ニューイヤー・イブ・キックオフ・ワーシップ
〜2007年に向けてのメッセージ〜
パート1


2006.12.31(Sat)
新城教会 四元雅也副牧師
新城教会 公畑フェルナンド副牧師
新城教会 滝元 開副牧師

四元雅也副牧

 ハレルヤ!感謝します。私が二〇〇七年度に向けて神様から与えられた御言葉は、ヨシュア記一章九節です。

『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』

このみ言葉は、イスラエルの民が約束の地・カナンの地に入る直前に神様が指導者ヨシュアに語られた言葉です。出エジプトの時、神様は十の奇跡をもってイスラエルをエジプトから引き出されましたが、これはエジプトの神々に対し、真の神である主がさばきをくだされ、その中で彼らが導き出されました。イスラエルの民は、四十年間荒野で試みを受けながら、神の民として訓練を受けました。その歩みは彼らにとってエジプトという偶像の地にあって神の民でありながら、ある意味で汚されてきたすべての罪と呪いを聖められ、神の民として整えられるための期間であったと思います。そしてエジプトの神々とは違う、唯一の主権者である真の神様とともに生きる道を、荒野での四十年間で学びました。カナンの地に入る前に神様がこのように言われました。申命記十八章九節から十三節に、

『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。』

とあります。神様が約束の地をイスラエルの民に示されました。約束の地カナンはあらゆる偶像礼拝に汚されていました。だから神がイスラエルの民を使ってその地を攻め取り、その民を滅ぼそうとされました。しかしそこに入るために必要であったのは荒野での四十年間の訓練であったと思います。そしてヨシュアの時代に入り、いよいよ約束の地に踏み込んで実際にその地を攻め取っていきます。ここから二〇〇七年に対して神様から語られたことは、同じように私たち一人一人が勝ち取るべき地に踏み込んで行き、その地を攻め取る時であると受け取りました。ヨシュア記一章二節後半から三節に、

