ハッピークリスマス!
〜死の陰にすわる者たちを平和の道に導く〜

2006.12.24(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

新約聖書 ルカの福音書1章67節〜79節
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

 メリークリスマス!クリスマスおめでとうございます。今日、このようにクリスマス礼拝を持つことができて感謝します。
 また、ユース・クワイヤーの素晴らしい賛美を聞くことができて感謝します。幼い頃からイエスさまを信じて、教会で育っていく姿を見るときに、日本の将来に希望があります。
 今日は「ハッピー・クリスマス!」というタイトルです。全世界で、クリスマスが祝われていますが、クリスマスはイエスさまの誕生を祝う日です。
 案外日本人は、クリスマスの意味がわかっていないのです。クリスマスを「X・MASS」と書きますが、数学でXは未知数で、何かわけのわからないものをお祝いする日としか考えていないのかも知れません。
 先日ある人と話したら、職場でクリスマスの意味を知っているかと聞くと、「キリストが死んだ日だら」と言われてしまったそうです。
 死んだ日ではなく、イエスさまがお生まれになった日です。日本人は、年間三回ほど宗教が変わると言われます。明日までは、どこにいってもクリスマス一色で国民全体がキリスト教徒っぽいですが、二十六日からは正月準備で、神道一色になってしまいます。
 そして八月になると盆が来て、仏教徒になるというような、わけのわからない宗教観です。何れにしても、今日と明日は素晴らしいクリスマスです。私たちは心の底から、イエスさまのお生まれを祝わなければなりません。それも今、生きておられるイエスさまをお祝いしなければなりません。多くの場合、クリスマスには、赤子のイエスさまが登場しますが、それはおかしいと思います。
 皆さんの誕生日に、毎年、生まれた時の写真を見せられたら、あまりいい気持ちではないと思います。イエスさまはお生まれになって、二〇〇〇年が経ちますが、永遠のお方であり、今も生きておられるお方です。

 この教会においても、連日のようにクリスマス集会が行われています。先週は、中高生のための「レッツ・プレイズ」という集会がありました。中高生の集会には若者たちがよく集まります。二百名以上の中高生たちが集まりました。私はそこでメッセージを語りました。私は年間、色々な集会で話しますが、一番辛い仕事が中高生集会だと思っています。話を聞いているのか、聞いていないのか全くわからないような感じで、トイレには行くわ、話しているわ、などと色々な人がいます。しかし、とても内容の濃い集会でした。
 現在、教育の中に色々な問題がありますが、教育の中で聖書が教えられるようになったら、日本は変わると思います。
 日本の教育の根底に進化論があります。進化論とは、「強い者に価値があり、強い者だけが生き残る」という「自然淘汰」の考え方ですから、強い者に価値があるような錯覚を持ちやすいのです。
 しかし聖書は、「ひとりひとりが神の作品であり、神によって創られた」と、はっきりメッセージを送っています。ひとりひとりが神の作品であり、また、神の目的があります。様々な背景と環境から教会に集まっておられますが、ひとりひとり神様の手作りであり、その神様が、人生を導いてくださいます。

 クリスマスとは、「ハッピー・クリスマス」です。私には、クリスマスに必ず、恒例の食事会があります。それは私が主催しています。そして代金のすべてを支払います。それは、豊川市の授産所から来られている方々のための食事会です。今年こそ、彼らは忘れているだろうと思っていたら、電話がかかってきました。
 「順先生、今年の食事会はどうなった?忘れていないでしょうね…」と催促がありました。それで、今年は昨日行いました。彼らはたくさん食べて、楽しいひと時を持ちました。

 なぜ、そんな食事会が始まったのかというと、一つのストーリーがあります。それは、授産所から来ているH君が病気で入院したからです。しばらくすると、彼は新城市民病院から豊橋市民病院へ転院しました。私は彼を見舞いに行きました。すると、彼は、急性白血病と診断され、手の施しようのないような状態でした。施設でも、「彼は残念ながらもうここへ戻ることはできない」というアナウンスがなされたそうです。仲間のみんなは、どん底に落とされました。
 時々、人生にはどん底があります が、クリスチャンは諦めないで祈ることができます。それで心を合わせて祈りました。彼がいやされるようにと、真剣に祈りました。

