喜び、賛美せよ!

2006.12.3(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書 2章8節〜16節
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 ハレルヤ!おはようございます。早いもので、もう十二月になってしまいました。このように皆さんとともに、クリスマスをお祝いできることを感謝します。
 クリスマスは十二月二十五日とされていますが、それは聖書のどこにも記されていません。イエス様のお生まれは、一年、三六五日のうちの、三六五分の一の確率ですので、どこで祝っても良いのですが、便宜上十二月二十五日になっています。しかし、その根源はあまり良い意味ではありません。かつて、ローマで太陽礼拝がなされていましたが、その祭りの日を、ローマ皇帝が無理に変えたという歴史があります。
 何れにしても、イエス様が生まれてくださったことは確かであり、今も、私たちのただ中におられることを、感謝したいと思います。

 今日は「喜び、賛美せよ!」という主題で学びます。この教会は、賛美が盛んな教会です。皆さんとともに元気よく、賛美ができることは嬉しいです。
 先日ある教会から「霊的戦いセミナー」を依頼されました。するとその教会の先生が、「うちの教会には、奏楽者がいないので奏楽もしてくれますか」と頼まれました。そこで私は、昔ギターをやっていたことを思い出し、ギターを持参して出かけていきました。賛美を導き、メッセージもして、ワンマンショーのようでした。
 私は牧師の息子に生まれましたが、賛美はあまり好きではありませんでした。新城教会は賛美が盛んだと言いましたが、五十年前はひどいものでした。五十年前は、私の母が足踏オルガンを弾いていました。そのような中で私は育ちました。教会の音楽はあまり面白くないと思っていました。
 今日、滝元美佐子姉が『イタリア協奏曲』を弾いてくださいましたが、バッハは神の栄光のために曲を作りました。昔は賛美も古い曲が多かったのです。
 しかしそのような中、教会に新しい賛美が始まりました。私は新しい賛美が好きになり、新しい賛美とともに育ってきました。賛美がなかったら、私は今頃どうしていただろうかと思います。賛美を通して、神は人に直接語りかけ、力を与えてくださいます。

 そもそも、人類に音楽はなくてはならないものです。音楽が全くなかったならば、本当に淋しい世界になってしまいます。教会も賛美の時間がなくて、言葉だけであったら、あまり来たくないかも知れません。また、テレビやラジオから音楽が全部消えたら、テレビを見る気にもならず、ラジオも聞く気にならないかも知れません。またデパートに行って、音楽がなかったら、スーパーに行って音楽がなかったら、売り上げも下がるだろうし、楽しくないと思います。また、運動会などで音楽がなかったら、走る気にもなりません。
 何れにしても音楽は、神が人に必要なものとして与えてくれました。神は人類に職業を与えましたが、数々の職業の真ん中に、音楽家たちを与えました。創世記四章二十節から二十二節に、

『アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。』

 牧畜と鍛冶屋という、畜産と農業を支える道具を造る職業の真ん中に、神は音楽家ユバルを備えました。それは人類のただ中に、音楽が必要だという主張だと思います。
 音楽家という仕事で生活している人たちもいます。私の息子は、今、東京でベーシストをしています。彼はベースだけで生活しています。もしも、音楽家という仕事がなかったら、彼はどうなっていただろうかと思います。彼から音楽をとったら、何もできないようです。音楽家という仕事があって良かったと思います。
 音楽と人間は、切っても切れない間柄にあることは確かです。そして、イエス様の誕生のきっかけに賛美がありました。イエス様のお生まれは、旧約聖書の預言の実現です。その始まりの出来事が、ルカ二章八節から十六節に記されています。

 ベツレヘムの郊外で、羊飼いたちが夜番をしながら、羊の群れを見守っていました。すると突然、神の栄光があたりを照らし、救い主のお生まれが告げられました。同時に、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美したとあります。
 イエス様のお生まれの知らせは、「天の軍勢の賛美」から始まりました。クリスマスの出来事の開始は、実に、賛美から始まりました。それは、賛美が、信仰生活においても非常に重要であること教えています。

 『羊飼いたちは野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた』とあります。羊飼いの仕事は、羊の番です。それは彼らの通常業務でした。羊たちの周りには、オオカミがいたり、ライオンのようなどう猛な動物もいましたので、羊たちが食べられないように、番をしていました。そんなただ中に、超自然的な事柄が起こったのです。
 これは、神の働きが、どこに起こるかについても教えています。それは、私たちの通常の生活のただ中に起こるのです。私たちは毎日、通常の生活をしています。朝起きて、ご飯を食べて、仕事に行き、主婦ならば洗濯をし、色々な通常業務があります。同様に、クリスマスは、通常業務のただ中に、神の栄光が現れたことから始まったのです。私たちは、通常生活のただ中に、神の訪れを体験できるのです。

