知っていますか? 〜聖徒の受け継ぐもの〜

2006.11.26(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 エペソ人への手紙1章17節〜19節
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 ハレルヤ!今朝も、皆さんとともに賛美をささげ、神を心から礼拝できることを感謝します。
 早いもので、今週は十二月に入ります。つい先日、新年を迎えたばかりと思っていましたが、あっという間に年末になってしまいました。最近、胃腸風邪が流行っていますが、そのような方がいたら、癒されますように。
 私には一つの自慢があります。それは、中学一年生以来、一度も食べた物を戻したことがないことです。中学一年生の時に友達と相撲をしていて、腹を蹴られた時に一度吐いたことがある限りです。

 今日は、「知っていますか?〜聖徒の受け継ぐもの〜」というタイトルで学びます。イエス様を信じると、素晴らしい神の栄光を受け継ぐことができます。ですから、クリスチャンにならないと損です。
 私は『クリスチャンって最高だ!』という本を何年か前に著しました。全国で用いていただいていますが、先週は、三日間「霊的戦いセミナー」を行い、四十名程の方々が集まられました。クリスチャンになることは、人生、最高の幸せです。今日初めて教会に来られた方も、「キリスト教に騙されないぞ!」などと思わないで、イエス様を信じると、人生が素晴らしく変えられますから、ぜひ、心を開いて聞いてください。

 私はいつも皆さんに楽しんでいただこうと、メッセージの前に聖書とは全然関係のない、小話をしています。
 今日もいくつか用意しました。いつも、私のジョークを批評をしてくださる方がおられ、「先生、今週は滑りましたね」とか、「あれは日本人のジョークではないよ」などと言ってくださいます。今日はどうなるのでしょうか。

 ある男性がある女性と長く付き合っていました。しかしなかなか結婚しませんでした。そこで、「なぜ君は彼女と結婚しないんだね?」と聞くと、「いや、実は、彼女には、ちょっと言語障害があるんですよ。」「えっ、言語障害?それは気の毒だなぁ」「ひどいのかい?」「うん。彼女は、どうしても『yes』って言えないんですよ。」

 ある病院での会話
  患者 「先生、私は自分が犬なのではないかと思って悩んでいるんですが…」
  医師 「そっ、そんなばかな。それでいったい、いつ頃からそのように思うようになったのですか。」
  患者 「はい、私が子犬の頃からです。」
 
  「あなたの最大の弱点って何ですか?」
  「あ〜、それは虚栄心ですよ。私は自分の美しさにほれぼれして、何時間も鏡の前で過ごしてしまうこと。これが弱点ですね。」

  神様は天地宇宙を造られましたが、山と海を造られ、「イタリア」という国を造られました。イタリアには、世界一美しい風景と、世界一美味しい食べ物と、世界一素晴らしい気候を造られました。
 すると天使が来て言いました。「神様。これではあまりにも、イタリアが恵まれすぎていますよ。」
 すると神様が言いました。「心配するな。イタリア人を入れておいた。」(コメント 相当イタリア人が悪いのでしょうか?)

 各業界で一番聞きたくない言葉は、女性にとっては「若い内が花よ」。
スポーツ界では、「体力の限界」だそうです。
 ちなみに牧師業界では、「今日のメッセージはつまらなかった!」です。そうならないよう、一生懸命努力します。

 さて、私たちがイエス様を信じると、素晴らしい資産を受け継ぐことができます。まず第一に、永遠の特権を受け取ることができます。人間は、いつか死んでしまいます。今日も、ここに多くの方がおられますが、やがて、私たちはこの地上から出なければならない日が来ます。
 今年も振り返ると、何人かの兄姉姉妹が、天に帰って行かれました。悲しみがあります。しかし人間は、永遠性を持った存在です。死後どのようになるかについては、皆、関心があります。死んでみなければわからないと言われますが、聖書は永遠の書物ですので、死後、どのようになるかについても記しています。

