「あなたの一生は真昼よりも輝く」

2006.11.19(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 ヨブ記  11章13節〜20節
もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。――そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。しかし悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みは、あえぐ息に等しい。

 ハレルヤ!久しぶりに、新城教会で礼拝が守れることを感謝します。十一月は大変忙しいですが、皆さんにお祈りいただき、祝福されていることを心から感謝します。
 先週は竹内正臣先生が、パワフルなメッセージを語ってくださり感謝でした。私は毎年、先生の教会で奉仕をさせていただいており、一度、新城教会でメッセージを語っていただけると良いと思っていましたが、先生が日本に来られることがわかり、ご奉仕をお願いすることができて感謝しました。

 さて、今朝は、メッセージの前に、一組の家族を紹介したいと思います。新城教会の隣に、「リバイバル聖書神学校」がありますが、将来の神学校のために、六年前にリバイバルミッションからアメリカの神学校に、留学生を送りました。
 キリスト教は、単にパワーだけではなく、歴史的にも長く、学問的にも深いものがあります。今後、日本のリバイバルのためには、色々な面で充実していくことが求められていますが、特に、聖書が誤りのない神の言葉として、人々に正しく伝達されるために、聖書の奥義を、しっかりと勉強する必要があります。そして、そのような人材を育てるためにも、勉強に適した人物を勉強させないといけないと考え、山崎ランサム和彦さんを、世界で一番レベルの高い神学校と言われる、「トリニティー神学校」に送り、博士課程にまで進んでいただきました。
 なかなか日本人で、学位を取得するのは難しいのですが、皆さんの祈りもあり、また、彼の努力もあって最短距離で学びを終え、このたび帰国しました。これから、新城教会の「サンデースクール」も充実すると思います。

(山崎ランサム和彦兄の挨拶)
 ハレルヤ!久しぶりに、この教会で礼拝を守ることができることを感謝します。山崎ランサム和彦と言います。山崎ランサムが名字になります。よろしくお願い致します。
 私たち夫婦は、二〇〇〇年の夏にアメリカに渡り、ミネソタのベテル神学校で修士課程を学び、シカゴの近くにあるトリニティー神学校で続けて学びました。博士課程では、主に、新約聖書学で学びました。博士論文の中では、ルカについて学びました。ルカの福音書を書いたルカは、使徒の働きも書いたと言われています。イエス様の生涯はローマ帝国の歴史を背景に描かれていますが、ルカがローマ帝国をどのように描いているのかについて、旧約聖書と、そのほかの文献と比較しながら考え、この世の政治的な権力と、サタンが全世界を支配しているという、霊的世界の権力とを一緒に考察した論文を書きました。それが幸い受け入れられ、博士号をとって帰ってきました。
 六年のギャップがありますので、日本の文化やこの地域に馴染むのに時間がかかるかも知れませが、よろしくお願いします。また三人の娘が与えられており、長女の窓香(まどか・六歳)は、来年の四月から小学生になります。きりえ(きりえ・五歳)、美登里(三歳半)です。まだ、彼女たちは日本語が得意ではありません。
 これから聖書神学校や新城教会で奉仕ができることを感謝しています。よろしくお願いします。

(山崎ランサム・ドリア姉の挨拶)
 お久しぶりです。一時帰国を何回かしましたので一部の方々はよく知っていますが、私は新城に四年以上住んでいました。また、リバイバル聖書神学校の一期生でもあります。将来、リバイバル聖書神学校の教授の奥さんになることがわかっていたら、もっとまじめに授業を受けるべきであったと思いました。私は以前、新城教会のスタッフもしていましたし、英会話も教えていました。しかしこのように、リバイバル聖書神学校に深く関わることができて、とても感謝です。また神学生に関わることも、楽しみにしています。また、よろしくお願いします。
(ここまでが挨拶)

 

 今日は皆さんとともに、聖書を学びます。「あなたの一生は真昼よりも輝く!」というタイトルです。
 私もこの年になるまで、何とか輝きたいと願って生きてきました。そして、やっと輝くようになりましたが…「その輝きは違うだろう」と言われるかも知れません。(笑)
 誰でも、一度しかない人生を輝いて生きていきたいと願います。今日は、ヨブ記の中から学びたいと思います。
 この言葉は、ツォファルという人物が語ったことばです。ヨブ記はたいへん難しく、全体から言うと、ツォファルの言葉は神から叱責を受けています。しかし、この部分においては、彼は真理を語っています。そして、幸せな人生を歩むためには、どのようにしたら良いのかを教えています。十四節に、

『あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。』

とあります。人間は大変罪深い動物です。誰に教えられなくても、罪を覚えてしまいます。ここで小話を少々。

 ある時、母親が娘を叱りました。「お前がいつもいけないことをする度に、おかあさんは白髪が増える…」すると娘は、「そうかぁ」とうなずき、「それで分かった。おばあちゃんが白髪だらけなのは、お母さんのせいだったのね。」互いに悪いことをして、他の人を白髪にすることが多いのです。
 生徒が先生に、「先生。何もしていないのに、罰を受けることはあるんですか。」と聞きました。すると、「いや、そんなことはないよ。」「よかった。僕、宿題を全然やってないんです」
  さらに、「ねぇ。あなたは彼に一目惚れじゃなくて、二目惚れしたって本当?それどういう意味?」
 「初めて会ったとき、彼がそんなにお金持ちだって知らなかったんだよ…」と、打算的な結婚もあるのかも知れません。
 「この玉子、生みたてって書いてるけど、いつのことなの。」買い物客が店の主人に尋ねました。「奥さん。ほんの十分前ですよ。」と店の主人が答えました。
 「えっ?十分前?信じられないわ…」疑い深い目で、客は主人を追求しました。主人は答えました。「本当ですって。私が十分前に自分で書いたんですから、間違いありませんよ。」
  これらは、人間の罪深さや、腹黒さを表している小話です。

 何れにしても、人間は罪深いものです。しかし、誰にでも、罪を認識する機能「良心」があります。悪いことをすると、「悪かった」と感じます。悪いことをすると、反省します。それは、良心に反することをすると、幸せになれないことを現しています。ですから、私たちは良心に反しない生き方をすべきです。
 「リバイバル聖書神学校」で私と共に奉仕をしている、H先生にも良心があります。彼の実家は電気屋です。彼は牧師になってから、自分の伝道している街の電気屋に行って、コードを買いました。
 「このコードを下さい」と、大体いくらになるかを計算して、店員に言いました。すると店員が、「はい。この値段です」と言ってコードを売ってくれました。なんと、その店員は、自分が計算した値段より安い値段でコードを売ってくれたそうです。彼は、「しめた。儲けた!」と喜んで店を出ました。
 しかしその後、彼はコードを見る度に心を責められたようです。そこで意を決して店に行き、申し出たのです。「このコードの値段はこれですよね。私は安くコードを買ってしまったのです。それで、不足分を支払いたいんですが。」
 すると店員が、「お客さん、あなたが見ているコードの値段は、下のコードの値段ですよ。ですから、この値段で良いのです。」と言ってくれたそうです。
 彼は「良かった。」と言っていました。人間は罪を犯すと、罪が心に引っかかり、幸せになることはできません。牧師はコードに囲まれたような生活ですから、コードを見る度に、「俺は電気屋でコードの値段をごまかした」といつまでも心を責められてしまいます。

 教会に来て素晴らしいことは、神により、罪が赦されることです。人間の罪は、最終的には創造主なる神に対する罪です。イエス様は神ですから、私たちの罪を赦してくださいます。ヨブ記の十一章十三節から十四節に、

『もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、 ――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。――』

とあります。
 私たちが、「心を定める」ことはとても大切です。これからイエス様とともに、人生をやっていこうと心を定め、神に向かって手を差し伸べるとは、主とともに歩む決断です。そうするならば、あなたの人生は「真昼よりも輝く」と教えています。
 その条件として、あなたの手に悪があるならば、それを捨てなさいと教えています。教会に来ると、罪について指摘され、神の前に悔い改めるのです。何か良心に反することがあると感たら、悔い改めることが大切です。悪から離れることが大切です。ただ悔いるだけではなく、「改める」とは、罪から離れることです。
 しかし人間は、なかなか罪から離れることができません。けれども、聖霊が助けてくださり、罪から離れさせてくださると教えています。

『あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。』

 元々イスラエルの人々は、荒野を旅する遊牧人のような生活でした。「天幕」とは「家」のことです。家は家族をも現します。「天幕の中に不正を住まわせるな」という意味は、家族の中に不正を入れるなという意味合いもあります。

 私は色々な国で奉仕をさせていただき、見聞きさせていただきますが、多くの人が問題で苦しめられています。それもただ一人ではなく、家族全体が苦しめられている現実を見ます。エレミヤ書三十一章十六節から十七節に、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

