現実的信仰を持とう

2006.11.5(SUN)
新城教会副牧師 四元雅也師

新約聖書 ローマ人への手紙11章33節
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

ハレルヤ!去年の五月二十二日以来でこの場所に立ち、メッセージをさせていただけることを感謝します。十一月に入りましたが、いかがお過ごしでしょうか。二〇〇六年ももう年末近くになってしまいました。十一月と言えば今週の金曜日は夜七時からThe Callという第一青年会の集まりがあります。青年会では十月八日からこのための準備が始まり、山に祈りに行ったり、近隣の町々に出向いてとりなしの祈りをしています。私も十月十一日の夜7時から、何人かの兄姉と一緒に本宮山の頂上で祈りと賛美をしました。山に登る途中、ずっと霧が立ち込めており、頂上付近は一寸先も見えない霧の中でした。駐車場に車で入っていくのですが、入るところがわからずに通り過ぎてしまうほどでした。1時間ほどの賛美と祈りの中で最後に霧が晴れてきました。これはイエス様が霧を晴れさせて下さったと感じて、悪魔によって覆われているものが取り除かれ、人々がイエス様を見ることができるようにと祈ってきました。昨日もThe Callキャンプがあり、1青年の兄姉約20人ほどと一緒に県民の森に祈りに行きました。いつも祈祷会をしている広場で賛美と祈りをしてから、更に山頂に登って祈りました。とても恵まれた祈祷会でした。神様がThe Callに素晴らしいことをしてくださることを信じます。皆さんもお祈りし、また、ぜひお友達を誘ってお越し下さい。
 十月を振り返ると、マスコミを騒がした事件として、小学生、中学生など青少年の自殺というニュースが全国を駆けめぐりました。一つの事件をきっかけに連鎖し、後を追うような事件が次々と起こり社会に衝撃を与えました。新聞を見てもいじめに関する記事が毎日あり、現にいじめで苦しんでいる子どもたちに向けての励ましの便りなども紹介されています。それを見ると、多くの子どもたちが苦しんでおり、ある人は命を断ってしまいたいと葛藤しています。ニュースを耳にしたのがきっかけでその思いを実行に移してしまう子たちが多くいるという現実に、この問題が私たちの想像以上に根深いことを感じます。現代では子どもたちのそのような行動や、少年犯罪と呼ばれる事件をしばしば耳にするようになりました。その大きな要因の一つとして、バーチャルリアリティーやファンタジーという最近多く使われるようになった言葉があります。バーチャルリアリティーとは、コンピューターグラフィックなどの技術を用いて仮想空間を作り出し、あたかも実体があるかのように五感を通して擬似体験することです。ファンタジーとは、訳すと空想や幻想です。そして、バーチャルリアリティーとファンタジーが融合して異次元の空間など、実際にはない世界があたかも存在するかのように、自分がその中に入り込んでいるかのように錯覚するようなものが世に出回っています。ファンタジー・ホラー・SFといった映画やアニメ、ロールプレイング・シューティングといった家庭用ゲーム、出会い系サイト、アダルトサイトといったインターネットなど、これらの技術の発展と共にバーチャルな世界が増加し人々の心をとらえています。その中で子どもたちは現実の世界と空想の世界の区別が付かなくなっているのではないかと言われています。先日新聞を見ていたら、ある人の書いたコラムの中に「昔は子ども同士がけんかをしても相手が泣いたらそれで終わりでしたが、今の子どもたちはゲームのように死んでも生き返るという考え方があり、相手が泣いても血を流しても、死んでしまっても、ある意味気がつかないで行ってしまうという恐ろしい時代になっていると書かれていました。また同様に社会ではニートや不登校も問題になっており、その要因としてもバーチャルリアリティーやファンタジーが挙げられています。自分がしたいことがわからない、そして自分には何が向いていて何が不得意なのかということについても、情報が氾濫する社会の中であちらこちらに目がいってしまい、自分を見失ってしまっていると書かれていました。ある意味で情報が詰め込まれて情報で頭でっかちになっている状態が今の青少年ではないかと思います。私たちはこの時代にどの知識を受けて、何を拒絶していくか選択していかなくてはならないと、時代から要求されているように思います。子どもに見せるテレビやゲームを選択すること、また知識を得るときに人生の肥やしになる知識ならば良いのですが、そうでなければ得る必要がありませんので、取捨選択し有害なものを取り除いていく。それを知るためには、神様の知恵が必要であると思います。ローマ書十一章三十三節に、

『ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。』

とあります。今日はこの時間を通して、神様からの知識について考えていきたいと思います。そして皆さんが現代社会の中で信仰までも頭でっかちになっていたら、そこを神様によって解放していただく時になりますように。
ローマ書十一章全体を見ると、イエス様がこの地上に来られる以前は、救いは神様が直接選ばれたアブラハムを祖先に持つイスラエル民族だけに与えられ、他の人々には救いの道が啓示されないという考え方がありました。しかし、イエス様が来られて十字架による救いの道を現されました。この記事を書いたパウロは、ユダヤ教の考え方を持っていたので、そのことは全く新しい価値観でした。イスラエル人だけしか救われないと信じていたのが、イエス様が十字架にかかられたことによって、これから先はどんな人でも、国籍も言葉も問わず、アブラハムの直系でないということもいっさい関係なく、誰であってもイエス様を救い主として信じれば救われる。今信じて教会に来ている私たちには当たり前の恵みですが、パウロが聖書の中に書いたときには、それは何と測り知れない知識と知恵の富だと表現するほどに、驚くことであったと記しています。第一コリント一章十七節から二十四節に、

『キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。』

とあります。ここで強調されているのは、十字架の恵みによる救いは、神の知恵だということです。人間の知恵や能力ではありません。人は救われるために色々なことを考えます。修行や善行、鍛錬、知恵を吸収すること、また瞑想、悟りを得ることなどが救いにつながると考えます。しかし、人のそのような努力ではなく、十字架によってのみ、ただそれを信じることのみが救われる道だと聖書は教えています。今日もし神様をまだ信じていない方がここにおられましたら、イエス様が私たちに用意しておられる救いは、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった、そして私たちを罪から救って永遠のいのちに入る道を提示してくださった、それを信じるだけで救われるという神様の知恵が私たちに与えられるということを知ってください。
先日、我が家に大事件が起こりました。私は教会で勤めているので、色々な所に訪問に行ったり、とりなしの祈りに行かせていただく機会があります。先日、ある方と一緒にここから一時間ほど離れたところにお祈りに行きました。素晴らしい神様の恵みを実感する祈りでした。夕方になって、そろそろ新城へ帰ろうかという時間帯に家内から連絡が入りました。ところがその電話は不穏な雰囲気でした。家内は仕事を終え、保育園に次男と三男を迎えに行きました。家に帰ると、長男と長女も学校から帰っている時間です。玄関の鍵を開けてドアを開けようとするのですが、ドアが開かないのです。玄関のドアに内側からアームを倒して開かないようにするアームロックが掛かっているではありませんか。アームロックが掛かっているとドアは少しだけ開きますが、アームの長さ分しか開きません。何とそれが掛かっていました。家内は中に子どもたちがいるだろうと思い、子どもの名前を呼びました。しかし中の様子が変でした。家内は中に誰かがいるような気がしてパニック状態で電話をしてきたのです。「お勝手のドアの鍵を持っていない?中に誰かいるような気がする。でも呼んでも返事がしない」と言っているのです。そして電話の向こう側で子どもの名前をご近所に響き渡るような大声で呼び続けているのです。私も不審人物がいるのではないか、中で子どもが倒れているのではないかと悪い思いがいろいろ駆け巡り動揺しました。電話をしながら車内には一緒に祈りに来ている方が隣にいます。その人に悟られ心配をかけるわけにもいけない…と思いながら、返答に困っていました。そして電話の向こうでは家内が子どもの名前を呼び叫んでいます。