 新約聖書に、イエス様がラザロという貧乏人と、金持ちを題材に話された箇所があります。ラザロは大変貧乏でした。金持ちは、何の不自由もなく生活していました。ラザロには、お金も、家もありませんでしたが、神を信じていました。しかし、金持ちは、家もお金もありましたが、神を信じていませんでした。人間は金があってもなくても、健康であっても健康でなくても、やがて、死んでいきます。しかし、その後が大切です。ルカの福音書十六章十九節から三十一節に、

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

 これが死後の世界での会話です。私たちは、この地上で終わりではありません。死んだら、御使いたちによって、ある所に連れて行かれます。神を信じる者は「アブラハムの懐」とありますが、これは「神の国」を表しています。私たちは、天国に行くことができます。死も、苦しみも、悲しみもない、素晴らしい国に行きます。
 しかし、神を信じないでこの地上を去るならば、金持ちの人生と同じように、「永遠の滅び」だと教えています。クリスマスが近づいていますが、このクリスマスに、多くの伝道会を持とうとしています。私たちはなぜ、伝道するのでしょうか。それは、教会員を増やしたいとか、教会を盛んにしたいのではなく、一人でも多くの方が、天国に行って欲しいからです。この地上の人生だけで終わりではなく、永遠の国、天国があるからです。イエス様を信じたら、永遠の国・天国で生きることができます。
 しかし信じないでこの地上を去ったならば、金持ちと同じように、「永遠の滅び」です。その場所に行ってしまったら、決して、立場は変わりません。人間は死んだら、空中にふわふわと浮いているのではなく、天国か地獄か、救いか、滅びかのどちらかに属さなければならないのです。滅びにいった人々は、「苦しい場所があるので、来ないでください!」と今も叫んでいます。
 私たちは地獄の叫びに答え、「皆、天国に行きますように!」と叫ばなければなりません。イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちを受けることができます。

 また聖書には、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』とあるので、私たちは家族のためにも、箱船を作るべきであると教えています。ヨハネ三章十六節から十八節に、

 

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』

とあります。イエス様がこの地上に来てくださった目的は、「誰一人滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記されています。神は「愛なる神」です。しかし、生まれながらの人間は、悪魔の支配下です。悪魔の支配、悪魔の奴隷であるならば、死んでから悪魔の支配する国に行かなければなりません。
 しかし、イエス様によって、救い出されます。ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つために、イエス様はこの地上に来てくださいました。
 クリスマスの意味は、人類を救うために、イエス様がこの地上に来てくださったことです。御子を信じる者はさばかれないで、皆、救われて永遠のいのちに入ることができます。
 先週、人間には良心があると語りました。良心とは、万民に与えられている、罪の基準です。これは神が与えた律法です。罪意識は、「罪は良い結果を与えません」ということを人に語っているのです。ローマ六章二十三節に、

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』

とあります。私たちがイエス様を信じるならば、罪の赦しを得ることができます。
 一般に、罪は償うことができても、赦しはなかなか受け取ることができません。なぜなら、罪とは究極的には、神に対するものだからです。どんな罪でも、最終的には、創造者に対する罪となります。ゆえに、罪の赦しは、天地宇宙を造られた神から来ます。ですからイエス様に、罪の赦しを乞わなければなりません。今、世界にたくさんの問題がありますが、その背景に罪があります。最近、いじめや自殺という、悲しい出来事が起こっていますが、その背後にも罪があります。人々は、罪が赦されたという確信がないので、生きる希望を失います。
 しかしイエス様は罪を赦すために、この地上に来てくださいました。罪の赦しには、犠牲が伴います。その犠牲とは、「私たちの罪の身代わりとなって、イエス様が十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえってくださった」ということです。
 そして、この救いのチャンスは、「生きている中だけ」と教えています。第二コリント六章二節に、

『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』

 『確かに今は恵みの時、今は救いの日です』とあります。生きているこの時間と空間の中だけに、救いが用意されています。
 かつて天使の一団が罪を犯しました。それが悪魔・悪霊になりました。彼らには、永遠の滅びが決定づけられました。
 人間も罪を犯しました。天使も人間も、神の被造物にかわりはありません。しかし、人間の罪だけが赦されます。何故でしょうか。ここには神学的な問いがあることは確かです。
 しかし、私はこのように考えます。天使たちは、どのような領域で罪を犯したのでしょうか。天使たちは、神を目の前にして、時間という概念のない次元で罪を犯しました。時間という流れのない、永遠の世界で罪を犯しました。
 永遠の世界には、時間がありません。だから、「機会」がありません。しかし私たちは機会があります。なぜなら、時間という流れがあるからです。
 しかし死んでしまったら、私たちは、永遠の世界にはいり、時間のない世界に入ってしまいます。そうなれば、天使たちが罪を犯したときに、機会を失ったのと同じように、私たちも機会を失います。
 何れにしても、時間、空間の中に神は「恵みの時、救いの日」を用意してくださったのは明らかです。

