ニューイヤー・イブ・キックオフ・ワーシップ
〜2007年に向けてのメッセージ〜
パート2


2006.12.31(Sat)
新城教会 上條 実牧師
新城教会 滝元 明牧師
新城教会 岡本信弘牧師

上條 実牧師

 ハレルヤ!いつも私と私たち家族のためにお祈りくださり感謝します。お祈りに支えられ、私と家内共々健康で守られたことを感謝いたします。また長男は素晴らしい姉と婚約することができ、次男はアメリカの学びを終えて無事帰国することができました。また三男も恵太も守られて過ごすことができたことを感謝します。また十二月十六日には子どもクリスマス会が大変祝福されて終えることができました。一九九二年、この教会に霊的戦いが始まりました。その時子どもたちに聖霊様が注がれ、彼らに多くの賜物が与えられました。その時は、毎日子ども達から自主的に集い、さまざまなところに出て行って祈りに行ったことを思い出します。今年の子どもクリスマス会も、その一九九二年にあった出来事を再度紹介し、「祈りには力がある」「子どもたちが祈るとき、神様は不思議なことを起こしてくださる」とアピールしました。感謝な事に今年も子ども達と一緒に沢山のお祈りができました。普段は遠方のためなかなかお祈りに行くことのできない名古屋市や日進市、三好町などに在住している子ども達を始め、全ての子ども達の自宅や学校周辺を祈る事ができました。また子どもクリスマス会が開催される最後の一週間では、新城市のために祈ろうと呼びかけたところ、多くの子どもたちが自主的に集まって祈る事ができました。やはり祈りには力があります。素晴らしい祝福をくださり五百名近くの子ども達が集まりました。終了後子どもたちと証会を持ちましたが、子ども達全員神様の祝福を体験できたと喜ぶことができました。本当に皆様の熱いお祈りを感謝致します。さて二〇〇七年に向けて私が与えられたみ言葉をご紹介したいと思います。それは詩篇五十八篇十節から十一節です。お読みします。

『正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」』

この十二月、教会をあげて「陰と陽」というテーマをさまざまな角度から祈る事ができました。私たちは今まで「今まで癒される人もいたが癒されなかった人もいる」「祝福もあれば災いもあった」状態でした。しかし私たちの神は祝福だけを下さる神であり、暗い出来事、苦しみは一切ない神だと学びました。しかし私たちの思いの中に、今度なにか悪いことが起きないだろうかと心配、不安を持っていました。「陰と陽」の考え方が信仰の中に埋め込まれていたことに気がつかされました。神様は良いものだけを下さる方だということをもう一度信じて、「陰と陽」の思いをうちくだく祈りをすることができました。しかしその中で気づかされたことがありました。今年九月に行われた四国リバイバルミッションで素晴らしい祝福を頂きました。しかし四国リバイバルミッションに行く前日になって、右足裏に痛みを感じました。つぎの朝早く四国に出かけましたが、どんどん痛みがひどくなり、歩くのも困難になりました。普通の鎮痛剤では効かず、一番強力な鎮痛剤を買ってきてもらうような状態でした。神様の祝福を頂きながら、痛みを感じる。明らかに「陰と陽」の働きだと思いました。二年前には名古屋にてリバイバルミッションをしましたが、開催される一週間ほど前の祈祷会で、譜面台の角に右手が当たり、右手の中指を切ってしまいました。病院に行くと、腱が切れているということで手術をして、ギブスまではめられて大変な思いをしまいました。今年は四国のために、霊場八十八ヶ所の「遍路」で足を使うので私たちの足で悪魔を踏み砕く祈りを良くしました。また名古屋では熱田神宮に「三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのつるぎ)」を祀ってあります。みことばの剣で打ち砕く事ができるように祈りました。しかし四国では右足、名古屋では右手をやられた事を思いだしました。祝福をもらったが、反撃された。まさに「陰と陽」について今月は真剣に祈らさせられました。そんな中で詩篇五十八節十節から十一節のみ言葉が与えられ、十節に、

『正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。』

正しい者は、復讐を見て喜びとあります。今年は復讐の年であると信じます。人にたいしてではなく霊的に復讐させていただきたいと願います。今までは「陰と陽」「光と闇」がありました。特に闇の部分では、敵は致命傷をついてきます。「四国では足」「名古屋では手」のように一番痛いところ、大事な部分、致命傷をついてきます。しかし二〇〇七年はその致命傷に対し、傷つけている霊的存在に私たちは聖さを求めつつ、敵に復讐させていただきたいと思います。新城教会が受けた致命傷はやはり一九九二年に霊的戦いが始まった時に起きた「分裂」だと思います。今まで愛し合い、共に祈り、教会を建て上げてきた兄姉と別れてしまった傷があります。その傷が完全にいやされるように。そしてその時背後に働いた敵に対して復讐したいと思います。