とあります。多くの人が「泣き声と涙」というテーマの中に生きています。この現実を変えるためにはどうすれば良いのか祈っています。
 過ぎる三週間、私はいくつかの教会で奉仕をさせていただきました。どこでも、集った多くの方に、目に涙、そして泣き声がありました。
 しかし神は、「あなたの将来には望みがある」と、希望のメッセージを語ってくださいます。
 今日、「私には涙と泣き声があります」と言われる方も、諦めないでください。聖書のメッセージは、「あなたの将来には望みがある」と告げているからです。
 イエス・キリストを信じるならば、あなたの一生は真昼よりも輝き、将来と希望が与えられるのです。
 将来と希望の条件として、「彼らは敵の国から帰ってくる」と記されています。エレミヤの時代、イスラエルはバビロンによって捕虜とされ、苦しめられていました。奴隷となって一生を過ごすのは大変なことだと思いますが、敵の国から帰ることが将来と希望に続く道なのです。
 これは預言的な言葉でした。イスラエルは奴隷となっていましたが、神はやがてバビロンから解放されると預言されたのです。事実彼らは、バビロンから解き放たれ、自由の身となりました。しかしその奴隷となっていた国においては、常に目には涙、泣き声でした。

 ヨブは、最も苦しみ、試練を受けた人物です。ヨブ記一章、二章は、読むと恐くなってしまうような内容です。もしもヨブが現代に生きていて、直接話を聞いたら、「私の人生はまだましだ」と思うでしょう。それもヨブは一日の内に、すべてを失ったとあります。
 彼は裕福な部類の人でした。毎日の生活が宴会のような、何の悩みもない素晴らしい人生を歩んでいたのです。そんなただ中、それも一日の内に事件は起こりました。ヨブの身になって読んでみてください。ヨブ記一章十三節から十九節に、

『ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」』

 彼は、一日のうちに連続して、持ち物、使用人、家畜、また、子どもたちを失ってしまうという、考えられない試練を味わったのでした。
 先日も北海道で竜巻があり、人々が一瞬にして、すべてを失った光景を目にして驚きました。竜巻はいつどこで発生するのかわかりません。数年前、豊橋市でも発生し、多くの被害を受けたことがありました。被害に遭った人たちは、予想だにしなかったと思います。一瞬にして、風速百メートル近い風が吹いてきて、家の四隅を砕いて家が倒れ、皆、息絶えてしまいました。
 ヨブはうちひしがれ、どん底に落とされました。しかしさらなる災難がヨブを襲いました。ヨブ記二章十一節から十三節に、

『そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。』

 三人のヨブの友人たちは、ヨブを心配して見舞いに来ました。ヨブが災害で子どもたちを失い、財産を失ったという知らせを聞いたからです。するとヨブは病気になっていました。その病はあまりにもひどく、ヨブだと認識できない程でした。彼は頭から足の先まで重い皮膚病にかかっていたようです。そればかりか、痛みがあまりにもひどく、友人たちは、彼の所に来ても一言も話しかけることができず、ただ一緒に座って泣いているだけでした。
 ヨブの試練はいかほどであったかと思います。このストーリーは極端のようですが、このような路線の苦しみに出会うことは、まま、あると思います。ここまではひどくはないかも知れませんが、病い、事故、事件に巻き込まれることも現代社会では多いかも知れません。
 ヨブは息子・娘たちを自然災害で失いました。また使用人や牛や馬という財産を犯罪に巻き込まれて奪われました。
 人生は犯罪や自然災害に巻き込まれたり、病などで苦しめられることがあります。このような事が起こると、家族全体が暗くなります。私は色々な方と出会いますが、家族で一人病人が出たら、病の人も辛いですが、それ以上に健康な人たちが辛いのです。家族の中に子どもの問題が発生したら、子どもも大変ですが、問題のない兄弟や両親がもっと辛いのです。家族全体が苦しみを受けます。