 私たちは一秒一秒、時を刻んでいますが、これは恵みの時であり、救いの日です。だから、生きている間に、イエス様を求めるように教えています。

 イエス様を信じている人々は、永遠のいのちが与えられています。ですから、私たちは、永遠の仲間です。お隣の方と共に永遠を過ごします。ですから、教会に来たら、お互い仲良くしてください。一人でも多くが、この特権に預かって欲しいという思いで、私たちは伝道しています。
 クリスマスは絶好の機会です。機会は、時間の経過の中の一断面です。生きている間に提供されるものです。この機会を逃さないで、多くの人に福音を伝え、皆が永遠のいのちを受け取るために、励んでいきたいと思います。

 さて、神は、信じる者たちに、永遠における特権と共に、地上における特権をも与えています。
 イエス様は、「わたしは世の終わりまで、あなたがたとともにいます」と言われました。イエス様は目に見えませんが、ともにいてくださいます。聖書は、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」とあります。私たちクリスチャンは、神のおられる空間に生きています。

 先週の、霊的戦いセミナーの中で、私は、「イエス様が心の中に住む」、「聖霊様が私たちとともに住まわれる」という概念の捕らえ方が、日本人の宗教観「アニミズム」に関連して受け取られる危険性について指摘しました。日本人の宗教観である、「ものの中に霊が宿る」という考え方を受け皿に理解してはならない、整理しなければならないと話しました。
 日本人式に考えるときに、「イエス様が私たちの心の中に住む」とか、「聖霊様が私たちとともに住まわれる」ということは、イエス様や聖霊様が、心臓か、胃か、脳か、どこかに小さく収まっているかのように考えます。
 しかしイエス様や聖霊様は、存在される次元が違うので、私たちはすべてその中に含まれています。私たちは、神の中に生き、動き、存在しているので、どこに行っても私たちとともに神はおられ、臨在を感じることができます。信じる者たちが群れとなって、心を一つにして主を賛美すると、臨在を感じることができます。今日の賛美においても、神の臨在を感じました。
 しかし、実際は、皆さんが家庭においても、学校、会社においても、どこにおいても、イエス様はともにいてくださいます。ですから、恐れてはいけません。これは地上において受け取ることができる、素晴らしい祝福です。

 私たちは、どこでも神に祈り、礼拝することができます。しかし偶像礼拝には、必ず祈りの拠点が必要です。また祈るためには、作法が必要です。神社では、二拝、二拍手、二礼などという作法が必要です。仏教では、呪文が必要です。
 けれども、イエス様を信じたらどうでしょうか。私たちは、どんな状況でも、神に祈ることができ、アクセスすることができます。
 旧約聖書では、神の存在を、威厳ある近づきがたい姿として描いています。父なる神様の姿は、天地宇宙を創造し、威厳のあるお方、義なる方として描かれています。しかし、新約聖書に至っては、イエス様によって父なる神様を、「アバ父」と呼ぶことができると教えています。ローマ八章十四節から十五節に、

