「永遠が変わる」という、大テーマがあります。しかしそれだけが全てで、ゴールのように思ってはいけません。この地上においても、神は私たちに、神の時を現されるからです。究極的な神の時は世の終わりに際してですが、そこに至るまでに、同じように神の時を現わし、人類を通して神の栄光を取り戻そうとされます。
 ですから、このストーリーは、私たちの人生に現される「神の時」と重ねて理解できます。二十五章三十五節から四十節、

『そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 五人の賢い娘たちは油を持っており、神の時に対応しました。同様に、私たちは神の時がいつか、どんなものかわかりませんが、聖霊に支配される人生は、知らずしてイエス様をもてなしたり、イエス様に食べさせたり、休ませたり、また見舞ったりしている、「神が用意された時」の中を生きるのです。
 以前、『靴屋のマルチン』の話をしたことがありますが、まだイエス様を知らない人々に自然に目が向き、結果的に、イエス様ご自身に奉仕することになるのです。それは、神の時の中を生きていることに他ならないのです。
 正しい者たち、右側により分けられた者たちは、自分が神の時の中を生きているとは知りませんでした。しかし彼らは、聖霊に満たされていたゆえに、その行動のすべてが、神の時の中にあったのです。
 聖霊に満たされて神の時に生きるならば、人生はどんなに豊かでしょうか。かつては肉の欲するままに生きていたかも知れません。しかし、イエス・キリストを信じることによって、神の霊の中を生きる素晴らしい人生です。
 あなたにも神の計画が備わっています。聖霊の油注ぎの中を生きていく時、知らないうちにそのような状況が起きていきます。

 先週私はワシントン州タコマの日本人教会で奉仕しました。そこは日本人教会でも特殊な教会で、近くに大きな軍事基地があり、多くの兵隊が住んでいます。その基地から、イラクやアフガニスタンに兵士たちが送られている最前線です。そして多くのアメリカ兵が、日本人妻をめとっています。沖縄に来て仲良くなり、日本人と結婚している方が多いのです。私たちは、このように平和に生きていますが、彼らにとってアフガニスタンやイラクの戦いは現実です。「今、最前線で戦っているので祈ってください」と言われました。そこでの集会はとても良い集会でした。
 その集会に、以前この教会にも来てくださった、綾子ビラップス先生が来てくださいました。彼女は少し病気でしたが、だいぶ元気になられました。彼女と出会うと、「順先生も変わったものよねぇ」と言われました。
 私は、今回、ヤキマとタコマの教会で奉仕しましたが、なぜ行くことになったかと言えば、二十年ほど前、ハワイから日本に帰る飛行機の中で斜め横に座った綾子先生と出会ったことに始まります。
 彼女は飛行機に乗る前日に、神様から語れました。「明日、一人の男性と機内で出会うでしょう。それは大きな事だから祈って準備しなさい」
 彼女は緊張して、どこにそんな素晴らしい神の人がいるだろうかと見渡しましたが、誰もいなかったそうです。しかし、しばらくすると、太平洋上で、一人の男性が聖書を開いて読み始めました。私は、飛行機に乗ったら、すぐに眠ってしまいますが、その日に限って、一時間、二時間と聖書を読んでいました。当時、私の廻りに色々な問題があり、心がしなえていて、眠ることもできずに、聖書を読んでいました。その瞬間に、神の時が訪れていました。
 何と、その出会いがきっかけで、ジョー先生とも出会い、今回、タコマの教会でも奉仕ができました。あの日、飛行機の中で聖書を読んでいて良かった、あの日が、神の時だったと思います。
 しかし私には、そんなことが起こるとは予想だにしませんでした。

 今回、彼女がこう語りました。「順先生、覚えていますか。あなたと最初に出会ったときに、神様が私に語ってくれました。順先生は、将来、霊的戦いのために、人々のために祈るようになる、と示されたので二十年前にあなたに言いました。その時、あなたはなんと答えたか、覚えていますか?」と言われました。
 「私は全く覚えていない。」と答えました。私はその時、こう答えたそうです。
 「私は、人のためには祈りますが、霊的戦いは嫌いだから、そんなことはやりません」
 私は、「本当?」と聞くと、「はい。はっきりと言いましたよ。」と言われました。
 なんと、今では、私は、そればかりだと言われるぐらいに変えられました。私も、神の時に支配されていたと感謝しました。不思議なものだと思いました。
 しかしそんな言葉を、私が発したことによって、悪い契約が結ばれていたらいけないと思い、断ち切る祈りもしました。
 神様が、私の人生にも神の時を用意し、今まで導いてくださったと感激しました。それは、私にだけではなく、全員が神の作品なので、皆、神の時を用意しておられます。それぞれ持ち場は違いますが、神の時を用意され、「神の時を生きてください!」と語りかけられています。神の時の中を生きましょう。そして、上からの聖霊の油注ぎをいただき、気付いたら神の時を生きていたという人生を送りたいと願います。

 今から聖餐式を行います。聖餐式は不思議です。これはイエス様のからだであり、また血です。イエス様のよみがえりを象徴しています。イエス様がよみがえられた時、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威を受け取った」と言われました。今日は、イエス様のいっさいの権威を共有し、聖霊様に支配されていたイエス様の人生を共有する意味合いを持った聖餐式です。

 「私たちを聖霊に満たしてください。神の霊の支配を与えてください。」と祈りましょう。賢い娘のように、神の時に対応しますように。また、今週は神の時を逃すことがなく、神の時をつかんだ歩みができますよう、祈りしましょう。


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