 また各家庭でもあまり触れたくない傷、致命傷があります。その家庭の傷、特に致命傷となっている所に、復讐をさせていただきたいと願います。

 そして詩篇五十八篇十一節に、

『こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」』

とあります。今年は復讐と同時に、報いの年であることを主にあって宣言したいと思います。マタイ十二章二十九節に、

『強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

敵を縛りあげ、敵の陣営に復讐し、報いを頂きたいと思います。また第一コリント十二章二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

とあります。私たちは傷があり、致命傷があります。しかし決して私たちが弱いからではありません。敵は私たちがそのところに勝利したら、大変な事が起きてしまうからこそ、致命傷のような傷を与えてきます。しかし今年は復讐しましょう。そして報いを頂きましょう。敵に対して常にファイティングポーズを崩さず、戦って復讐し、報いをいただきましょう。今年は「復讐の年」、そして「報いの年」であると宣言しています。私たちの教会、家族、また私たちひとりひとりが勝利の年であることを信じます。。二〇〇七年は、今までここは開かなかったと思うようなところに風穴が開き、聖霊が働かれるところを見せていただきましょう。陰と陽ではなく、いつも光であり、祝福をくださる神様がこの教会の真ん中にいて、私たちの実生活の中に生きているところを見る事ができるような一年にさせていただきたいと願います。お祈りしましょう。

 

滝元 明牧師

 ハレルヤ!感謝します。今年は皆さんが私のためにお祈りしてくださって、ここに立つことができることを感謝します。今年は「四国リバイバルミッション」がありましたが、四国ミッションも祝福されて素晴らしい時になったことを、心から感謝します。
 今年私は、二月十三日から二十日までハワイに行きました。それは私の意思ではなく、娘の道子に誘われて行きました。それはロン・ブラウンさんが、ハワイに来て集会をするので一緒に集会をしたらどうか、ということで誘いがかかりました。それで私は行くことを決意しました。
 しかし数日が経って、ロンさんが来れなくなったという連絡を受けました。私も止めようかと思いました。しかし既に、私が行くということで、ハワイで集会が計画されていたので、ある意味、渋々私と家内はハワイに行きました。しかし不思議なことに、集会をしている中で、N先生の奥さんが、「先生。もうハワイにリバイバルが始まっていますよ」と言われました。また合同の集会があったときに、私は甲子園の話をして、甲子園にハワイから二百五十名の人たちが来てくれたので、今度は恩返しでいつかハワイでミッションをしたいと言うと、みんな「祈りが聞かれた!!」と喜びの声が上がりました。全く、具体的にはハワイでミッションをすることを考えていませんでしたが、時が来たと思いました。
 五月にもハワイに行き、先生方と一緒にハワイミッションについて話し合いをし、十月十五日に決起大会ができました。大きな導きを感謝しました。
 二月にハワイに行ったとき、税関を通るときに、係員に呼び止められて特別室に入れられました。何かと思うと、私がヘルニアでお腹が出ているのを見て、そこに麻薬でも隠しているのではないかと疑いをかけられたからです。「これは何か?」と聞かれ、ヘルニアだと説明しました。すると謝られました。
 私は一九七〇年にヘルニアになってから、ずっと我慢していましたが、それで手術をすることを決意しました。私は生まれて初めて、六月十三日から二十日まで入院しました。初めて、休みを取りました。皆さんにお祈りいただき、見舞っていただき、熱い愛をいただいて元気になることができて、心から感謝します。今は歩いても平気です。以前、私はダブルの上着ばかりを着て、ヘルニアを隠していましたが、今はシングルの上着も着ることができるようになりました。ハワイに行ったことが、すべて益となり、心から感謝します。一年間を振り返ると、たくさんの恵みがあります。
 来年に向けて、詩篇二三編一節から六節までが与えられました。

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』

 私は、このみ言葉を確信しましたが、私はこの新改訳の訳があまり好きではありません。なぜならば、『主は私の羊飼い』と読むと、「主が私の持っている羊を飼う人」というような印象があるからです。私は口語訳聖書の訳し方が好きです。