『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』 

 イスラエルで、小さな子どもが「アバ!」と叫んでいました。それは、小さな子どもが父の姿を見失って、「おとうちゃん!」と捜していたのだとわかりました。「アバ」とは、「おとうちゃん!」という、親しみを込めた呼び方であるとガイドさんが教えてくれました。
 旧約聖書に登場する、天地宇宙を造られた偉大なる神に向かって、「おとうちゃん!」と、親しく呼ぶことができ、どこでもどんな場合もはばからず、神のみ前に出ることができるのです。
 今週も、天地宇宙を造られた神様の前に、「アバ父よ。おとうちゃん!」と出入りすることができます。アメリカ大統領の家族構成は知りませんが、子どもたちは大統領の前であっても、「おとうちゃん!」と言って、簡単に出入りできます。王様の側近は緊張していますが、子どもたちは、「おとうちゃん!」と言って、簡単に前に出て行きます。
 イエス様を信じたら、私たちは神の子どもなので、父なる神様のところに、簡単に出入りできます。ですから、気軽にイエス様に呼びかけなければいけません。
 親子関係も、子どもが呼びかけてくれないと、親は気分が悪いです。私も時々、気分を壊すことがあります。子どもたちに「おはよう!」と言っても、答えてないと「何かあったかな。」と思います。
 しかし、普通に話してくれると嬉しいです。ニコニコして話してくれると、もっと嬉しいです。
 父なる神様も同じようです。私たちが心を開いて、父なる神様の前に、近づいていくならば、神はさらに良い方ですので、素晴らしい答えを与えてくださいます。

 時々人生には、緊急事態があります。緊急事態には、「イエス様!」と呼ばなければなりません。
 十四年ほど前、「全日本リバイバル甲子園ミッション」の準備中に、私は、アルゼンチンに行きました。当時、あまり海外旅行に慣れていなかったのですが、アルゼンチンにリバイバルが起こっていると聞きつけ、一人で出かけていきました。その前、すでに日本人の牧師たちがアルゼンチンに行っていました。到着した翌朝、疲れて寝ていると、電話がかかってきました。
 「順先生、イグアスの滝を見に行きませんか。」と誘われました。私はその時、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスにいましたが、イグアスの滝は、郊外にあると思っていました。だから私はTシャツ一枚で、財布だけ持って出かけていきました。しかし向かったのは、空港でした。イグアスの滝に行くには、三日間ほどかかるというのです。生活用品は、行った先で買えば良いと思っていましたが、気付いたときには、ジャングル地帯で店がありませんでした。困ってしまいましたが、何とかなりました。イグアスの滝はすごい光景でした。
 すべてを終えて、帰るために空港に行きました。他の人は、航空チケットがありましたが、私だけ、チケットを予約していませんでした。みんな機内に入って行きました。私は予約を申し出て、カウンター前で待っていました。
 しかし、なかなか呼んでもらえませんでした。するとその内に、空港内の電気がすべて消え、コンピューターの電源もオフになり、カーテンが閉められ、職員たちが帰って行く様子でした。
 私は焦って、「どうしたのですか?」と聞くと、「もう飛行機は行ってしまいました。今日は満席でしたから」と言われました。私は戸惑いました。そこはジャングルの真ん中の空港でした。一人残されて、心細かったです。次の便は明日までないと言うのです。どうしたら良いだろうかと思い、イエス様に祈りました。
 「イエス様。助けてください」
 すると、「すぐ近くに難民キャンプがあります」と言われました。ブラジルとアルゼンチンとパラグアイの国境付近では、経済難民が発生して、難民キャンプがあります。「そこに日本語がわかる人が伝道しているから、そこに泊めてもらってください」と言われました。紹介してくれた人は、遠くに行かなければならないと言われ、一人で行きました。すごい臭いのする、大変なところでした。そこに、日本語ができる日系人がいました。
 すると、「今日は日本人牧師が来たので、伝道集会をしよう」と言って、集会が始まりました。教会と言っても、椅子として、ブロックとブロックの間に板を渡して座って行うような所でした。それは貴重な体験でした。
 アルゼンチンでは、マテ茶というお茶を飲みます。それは、ストローのようなもので飲み回します。水は近くにある、素堀の井戸から汲んで来て作ってくれました。まず、お客さんからどうぞ、と言われて渡されました。見ると、小さい蟻がたくさん浮いていました。私はそれを見て躊躇していると、「早く飲め」と言われました。祈りながら飲みました。そうすると、仲間として受け入れてくれます。普通では経験できないことを、経験させてくださいました。どんなに困ったときでも、神様に叫び求めると、助けを与えてくださるのです。
 次の朝、牧師が食事を用意してくれました。ベッドの下にあったビニール袋の中から、パンを取り出して渡してくれました。
 食べようとすると、どこからともなく、ハエの大群が来たので追っていると、「ハエを追うな。追うより早く食べろ。ゴミ捨て場が近いから、どんどん来る。」と言うのです。私は慌てて食べました。早くここから抜け出したいと思いました。
 やっとのこと、空港に行き、飛行機を待っていると、今度はお腹が痛くなりました。大変な下痢になりました。またもやピンチ、イエス様に助けを祈りました。
 すると空港で一枚の紙をくれました。そこにはチェックリストがあり、記入してくださいとありました。よく意味を調べてみると、「激しい下痢」という項目ありました。
 「この地域はコレラの危険地帯です。もしも、このような症状があった場合は、直ちに係官に申告してください。」とありました。それを読んだ途端、血の気が引いていくような感じがしました。
 またまた、イエス様に真剣に祈りました。その紙は怖くて提出しませんでしたが、癒されました。その時に、「クリスチャンで良かった!」と思いました。
 仏教徒や神道であったら、おなかが痛いときに、神社を探していたら大変です。アルゼンチンにはありません。しかし、イエス様を信じたら、どんな場所でもどんな状況であっても、助けを求めることができます。そして、折りにかなった助けを与えてくださいます。