それで私も黙っていました。帰るにも一時間かかるしどうしたら良いかと考え込んでしまいました。すると彼女も私に言っても解決がないと、電話を切ってしまいました。困ったことに私たち一行にはもう一カ所祈りに行く場所が残されていました。事情を話して帰った方が良いのかと考えました。またもしかしたら何でもないかも知れないとも考えていました。そのような状況の中で祈りました。これはどうしようもない、神様に頼るしかないというのが自分の中での唯一の選択肢でした。祈りながらもくもくと車を運転していました。30分ほどたって家内から電話があり、何とかして無理矢理ドアを開けて入ると誰もいなかった、盗まれた物もなかったと連絡がありました。どうやら中で人の気配がしたというのは家内の早とちりだったようです。少し安心しました。でも子どもたちはどこに行ったのだろうか、どこかに連れ去られてはいないだろうかなどと考えました。しかし、またしばらくして子どもたちが無事返ってきたと連絡がありました。私は胸をなで下ろしました。結局、何でもありませんでした。子どもたちはそれぞれ友達の家に遊びに行っていました。そしてアームロックは、長男の仕業でした。家を出るときには鍵を閉めていくようにと教えているのですが、玄関の鍵を出して締めるのが面倒くさいということで、何か細工をして外からアームロックを閉めて出て行ったということでした。家内は帰宅した時、聞こえるはずのない子どもの声を聞いたような気がして、家の外で何十分も下の子ども二人を見ながら、窓やらドアやら中に入ろうと必死になって家の周りをぐるぐる回っていたそうです。全部過ぎてしまえば笑い話ですが、私が思わされたのはいざという時の自分の無力さと、イエス様を信じる信仰を持っていて良かったということです。今回は一〜二時間ですべてが解決したので良いのですが、私たちの人生にはいつどんな不測の事態が起こるか誰もわかりません。事態に陥ったときに私たちは自分の無力さを感じます。今まで自分の力でやってきたと自負していたが、このことに関してはお手上げだ。どこにも助けを呼ぶこともできないという状況もあります。しかしそのような中で私は神様を信じ、頼ることができます。神様の恵みにより頼み、信仰によって自分自身を見失うことがなく保つことができることは素晴らしいと思いました。
イエス様は頭でっかちを望まれないと思います。自分の弱さを知って、「神様、あなたに信頼します。あなたの恵みを受け入れます」と幼子のように受け取ることを喜ばれます。第一コリント一章十八節から二十節に、

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。』

自分の力でどうしようもないと思う時は、学者であっても博士であっても権力があっても同じです。しかし、自分がどうにもできないときに私たちは神様にお頼りすることができます。一章二十五節から二十九節に、

『なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』

またルカの福音書十八章十五節から十七節に、

『イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」』

とあります。信仰は頭でっかちではなく、子どものように純粋で疑うことなく、へりくだったものに与えられる、神の国はそのような者たちのものであることを聖書は教えています。頭でっかちの信仰について考えました。

@計算づくの信仰…
損得勘定で信仰が左右する。
自分が得になることを好み、犠牲を払うことを嫌う、または拒む。
A自己中心な信仰…
御言葉を聞いて自分が都合の良い場合は信じ、そうでない場合は自分の考えを優先する。
自分の正しさを主張するために信仰を用いる。
隣人をさばき、中傷するために信仰を用いる。
B行いの伴わない信仰…
御言葉を知識としてのみ蓄えて実行しようとしない。
C信仰の伴わない行い…
形骸化し真実さを欠いた信仰生活