『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。』

とあります。私は大きな集会をするときに、いつも心配があります。それは経済的なことです。しかし、ここには『主は私の牧者であり、私には乏しいことがない』という言葉を読み、来年は乏しいことなく、イエスさまがすべての必要を与えられると信じました。ですから、ハワイでも必要なものが、必ず与えられると信じています。また、お祈りください。二節から三節には、

『主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。』

とあります。
 私には長女のことで傷があり悲しみがあります。これはトゲかと思いますが、祈らない日はありません。何とか、霊的な目を開いていただきたいと願い祈っています。親子に溝を入れたり、背後に働くサタンの力が打ち砕かれるように真剣に祈っています。
 今、上條実先生のメッセージで、「復讐してくださる」と聞きましたが、「イエスさま、何か起こしてください」と祈っているときに、三節のみ言葉が与えられました。

『主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。』

 今は死んだような状態かも知れませんが、イエスさまは霊的に魂を生き返らせることができる、だから私も回復されると信じました。霊的に目が開かれ、生き返る日が来ると信じました。
 子どもたちが祝福されていないことや、問題があることは悲しみです。ですから、このみ言葉を通して、祈っていただけたら感謝です。四節には、

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』

とあります。神様がモーセをエジプトに遣わすときに語られたことは、「わたしがあなたとともにいる。これがしるしである」と言われました。色々な奇跡は素晴らしいことですが、一番素晴らしいことは、「わたしがあなたとともにいる」こと、これがしるしだとあります。『あなたが私とともにおられますから。』とありますが、来年もイエスさまがともにいて下さいます。また五節には、

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』

とあります。口語訳聖書では、

『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。』

とあります。文語体でも『宴を設け』とあります。宴を設けることは、文字通り宴会です。素晴らしいまつり事です。「食事を整える」という表現では、ただ、ご飯を食べさせてあげるという意味に捕らえがちです。しかし、来年はイエスさまが敵の前で「宴を設ける」というのは、霊的戦いによってついに悪しき砦が破れ、素晴らしいみ業がこの教会に現されることを信じていきたいと思います。

『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。』

とあります。私は来年のために油注ぎが必要だと思います。時々私は錯覚します。村の人が来て、「滝元さん、今年は九月○日は敬老の日の祝いをしますから来て下さい」と言われ、「誰が?」と思ってしまいます。自分が敬老ということを考えないでいますが、七十七才はやはり敬老です。
 しかし、来年ハワイにおいて行うためには、どうしても油注ぎが必要です。私は毎朝、「イエスさま、私をヨシュアとカレブのように強めてください。」と祈っています。ヨシュアとカレブは八十五歳の時に、私は四十年前の時と同じ力があります、と言っています。私は肉体的な面においては、少し弱っているかも知れませんが、霊的には日本にリバイバルを起こしていただきたい、とにかく日本を救っていただきたいという気持ちを持っています。ですから、「モーセに八十歳から知恵を与えて仕事をさせたように、私にも与えてください」と祈っています。

 「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」というみ言葉があり、ヨシュアがこのように言ったら、ギブオンの上で一日太陽がとどまった、という大奇跡がありましたので、少しくらい年を取っても、年が進まないように力をくださいと祈っています。ですから私にも、新しい油が注がれるように、ぜひ覚えて祈ってください。

 詩篇九十二篇にあるみ言葉のように、『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』とありますので、この年になっても来年は新しい油そそぎの中で、素晴らしい祝福をいただくことができるように祈ってくださるとともに、この教会にも、新しい油注ぎがありますように深く祈っています。また六節に、

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 必ず、恵みといつくしみがとどまってきます。神は良い方。光であって暗いところは何もないです。ですから、来年は神様が、素晴らしい恵みを与えてくださることを信じます。『いつしみと恵みとが私を追ってくるでしょう』とありますが、まず神の国を求めるならば、あなたに必ず素晴らしいものが追って来るという約束です。イエスさまに期待して素晴らしい勝利を見せていただきたいと思います。どんなリバイバルが来るか楽しみです。信じましょう。これが私に与えられたみ言葉であり、教会に与えられたみ言葉であり、またハワイに対して与えられたみ言葉であることを信じています。感謝します。