 さて、クリスマスはどこから始まったのかが、聖書に記されています。ルカの福音書一章六十八節から、

『 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。』

 クリスマスは「我らの敵からの救い」だとあります。ルカの福音書はザカリヤという祭司が、聖霊に満たされて預言した箇所です。
 聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。旧約聖書はイエスさまがお生まれになる前に、書かれた書物であり、新約聖書はイエスさまが生まれてからのことが書かれています。旧約聖書が書かれてから、新約聖書までは四百年ほどのギャップがあると言われています。しかし実は、新約聖書には属していながら旧約聖書に属しているのではないかという、最後の預言が、ルカの福音書の一章六十八節からのみ言葉です。
 ザカリヤはイエスさまが生まれる直前に、イエスさまのお生まれについて、聖霊によって預言しました。イエスさまのお生まれは、どのような意味があるのかについて語りました。

『この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。』

 また一章七十四節にも、『われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。』

 クリスマスはイエスさまのお生まれの日ですが、イエスさまが生まれてくださった意味は、人類を敵の力、敵の手から解放するためであったと教えています。
 時々、私たちは敵の手に陥ります。自分の力では、どうにもならない状況に陥ることがあります。
 H君はどうにもならない状態で、苦しんでいました。私が病院に行くと、そこには「面会謝絶」と書かれておりました。私が牧師だというと、病室に入れてくださいました。私は寺の坊さんではなくて良かったと思いました。
 「寺の坊主ですが、病室に入れください」と言ったら、「縁起でもない、来て欲しくはない」と言われると思います。牧師は、死にかけた人の部屋にも入ることができます。
 するとお父さんが、一人、暗い顔をして座っておられました。聖書に、『暗黒と死の影にすわる者たち』とありますが、本当に、お父さんは沈みきった顔をして言いました。
 「こいつの最後を俺が看取ってやるんだ」と悲しそうにつぶやきました。
彼はほとんど意識もなく、うわごとを話していました。よく聞くと、「黒いものが来る、黒いものが飛んで来る!」と言っていました。私は彼に、「どんな黒いものが見えるんだ?」と聞きました。彼は、私が話したことを何も覚えていません。
 「僕を攻撃する黒いものが来る」と叫んでいました。私はその時、「これはただの病ではなく、霊的なものだ!」と感じ、彼に手を置いて祈りました。
 「イエスさま。あなたが生まれてくださったのは、敵の手からの解放ではないですか。彼の背後に、敵の力が潜んでいるのならば、完全に打ち砕いてください!」と祈りました。もうここには来ることはないと思ったので、病室で真剣に祈りました。お父さんも、クリスチャンではありませんでしたが、どうすることもできないので、一緒に祈ってくれました。
 また、授産所でも、真剣に仲間たちがとりなして祈りました。クリスチャンになると、誰かのためにとりなして祈ることができます。教会に来ると、背景も関係も皆違いますが、お互いに心配し合うことができます。ただ心配して、おろおろするのではなく、とりなして祈ることができます。
 教会に来たら、友達を作ってください。それは、お茶飲み友達ではなく、祈りの友達です。そして、「私のために祈ってください!」と頼んでください。
 「人」という字は、お互いに支え合うことを表していますが、何によって支えられるのかというと、「祈りによって支え合う」のです。
 私たちが友のために祈るときに、神が動いてくださいます。死の力が破られます。奇跡が起こされます。