 もし今週、緊急事態があったら、「イエス様、助けてください」と叫び求めてください。そうすれば、必ず助けてくださいます。これは聖徒たちに与えられた、素晴らしい特権です。子としてくださる御霊を受け、私たちは御霊によって「アバ父よ」と呼ぶことができると約束しています。
 同時に前回も学びましたが、神は私たちに「最強の権威」を授けてくださるとあります。エペソ二章五節に、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――』

とあります。恵みによって救われるとは、何の努力もいらないということです。教会に来て、どのような修行をしたら良いですか。どのようにしたら、クリスチャンになれますか、と言われる人がいます。それはただ、自分の罪を認め、イエス様を自分の救い主として受け入れるだけです。こんな単純な救いはないのです。それだけで、永遠のいのちをいただくことができるばかりか、エペソ二章六節に、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

とあります。これは最強の権威です。
 この地上は、神の勢力だけではなく、悪魔・悪霊どもも蠢いています。私たちは、目に見える世界に身を置いていますが、見えない世界もあります。人間が見ている可視光線は、光のスペクトル中数パーセントだけです。赤から紫までで、赤の向こうは赤外線、また、紫の向こうは紫外線です。女性は、紫外線が見えたら、そばかすや、しみはなかったと思います。見えたら逃げることができますが、見えないので、逃げようがありません。見えない光がたくさんあります。ですから見えない世界もあるのです。もしも見えない世界を見ることができる眼鏡があったら大変です。悪魔・悪霊どもが見える眼鏡が発売されたら良いと思います。実は、聖書がその役割を果たすものですが。
 実際に見えたら、私たちの周囲にあまりにも、多くの悪霊どもが蠢いていて、びっくりするでしょう。この目では、悪魔・悪霊は見えませんが、世界中で悪魔・悪霊が働いた結果は見る事が出来ます。
 最近のニュースは、暗くなるようなニュースばかりです。最近は、いじめや自殺が多いです。自殺は交通事故死の四倍くらいあると言われています。先週も、若い子たちが自殺したというニュースがありました。たいへん心が痛いです。もしも、敵がいることがわかったら、どのくらい多くの人が問題から解放されるでしょうか。