 聖書は、一人の救いというよりも、家族全体の救いについて教えています。キリスト教はヨーロッパ周りで日本に入ってきました。特に、第二次大戦後、本格的に伝えられました。
 東洋と西洋では、ものの考え方が違います。東洋は共同体思考です。しかし、西洋は、個人主義的傾向が強いです。今日、山崎さん一家が帰ってきましたが、彼らは、六年間アメリカで過ごしてきました。彼らは、見かけは日本人のように見えます。和彦さんは見かけは日本人ですが、中身はアメリカ人になってきたかも知れません。キリスト教も、それらの文化と一緒に入って来ましたので、案外、個人の救いが強調されやすい傾向があります。もちろん、個人的に神と出会うことは重要です。しかし聖書は、個人より、家族にフォーカスが当たっています。
 ノアは神の前に正しい人物でした。当時、多くの悪がはびこり、神は人類を一掃しようとされました。その時神は、ノアと家族全員の為に箱船を造り、一家を救われました。また、アブラハムは神と近い関係にあり、いつも神を礼拝していました。甥のロトは、神を知っていましたが、それなりに歩んでいました。彼はソドムとゴモラという、肉欲の町に住んでいました。神はその状況を見て、街を滅ぼしてしまおうとされました。神は愛なるお方ですが、きよさの中に住まわれますので、人間があまりにも汚れるとリセットされる時があるようです。ソドムとゴモラに天から火が下ってきて、街は焼き尽くされてしまいました。
 しかしその前に、街に住んでいたロトとその家族・親族に声が掛けられました。「あなたがたはすぐに逃げなさい」と、家族全体に声がかかりました。
 また新約聖書を見ると、ピリピにおいて看守の家族は、パウロから「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という言葉と共に家族が救われました。
 神は個人だけではなく、家族全体を救おうと願っておられます。家族の中で、一人だけクリスチャンと言われる方がおられるかも知れません。「今日、教会に来るのが大変だった」と言われるかも知れません。しかし、たった一人のクリスチャンはとても大切です。なぜならば、一人の救いから、神は家族全体を救おうとされているからです。
 もちろんイエス様の十字架の救いは、個人に対するものですが、聖書の中に共同体の救いや家族の救いについても併せて述べられていることは、誰かがクリスチャンになることは、家族の救いにとってとても重要です。

 さて、『あなたの天幕に不正を住まわさせるな。』とありますが、どのような意味でしょうか。エレミヤ書に三十一章二十七節から三十一節に、

『見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ。――その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 聖書は旧約聖書から新約聖書で一つの結論があります。旧約とは「古い契約」という意味であり、新約とは「新しい契約」という意味です。ここに「新しい契約を結ぶ」と記されています。エレミヤ書は旧約聖書に属する一つの預言書です。やがてイエス・キリストを通して、新しい契約が結ばれるという預言です。「新しい契約」という言葉は、新約聖書、ヘブル書に出てきており、「イエス様の十字架と復活によって、新しい契約が結ばれた」とあります。
 新しい契約とは何を意味するのでしょうか。ここでは、「彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。」とあります。
 「今まであなたがたは、父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮くというような事柄で目には涙、口には叫び声という悲しい人生を歩んでいたけれども、新しい契約が結ばれる日には、二度と父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮くことはない」と教えています。
 自分が酸いぶどうを食べて、自分の歯が浮くのは仕方がないかも知れませんが、父が酸いぶどうを食べて、子どもの歯が浮くとは信じられないことです。しかし新しい契約が成立するときには、そのような事が起きなくなると預言されています。
 イエス様によって与えられる救いの素晴らしさは、「父が酸いぶどうを食べたために子どもの歯が浮くと言わなくなる」のです。それが、家の中に不正が住まなくなるという事の一つの意味です。
 お父さんが酸いぶどうを食べて、息子は食べてもいないのに、歯が痛み出すとは普通は起きえないことです。また、おじいちゃん、おばあちゃんが酸いぶどうを食べて、おじいちゃん、おばあちゃんは総入れ歯で歯にはしみませんでしたが、何も食べていなかった孫が「歯が痛い」と言って、代わりに痛み出すことはありません。しかし、人間はそのような状況下で苦しめられていると告げているのです。

 天幕とは「移動の家」でした。遊牧民である「ベド・ウィン」は、ある所で生活し、やがて季節が来て、年が移り変わると次の所に天幕を移していきました。代々同じテントに住まいながら、場所を移していきました。
 「天幕」とは、家庭を表すとともに「家系」をも表しています。私たち日本人は、科学にも、学問にもならない事柄に関して「暗黙の了解」なるものを持っています。それは、「家系の中に同じ問題が繰り返される」というものです。
 例えば、結婚は個人的なもので、周りがとやかく文句を言うものではないと思いますが、結婚が決まりはじめると、周囲が色々なことを言い始めます。「あなたが結婚しようとしている人の家は大丈夫?家の中に何か問題はない?家系の中に問題はないか…」と心配します。こだわる人は興信所を使って家系を調査をします。調査してみると経済破綻をしていたり、離婚していたりします。また、同じ病気で亡くなっていたりもします。それで結婚を断念する人も多いのです。
 日本人は、家や家系に同じ問題が繰り返し起こることを実体験しているゆえに、そのような意見を述べるのです。