 何と、彼は奇跡的にいやされました。良くなって退院しました。彼は元気になって施設に戻ってきました。だから皆は驚きました。帰ってくるはずではなかった人が、生きて帰って来たのです。これは大きな喜びです。死の影に座っていた者が、生き返ったとしたら素晴らしい喜びです。私もとても嬉しかったです。彼がいやされたときには、心から、「ハレルヤ!」と叫びました。
 教会には奇跡があります。それは、イエスさまが生きておられる証拠です。皆が神に祈り始めるときに、神はその祈りを聞いてくださいます。
 私はいやしを感謝して、「何でもおごってあげるから、俺について来い!」と言って、彼らを焼き肉を食べに連れて行きました。彼は病み上がりであるし、仲間もきっと遠慮深く食べてくれるだろうと思っていましたが、それは甘かったのです。支払いの時に驚きました。何と、ほんの数人で行っただけなのに、三万五千円かかりました。私は現金をそんなに多く持っておらずひゃっとしましたが、クレジットカードが使えたので助かりました。
 しかし、いくらかかっても良いのです。本当は死んだような人が、いやされたからです。あの時の彼は仮病ではなかったかと思うくらいに、今では元気になりました。そのような奇跡を見たら、私たちは感謝せざるを得ません。なぜ私が授産所の食事会を毎年しているかというと、神が祈りを聞いて下さったからです。
 また、なぜクリスマスをお祝いするかというと、クリスマスは人類を敵の力から解放して下さった記念日だからです。
 そしてルカの一章七十七節に、

『神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。』

とあります。イエスさまは神様ご自身ですが、神が人となられたお方です。時々、「神様がいるならば、目の前に出してください」と言われます。しかし神様が見えたら、神様ではありません。神様は地球も宇宙も造られたお方ですので、体があったとしたら相当大きな体の持ち主であると思います。
 時々、幼稚園児が泥遊びをして、「これが星、太陽、これが地球…」と、泥団子を作っていますが、自分の体よりも小さなものしか作れません。同様に、神様に体があったとしたら、この全宇宙を造られたとしたら、相当神様は大きなお方です。人間が神様を知ろうとしても知ることは不可能です。しかしもしも、その神様が人間の姿をとってこの地上に来て下さったとしたら、その方から話を聞いたら、神様がどのようなお方であるのかわかります。
 今日も、ここに外国から来た方々がおられますが、午後からは「インターナショナル・クリスマス」があります。今日は大勢来られると思います。
 南米に行ったことはないかも知れませんが、南米の方々から南米の様子を聞くと、行かなくてもわかります。
 神の国についても、人間にはわかりません。神様がどのように考えられているのかわかりませんが、神の国から来られたイエスさまから話を聞けば、その様子が手に取るようにわかります。その様子が書かれているのが聖書です。特に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を読むと、よくわかります。神様が考えておられることを、イエスさまを通して、私たちは知ることができます。
 そして、イエスさまがこの地上に来てくださったのは、「敵の手から私たちを救い出すためである」ことがわかります。

 人類は敵の手に渡っていると聖書は教えています。なぜ、人間は敵の手に渡ったのでしょうか。それは人間が犯した罪が原因しているのです。
 人間には良心があります。それは世界中、どこでも同じ価値観です。誰かのものをとってはいけない、人を殺してはいけない、不倫してはいけない、などとわかっています。
 しかし、それを破ってしまうと、良心が痛みます。ある人がアフリカの人に、「良心ってどんな形をしている?」と聞きました。すると彼は、「三角形」と答えました。私たちの心の中に、三角形のようなものが入っており、良心に触れるような悪いことをすると、その三角形がクルクル回転するそうです。すると角があって、心がチクチクと痛むのですが、いつもやっている内に、角が取れて丸くなって痛まなくなると言うのです。
 何れにしても、人間は罪を犯してはいけない事を知っています。それは全人類共通の考えです。良心とは罪の基準です。法律がなくても、悪いことはわかります。しかし、罪の後ろには敵の力が隠れています。私たちが罪を犯すと、敵の力・悪魔の力に牛耳られてしまいます。それも、初めの人間、アダムとエバが人類を代表して、罪を犯してしまった為に、全人類が敵の手に渡ってしまった、と聖書は教えています。全人類が敵の手に渡っているゆえに、悪いことが多く起こっています。

