どん底からの脱出

2006.12.17(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 イザヤ書9章1節〜7節
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 ハレルヤ!おはようございます。この十二月、教会では連日のようにクリスマス集会が開かれています。皆さんのお祈りとご協力により、大変素晴らしいクリスマス集会が行われています。先週の日曜日は、ロン・ブラウンさん、アルフィさん夫妻が来てくださり、コンサートが行われました。
 また、昨日は、子どもたちの為のクリスマス集会がありました。クリスチャンの子どもたちが一生懸命祈って準備をし、多くの子どもたちが集まりました。四四〇名近くの子どもたちが集まりました。また、子どもたちが自主制作した劇もありました。
 イエス様も生まれたときは子どもでした。しかし大人になるにつれ、大きな働きをされました。子どもの時代は、「将来、どんな人物になるのだろうか」と不安になります。しかしイエス様とともに歩めば、神の目的があります。

 さて、今日は、「どん底からの脱出」というテーマで話します。クリスマスは、人類の「どん底からの脱出記念日」でもあります。クリスマスが、サンタクロースの誕生日で、プレゼントがもらえる日かのように思っている人がいますが、イエス様の誕生日です。

 ある朝、子どもが起きると、枕元にプレゼントが置いてありました。「わ〜い、サンタさんが来た!」とはしゃいでいたそうです。そして、「お母さん、サンタさんって、結構近いところに住んでいるみたいだね。」と言いました。お母さんが、「なんで?」と聞くと、「だってプレゼントの包装紙がユニーのだもん。」

 イエス様は、人類をどん底から救い出すために生まれてくださいました。聖書から、イエス様が生まれた理由について知るなら、その意味が人生に現れます。
 イエス様がこの地上に来てくださった目的は、どん底から人類を救い出すためでした。イザヤ書九章一節から二節に、

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。』

 イザヤはイエス様がお生まれになる、七百年以上も前に、この地上に生きた人物です。神は以前、預言者たちの口を通して言葉を語られました。預言者の一人であるイザヤが、イエス様のお生まれを預言しました。その中で、『苦しみのあった所に、闇がなくなる』と語りました。七節は、イエス様ご自身について預言しています。六節に、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

 この記述は、イエス・キリストご自身以外の何者でもありません。イザヤの時代、「神が人になる」という概念はありませんでした。しかし、イザヤは神からの言葉を語りました。『不思議な助言者』とは聖霊様です。『力なる神』とありますが、イエス様は神です。『永遠の父』とあります。先ほど、「アバ父」と賛美しましたが、永遠の父なる神が人の姿をとって、この地上に来てくださったのです。そして彼は、『平和の君』です。
 イエス様はでっち上げられた神ではなく、来るべくして来られた真の神です。私たちは、旧約聖書と新約聖書が一冊になった「聖書」を持っていますので、旧約聖書に記されていることが新約聖書で実現しても、別段不思議ではないと思うのかも知れません。
 けれども、聖書という書物は六十六巻の書物が一つに集まったものであり、一冊一冊時代を異にし、違った筆者によって書かれました。イザヤ書も、独立した書物でした。そのように考えると、イエス様の生まれる七百年前に、イエス様の誕生が預言されていたとは、すごいことです。

 エルサレムに行くと、国立博物館がありますが、そこに紀元前の聖書が保管されています。クムランという所で発見された、「死海文書」の中に、イザヤ書が含まれていました。日本神話のように、でっち上げられた神々ではなく、生ける神に私たちは仕えるのです。
 イエス様の到来は、『苦しみがあった所に、闇がなくなる』とあります。どん底に座っていた人たちがそこから脱出すると教えています。
 「ゼブルンの地」、「ナフタリの地」とは、北イスラエルに属し、この地域の人々は、アッシリア帝国に捕囚され、イスラエルの中でも最も大きな苦しみと傷を受けた人々でした。イエス様は、ベツレヘムで誕生されましたが、宣教地は、このゼブルンの地、ナフタリの地と言われる、「ガリラヤ湖周辺」でした。イスラエルの中でも、とりわけ大きな苦しみを受けた人たちが住んでいた地域で福音を語られました。