岡本信弘牧師

ハレルヤ! 皆さんのお祈りに支えられ、一年間守られたことを心から感謝します。いろいろなことがありましたが、我が家においては、海外に行っていた娘が四年半ぶりに帰ってきました。「娘さんが帰ってこられて嬉しいでしょう」と多くの方に言われましたが、嬉しい反面、娘に振り回されているようなところがあり、今になってみると、夫婦二人の生活が懐かしく思います。巷では、「亭主元気で外がいい」とか言われるそうですが、「娘元気で外がいい」と、少し思ったりもします。来年は、またどこかに行くと言っていますが・・・。

さて、今年私が神様から与えられた聖書の箇所は、エペソ人への手紙一章十四節です。

『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。』

毎年、メッセージの順番はくじで決めるのですが、今日礼拝のとき、順先生が、昨年のニューイヤーイブ集会で最後にメッセージをしたのが私だった、という話を聞いて、私に与えられているみ言葉からすると、ひょっとしたら今回も最後になるかもしれないという思いが頭をよぎりました。私は一番初めにくじを選んで名前を書きました。みんなが選んだあと、順先生が「一本棒を加えるか?」と言われましたが、策略を巡らせない方がいいと思い、「そのままでいきましょう」と言いました。結局、私が最後に語ることになってしまいました。先生方がそれぞれ素晴らしいみ言葉を語ってくださり、それを聞いた上でみ言葉を語らせていただけることを感謝します。

昨年、順先生が『神の栄光を取り戻せ!』というタイトルの本を出されましたが、私が二〇〇七年に与えられたみ言葉からお伝えしたいのは、「すべてを神の栄光のために」ということです。自分が何をしたい、どうありたいというよりも、神さまがほめたたえられること、神さまの栄光が現されることを切に求めていくようにと、このみ言葉が与えられたと思います。

エペソ一章を見ると、「神のみこころ」という言葉が何回も出てきます。それは神さまのこころ、思いです。クリスチャンとなった方はだれでも、神さまのみこころを行いたい、神さまのために働きたい、神さまに喜ばれる働きをしたいと思っておられることでしょう。しかし、時として自分の汚れ、弱さを覚え、自分は何も役に立たない、神さまを喜ばすどころか、悲しませることばかりだと挫折することがあります。

私には毎朝の日課があります。それは朝七時半頃、母の家に行き、パンを焼いて牛乳を温め、母が食べているのを見ながら新聞を読むことです。私の母は、数年前に転倒して以来、車いすの生活をしているのですが、最近めっきり気が弱くなり、時々「早く天国に行きたいよ」と言います。私は母に「そんなことを言ってはみんなに誤解されるよ。天国は素晴らしい所だと信じているけど、早く天国に行きたいということは、早く死にたいということだよ。だから、軽々しくそんなことを言ってはいけないよ」と言います。

母は何十年も忙しく働き続け、五人の子どもたちや孫たちの面倒を見てくれました。でも、今自分は満足に動くことができないし、人のためにも役に立たない。みんなに世話にならなければどこかに行くことも、食べることもできないもどかしさを感じているのです。

世の中では、役に立つ人間、会社でいうなら、会社に貢献する人、利益をもたらした人が尊ばれるでしょう。若いときには気力も体力もあり、何でも素早くできす。しかし、人は歳をとります。人間、だれでも年齢を重ねれば、今までできていたことが段々とできなくなっていき、体力も、年々衰えていきます。

新城教会の五十数年の歴史の中にも、色々な悲しいこと、辛いこと、もうだめだと思うようなこともありました。しかし、そんな中でも私たちは主によって強められ、力づけらてきました。主が先立ってくださって戦ってくださり、勝利を与えてくださいました。

話を聞きながら、私では役に立たない、体力的にも何もできないし、霊的にもだめだと思っておられる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、神さまはそうは思っておられません。視点が違います。

ここに集められてここにいる方々はみな、世界の基が置かれる前から神さまから選ばれた者であり、神さまの御手の中に生かされ、神さまに必要とされているのです。不必要な人はだれもいません。

マタイ二十五章に、天のみ国についてのたとえ話があります。

第一に、天のみ国は、花婿を出迎える十人の娘のようだと書かれています。ともしびを持った十人の娘のうち五人は、ともしびといっしょに油つぼに油を入れて持っていたので、花婿が迎えに来たとき、いっしょに婚礼の祝宴に行くことができました。しかしあとの五人の娘は、ともしびは持っていたけれど、油を持っていなかったために、祝宴に行くことができませんでした。

私たちのクリスチャン生活においても、油が必要です。油とは何でしょう。神さまからの力です。ここで教えられることは、どんな時にも、どんな状況に置かれても、常に油を絶やすことなく、燃やし続けることが大切であるということです。

