〜ありがとうイエスさま〜

2006.12.31(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 詩篇103篇1節〜5節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日は二〇〇六年最後の日であり、明日からは二〇〇七年となります。そうは言っても、毎日は連続していますが。
 しかし今日は、一応、一年の区切りの日であり、この日に皆さんとともに礼拝できることを感謝します。
 今日は夜九時から越年の集会が行われます。二〇〇六年から二〇〇七年に渡る瞬間を、主を賛美し、み言葉とともに始めることができます。ぜひお出かけ下さい。特に今夜は私以外の牧師・副牧師たちが来年に対するみ言葉を語ってくださいます。それが来年一年の指針となると期待してます。

 日本人は礼儀正しい性格を持った民族であると、世界から評されているようです。暮れには互いに、「お世話になりました。ありがとうございました」と挨拶を交わします。
 私のような牧師のメッセージを、一年間、忍耐して聞いて下さって心から感謝します。また、互いに祈り合い、支え合うことができて感謝です。
 日本人は、律儀な性格が与えられていて、一度イエスさまを信じると、大変まじめに信仰生活を送る姿を見ます。先日、私はクリスマス・プレゼントをいただきました。「先生はメッセージで色々なジョークを使われるので、こんな本はいかがですか。」と言って、『世界の日本人ジョーク集』という本をいただきました。それは、世界の人たちが日本人をどのように見ているかについて書かれている本です。

 ある豪華客船が航海の途中、沈みそうになり、船長はただちに全員を避難させようとしました。しかしそこには色々な国の人々が乗っており、どのようにしたら全員が救命胴衣を付けて海に飛び込んでくれるだろうかと考えました。
 まずはアメリカ人に呼びかけました。「アメリカ人の皆さん、飛び込んだらヒーローになれますよ!」すると、我先にとアメリカ人が海に飛び込みました。
 次に、「紳士淑女の皆様は飛び込んでください。」と言いました。するとイギリス人が男女を問わず皆、飛び込んだそうです。
 次にドイツ人がいました。ドイツ人は理論家なので、なかなか海に飛び込みませんでしたが、「ドイツ人の皆さん。これは規則です!」と言いました。するとドイツ人はすぐに飛び込みました。
 イタリア人の男性たちには、「イタリア人の男性の皆さん、かわいい女の子がすでに飛び込んでいます。」言うと、飛び込みました。
 最後に、日本人が残っていました。そこで、「日本人の皆さん。既にもう、全員が飛び込んでいます。」と言いました。すると日本人が皆、飛び込んだようです。

 日本人には集団意識があり、いつも周囲を見ています。誰か同じ人がいないか、と考えています。日本人はなかなか一人では行動をとるのが難しいです。これは、農耕民族の特徴です。集団でないと作物が作れないからだと言われています。

 また、こんな記事もありました。スープにハエが入っていたら、各国の人はどう反応するかです。
 ドイツ人…このスープは熱いので、十分に殺菌されていると冷静に考え、ハエをスプーンで取り出してスープを飲む。
 フランス人…スプーンでハエを押しつぶし、だし汁をとってからスープを飲む。
(食文化が進んだフランスですが、本当でしょうか?)
 中国人…問題なく、ハエを食べる。
 イギリス人…スプーンを置き、皮肉を言ってから店を出て行く。
 ロシア人…酔っぱらっていて、ハエが入っていることすら気付かない。
 アメリカ人…ボーイを呼び、コックを呼び、支配人を呼び、あげくには裁判沙汰となる。
 日本人…周りを見回し、自分だけにハエが入っているのを確認してから、そっとボーイを呼びつける。
 韓国人…ハエが入っているのは日本人のせいだと叫び、日の丸を燃やす。
 