『今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。』

とあります。イスラエルの民は地に踏み込み、この約束の通りに地を勝ち取っていきました。

 今朝礼拝で昨年の越年の集会で語られたみ言葉が紹介されました。私がそのときお読みしたみ言葉はイザヤ書五十一章一節のみ言葉でした。

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』

この箇所から「原点復帰」というテーマでお話ししました。新城教会の歴史の中である意味『切り出された岩、掘り出された穴』は九二年に突如として新城教会に現された聖霊様の訪れと、霊的戦いの開戦であり、これが新城教会の転機であり、その後の働きの中心軸であるとお話ししました。九二年当初は、戦いに対する知識があまりありませんでしたので、神様に押し出されるままに色々な所に出て行って霊的戦いの祈りをし、この戦いの延長線上にリバイバルが必ず来るという信仰をもって走り続けてきました。神様は時にかなって導きを与え、支えてくださいました。そして二〇〇七年二月が来ると霊的戦いが始まってから十五年になります。十五年間新城教会の働きは、ある意味で霊的戦いを中心軸に働いてきました。一貫してこのコンセプトの元に教会の形成が成されてきたと言っても過言ではないと思います。教会のスタッフもそれを良しとしてやっていると思います。いや、そこから外れたくはないという信念があると思います。そしてこれは神様から出ていることだと信じています。極端に言うと、霊的戦いしかできない、霊的戦いバカ集団が教会のスタッフだと思います。つくづく霊的戦いでしか牧会ができない者たちだと思います。そしてそんなスタッフが奉仕している教会に皆さんも集っておられるのです。私たちと一緒に信仰生活を守っている主の勇士であり、仲間だと思います。毎週礼拝で先生方から色々な角度でその時々に必要なメッセージが語られますが、そのメッセージの中で「霊的戦い」という言葉を聞かなかったことがないほどです。色々なテーマの中に霊的戦いがどのように結びついているか、私たちがどのような霊的戦いの視点で戦うべきかについて学ばさせられています。私たちは教会生活を通して、個人、地域、日本、世界の中で人々を縛っている悪しきものに対して、どのような戦略で進むべきかについて学び、またそれを実践してきたものであると思います。昨年出版された『神の栄光を取り戻せ!』(滝元順師著)は、九二年から始められた霊的戦いが、二〇〇三年から海外に視点が向けられ、世界を祈ることが私たちの解放と勝利のために必要であるという新しい概念をもって、世界中に展開された執り成しのレポートです。私たちは日本に住んでいますが、私たちを取り巻く霊的な環境は日本独自のものではなく、世界中から色々な影響を受けています。それを理解して祈っていくために重要なポイントを教える必読本だと思います。今月十二月十一日から十四日まで、順先生と何人かの兄弟姉妹とともにインドネシアのバリ島に行き、地を巡って祈りました。祈りながら感じたことは、二〇〇三年からの世界を巡ってのとりなしの報告を受け、また霊的戦いのために九二年から新城教会で繰り返し教えられて自分自身に蓄えられた霊的戦いの知識について、現地であからさまに実物を見て触れるという体験をし、その体験を通して確信がさらに強く建て上げられた感じがしました。バリでは、家々の外に偶像が建てられております。順先生が始めにバリに行ったとき二メートル置きに偶像があったと言われて大げさな話しかと思っていましたが、行ってみたら本当でした。また道の至る所に霊を引き下ろすための偶像があり、ホテルに帰って休もうと思うと、ホテルのベッドの上にも、また部屋のあらゆる所に偶像がありました。心の安まる場所が全くという程ありませんでした。寝ても覚めても戦いを意識せざるを得ない場所でした。しかし、日本においても家の中に隠れて見えないだけですが各家に偶像があり、人々は偶像の中に生きており、霊的な目で見たなら日本もバリと何ら変わりはないのではないかと皆で話していました。私たちは、日本という国の霊的環境に慣れ、ある意味で感覚が麻痺しているのかも知れません。日本でも私たちは戦場のような場所にいるように思います。私たちはイエス様の素晴らしい救いと、罪と呪いからの解放を受け、その恵みを人々に提供する使命を受け、それを全うするために生きています。そのために先に救われました。そして私たちが新城教会に集まっていることは、霊的戦いの中にいるのです。これは否定のしようがありません。しかし、残念に思う必要はありません。霊的戦いは戦いなので激しく、与えられた使命なので、やらなければならない義務ではありますが、同時に私たちの特権でもあります。霊的戦いの働きを通し、私たちはそれまでのどんな方法よりも教えよりも、もっと力強い神様からの癒しや問題解決、福音宣教の前進を見せられています。この霊的戦いを通して私たちは更に大きな勝利が与えられて、だから十五年間続けてくることができたと思います。順先生の本に、ある時に神様が働かれてリバイバル的な現象がある地域に起こっても、その後の色々な戦いの中でリバイバルが長く継続しなかった例が多くあるとレポートされています。しかし敵と戦略を知って戦い続けているならば、祝福され続けると私は信じています。二〇〇七年にイスラエルの民全体がカナンの地に入りました。戦いの勇士だけではなく、国民全体がカナンの地に入りました。イスラエルの民は戦士として訓練された者たちばかりではありません。普通の人たちもいました。しかし国民全体がカナンの地に入って行ったことは、敵のいる地に皆が入っていったということです。ですから、この二〇〇七年は更に新しい霊的戦いが開かれ続けていくと思いますが、その中で私たち皆がその戦いの中に入っていく、それぞれの置かれている中で私たち皆がその戦いの中に入っていく、それが二〇〇七年ではないかと教えられています。あなた自身が神の兵士として戦うべき地があります。益々戦って勝利を見させていきたいと思います。

 

公畑フェルナンド副牧師

 ハレルヤ!感謝します。いつも私とインターナショナル部会のためにお祈りいただき、感謝します。神様は二〇〇七年のために、ピリピ三章十三節から十四節のみ言葉をくださいました。

『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』

 この年を振り返ると、多くの喜びで終わる方もいれば、多くの悲しみの思い出がある方もいるかも知れません。新しい家族が生まれて喜んでいる方もいますが、この地上では愛する方との別れがあって、涙を流された方もいると思います。健康で喜びの一年であった方、また病気で苦しみにあった方もいると思います。

 また教会としても、たくさんの勝利を得た年でした。たくさんの喜びがあり、国内外でのとりなしがあり、多くの霊的な束縛の中にあった方々が解放されました。神様が二〇〇六年を通して、たくさんの事を教えてくださいました。私たちはこれから来る三六五日に何があるかわかりませんが、この新しい年を、喜びを持って迎えるべきです。

 メッセージのタイトルを、「新しい年を喜びを持って迎えよ!」と付けました。ピリピ三章のみ言葉には、四つのポイントがあります。

 第一は、『ただ、この一事に励んでいます』とあります。これは「よく考える」という意味です。今年のすべての成功と失敗を考えてみましょう。主が私たちをどんな領域で導かれ、どこに導かれたかを考えてみましょう。本当の私たちの敵が悪魔であることがわかり、私たちの隣の人ではなかったことがわかったかどうかを考えてみましょう。

 また「計画する」という意味もあります。一年間で、自分が失敗した領域について今度はどうしたら勝利がとれるかについて、考えてみましょう。自分の目標に届くための、すべてのステップを計画しましょう。