 自殺とは、悪魔が与える死の力以外の何ものでもありません。人間は、一秒でも長く生きていたい動物です。私は小学校二年生の時に、川で溺れたという話をよくしますが、力尽きるまで水中で、もがいていました。
 しかし自ら死を選ぶとは、何事でしょうか。それは、耳元でささやく透明人間がいるのです。
 いつも話しますが、色々な問題があったら、「あいつが悪い、こいつが悪い」というのではなく、家の中に透明人間がいるのではないか、と疑った方が良いと話します。もしも家の中に問題があったら、子どもや夫婦に問題があったら、一度、透明人間がいるのではないかと疑ってみて下さい。
 私がもし「家族を壊せ」というという指令を受けて、透明人間として派遣されたらどうでしょうか。色々、家族の中で状況設定をすると思います。夫婦がもめたら、子どもたちはショックを受けます。そうしたら、学校に付いていき、その子がいじめられるように、状況設定します。目に見えない利点を生かして、いじめっ子を近くに連れてきたり、給食の時間に何かのトラブルを起こすように仕掛けます。
 いじめに成功したら、その子の耳元でささやきます。「明日は学校に行かないで、ゆっくり家で休んでいなよ。」
 その子は、「明日は学校に行くのを止める」と言って行かなくなります。また次の日も、「もう一日休んでみようか。昨日休んで楽だったでしょう。」と語りかけます。
 一週間、二週間、三週間と休みます。しばらく休んだら、今度はこう言うのです。
 「外を見て!みんな楽しそうに、ランドセルを背負って学校に行っているよ。行けていないのはお前だけだぞ。お前は弱いな!」と言ったらどうでしょうか。「そうだ。僕は、本当に弱い。」
 しばらくしたら、「生きていてもしょうがないから、死んでしまえよ。」と声を掛けたら、本当に死んでしまうかも知れません。

 透明人間のような、悪魔・悪霊どもが真剣に働いています。その状況に、この国が気がつかなければなりません。その事をわかってくれたら良いと思います。それをわからせるのが教会の働きです。
 イエス様を信じたら、「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました」とあるように、敵が私たちを訴えることができなくなる、最強の権威を与えると教えています。
 いくら周りに透明人間がいても、私たちを訴えることは出来ないと教えています。素晴らしい特権が与えられます。これに気がつかなければなりません。今日、イエス様を信じている人は、敵に打ち勝つ、最強の権威を受け取っているのです。

 聖書は、「信じてバプテスマを受ける者は救われます」とあります。教会で時々、バプテスマ式があります。バプテスマ式は、水に浸かって出てくるだけなので、儀式のように思いますが、これは神秘です。神様が私たちに与えてくださる、最強の権威を授けてくださる瞬間なのです。
 エペソ二章に、「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました」とありましたが、「ともによみがえった」というのは、イエス様の十字架と復活の同じ立場につくことを意味します。
 イエス様はよみがえられたときに、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威を受け取った」と語られました。そして、「あなたにもその権威を授けよう」と言われています。それが、バプテスマによって提供されます。だから、バプテスマは重要です。バプテスマを受けても、表面的には変わりません。バプテスマを受けて、水から上がったら、額にくっきりと十字架が浮き出た、ということは未だかつて見たことはありません。
 しかし目に見えない霊的な世界では、大きく変わります。コロサイ二章十二節から十五節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 この箇所は、信じる者たちに与えられている、「地上における特権」です。ここには、四段階にわたる特権があります。しかしクリスチャンでも、多くの人がこの四段階の権威を利用していません。
 私は天国に行くと、「コロサイ二章保険事務所」があると思います。それは、四階建てのオフィスです。
 一階では、「罪の赦し」について扱っています。多くのクリスチャンは、罪の赦しの為に、多くの保険申請をしていると思います。一日が終わると、「イエス様、罪を犯してしまいました。赦してください」と祈ります。その事務所には、日本はおろか、世界中から申請書類が上って来て、たいへん忙しいです。
 しかし二階の事務所にも、書類を上げなければなりません。それは、「不利な債務証書を無効にする」事務所です。実は、罪には「債務証書」が付いています。罪とは、カーボンコピーの書類にサインするようなものと思えば良いのです。一枚目は、「あなたは罪人です」という証書にサインして、神の所に届きます。神様はこれを見て、「あの人は罪人」とわかります。しかし、罪の赦しは、その証書を無効とします。
 しかしもう一つは、債務証書です。それは、悪魔と結ぶ契約です。罪は必ず、背後に悪魔が控えています。そこには、「あなたの人生に苦しみ・悲しみを置いても良いですか。悪魔より」と書かれています。罪を犯すということは、そこに「どうぞ」という、許可のサインするようなものです。それが悪魔の手に渡ります。だから罪は神に渡る部分と、悪魔に渡る部分があります。
 特に最強の契約が結ばれるのが、「偶像礼拝」です。偶像礼拝は、「あなたの家系に三代、四代に渡って侵入しても良いですか。悪魔より」という書類に、「どうぞ」という、許可のサインをしているようなものです。その契約書を悪魔が持っているので、悪魔に侵入されるのです。
 サラ金地獄に陥った経験がある人がいるかも知れません。なぜ、サラ金業者に責め立てられるかというと、お金を借りたと言うよりも、契約書があるからです。先方の都合で、朝でも、夜でも、取り立てに来ます。
 悪魔も同じようです。契約書を奪って、向こうの都合で私たちの所に取り立てに来ます。「お前は俺との契約があるから、お前の人生を惨めにしてやるぞ」と侵入して、人生を破壊します。
 しかし二階の事務所は、「不利な債務証書を無効にする」事務所です。私たちは罪を赦していただくとともに、悪魔と結んでしまった債務証書を無効にしていただかなければなりません。無効に出来るのが、聖徒たちに与えられた特権です。
 コロサイ二章保険事務所を忘れないようにしてください。一階の罪の赦し事務所だけではなく、二階にも書類を持って行ってください。それで債務証書が無効となります。