 新城教会ではどの国の人も一つとなって、主を賛美しています。それは素晴らしい姿です。各国色々な特徴がありますが、イエスさまによって救われて一つになることは素晴らしいです。
 この年の終わりに、私たちは心から、「ありがとうイエスさま!」と叫びたいです。それで、「Thank you Jesus!」 というタイトルを付けました。
 詩篇一〇三篇一節から二節に、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 今日は神様を心から賛美しましたが、同時に感謝するときでもありました。『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな』とありますが、一年間を振り返って、イエスさまが良くして下さったことを忘れないように、感謝してくださいと語られています。これは神が願っておられることです。神様は感情を持っておられますので、私たちは心から感謝をささげるべきです。人間同士でも感謝されたら嬉しいです。神様も同じだと思います。人間の性格を造られたお方ですので、同じ性格をお持ちです。四節から五節に、

『あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

とあります。今年の暮れから教えられていることは、私たちの信じ仕える神は、良いお方で、私たちの一生を良い物で満たされるのです。
 しかし、この世の神々は、「神にもなれば鬼にもなる」という神々であり、良い物を与えたら、次には必ず悪い物を与えるという、善と悪を兼ね備えた悪霊です。そして、その善も真の善ではなく、偽物なのです。
 イエスさまはあなたの一生を良い物で満たしてくださいます。今年良かったら、来年は危ないというものではありません。来年は更に良く、再来年は更に更に良いのです。またその次の年は、更に更に更に良い年です。毎年、どんどん良くなっていきます。私たちはこのみ言葉を信じることが大切です。

『あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

 「年をとってしまった」と嘆く必要はありません。私も五十五才になりましたが、これからだと思っています。時々鏡を見て呆然とします。しかし、私はあまり気にしていません。この姿さえも、神様が与えてくださったものだと感謝しています。すべてがイエスさまによって与えられ、導かれていることを信じています。ですから来年のことを心配する必要はありません。「あなたの一生を良い物で満たされます!」で十分です。決して二〇〇七年は悪い年ではないので、心配いりません。神の民を守って下さいます。

 毎年私は、十二月三十一日の越年の集会を楽しみにしています。なぜならば、六人の先生方が、次の年に向けての神様からのみ言葉を語るからです。私はそれを総合して、皆にお伝えする役割を担っています。
 皆さんは二〇〇六年に語られた言葉を覚えていますか?
 私は昨日、もう一度読み返してみました。素晴らしいみ言葉が語られていました。公畑フェルナンド先生、滝元開先生、滝元明先生、上條実先生、岡本信弘先生の順番で語ってくださいました。これを読んで振り返ると、語られたことばが2006年に教会に実現していたとわかります。心から神様に感謝しました。皆さんにも、同じ事が起こったと思います。全体をまとめたものを、一度お読みします。

(二〇〇六年に対する、主からのメッセージの預言的なまとめ)
 「今までわたしは新城教会に霊的戦いの扉を開き続けてきました。その扉は国内にとどまらず、海外までも開かれました。しかし今年はいよいよ、城壁が崩れるときです。あなたがたは攻め上り、敵陣を占領しなければなりません。攻め上るとは、福音を伝えることです。時には福音に対して耳を貸さない人々がいるでしょう。しかし、彼らが聞いても聞かなくても恐れず、ひるまず語り続けなさい。わたしは常にあなたとともにいます。かつてメディア人の王たちの心を変え、ローマ帝国をわたしに向かわせたように、わたしは日本の権力者や王的存在の心をも、変えることができます。日本において、必ずバッタのような大群がわたしに叫び声を上げるようになります。そのためには、あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴から目を離してはなりません。新城教会の歴史の中で、一九九二年を境に大きく変化したことを、あなたがたは知っています。それは聖霊の油そそぎと霊的戦いによってもたらされたものです。これこそ、新城教会の切り出された岩、掘り出された穴なのです。今年は激しく泣いていた人々の涙が止められる年となります。エジプトから逃げ出したモーセを回復し、エジプトから多くの民を連れ出させたように、今年は人々を回復し、わたしのために用います。そしてあなたの将来には望みがあります。
 クリスチャン生活は、自分が描いた夢が実現することではなく、神の目的の実現であることを忘れてはなりません。ですから、すべてのことを疑わず、つぶやかずに行いなさい。わたしは「ある」というものです。この世の「ゼロ」という概念に毒されてはいけません。わたしはあるがゆえに、すべての領域を満たすことができるのです。光の子どもとして歩み、信仰と愛の胸当てを付け、救いの兜をかぶり、慎み深くしていなさい。やがてすべての国民はあなたがたを幸せ者と呼ぶようになります。それはあなたがたは喜びの地となるからです。」