自分がいくつ当てはまるかをチェックしてみてください。イエス様がこの地上に来られたとき、もっとも反発し敵意を抱いたのはパリサイ人や律法学者たちでした。彼らは律法を守ることによって神様に受け入れられるということに強く固執していました。イエス様はそのようなパリサイ人や律法学者たちに強行に反対しました。この戒めを守れ、これをしてはならない、あれをしなければならないという戒めを、形式的に守ることがあたかも神様に服従しているかのような考え方を否定しました。本当に大切なものは、律法そのものではなく、律法を守ろうとする心であり、神様の前に真実に歩みたいという心や、神様に対しての誠実さや謙虚さの方が何倍も大切であると教えました。イエス様は律法の本当の価値を示されましたが、パリサイ人たちは頭でっかちであったため理解できませんでした。滝元順先生の書かれた『神の栄光を取り戻せ』という本の三五二ページに、ユダヤ教について霊的戦いの見地から書いているところがあります。その中に興味深いことが書かれています。旧約聖書の最後から新約聖書までの四百年間の空白な時代があり、その時代には色々な動乱がありました。その間にギリシャ帝国が世界的に繁栄し、ヘレニズム文化が花開き、その世界観がユダヤ教の中に入りました。本来ユダヤ教には一つのグループしかありませんでしたが、ヘレニズムが入ったことによって幾つかの教派ができました。それがパリサイ人やサドカイ人などでした。ヘリニズム文化とは、物事を色々な角度から詳細に分析し、一つ一つを抽象的に現わすものです。例えば、聖書の中に『安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ』という御言葉があります。パリサイ人はその御言葉を分析し『安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ』の意味は何だろうかと考えます。そしてその日は主を礼拝する日。その日は仕事をしてはいけない。だったらその日に歩いて良い距離はどこからどこまでだろうか。その日にして良い仕事、料理はしないと食べられないからしても良いが、野良仕事はしてはいけないなどと細かく決めていきました。それはヘレニズム文化の影響を受けて起こってきたことです。福音書を見ても、イエス様の弟子たちが道を歩いているときにひもじくなり、麦畑があったのでそこに入って穂を摘んで実を手で揉み出してはおやつ代わりに食べていました。それ自体は罪ではないと聖書に書かれていますが、それをしたのが安息日であったということでパリサイ人が怒りました。穂を手で揉み出して食べることは、脱穀に当たり、脱穀は野良仕事なのでしてはいけない。なぜあなたは安息日にしてはいけないことをするのだ。イエスよ、あなたの弟子たちは何ですか!と言いましたが、イエス様はパリサイ人たちを逆にしかりつけたという記事ですが、これがギリシャ的な価値観から出てきているものです。パリサイ人の律法の中に物事を細分化し、分析してここからここまでならば良いと数量化していくのです。最初に青少年の犯罪や情報化社会にもたらされている悪影響について話しましたが、実は今生きている私たちの知識を積み上げている学問の領域の中にもギリシャ的なものが根深く入り込んでいます。イエス様の時代の延長線にあるとも言えます。ある一つの事象を取り上げるとき、それを色々な角度から分析して細分化し、一つ一つを数値で表します。そして一定の研究成果を上げたというのです。そのようにギリシャ的な手順の中で今の学問ができてきています。これも新聞に出ていましたが、「科学分野ではある現象を研究しようとするとき、それを分析し幾つかの法則を見つけ出し、その法則が事象をどのように左右しているかを実験などで観察し、データをとり、数式にして数量化する」と記されていました。ギリシャ的な考え方だと思わされました。学校で教えられていることも同じです。小さな頃から学校に行って色々なことを勉強していますが、自然とそのようなギリシャ的な概念が植え付けられているとも言えます。
第二ペテロ一章十六節から十九節に、

『私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。』

とあります。福音書の中でペテロが遭遇した出来事について書かれています。イエス様がある日、ペテロとヨハネとヤコブを連れてタボル山に上ったときに、山の上でイエス様のみ体が光り輝く姿に変貌しました。そしてモーセとエリヤがイエス様の所に現れ、イエス様のこれから起こることについて話し合っていました。それを三人が目の当たりに見ました。その時のことをペテロは語っています。