 神が目を留めておられるのは、高貴な、お金持ちや、地位や名誉がある人々ではなく、人生の中で最も苦しみ、どん底にいる人々に目を留めておられるのです。
 またイエス様は、ユダヤ人として生まれましたが、ユダヤ人は、有史以来、世界の諸民族中、最も多くの苦しみを受けてきた民族です。第二次大戦の時も、ナチス・ドイツによって、ユダヤ民族の三分の二にあたる六百万人が虐殺されました。子どもたちからお年寄りまで、国民全体がひどい目に遭わされました。歴史を調べると、ユダヤ人たちが体験した苦しみや悲しみは、他のどの民族も味ったことのない程のものでした。
 イエス様は、どん底にいる人々を見捨てることはないのです。もしも、どん底にいても諦める必要はありません。

 『ミデヤンの日に成されたように、敵を粉々に砕かれる』と、イザヤ書九章四節にありますが、士師記の中に出てくるギデオンは、たった三百人の勇士と共に、ミデヤンの大群を粉々に打ち砕きました。その時のように、イエス様はすべての敵を、粉々に打ち砕いてくださるのです。
 周りには、見える敵、見えない敵など、色々いるかも知れませんが、イエス様の勝利は、ミデヤンの日の勝利のように、すべての敵を粉々に砕いてくださると教えています。

 さて、クリスマスとは、旧約聖書では言葉だけで紹介されていた神が、現実的に姿を現わされた日です。ヨハネ一章一節から五節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』

 時々、電話だけ、メールだけの付き合いがあります。私も色々な方からメールをいただきますが、「これはどなただろうか」とわからない人もいます。
 最近、「出会い系サイト」などがあり、メールだけでコミュニケーションします。そのうち、可愛い女の子だろうと思って出会ってみると、おばさんであったり、女性だと思っていたら、男性だったということもあるようです。そんなものに頼ってはいけません。危険がいっぱいです。

 イエス様には間違いがありません。言葉なる方が、現実の世界に、そのまま現れてくださいました。『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』とあります。
 光とは、神ご自身を象徴しています。闇とは、敵の勢力であり、悪魔の力を表しています。『光はやみの中に輝いている』とありますが、悪魔に牛耳られ、どん底に伏している人々に光が現れ、闇を完璧に打ち砕くまで戦ってくださるのです。
 今、どのような状況でも、諦めてはいけません。イエス様の誕生は、そもそも、どん底からの脱出のためであったと知る必要があります。

 クリスマスの時期になると、毎年、新城教会では一ヶ月間のとりなしの祈りがあります。二〇〇四年は、「地のどん底祈祷」というテーマが導かれました。どん底に主の勝利が現されるようにと祈りました。それで、社会にある「どん底」と思われる場所に行って、とりなしの祈りをしました。象徴的に、新城市において地理的に最も低いところを選んで、毎晩、三十日間祈祷会を開催しました。豊川(とよがわ)がありますが、その川辺が一番地理的に低いところなので、そこで賛美と祈りをしました。
 また、社会でどん底と思われるような場所にも出向いて祈りました。社会には、色々などん底があると思います。私は東京にある「最高裁判所」に行って祈りました。裁判は、始めは家庭裁判所ですが、地方裁判所、高等裁判所、やがて、最高裁判所にまで行きます。最高裁判所に行くまでは、死刑判決が出たとしても上告できます。最高裁に行くまでは、判決が変わる可能性があるのです。
 しかし、最高裁判所にまで行くと、その決定は変えられません。最高裁で死刑判決が出たら、二度と覆すことはできません。最高裁判所は、死刑囚にとっては「どん底」です。
 そのように考えてみると、色々などん底があります。二〇〇四年は、どん底で祈るように導かれました。今でも、医学的にどうにもならない、手の施しようのない病の人々がいます。病いのどん底、また、経済的どん底、法律的どん底、家族のどん底、夫婦のどん底など、色々などん底があるかも知れません。しかし神様は、そんなどん底に光を当ててくださいます。