 多くの天の軍勢が現れて神を賛美したとあります。「軍勢」とは「軍隊」とも訳すことができます。クリスマスが、「天の軍隊の賛美」から始まった、というところに大きな意味が隠されているような気がします。
 人類に音楽が与えられていますが、音楽の究極の姿は、神を賛美することであり、神をほめたたえることです。

 「賛美」とは一般的に、下位の者が上位の者に賛辞を与えるという意味があります。先ほど、ピアノの演奏を聴いたとき、皆で拍手をしました。拍手とは、限られた領域の中で、演奏者に対する賛美です。自分ではピアノは弾けませんが、「彼女は素晴らしい演奏をした!」と賛美するのです。しかしそれは、限られた領域の中でのことです。
 来週は、ロンさんとそのバンドが新城教会に来て、賛美をしてくださいます。今回同行するアルフィー・サイラスという女性は、素晴らしいボーカリストだと言われています。ですから、ぜひ、大勢の方をお連れください。ロンさんたちの音楽を聴くと、その演奏に拍手をします。これも、限られた領域でのことです。
 先週は森祐理さんが来てくださり、コンサートをしてくださいました。彼女のステージはミュージカルのようでした。「美空ひばり」の歌や「りんごの歌」など、老人の方々にもなじみの深い歌を歌ってくださいました。心和む素晴らしいひとときでした。
 素晴らしい音楽家の演奏を聴いて、私たちは賛美の拍手をしますが、これは限られた範囲の中での賛美です。

 しかし究極の賛美とは、人間を創造してくださった神に対するものです。ゆえに、賛美とは、歌の中でも最高のものです。教会で歌われる賛美は、創造者に対する賛美です。それは、賛美を超えた「礼拝」の領域です。礼拝とは、すべてを投げ出し、ひれ伏すという意味です。
 また、賛美は、被造物である人類の本分です。私たちを造ってくださった神をあがめることです。人間同士でさえも、素晴らしい音楽を聴いて拍手をするならば、私たちを生かしてくださる創造者なる神を賛美するとは、どのくらい重要であるのかを知らなければなりません。

 詩篇一四八篇一節から十四節は、すべての被造物が主を賛美をしなければならないと、教えている箇所です。ざわめきの賛美の中で「ハレルヤ 天において」という賛美があります。私は、始め、壮大な歌を作ったものだなと感心しましたが、それは詩編の御言葉でした。詩篇一四八篇一節から十四節に、

『ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。
山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。
主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。』

 神を賛美することは、被造物の使命であり、人間の特権でもあります。ざわめきの「ハレルヤ 天において」を賛美をしてみましょう。

ハレルヤ 天において主をほめたたえよ
いと高き所で 主をほめたたえよ
ハレルヤ 地において 主をほめたたえよ
地にあるすべてのものよ 主をほめたたえよ

御使いらよ 主の万軍よ
日よ月よ 輝く星よ
山々よ 丘よ木々よ
鳥よ 獣よ 海の巨獣よ
地の王たちよ 国民よ
息あるすべてのものよ
主の御名をあがめよ
 
 『息あるものはすべて主をほめたたえよ』とあります。私たち、息のある者たちが主を賛美するときに、神が賛美を受け取ってくださいます。そのような構造を、神は人間とご自分との間に造られました。創世記一章二十七節から二十八節に、

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 人間は「神に次ぐ存在」として創造され、人間に与えられた命令は、『海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配しなさい』という命令でした。そのような中、特に人類に与えられた使命が、「主を賛美する」という使命でした。同時に、人類は地を従えていく、地を支配する使命が与えられています。
 そして主を信じる者たちが、集まるただ中で、主をほめたたえるのには、重要な意味があります。詩篇一四九篇一節から九節に、

『ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。

踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。
主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。
聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。
彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。
それは国々に復讐し、国民を懲らすため、
また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。
また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

 『聖徒の集まりで主を賛美しなさい』とあります。それも『踊りをもって』、また『タンバリンと立琴を奏でて』、他の箇所を見ると、『様々な楽器で神様をほめたたえなさい』とあります。
 私たちにとって、毎日が礼拝の日々ですので、生活のただ中において主を賛美しなければなりません。主を賛美することが、『すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ』とあります。特にクリスマスは、賛美とともに始まったということを捕らえ、今週も、心から主を賛美する週でありたいと願います。