 そして、霊的な部分で「自分を見直す」という意味です。自分の行動がどこまで神様を第一にできたかを、考えてみましょう。行動したことが、本当に神様のみこころであったか、それとも自分の感情や考えであったかを考えてみましょう。

 第二のポイントは、『うしろのものを忘れ』です。今年の失敗や成功も、私たちの歴史の一部です。過去を思って生きることはできません。私たちは思い出の中に生きているのではなく、今を生きるべきだからです。

 第三のポイントは、『ひたむきに前のものに向かって進み』です。これから前にあるものに「突進する」と訳すことができます。また、前にあるものに「しっかり目を留める」という意味もあります。この二〇〇七年に期待し、喜んで迎えましょう。なぜならば、主が喜びの源だからです。主が私たちと毎日、一緒にいてくださると約束してくださったからです。ここまで私たちを導き助けてくださったのならば、主は必ず、もっと私たちを祝福してくださいます。

 そして第四のポイントは、『目標を目指して』です。まだこれからもっと良いことが私たちを待っています。私たち皆が待っているリバイバルです。このリバイバルは、私たちの家族や友達が主の御前にひざまずくようになることです。そして、私たちが住む地域の人々が偽りを捨て、真の神様に立ち返ることです。またこの国が、世界の国に対して恵みの泉になることです。

 私たちは道のりのほとんどに来ました。立ち止まることはできません。あともう少しです。誰一人止まることなく、ともに前に進んでいきましょう。そうすれば、二〇〇七年、私たちの中に神様の素晴らしい「超自然的なこと」を見ることができます。ですから、二〇〇七年は喜びを持り、また期待を持って迎えましょう。


滝元 開副牧師

ハレルヤ!感謝します。神様の恵みが沢山注がれた二〇〇六年でした。一年を思い返すと数え切れない程の主の恵みが溢れていました。何が一番の大きな恵みであったのかというと、いつでもどこでもイエスさまがともにいてくださったことでした。二〇〇六年はざわめきのレコーディングから始まりました。イザヤ書から『彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く』というみ言葉が与えられ、どのようなレコーディングになるのだろうかと思いながら、皆さんの祈りに支えられながらレコーディングが行われました。毎日が紅海を真二つに割るような奇跡的な現場に立たせていただき、思いもよらないような素晴らしいCDが与えられました。また、ざわめきにおいては数多くの教会を巡らせていただき、特にZawameki Church liveでは教会でのざわめき賛美集会で大きな恵みをいただきました。その中にもイエスさまがともにおられるということを行く先々で感じました。多くの場所でアンケートを残していただきましたが、皆が申し合わせたかのように同じ言葉を書いてくださいました。その言葉には「どうしてかわからないけど…」という言葉でした。「どうしてかわからないけど、感動に心が震えました」とか、「どうしてかわからないけど、涙が出て仕方ありませんでした」という言葉でした。その中の多くがノンクリスチャンの方でした。イエス様はどうしてかわからないけど触れてくださるというのを目の当たりにした二〇〇六年でした。さらに、この教会における中高生会の働きの中では、年に二回レッツプレイズがあり、六月と十二月に行われとても祝福されました。二回合わせ四〇〇名以上が集い、内二八一名が中高生のノンクリスチャンでした。皆はコンサートと食べ物を目当てに来ますが、確実に神様が働かれ、彼らにイエスさまが届いてくださっていることを見て感動しました。順先生がメッセージで出て来られて一言目に「みんな、霊体験したことがある?」という言葉から始まりました。みんなは何が始まるのかという所から始まります。聞いているか聞いていないのかわからないような中にありますが、みんなしっかりと聞いています。最後にみんなのために祈ると、みんなが祈りを受け取っています。そして六月に初めて順先生が県民の祈祷会風に伝道会を導きました。メッセージの最後に「みんなの家庭の中の問題を砕く剣を与えるので手を出してください。イエスの名によって剣を受けよ!」と中高生が祈りを受けて帰りました。次の日学校に行くと、クリスチャンではない子が「剣をあげます!」と言っていたと聞きましたが、前回持って行った剣がそれぞれの学校で振り回され、そこから魂が来るようにという祈りをしていました。そして今回十二月にレッツプレイズが持たれ、今回は駄目かなあと思うような出だしでしたが、一三五名のノンクリスチャンが来ました。そして彼らが最後に剣を受け取る祈りをしました。聖霊様が働かれ、「剣を受け取ります!」という祈りの中で、主に触れられて立っていることができないクリスチャンでない子が何人もいました。イエスさまはここまで働いてくださっているのかと思いました。ティータイムの時に順先生がテーブルを廻って祈ってくださいました。その中に新城市で最もやんちゃな中学生が来ており、その子たちと話すと、「俺は神は信じない」と言っていました。しかし胸に大きな十字架を付けており、その十字架は何?と話していました。色々な話をしている中で彼らの心が開かれ、そこにちょうど順先生が来てお祈りしようと言うと、「俺がか〜?」と言いながらも彼が祈られていました。そして祈られると、みんな主に触れられているのです。また女の子の所に行って何を祈って欲しいかを聞くと、芸能人の名前をあげて「○○くんと結婚できるように」と、少々ふざけたような祈りの課題を言っていました。でも、主は彼らにも強く触れておられました。イエスさまはここまで触れてくださっているのかと思いました。