 時々、「神がおられるのに、なぜこんなに悪いことが起こるのでしょうか」と言われます。その理由は、全人類が敵の手に渡っているからです。その背景には、人類が犯した「罪」があります。教会に来て、毎週礼拝に出ると「罪とは何か」に気付きます。聖書から罪について聞き、自分を点検する時間です。そして、罪から離れることができ、結果として、敵の力から解放されます。
 全人類が敵の手に渡っていれば、全人類は滅びてしまいます。しかしイエスさまは、神の座をすてて、この地上に人となって来て下さり、全人類を代表して、全人類の犯した罪の代価として、十字架にかかって身代わりとなり死んでくださいました。
 なぜ、教会に十字架があるのでしょうか。それは、イエスさまが私たち人類の身代わりになって死んで下さったというだけではなく、三日目によみがえられたという、人類の救いの中心に十字架があるからです。
 プロテスタント教会の十字架には、むごたらしいイエスさまの姿はありません。カトリック教会に行くと、むごたらしく磔にされたイエスさまを十字架の上に見ます。しかしイエスさまが十字架にかかっている状態ではなく、三日目によみがえってくださったときに、全人類が敵の力から解放されたのです。ゆえに、イエスさまは十字架上にはおられないのです。イエスさまのよみがえりを記念にして、十字架があります。決して、礼拝のためではありません。十字架は拝むものではありません。十字架は悪魔に対する戦勝記念碑なのです。
 クリスマスの中心には、イエスさまのお生まれと共に、「イエスさまの十字架と復活」というテーマがあります。その中心的な出来事は、人類を敵の手から救い出してくださったということです。使徒の働き二十六章十七節から十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 救いとは、暗やみから光に、サタンの支配から神の支配下に移されることです。生まれながらの人間は、悪魔の支配下にあるのです。人類の敵は目に見える存在ではありません。見えない敵が一番恐いのです。
 最近皆が恐れているのは、見える敵よりも見えない敵です。ノロ・ウィルスが蔓延していますが、このウィルスにやられると、嘔吐と下痢を繰り返し、亡くなる人もおられるようです。昨日も、一〇一才のおばあさんが、ノロ・ウィルスで亡くなられたと報道されていました。ウィルスが見えれば、皆逃げますが、見えないのです。ウィルスに負けないように祈りましょう。教会に来れば、見えない敵に打ち勝つことができるのですから、ウィルスやバイ菌にも打ち勝つ力を与えてくださると信じています。
 私の自慢は、中学一年生以来、吐いたことがないことと、便秘したことがないことです。神様の守りがあると思っています。

 しかし、目に見えない敵、ノロ・ウィルスよりももっと恐ろしい敵がいます。それは「悪魔と悪霊たち」です。それらが働くと、どうにもなりません。その結果、人生は悲惨な状況になり、最終的に死の霊の奴隷となります。
 奴隷は主人の国に属します。日本人は日本国に属します。私たちが悪魔の奴隷ならば、悪魔の国の住人です。ですから、死後どこに行くかというと、人間の本質は魂であり、悪魔の国は永遠の滅びと教えています。永遠に悪魔の奴隷となり過ごすなど、冗談ではありません。
 しかしクリスマスは悪魔の力を破り、今まで人類が犯した罪を全部赦してあげるというのです。今日、「私はかつて犯した罪によって苦しめられている」と言われる人がいるかも知れません。かつて犯した罪が、今もあなたを責め立てるのかも知れません。良心的責めや呵責で苦しんでいる人がいるかも知れません。しかしイエスさまは、あなたの罪の身代わりとなって、死んで下さいましたので、あなたの犯した罪は赦されます。どんな罪を犯したとしても、イエスさまが私たちの罪を赦し、受け入れて下さるのです。
 罪の赦しを受けた結果はどうなるのでしょうか。