 詩篇一四九篇六節には、『彼らの口には神への称賛』とあります。『称賛』という言葉は「賛美」とも訳すことができますが、「称賛」という言葉が使われています。それは、聖書の中でただ一度だけ使われている言葉だからです。それは、「最も高められた賛美」という意味です。賛美の中でも最も高められた賛美という意味において区別され、「称賛」という言葉で訳されています。聖徒たちの集まりの中では「神への称賛」、「the highest praise」一番高められた賛美を歌うべきなのです。
 そして賛美には、神をほめたたえると同時に、もう一つの役割があります。詩篇一四九篇六節に、

『彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。』

 「もろ刃の剣」とは「両側に刃が付いた刀」です。日本の刀は片方にしか刃がありませんが、ヨーロッパでは両側に刃が付いているものがあります。賛美は両刃の剣であるとあります。一方では神をほめたたえ、また、もう一方については、七節に記されています。

『それは国々に復讐し、国民を懲らすため、

また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。
また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

 賛美の究極的な意味合いについて、神を心から賛美するという事については、何の異存もありません。しかし、両刃の剣には、もう一方の刃がついており、それは『鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族を縛るため』とあります。
 賛美の中で、人類の敵である悪魔とその勢力である、悪霊どもが縛られ、打ち砕かれ、神の栄光が取り戻されるのです。
 私たちは何気なく賛美をしていますが、一方では、神ほめたたえ、一方では悪しき力が打ち砕かれるということが起こっています。
 そもそも人間には、『海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ』という使命がありました。その中に「地を這う狡猾な生き物」である「悪魔・悪霊ども」も含まれます。
 どのようにして、私たちは地を這う狡猾な生き物、悪魔・悪霊どもを打ち破るのでしょうか。それは、賛美の中に秘訣があります。賛美は神が人間からの祝福を受け、栄光が回復されているのと同時に、もう一方では、悪魔の力が打ち破られているのです。賛美にはそのような機能があり、これが「すべての聖徒の誉れである」と教えています。
 私たちは何気なく賛美しているようですが、暗やみの力が打ち破られていることを意識する必要があります。詩篇一四四編一節から四節に、

『ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。

主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。』

 神様は私たちを、戦のために鍛えてくださるとあります。それとともに、「人とはいったい何者だろうか」という問いがあります。
 詩篇には人類の問いが答えとなって多く表わされています。「人とはいったい何者なのでしょう」という答えが、詩篇八篇にあります。八篇四節から五節に、

『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 「人とは何者なのか」・・・それは「神よりもいくらか劣る存在」だとあります。時々、「私は塵芥のようで何の価値もない、とるに足りない者だ」とへりくだった表現をされる人がいますが、人間はそんなちゃちな存在ではありません。人間は、神よりいくらか劣るポジションの偉大な存在だと教えています。
 しかしそれは悪魔にとっては困った存在です。なぜなら人は、自分よりも位が上だからです。人間が命令を発したり、神を賛美したら、自分たちは打ち破られなければならないからです。だから何とかして、人間の持っている自己イメージを低くしなければならないのです。
 「お前は駄目だ。お前は何の価値もない!」と嘘ぶきます。もしも皆さんの中で、「私には何んの価値もない」という声を聞いていたら、それは自分の声ではなく、悪魔の声なのです。神様はなんと言われるのでしょうか。
 人とは何者なのでしょうか・・・・「あなたは神よりもいくらか劣る存在で、地を従えることができる、すごい存在ですよ」と言われます。そして、あなたを戦のために鍛えてくださると教えています。
 賛美によって敵の力を破るために、あなたを鍛えてあげると教えています。神は、敵の力を破るために、人類を鍛えてくださるのです。人類には戦いのポジションが与えられているのです。