また、刑務所でのコンサートでも神様が働かれているのを見ました。ある少年刑務所に三年振りに行きました。三年前は一五八名の受刑者が出席しましたが、今回は、行く前に約一二〇名から一三〇名が出席するという情報が入っていました。彼らの意思でコンサートに出席するため、そんなものだと思っていましたら、今回は何と二一六名の受刑者と多くの刑務官が出席してくださり、二五〇名以上の男性ばかりのコンサートでした。三年前も祝福されましたが、今年は前回以上にイエスさまが働いてくださいました。ある意味その場所は「アウェー」であるような環境にも関わらず、私たちの思いを超える神様の働き目の当たりにしました。つい先週、近くの医療刑務所でのコンサートでしたが、彼らは真剣に聞き入っていました。そこでのコンサートは全員が強制参加でした。そのためイエス・キリストを信じなさいという布教活動的なことはできません。しかし、私たちはクリスチャンであり、牧師という働きをしており、毎日聖書を読んでいることや、聖書の言葉そのものも紹介しました。そうすると彼らがしっかり受け取ってくださっているのがわかりました。その会衆の中には、多くの刑務官とともに所長さんも最初から最後までじっと聞いてくださいました。所長さんがおられるけれどここまで話して良いだろうかと思いながら語っていました。でも今年与えられていたみ言葉が、「わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。・・・恐れずに語れ」というみ言葉をいただいたので語り続けました。コンサート後、所長から話があるというので何を言われるのだろうかと思いつつ所長室に行きました。すると所長がとても感動したというのです。特に「チョイス」という賛美に感動したというのです。その歌の歌詞「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」という「罪」をテーマにした賛美で感動したと言われました。罪について大変な時代ですが所長は「私自身も食べる物が無くなったら罪を犯さないかというと、それはわからない。」と言われ、罪についてとても興味が与えられ、良い時が与えられたと所長が喜んでいる姿を見ました。そこにも、イエスさまがこれほどまでに強く働いてくださっているという、いえすさまご自身の姿をみさせていただきました。

さて、今年はヨエル書三章十三節のみ言葉が与えられました。

『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。』

このみ言葉を信じ、二〇〇七年を前進していきたいと思います。このみ言葉は黙示録で引用されており、それはさばきの流れの中でのみ言葉です。黙示録十四章十八節に、

『「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」』

とあります。今確かにイエスさまご自身が私たちの思い以上に、前に出て聖霊様を遣わされて素晴らしいみ業を成しておられるとともにイエスさまご自身がそこに行ってみ業を成したいといわれる時代が来ていると二〇〇六年の中で体験させていただきました。私たちの思い以上に働いておられるイエスさまが、「既に時が満ちた。刈り入れの時が熟した。」そして「来て踏め!」と言われていますので、二00七年には、踏むべきものを踏んで主の勝利をいただきたいと願っています。三つのものを踏むようにと語られています。一つはローマ十六章二十節『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』というみ言葉にあるように、サタンの頭を踏み砕くような業をさせていただきたいと思います。また二つ目は、雅也先生も語ってくださったように、占領するべき地を踏むことです。『あなたがたの足が踏むところはことごとくあなたがたのものとなる』というみ言葉を信じて踏むべき所を踏み、主のものとさせていただきたいと思います。さらにもう一つは、イスラエルの民がカナンの地に入るときにヨルダン川を踏みました。川が流れているので普通は橋の上を通りますが、彼らは橋のない所を契約の箱、すなわち主のご臨在を携えてヨルダン川に足を踏み入れたところ、川の水が真っ二つに分かれました。そしてイスラエルの民は乾いた所を進んでいきました。水の上を踏むことは、ある意味で人の常識を超えた働きですが、私たちは人間的な常識や今までの経験や統計ではなく、常識を超えたところをイエスさまの信仰によって踏むときにイエスさまのみ業が成されるのです。刈り入れの時が満たされたこの時に、私たちが出て行って「来て踏め!」というみ言葉に立って二〇〇七年に主の勝利を見させていただく年であると信じて前進していきたいと思います。


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