『彼らの罪を赦し、聖なる人々の中にあって御国を受け継ぐものとされた』

 悪魔の支配ではなく、神様の支配に属します。人生は七十年、八十年、九十年で終わりではありません。永遠の世界があります。それは悪魔の支配下か、神の支配下のどちらかです。イエスさまを信じたら、「御国を受け継がせる」とありますので、永遠の国・天国に入ることができます。クリスチャンになったら、お互い永遠のお付き合いです。ここにおられる方はこれからも長い付き合いになります。天国で、死も苦しみも悲しみもない所で、永遠に過ごすのです。この地上は仮の宿です。この地上では、どんなに長くても百才から百二十才くらいです。しかし永遠の世界があります。どちらに行くのかは、この地上で決定しなければいけません。滅びに向かうのか、イエス・キリストを信じて天国に行くのかは、私たちに選択する自由があります。イエスさまを信じたら、永遠のいのちをいただくことができるとは、素晴らしいです。
 同時に、人生においても、悪魔の力から解放され、自由な人生を歩むことができるというのが聖書の教えです。

 私は一九九九年、この教会の主任牧師として任命されました。それまでは父が主任牧師でしたが、父も年をとり、私が主任牧師となりました。
 私は「牧師」という言葉はあまり好きではありません。牧師というと、羊の牧者のように、「俺について来い」と言うイメージがあるからです。
 聖書に、『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません』とあります。イエスさまが羊飼いです。牧師は羊飼いではありません。牧師とは羊飼いの「牧羊犬」のようなものだと思っています。羊が牧者にしっかりとついていくように、群れから羊が離れないように、羊飼いの命令で補佐するのです。また牧羊犬は、狼やライオンなどの猛獣が襲ってくるのをくい止め、立ち向かう役割です。
 それは、教会に来られる方々が敵の力にやられないように、見張る役割だと思います。主任牧師の私は、牧羊犬中のボスのようです。悪魔の力にやられないように、最前線で皆を見張ります。見張り人が眠りこけないように、ぜひ祈って下さい。その機能がしっかりしていなければなりません。
 私は主任牧師になる前に、「み言葉を与えてください」と祈りました。その時、イザヤ書六十五章が与えられました。このみ言葉は、イエスさまのお生まれの預言にも通じるみ言葉です。それは、イエス・キリストを信じる者たちに与えられる、祝福について述べられています。イザヤ六十五章十七節から二十五節に、

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。』

 イザヤは、イエスさまが生まれる約七百年前に、イエスさまのお生まれについて預言しました。私は牧羊犬のボスになるにあたり、「これからあなたはこの教会に何をしてくださるのですか?」と祈ったときに、このみ言葉をいただきました。私は長らくこのみ言葉を忘れていました。
 私は礼拝メッセージを語るときに祈ります。そして全国には、多くの教会があり牧師たちが様々なテーマでみ言葉を語っています。それが、今日ではインターネットにアップされています。私は自分の語ろうとしているみ言葉と同じ箇所からすでに語った、他教会の牧師のメッセージに目を通します。今回も色々な先生方のメッセージを読んでみました。一つ読んで素晴らしいと思うメッセージがありました。しかしそれは、かつて自分が語ったメッセージでした。それで、このみ言葉が与えられていたことに気付かされました。

 イエスさまがこの地上に来てくださった目的を、イザヤ書六十五章では教えています。また、イエスさまを信じる者たちに与えて下さる祝福についても教えています。二十三節から二十五節に、

『彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。』

 私たちが主を信じるならば、敵の力が打ち砕かれ、猛獣の力はあなたに害を与えることはないのです。その敵の力が打ち砕かれるために、イエスさまはこの地上に来てくださったからです。イザヤ書六十五章十七節に、

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。』

とあります。このみ言葉は、究極的には黙示録二十一章につながります。やがて主が、千年の間、この地を治めるという預言があります。イエスさまが地上に来て下さったのは、神の国の実現のためでした。主を信じる者たちには、すでに同じ神の支配が実現しています。
 黙示録二十一章一節から四節に、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

 イエスさまを信じると、『古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました』とあります。私たちの人生に神の国が実現し、四節には、

『もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』

という、祝福の中に入れて下さるとあります。これは、やがて実現するものというよりも、主を信じる人生のただ中に、実現するものです。黙示録二十章一節から三節に、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。』