 歴史を見ると、人類に与えられている賜物が、悪魔に奪われている現実を見ることができます。今年も、実に、戦争の多い一年でした。日本の戦後の歴史を見ると、平和が六十年も続いたのは奇跡的なことです。今後どうなっていくのかわかりません。今の政治的な動き、国際的な動きを見ていると、日本も危ないと感じます。自衛隊が海外で活動できるように自衛隊法が改正され、教育基本法も改正されつつあり、少しずつ国を愛するということが政治的に利用されようとしています。新教育基本法が通過すると、憲法改正論につながります。歴史は繰り返されるので、きっと将来は、このままでは日本も戦争に巻き込まれるでしょう。祈らなければなりません。
 明治維新後、約百四十年の間に、日本は大きな戦争を七回ほど経験しています。明治維新の内乱、日清、日露、第一次大戦…など、ここには明治生まれの方はおれらないかもしれませんが、大正生まれの方でも、いくつもの戦争を体験したと思います。人類が戦争をしなかった時代はありません。現代から遡って二百年の歴史の中で、目立つ戦争だけでも四百回以上あります(累計死者は一億六千万人以上と言われます)。
 人類はいつも戦っています。動物で戦争をするのは、人類以外にはありません。シマウマはライオンに食べられます。一頭のライオンが一生のうち、三五〇頭のシマウマを食べるとありました。そんな悲劇がシマウマに起こっているのにもかかわらず、シマウマとライオンが戦争をしたとは、聞いたことがありません。また、カラスも、朝のカラスと夜のカラスが東と西に分かれて戦争をしたとは、聞いたことがありません。
 しかし人間だけに強い闘争心があります。なぜなら、人類は戦うために創られたので、戦う相手がはっきりしなければ、人間同士の戦いとなり、出口のない戦いに引き込まれるのです。
 悪魔はそのことをよく知っています。人間は戦いのために造られた生物ですから、戦いが自分たちに向けられないように、人と人の間に戦いが生ずるようにし向けます。人類には、戦う使命があるゆえに、どこかに戦いの矛先を向けていくしかないのです。そうでなければ、人間は満足しないのです。
 短気な人がいると思いますが、本当は、霊的戦いの勇士だと思います。その性格が勝ち取られると、悪魔に対する破壊力となります。しかしそれが勝ち取られなければ、人にばかり当たります。
 私は昔、メチャクチャに短気でした。しかし、聖霊様に触れられてから、短気ではなくなりました。以前は、牧師になっても短気な性格でした。クリスマスの時、ある高校にチラシ配布に行きました。校門で配っていると先生が出てきて、「おい。キリスト教。そこで配るな!あっちに行け…!」と言いました。私はムカッとしました。その先生に向かって、「テメイ、ちょっとこっちへ来い!お前、俺を誰だと思っているんだ…」「知らないよ。キリスト教だろう。」「お前。キリスト教をなめんじゃないよ。ここは天下の公道だぞ。ここで配って何が悪いんだ…。ちょっと来い、ここに座れ!バカ野郎…」と言うと、びっくりしていました。「お前、一緒に警察に行くか。営業妨害だぞ。」と言うと、最後には、「すみませんでした」と言いました。
 私は「ざまあみろ!」と思いました。すっきりしましたが、そのような性格は、後から何も良いことはありませんでした。「あそこの牧師はヤクザみたい」と言われ、人々は教会には来ませんでした。
 短気で良いことは何もありません。しかし、聖霊様が私に触れてくださってからは、私は変えられました。そして、人には愛、悪魔に短気と変わりました。そして、悪魔に対して立ち向かうようになりました。
 人間はそもそも、戦いのために造られているので、その賜物が取り戻されなければ、お互いの間で戦って、傷つけ合うことになります。私たちの賜物が勝ち取られたら、今度は、神に対して力一杯賛美し、一方では、悪魔を打ち破るために用いられます。「それが聖徒の誉れ」とあります。皆さんの中で短気だと言われる人は、あなたに戦いの賜物があります。私は経験から、それを保証します。

 そもそも、クリスマスがなぜ賛美とともに始まったのでしょうか。その理由について探ってみたいと思います。
 イザヤ書十四章十一節から十五節に、

『あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』

とあります。この記述は、ある国(アッシリア)に対して語られています。しかし、前後をよく読むと、それは国王と言うよりも、悪魔の起源について教えていると考えられます。
 悪魔・悪霊の起源については、あまり記されていませんが、かつて人類が創造される以前に天使族がおり、彼らの役割は神を賛美することでした。その中で、聖歌隊長のルシファーという天使がいました。彼は神の前で賛美していましたが、ある時、「俺も神のようになりたい」と考え、神様のポジションを奪い取ろうという、大それた考えを持ちました。その結果、彼らは地に落とされ、悪魔・悪霊どもになりました。

 『あなたの琴の音はよみに落とされた』とあります。その記述から、彼らが賛美と何らかのつながりがあったと思われます。本来は神を賛美する存在が、歌声と共に地に落とされたのです。
 神はその現実を、放っては置かれません。「わたしに対する賛美が地に落ち、悪魔や悪霊にとられてしまった。仕方がない」では終わりません。それをもう一度、回復しなければ神ではありません。
 回復するために、神は、御子イエス様をこの地上に送られました。ゆえに、イエス様の誕生のはじめは、「天の軍勢の賛美」とともにありました。元々、賛美は神様のものでしたが、悪魔・悪霊にとられ、地に落ちてしまいました。それをもう一度、神への賛美として悪魔の手から取り戻し、神への栄光を回復するために、神が人となってこの地上に来られ、人類の立場を回復し、人類を神を賛美する立場へと回復されたのです。