 イスラエルに行くと、ほとんどの地域が砂漠や荒野です。水のない所です。水のない所と聞いても、日本人にはあまりぴんと来ません。しかし最近、少しづつ、日本人も水の価値を認識してきました。なぜならば、水を買うことが一般化してきたからです。最近、水道水をあまり飲まなくなったと思います。近ごろ、私の家も器械を置いて、そこから水を飲み始めたら、美味しくて、ずっとその水を飲んでいます。水は今までタダだと思っていましたが、買う物だという意識に変わって来ています。
 イスラエルに行くと、水は大変貴重なものです。砂漠や荒野に行くと、水がありません。しかし、そんな砂漠や荒野でも、水のある所があります。それは、谷底に下りていくと水があります。崖っぷちを下りて行くと、渓谷の底に喉の渇きを癒す水が流れています。
 『鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。』という御言葉があります。鹿は普段、荒れ地を駆け巡っていますが、咽が渇くと水を求めて谷を下りていきます。すると谷底に水があります。
 時々、私たちは、どん底を味わうことがあります。「もうこれ以上進めない、どん底だ。望みがない」と思われるときがあります。しかし、そこがいのちの水の流れている場所だ、と聖書は教えています。
 教会に来る人のきっかけの多くが「どん底」です。どうにもならない理由で、教会に来られます。
 人生の中でどん底を味わされる時があるかも知れませんが、そのどん底が、いのちの水との出会いの場所なのです。ここにおられる方々も、いのちの水を体験されたことでしょう。どん底こそ、水の流れている場所なのです。ダビデは、荒野や砂漠を見ながら詩編を作りました。詩篇四十二篇一節から二節に、

 

『鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。』

 喉が渇いたら水が欲しいです。私たちもどん底に陥ると、「神様!」と心から叫びます。この箇所が賛美になっています。

谷川の流れを慕う 鹿のように
主よ我が魂 あなたを慕う
あなたこそ 我が盾 
あなたこそ 我が力
あなたこそ 我が望み 
我は 主を仰ぐ

 ある時、アメリカの新聞に、次のような記事が掲載されました。

「もし君が時に落胆することがあったら、この男の事を考えてごらん。小学校を中退した。田舎の雑貨屋を営んだ。破産した。借金を返すのに、十五年かかった。妻をめとった。不幸な結婚だった。下院に立候補。二回落選。上院に立候補。二回落選。歴史に残る演説をぶったが聴衆は無関心。新聞には毎日叩かれ、国の半分からは嫌われた。こんな有様にも関わらず、想像して欲しい。世界中、至る所のどんなに多くの人が、この不器用な、不細工な、むっつり者に啓発されたかを。その男は、自分の名前をいとも簡単にサインした、アブラハム・リンカーン。」

 アブラハム・リンカーンは、アメリカ十六代目の大統領ですが、彼によって奴隷解放が成し遂げられました。しかし、彼の人生はいつもどん底でした。けれども、彼は、イエス様に出会いました。それで決して諦めることなく、やがて、一国の大統領となり、誰も成し遂げることが出来なかった「奴隷解放」を成し遂げたのです。
 時々私たちも、どうすることもできない、落胆した人生を味わうかも知れませんが、神様は、そんな中でも希望の光を与え、誰も成し遂げることができない、重要な仕事のために、あなたを用いてくださいます。

 外務省に勤めていた人に聞いたのですが、天皇が出かけるときには台本を作るそうです。それは、天皇が三歩歩いたら何をするかという台本だそうです。リハーサルをして、三歩づつで台本を組んでいくようです。そこまで管理されたら、辛いだろうと思います。三歩に一回の行程が組まれます。
 神様は私たちを、どのように守ってくださるのでしょうか。詩篇一三九篇三節に、

『あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。』

とあります。天皇は三歩に一回の割合で、台本に刻まれます。しかし私たち、神の子どもたちには、私の道を「ことごとく」知っておられるとあります。神は私たちの一歩一歩、すべてを知っておられます。
 時々、将来がわからない時があるかも知れません。しかしイエス様は、あなたの道をことごとく知っておられるのです。また聖書には、『明日のための心配は無用です』とありますので、心配しないでください。今日から明日への歩みを、神が知っていてくださるなら、力強く生きることが出来ます。どんなどん底にも、光を照らしてくださるのです。そのために、イエス様は生まれてくださったと、知る必要があります。

 さて、私たちの内側に起こる戦いについて、聖書は次のように教えています。第二コリント十章三節から六節に、

『私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 私たちの歩みは、目に見える領域です。しかし私たちの中に起こる戦いは、「肉に従って戦ってはいない」とありますから、霊的な戦いです。そして、神があなたに与える武器は、目に見えない領域に形成される、「悪魔の要塞を破る武器」だと教えています。
 どん底の人々に、神は武器を与えてくださいます。どん底とは、見える状況かも知れませんが、その問題の発生源は目に見えない「霊的領域」です。
 そして神が与えてくださる武器とは、見える領域の武器ではなく、見えない領域で戦う武器です。
 悪魔の要塞は、『さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり』とあります。悪魔が立てこもる要塞は、「私たちの思考の中」にあります。それは、神の知識とは逆の思弁や知識です。それが、悪魔の活動できる要塞であると教えています。

 日頃、私たちは、神の知識とは反対の知識の世界に生きています。しかし私たちは教会に来て、神の知識を身につけます。その時、思考の中に形成されている悪魔の要塞が打ち砕かれ、どん底から解放されると教えています。私たちが毎日、御言葉を読み、祈りをささげる中で、悪魔に教えられた知識から、神の知識へと置き換えられます。その時、私たちの思考の中に形成されていた悪魔の砦が、音を立てて崩れていきます。
 悪魔は何とか、私たちに神の知識以外のものを与え、その知識で生きるようにと働きます。

 悪魔は、「どん底に行ったら、もう救いようがない」と言います。今、日本で三万人以上が自殺します。彼らは、悪魔の知識を持っています。もちろん、色々な状況があることも事実ですが、基本的には「どん底に来たら、どうにもならない、選択は死以外ない」という知識です。だから、三万人以上の人々が死んで行くのです。
 しかし神の知識は、「どん底にも光がある」「そこに水がある」「諦めてはいけない」と言われます。神の知識を選ぶならば、悪魔の策略は打ち砕かれます。

 さて、日本人の宗教観の根底に「陰陽の理論」があります。それは、すべての事象を、「陰と陽」というセットで捕らえる考え方です。これは、儒教に色濃く反映されている考え方であり、中国から始まり、朝鮮半島を経て日本にも入ってきました。それで、日本の諸宗教の根底は「陰陽道」だと言われます。
 例えば、神社に行くと狛犬がありますが、一方は口を開き、もう一方の口は閉じています。これを「阿吽/あうん」と呼んでペアでセットです。その根底は、陰と陽であり、影と光です。この思想は太陽礼拝から来ています。太陽は、一日のうちに再生と死を繰り返します。ですから、すべての物事はペアになっており、一方だけでは物事は成り立たないと考えるのです。
 上があれば下があり、右があれば左がある、男があれば女があり、熱いものがあれば冷たいものがある…というように、すべてにセットがあります。
 しかし「陰陽のバランス」とは、その考えの延長で、「良い神があれば、悪い神もいて、悪い神も必要だ」と考え、「良い神と、悪い神がぶつかり合って、バランスを保っているときが平和だ」という考え方です。それが日本人の心の根底に座しています。ゆえに、良い神も悪い神も、一様に祀っておこうと考えます。
 日本神話の神々には、悪神が多く出てきます。また、仏教はヒンズー神がほとんどですが、恐ろしいものばかりです。なぜなら仏教は、陰陽思想の世界観で成り立つ宗教だからです。
 日本人は幼い頃から、こころの中に「二つの入れ物」を持たされます。それは、「光があれば闇がある」「良い神があれば、悪い神もいる」また、「良いことが起これば、悪いことも起こる」という考え方の器です。
 初詣に行って、「大吉」が出たら不安になるのです。なぜなら、良いところから始まれば、これからは後退して、悪いことが起こると考えます。その考えの発生源は、陰・陽であり、こころの中にある二つの器です。私たちはそのような考えで成り立っている社会構造の中に生きています。それがあたかも真理であり、当然の知識かのようにインプットされています。