とあります。神はやがて、サタンである竜・蛇、悪魔・悪霊どもを捕らえて、底知れぬ所にぶち込むときに、目の涙がすっかりと拭いとられ、悲しみも叫びも苦しみもなくなる時代が来ると教えています。
 同様に、人生も敵の力が打ち破られるときに、目の涙はぬぐいさられ、叫び、苦しみも消えるのです。イエスさまが来てくださったのは、『この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。』とあります。人生を妨害する、敵の力を打ち破るために、人類のただ中に生まれてくださったのです。
 
 私たちの神様は良い方です。先週も語りましたが、日本人は生まれながら、考え方の中に、「神様は良いこともすれば、悪いこともする」という考え方があります。「今年は良い年だったから、来年は危ないぞ」と言います。良いことがあったら、必ず、悪いことがあるというのです。
 また「最近悪いことが続いたので、今度は良くなる」と思います。しかしそれは聖書の教えではありません。それが、日本人が持っている宗教観そのものです。良い神と悪い神がいて、それが喧嘩して、力が互角になってバランスがとれているときが平和だというのです。その根底に、「ヒンズー的な考え方」があります。また「儒教的な考え方」も同様です。いつも心の中に二つの器を持っています。この器はクリスチャンになっても、なかなか変わらないので、一方が祝福されると、今度は、もう一方の器に祝福以外のものが入るのです。
 「イエスさまは祝福して下さったけど、今度は、また悪いことが起こっていくのではないか」と思います。悪魔の働きは、私たちの「思いの中」にあるので、それを変えなければならないと学びました。第一ヨハネ一章五節に、

『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。』

とあります。私たちの神様は、暗いところが何一つないお方です。イエスさまは私たちに試練や悪いことをされるのではないかと思います。それは間違いです。光の中に暗いところはありません。神様はすべてを明るくされます。光と闇を両方持っている方ではありません。
 またヤコブ一章十六節から十七節に、

『愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

とあります。私たちの神様は、「良い贈り物だけ」をくださいます。クリスマスには、プレゼントを交換します。自分の愛する人に、良い物をあげたいと願います。「悪いものをやろう」と思う人はいないと思います。
 神様も同じです。私たちの人生に、「良いもの」を与えようとされています。悪いものをもたらすのは、敵の力以外何ものでもありません。だから、「騙されて」はいけません。私たちの神様は、良いものだけをあなたがたにくださると教えています。
 また父なる神様には、移りゆく影はないと教えています。しかし日本の神々は、光と闇を同時に持っている存在です。そのような宗教的な理念と社会構造の中に育つ日本人には、知らないうちに、「神とは光と闇を同時に持つ」というような、考え方に染まっています。私たちは、その器を砕かなくてはなりません。悪魔が与える光は偽物です。そのような「陰陽的器」を砕かなければなりません。
 今年、私たちは「神は光なる方で、その中に暗いところは何一つない!」と宣言するように、語って下さいました。そして生まれながら持っているような、光と闇を同時に持つような悪魔の騙し事から、解放されるように祈っています。

 皆さん、騙されてはいけません。私たちの神様は、光と闇を同時に持ち、時には、苦しみや悲しみを与えたり、問題をもたらす神ではありません。神様は良いことだけをしてくださるお方だと信じることです。今年良かったら、来年はもっと良く、再来年はさらに良いのです。「こんなに良いと悪いことがある」という考えは間違っています。恐れなくても良いのです。私たちの神様は、移りゆく影はないと教えています。
 それは、日本人が抱いている根源的な力は、儒教やヒンズーに関わりがあります。