 一方では、人類を通して、暗やみの力を破る使命が与えられているということです。ですから、クリスマスが賛美とともに始まったという事実は重要です。
 今、私たちは二十五日まで、毎晩七時半から八時まで、中庭でPPH(プレイズ・アンド・プレイズ・アワー)をしています。お時間があったらぜひお越し下さい。クリスマスは賛美を取り戻す時であり、賛美についてよく知る季節でもあると思います。今日は午後二時から「Zawameki church live」が行われます。神様をほめたたえるだけではなく、賛美を悪魔の手から取り戻すのです。賛美は神様をたたえる側面と共に、敵の力を破る使命があるのです。これが人間に与えられている使命です。

 賛美については、他にも、多く学ぶ事柄があります。詩篇一四七編を見ると、賛美の中に、「回復、一致、リバイバル、いやし、使命、献身、主の偉大さ、戦い」があることを教えています。詩篇一四七篇一節から六節に、

『ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。
主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。
主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。
われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。
主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。』

 賛美すると、『彼らの傷を包んでくださる』とあります。癒しが来るとあります。私が願っていることは、賛美の中で人々が癒され、解放されることです。
 新城教会に聖霊が強く訪れたのは、一九九二年のことです。それは、この教会の賛美が最も盛んになった年でした。一九九二年に正月には、「九十二時間連鎖賛美」が行われました。四日間近く、心から主を賛美しました。神に対する賛美が最も高められたその時に、両刃の剣のもう一方の刃が動きました。聖霊が注がれ、暗やみの力を破るという領域に導かれました。

 毎日の生活の中でも、心から主を賛美をしていただきたいと願います。毎日の生活の中で賛美が心からわき上がっているでしょうか。どんな歌があなたのこころをを支配しているのでしょうか。一日中、頭の中を回っている歌は、その人のこころを支配しているものだと思います。賛美が私たちのこころを支配すべきです。演歌や童謡ではなく、主を賛美する歌が、心に響いていたら素晴らしいと思います。
 詩篇一四七篇十二節から十四節に、

『エルサレムよ。主をほめ歌え。シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。
主は、あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。
主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。』

 ここで、『主をほめたたえよ』と賛美の関連の中で、十三節と十四節が述べられています。賛美の中に、『あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福する』とあります。家族の守りのためにも、賛美が必要です。家族の守りは大きな主題です。どうしたら家族を守れるのでしょうか。保険に入るのも良いかも知れません。しかしそれ以上に、賛美することは、門のかんぬきを強め、敵が入らないようにしてくださり、家族や子どもたちを祝福してくださると教えています。

 また十四節には、『主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる』とあります。隣の人との関係、人間関係も祝福され、守られるとあります。最良の小麦であなたを満たされるとあります。あなたの生活一般も祝福されるとあります。日々の生活の中に賛美が満ち溢れるのは重要です。
 九十二年に聖霊が注がれたときに、主が触れてくださり、聖霊によって踊り出してしまうようなことが起こされました。その時、ヨエル書二章二十一節から二十四節の御言葉が与えられました。

『地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。』

 『地よ。恐れるな、楽しめ喜べ。』と命令があります。今日は主題は「喜び、賛美せよ!」と付けましたが、「楽しめ、喜べ」とは、「喜び、賛美せよ!」ということばに通じます。私たちが心から主をほめたたえて賛美する時に、「はじめの雨と後の雨とを降らせてくださる」とあります。聖霊の激しい注ぎが賛美の中で与えられる、そして「打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。」とあります。
 主の訪れの時、羊飼いと同じように驚き、怪しむようなことがありましたが、最終的には喜びに変えられました。祝福に変えられました。神様との関わりは、時には驚きがありますが、最終的には喜び、楽しむというところに行き着きます。
 イエス様を信じたら、あなたに楽しみと喜びがついてくる、そして喜びの賛美が溢れますと教えています。
 偶像礼拝に関わる不思議としるしや霊体験は、必ず恐怖に持って行かれます。しかし、真の神の訪れは、楽しみと喜び、賛美につながります。

 今日、私たちは天の軍勢が現れて、主を賛美したのと同じように、心から主を賛美することに心を留めましょう。また、もう一方の働きである敵の力を破ること、「それは聖徒の誉れである」と学びました。そのような賛美と共に十二月を過ごしたいと願います。

 今週はその短気な性格が、戦いの賜物として勝ち取られ、その刃が悪魔に向きますように。短気な性格の方は、まずは主を賛美する方向へ一方の刃を向けましょう。賛美の両方の側面を受け取ることができるように、お祈りしましょう。


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