『この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。』

とあります。ペテロはイエス様の一番弟子のような人でしたので、イエス様の変貌のシーンもつぶさに見ました。またイエス様といつも行動をともにしていましたので、イエス様がなされる奇跡についても、その場その場で驚きとともに目撃していました。またイエス様が十字架にかかられる姿をも見たと思います。そしてよみがえられたイエス様は、弟子たちの中で最初にペテロに現れたと書かれています。イエス様によって与えられた信仰は、自分がその目で見て体験して否定しようのないものだと、この箇所で告白しています。これは私が考えた作り話ではない、私が実際に見たのですと証言しています。また第一テモテ四章一節から五節に、

『しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。』

とあります。私たちの信仰生活と霊的戦いと祈りは現実です。私たちは祈りによって私たちの目に見えない敵に対して戦いをしています。世界情勢を見るときに、ある国では悪いリーダーの元に国民が苦しめられているような現状を見ることができます。国家間や民族間で戦いをし、それによって傷ついている人たちがいます。そのような世界情勢を見るときに、私たちは人間の知恵によるとか、人間が行っているというよりも、背後にいる暗やみの存在を意識させられます。社会の問題を見ても不正や凶悪犯罪があり、人の欲を助長して人々を暗やみに引き込む力を感じます。少年犯罪など色々な問題を見るとき、自分がやりたくてやっているというよりも、操られ、やらされているという現実を突きつけられているような気がします。また麻薬やアルコール依存などの問題も、暗やみの力が人々に働いているのを見ることができます。私たちのしている霊的戦い・とりなしの祈りは、目には見えず、ある意味つかみ所がないような感じを受けますが、やはり現実なのです。イエス様が歩まれたことは現実、また暗やみの世界も現実です。バーチャルリアリティーの世界の中で私たちが信仰を守っているのではなく、現実なのです。そして霊的戦いも現実であることをこのところからまなぶことができます。

第一テモテ四章一節から五節に、

『しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。』

とあります。そのような偽善によって多くの人が暗やみに惑わされてしまう、暗やみの世界に引き込まれてしまいます。四節には、『神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。』とあります。神様がすべてのものを造られています。そのすべてはみな良い物ですが、嘘つきどもの偽善によってその中に嘆かわしい物が持ち込まれているのが今の現実の世の中であるように思います。しかし四章五節に、『神のことばと祈りとによって、聖められるからです。』とあります。
霊的戦いについても頭でっかちについて考えてみました。

研究室内の霊的戦い…
細かく分析しすぎて実態のわからないとりなし。
口先だけで具体的な行動である宣教に結びつかない戦いの祈り。

このようなものがあるのではないかと思います。
私たちは与えられている聖書の御言葉と祈りを通して、霊的戦いがある意味言葉であり、祈りであり形のないもののようですが、現実的に働いて暗やみの力を打ち砕くものであることを教えられます。私たちはバーチャルリアリティー的な信仰、頭でっかちの信仰ではなく、神様からの御言葉をいただき、祈りにおいて暗やみの力を打ち砕かせていただきたいと思います。互いに神様を信じ続け、現実的に私たちの御言葉と祈りによってこの世がきよめられるという信仰に立って歩みたいと思います。私たちの救いは、神様を信じて受け入れたときに私たちのものとなりました。信仰の歩みも神様の恵みによるものです。今、現実的に私たちの中に確実に働いてくださっている神様に目を留め、神様を頭でっかちではなく、真心と真実をもって信じ、御言葉も神様の真実として受け入れ、また私たちの祈りも神様の前に真実として、現実的なものとして主の前におささげするものになっていきたいと思います。私たちの中にもしも神様からのものではなく、ギリシャ的な概念などがあったらそのような部分においても断ち切られることをお祈りしましょう。


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