 今年私は、『神の栄光を取り戻せ!』という本を出版しました。この本が書けたのは、二〇〇三年にバリ島に遊びに行ったことから始まりました。せっかくバリ島に来たのだから、少しは観光をかねて祈ろうと思いました。しかしその祈りから、日本と世界の関連を主が教えてくださいました。そこから、世界のとりなしが始まりました。
 特に今年は、暗やみをもたらす考え方に立ち向かうようにと教えられ、陰陽的な考え方、光があれば暗やみもあるのが当然という考え方で牛耳っている、悪魔の力を砕かなくてはならないと感じていました。
 それで、「神様。バリから教えて下さったので、もう一度バリに行って祈りたいです。もしもみこころならば、そのためのしるしを下さい」と祈りました。すると、その祈りが答えられたのです!
 実は、三週間ほど前に、私はバリに行きました。そこに行くと日本人の根底にある、世界観の根源を見ることが出来ます。日本の葬式は白黒の幕を張ります。それも陰・陽です。良いものと悪いものがバランスよく配置されるときに、人は幸せだと言うのです。その根源にヒンズーがあります。日本においてはその概念が少々薄れますので、わかりにくい面もあるのですが、心の中はその価値観です。

 今回、バリに行く前に一つのことを祈りました。「神様。もしも行くことがみこころならば、旅行費用を一人分与えてください」と祈っていました。すると、そのとうりに与えられました。とても不思議でした。神様に「行きなさい!」と言われているようでした。それで、バリにとりなしに行き、皆さんのためにも勝利と祝福を祈ってきました。

 バリでとりなして祈っているときに、一つのみ言葉が与えられました。それは、詩篇一四四篇十一節から十五節です。

『私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。』

 日本人が拝んでいる神々は「日本の神々」と思っていますが、それらはすべて、「外国から入ってきた神々」です。「外国人の手から解き放して下さい」とありますが、これは、外国から入ってきた偶像礼拝と、悪魔・悪霊の力から解放して下さいとも理解できます。
 「彼らの口は嘘を言い、その右の手は偽りの右の手です。」とあります。右のことを英語で「right」と言います。それは「正しい」という意味もあります。「彼らの右手は偽りの右の手だ」とあります。悪魔が与える光は、光のように見えても光ではなく、偽りの右の手なのです。右と左とは、陰陽のペアです。悪魔はこれは陽だ、正しいものだ、正しい右の手だと言いますが、実はその光さえも偽の光であり、闇の中に誘い込むための餌なのです。そのような偽りの右の手から、救い出してくださいとあります。十二節に、

『私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。』

 今、子どもたちの世界に、多くの問題があります。しかし、イエスさまを信じて敵の力から解放されるときに、「娘や息子たちもうまく育っていく」と教えています。
 先ほども、ユースクワイヤーを見て、たいへん嬉しかったです。彼らは、このみ言葉の通りだと思いました。私たちの人生が十三節のように、

『私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。』

 イエスさまはこのような人生を与えるために、この地上に来て下さったのです。
 イエスさまのお生まれは、敵の力からの解放であり、『暗黒と死の影にすわる者たちを照らして我らの足を平和の道に導く』ためであると、ルカの福音書一章にザカリヤによって預言されました。
 私たちの人生を、『私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。』とあるように、哀れな叫び声が響いているこの地上に、神が人となって生まれてくださったのがクリスマスです。
 一度しかない人生、素晴らしいものになることをお祈りします。イエスさまを送って下さった父なる神様に感謝しましょう。そして、赤子のイエスさまではなく、十字架にかかられて葬られ、三日目によみがえられ生きておられるイエスさまに心から感謝しましょう。

『彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。』

「イエスさま。今、私たちは、イエスさまの名前で父なる神様に祈りをささげます。あなたは百パーセント良い方であることを、心から感謝します。私の人生の中に、良い物だけを与えて下さるお方であることを、心から感謝します。知らないうちに置かれている、光と闇の偽りの器を打ち砕いて下さい。光と闇は共存できないことを宣言します。良いお方である父なる神様。良いプレゼントで私を満たして下さい。私の人生を通して、神の栄光を表すことができますように。無駄に労することがありませんように。
 突然悪いことが襲うことのないことを宣言します。私の人生は、栄光から栄光へと、良いことに、良いことが重なり、勝利の上に勝利が重なる人生であることを、宣言します。敵の力が打ち破られていることを宣言します。私には、新しい天と、新しい地が創造されていることを宣言します。イエスさまのお生まれを感謝します。ほめたたえます。よみがえりのイエスさまを大歓迎します。イエス・キリストの御名によって、お祈りします。アーメン。」


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