 さらにこの保険事務所には、三階があります。それが「武装解除」という事務所です。武装解除とは、「問題解決部門」です。すべての支配と権威とは、悪魔とその組織ですが、彼らは色々な種類の武器を持っています。その武器で、人々を責め立てます。ある人は、家庭の問題という武器で責め立てられます。またある家は、精神的に苦しめられ、またある家は、経済的に苦しめられ、病で苦しめられます。世界六十億以上の人々を、同時に苦しめるほどの武器を悪魔と悪霊は持っています。
 しかし、その武装を解除するという事務所が三階にあります。三階にも書類を上げなければなりません。この教会の中でも、多くの問題が解決され、奇跡が起こっていますが、それらは、不利な債務証書、特に偶像礼拝からの断ち切りの祈りの後に、問題が解決されています。なぜならば、問題解決の事務所は三階にあるからです。契約を破棄することは、三階の問題解決事務所に入る、パスポートをもらうようなものです。次に、問題解決を得ることができます。信じる者たちはそれを得ることができます。

 そして最後に、『彼らを捕虜として、凱旋の行列に加えられた』とあります。「彼ら」とは、「天にある支配と権威」です。これは、悪魔とその組織を捕虜とするということです。
 時々、「悪魔と悪霊をつついたら、蜂の巣をつつくようなものではないか、寝ているライオンのしっぽを踏むようなもので、逆に立ち向かって来るから霊的戦いなんかしない方が良いですよ…」と言われます。
 しかしその理解は間違いです。これは、御言葉が理解されていません。私たち聖徒たちに与えられている特権は、「悪魔・悪霊どもを捕虜」に出来るのです。私たちに立ち向かっていた悪霊どもは、二度と戦うことが出来なくなるのです。
 ということは、「完全勝利をあなたがたに与える」ということです。それも、イエス様を信じて、バプテスマを受けることによって、四階事務所までご利用いただけるということです。
 バプテスマを受けていなくても、一階、二階事務所、三階の一部ぐらいは利用できるかも知れませんが、、四階は無理なのです。完全勝利を得るためには、バプテスマが重要です。
 バプテスマを受けた者たちは、聖徒に与えられている特権を使うことができるのです。それを意識することが必要です。

 私たちクリスチャンは、永遠に対しても特権をいただき、また、生きる中においても、最強権威で生きることができるという、素晴らしい恵みの中にあります。
 ルカの福音書十章十九節から二十節に、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 私たちはなぜ、このような素晴らしい特権を利用することができるのでしょうか。それは、信じる者たちの名が、「天に記されているからだ」とあります。
 今日ここにおられる方々は皆、天に名が記されています。「滝元順」と私の名も、記されていると思います。
 それゆえに、あなたは特権を使うことができると教えています。天に名が記されていることを心から喜び、永遠の特権、地上での特権を使わせていただきたいと願います。

 今から聖餐式を行いますが、罪の赦しという意識だけではなく、債務証書が無効とされ、問題が解決され、悪霊どもが捕虜となりますよう、お祈りします。


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