 実は聖書も、家系の中に問題が脈々と続くことを肯定しています。「父が酸いぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」というような、「父の影響が子どもに出る」ということが起こり得ると告げています。これは恐ろしいことです。

 しかしイエス・キリストがこの地上に来てくださり、新しく樹立してくださった契約とは、「父が酸いぶどうを食べたゆえに、子どもの歯が浮くというような呪いからの解放だ」と告げています。
 もしも家にいつも同じような問題が繰り返されている状況があったとしても、イエス・キリストを信じ、新しい契約を結ぶならば、そのような問題から解放されるのです。家系の中に受け継がれるテーマが打ち砕かれると教えています。
 家族のために、家系の呪いを打ち破るため、イエス・キリストを信じて新しい契約を結ぶことはとても重要です。

 家系の呪いを恐れなくても良いのです。結婚しようとしている人の家族に問題があっても、イエス・キリストを信じて新しい契約が結ばれるならば、そのような恐れから解放されるのです。そんな家系の暗いテーマが消えるだけでも、私たちの人生は真昼よりも輝くのではないでしょうか。

 ヨブは大きな問題を抱えましたが、なぜ、問題が起こったのでしょうか。ヨブ記一章六節から十二節に、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。』

とあります。悪魔が来て、神からヨブを苦しめるための許可を受け取ったからです。サタン、すなわち悪魔が、神の前から出て行った直後、ヨブの家に信じられないような事件が連続して起こりました。
 ヨブ記の最大の悲劇は何でしょうか。それは全体を読まなければわかりません。ヨブ記の二章からは、ヨブと友人たちの討論が繰り広げられています。ヨブがなぜそんな問題を身に招いたかについての各人の考え方が記録されています。
 しかし一章、二章で、天で神様とサタンの会話があったということについては、会話中、一度も言及されていません。ヨブは友達から罪があると指摘され、「そんな罪を犯した記憶はない」と苦しんでいます。周りの友人たちは、一生懸命、ヨブに悔い改めを迫っています。
 最終的には、ヨブは神との間で、すべての問題を解決し、最後は「二倍の祝福を受けた」というハッピーエンドで終わっています。
 しかし、ヨブ記の一つの悲劇は、「ヨブがこのような問題を体験した背景に、神とサタンとの会話があり、サタンによって問題が引き起こされたという事実に関して、登場人物の誰一人、それを知らなかったという所にある」とある注解書に記されていました。
 さらに、「そのことは誰一人知らなかった。それを知ることができるのは、ヨブ記の読者のみだ」とありました。

 聖書は私たちに対する「情報提供の書」です。ヨブも友達も問題がサタンによって引き起こされたことについて、全く気付きませんでした。ただ、自分と神との間だけで、そのような問題が起こったと考えていました。だから、一生懸命、神に近づこうとしましたが、そこには七転八倒しても、なかなか動かない領域がありました。
 ヨブの奥さんが語ったことばは、その、すべて言い表しているかのようです。ヨブに対して、「あなたは神を呪って死ね!」と言いました。人々は、問題が神によって引き起こされたように考えていましたが、実はそうではなく、その背後に、悪魔が働いていたのです。
 
 新約聖書に至って結論づけられていることは、人間は神との関係だけに生きているのではなく、戦わなければならない相手があると言うことです。それがイエス様によって現されました。ヤコブ書四章六節から七節に、

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 旧約の時代は、悪魔に訴えられていたとしても、イエス・キリストの新しい契約により、新約聖書では、問題をもたらす悪魔に立ち向かう権威が与えられた所に、大きな勝利があります。
 その結果、我々の知らない所で訴えられることがなくなったのです。私たちは、イエス様とともによみがえって、ともに天の所に座るという特権が与えられるのです。それも、家を代表とし、家系を代表とし、あなたは天の所に座ることができるのです。
 誰かがイエス様を信じ、家族の代表とし、新しい契約を結ぶことは大変重要です。それは、家族全体が「真昼よりも輝く人生」を送るです。
 「父が酸いぶどうを食べたために子どもの歯が浮く」とありましたが、ここには原因があります。「あなたの天幕に不正を住まわせるな」とありましたが、あなたの「家の悪」とは何でしょうか。また、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」という悪は何かについて、エレミヤ書三十二章十八節に、

『あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。』

とあります。この御言葉の原点は「出エジプト二十章四節から六節」にあります。

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

 「あなたの天幕に悪を住まわせるな」、天幕の中に住む悪の最大原因は、「偶像礼拝」にあります。これは、人間が手で作った神々のことです。人間が手で作って拝むものは、石や木や金属の神々です。しかし日本人はそれを真剣に拝んでいます。
 なぜ拝むのでしょうか。それは限定された範囲の中で、霊感を感じるからです。それを買ってきて拝むと、仏像を中心軸として一つの霊的空間が生まれ、何か霊的なものを感じるのです。すると、それが神だと勘違いします。しかし実は、それが悪魔の力そのものなのです。
 偶像礼拝をしていると、悪魔の力が家に進入し、何と、家の中に悪魔が住み着いて、三代四代にまで人を脅かしていくのです。だから、偶像礼拝から離れて、天地宇宙を造った神を拝むようにというのが聖書の教えです。いくら像に霊感を感じたとしても、それが本物の神だと信じてはいません。日本の神々は、限定された範囲内の霊感です。「あそこの寺にいくと霊感を感じる」とか、「あそこの神社に、あの岩に霊感を感じる」という人がいます。それはただ、一つの限られた範囲の霊的空間です。
 神は天地宇宙を造られた方なので、限られた範囲に何か霊的センスを現すような神ではありません。「天にも地にも、主は満ちています」
 イエス・キリストを信じるならば、どこでも礼拝できます。どこか限定された仏壇や神社で霊感を感じていたら、それは先祖の霊ではなく、神でもなく、それこそ私たちを訴える「悪魔」の力そのものです。しかしそこから離れて、イエス・キリストを信じるならば、二度と、父が酸いぶどうを食べたために子どもの歯が浮くという、家族の中の問題、また家系の中の問題で苦しむことがなくなるというのです。そして、神に従い、悪魔に立ち向かう人生を与えてくださるのです。
 ルカの福音書十章十九節に、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

と、イエス様は私達に約束されました。今日ここにおられる方々は、家族の代表、家系の代表として集っているのです。
 そして、「あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな」とあります。二度と偶像礼拝に戻ってはいけません。同時に、家族が偶像礼拝から解放されるように、祈りはじめなければなりません。あなたが心を定め、あなたの手を神に向けて差し伸ばす時、あなたの人生、家族・親族に神は働いてくださいます。

『そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。』

 こんな人生を歩みたいですね。そのためにも、家族の誰かがイエス様を信じて、神に手を差しのばし、特に家の中の悪・偶像礼拝に立ち向かうことが大切です。
 今日初めて教会に来られた方や、最近教会に来られ始めた方は、イエス様が招いてくださっています。それはあなただけではなく、家族も家系も勝ち取る為です。「あなたの一生は真昼よりも輝く」という御言葉を、受け取ってください。

 クリスチャンでも、ただ、「神様に従う」という領域だけで進んでいくと、ヨブ記二章から後半のようです。神と自分のただ中で、七転八倒しながら苦しみながら神に近づき、最終的には問題解決を得るかも知れません。しかし、原因がどこから来ているのかわかりません。
 しかし新約聖書では、神に従うだけではなく、「悪魔に立ち向かう」という、新しい権威について教えています。それに気付かなければなりません。
 神は読者が「原因に気付く」ように、ヨブ記のストーリーを用意されました。ですから、私たちはただストーリーを読むだけではなく、その原因に気付くことを願います。皆さんには権威が与えられています。お祈りしましょう。

(声に出してお祈りください!)
「イエス様。今私たちは、家族の代表として、家の中に住む悪魔に立ち向かい、罪を悔い改めます。三代、四代に渡って犯されてきた、偶像礼拝の罪を赦してください。そこで結ばれた、悪魔との契約を、新しい契約によって完全に消し去ります。つながりを解きます。私たちの人生が、真昼よりも輝きますように。また、私は、家族の代表として、家系の代表として、神のみ前に祈ります。父が酔いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くというような、三代、四代に渡るのろいからの解放を宣言します。二度と、家の中で、家系の中で、悪しき問題が起こりませんように。イエス様の守りを与えてください。新しい契約を宣言します。

 今、もう一度、家の中で働いている悪魔に立ち向かいます。私たちは神に従い、悪魔に立ち向かい、権威を宣言します。悪魔よ、よく聞け。家の中に働いている悪魔よ、よく聞け。今、私は神に次ぐものとして宣言する。家から手を離せ。家系から手を離せ。私と我が家は主に仕えます。勝利を宣言し、イエス様の名前で祈ります。アーメン。」


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