 さて、これは神様の知識でしょうか。クリスチャンになっても、良いことがあったら、悪いことがあるだろうと考えます。しかしこれは、神様が与えた知識ではなく、「悪魔が与えた知識」です。
 第一ヨハネ一章五節に、

『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。』

とあります。また、ヤコブ一章十六節から十七節に、

『愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

とあります。「時には良い物、時には悪いものを与えてくれる」と考えているかも知れませんが、それは神が与えた知識ではありません。それは、中国から朝鮮半島を越えて日本に入ってきた「陰陽の理論」です。
 そのような考え方が、私たちの心の中心に座っています。そのような知識を持っていると、祝福の器が満たされると、悪魔が近寄ってきて、「お前にはもう一方の器がある。今度は闇の器を満たしてやる。そうでないとバランスがとれない」と主張します。
 私たちは、陰・陽の神々に仕えているのではありません。私たちの神は光であり、その中に「暗いところは一つもない」のです。良いものは神から来るのです。真の神は、「悪いものを与える神ではない」と教えています。神には移り変わりや、暗い影はないのです。

 二〇〇四年は、どん底を祈るように導かれましたが、二〇〇五年は「高き所」というテーマで祈りました。地理的にも高いところで祈りました。また、人間的な高い権威ではなく、高きところに「神の権威」が置かれるようにと祈りました。
 例えば、町における行政的に一番高いところは市長ですから、市役所に行き祈りました。

 そして今年、二〇〇六年は、「光と闇」というテーマで祈るように導かれています。それは、どん底と高い所、両方が光で満たされるようにという祈りです。「神の領域に、悪いものは何一つとどまることはできない、光と闇は同時存在できない!」と宣言して祈っています。
 皆さんの信仰生活の中に、光と闇は同時存在できません。神様は良い方であり、あなたのうちに闇を残すことを容認されるお方ではないのです。イエス様は、闇を一掃するまで戦ってくださいます。どん底のままで、置かれることは決してありません。どん底にも光が照ります。「天よ喜び歌え」という賛美があります。

天よ喜び歌え 主がこれを成し遂げられた
地のどん底よ 喜び叫べ

 地のどん底が喜び叫ぶのです。私たちは悪魔が置いた知識を捨て去り、「私たちの神は光であり、暗いところは何一つない」、「神はどん底をそのまま放っておかれる方ではない!」と宣言しましょう。

 イエス様のお生まれは、「闇の中に座っている者たちに、光が照った」というところから始まっています。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。』

すべての領域が、光によって満たされるために、イエス様はお生まれになったのです。第一ヨハネ三章八節に、

『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』

 イエス様がこの地上に生まれてくださったのは、闇の根源である悪魔の仕業を壊すためでした。悪魔の仕業とは、神の知識とは逆の知識を押し付け、そこに働きの拠点を設けることでした。
 しかし神が人となってこの地上に生まれてくださったのは、悪魔の仕業を打ち破り、すべてを勝利で満たす為であることを信じましょう。どのような状況にあったとしても、信仰を持ちましょう。神の御言葉は真理です。一人一人のどん底に、主が御手を伸べてくださり、光の場所となるようにお祈りします。
 日本人の心にある、陰と陽のセットが打ち破られ、神の光だけが支配するように祈ります。

 「イエス様。あなたのお生まれを、心から感謝します。地のどん底に座している者たちを救うために、この世に来てくださったことを感謝します。地のどん底から、天に至るまで、喜びに満たされ、光りに包まれるために来てくださったことを感謝します。私たちの人生に、どん底は存在しないことを宣言します。日本古来の陰陽セットのような、悪魔が押し付けた考え方を打ち破ります。神は光であってその中に暗いところは何ひとつないという御言葉を宣言します!御名によってお祈りします。アーメン」


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