第二に、自分の財産を分けて旅に出た主人のようだとあります。ある人は五タラント、ある人は二タラント、ある人は一タラントを主人から預かりました。今の価値で言うなら、五億円、二億円、一億円に匹敵する額です。しばらくして主人が帰ってきたときに、五タラントの人は、さらに五タラントを儲け、二タラントの人も、さらに二タラントを儲けて主人に差し出し、「良くやった忠実なしもべだ」と喜んでもらいました。しかし、一タラント預かった人は、そのお金を地に隠しておき、そのまま主人に差し出しました。主人はその一タラントを取り上げて、五タラント預かった人にあげたとあります。「だれでも持っている者は、与えられてもっと豊かになる」のです。

神さまは、私たちひとりひとりに、タラント、すなわち賜物を与えてくださっています。与えられた賜物を、私たちがそのまま使わずにしまっておくのでばなく、主の前に、何倍にも増やして差し出すことができるように、それによって、さらに私たちが祝福されるのだと教えられます。

第三に、すべての国々の民が、神のみ前に集められるとき、羊飼いが羊と山羊を分けるように、神さまが羊を右に、山羊を左に置くと書かれています。右に置かれた羊とは、正しい人たちのことを表しています。

三十七節から読むと、正しい人たちがこんなことをしたからといって、王様から感謝されています。「空腹のときにわたしに食べ物を与え、喉が渇いたときに飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸なのを見て着るものを与えてくれた。病気のときには見舞い、牢にいるときに訪ねてくれた」と。しかし正しい人たちは、そんなことをした覚えはないと否定しています。すると、王は彼らに答えて言います。

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(二十五章四十節)

今年も日本において、様々な事件が起こりました。ライブドア、建築偽装、裏金事件等々。どれもこれも、人を犠牲にし自分のことしか考えない、私腹を肥やすような事件ばかりです。政治家がどんなに国民のためだと叫んで何かを行ったとしても、慈善事業をしたとしても、本当に人々の幸せを考えなければ、その働きは失望に終わります。それが日本の現状のように思います。そんな中で、私たちクリスチャンは何をすればいいのでしょう。神さまの前に献金をすること、たくさん祈ることも神さまに喜ばれ、覚えられていますが、『しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』とあるように、私たちの身近にいる家族や、周りの人たちに対して、どれだけのことをしたかが大切であると教えられます。

また、第一コリント十章三十一節には、

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』とあります。

神の栄光を現わすとはどういうことでしょうか。

先日、テレビでフィギアスケートをやっていました。私たち素人が見ても、技術的な面や細かいことはわかりませんが、専門家は私たちが見ていないような部分にも目をとめ、一人ひとりを評価します。神さまの見るところも、私たちの見るところとは違います。人には見えないようなところで主の前に奉仕したことも主は知っておられ、皆さんが祈ったことすべてを主は覚えておられます。そして皆さんが持てるものの中から喜んで献金したことも一円たりとも主は忘れられてはおられません。

ある人は、自分には今そんな余裕がない、病気があるから、神の栄光を現すなんてことはできないと思われているかもしれません。私たちは弱い者です。自分の力では何もできない者です。しかし私たちは神から選ばれた者であり、役割があります。あなたの一言があなたの友人の救いにつながったかもしれません。そしてあなたの一回の祈りによって教会に導かれる人がおられるかもしれません。あなたの笑顔が、傷ついた人の心を慰めることができるかもしれません。そのように、あなたが人のためにした一つ一つのことが、神さまにしたことであり、神さまに喜ばれ、神の栄光を現すことなのです。

『またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。』

(エペソ一章十三節)

神によって選ばれ、神を信じた私たちは、み国を受け継ぐことの保証として聖霊が与えられ、証印を押されているとあります。

十四年前にこの教会で霊的戦いが始まり、私たちはその戦いの中で導かれてきましたが、ある人は私は戦士ではないと思っておられるかもしれません。ここには様々な世代の人々が集まっています。みなが同じではありません。みなが同じ奉仕ができるわけではありません。それぞれ違います。しかしあなたの存在が神の栄光を現すものであり、それこそが霊的戦いです。

神の栄光が輝き闇が打ち砕かれ、闇が切り裂かれて光が差し込まれるときに人々の心が開かれます。そして私たちがどのように栄光を現すかについては、神さまが一人ひとりに必ず語ってくださいます。神さまに語られたことに聞き従ってください。

二〇〇七年、あなたを通して神の栄光が輝かされることを心から願っています。


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