 これは六人の先生方と、私に与えられたみ言葉を総合したものです。神様はこの言葉を実現してくださったと感謝しています。そしてこれは二〇〇六年で終結する預言ではなく、二〇〇七年にも続くものです。神様の言葉は永遠に立ちますので、信頼していきたいと思います。

 二〇〇六年のために、フェルナンド先生が語ったみ言葉は、ヨシュア記六章二十節でした。

『そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。』

また滝元開先生はエゼキエル書三章九節、

『わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。』

と語りました。今まで、霊的戦いの祈りをしてきましたが、二〇〇六年は壁が崩される年であり、壁が崩されたら攻め上らなければならないと語りました。そして「攻め上る」とは、「福音を伝えること」だと話しました。
 最近、福音が語る度に、壁が崩されているのを感じます。今までになく、私たちが語る福音が人々に届きます。これは霊的壁が崩された証拠です。しかしその時に私たちは攻め上ること、福音を伝えなければならないと教えています。

 『彼らは反逆の家だから彼らを恐れるな。ひるむな』とありますが、壁が崩されているにも関わらず、なかなか動かないような時もあります。しかしひるんではいけないのです。
 ある人は家族の中で、たった一人のクリスチャンとして、教会に集われているかも知れません。壁が崩れるどころか、硬くてビクともしない、「反逆の家」に住んでいて、周囲はイエスさまを全く無視しているような家族かも知れません。しかし、ひるんではいけない、主がともにおられるので語り続けなさい、必ず動く日が来ると今年の始めにも語りました。

 今年は、家族の中に主が勝利を与えて下さった年でした。家族の中に神様が働いてくださり、壁を崩してくださった年であったと思います。そしてそれは、今後も続いていきます。
 教会に一人の女性が来られています。彼女は、家族の中でただ一人のクリスチャンです。特に、嫁ぎ先の義理お母さんが偶像礼拝を真剣にしており、毎日のように霊能者に頼り、墓に行っては家族のために拝みまくっていました。その上、教会が大嫌いで、いつも彼女を迫害していました。また、ご主人も教会に来るのが嫌だと言っていました。
 しかし彼女は真剣に家族のために祈っていました。また私たちも、とりなしの祈りで応援していました。しかし、私は、「義理のお母さんだけは、難しい」と思ってしまうほどでした。
 ある時、そのお宅を訪問しました。しかしお母さんはすごく嫌そうな顔をしていました。私たちが行くと、玄関に塩をまいていました。
 しかしこの十二月の後半、不思議なことが起こりました。その家庭にちょっとした問題が起こり、どうしたら良いのかわかりませんでした。お母さんには、問題があるときに相談を持ちかける人物がおり、そこにアドバイスを受けに行きました。
 するとその人、「あなたの抱えているような問題は、どこに行っても解決できないよ。でも、解決できるとしたら、一カ所だけあるから紹介してあげます。」と言われたそうです。そして、その場所を尋ねると、「新城教会です」と言われたそうです。
 「新城教会に行って祈ってもらうと、人生が変わるから行ってくるように」と言われたそうです。
 なんと、先週は、そのお母さんが孫たちを連れて、教会に来ました。そして、「私はまさか、教会だけには行かないと思っていたけど、私の頼りにしていた人が新城教会に行け、と言われました。しかもそれが、嫁が行っている教会で驚きました。」と言われました。
 私はすぐさま、霊的領域について話しました。するとお母さんはすぐに理解し、イエスさまを信じ、すべての偶像礼拝を断ち切る祈りをして、喜んで帰られました。先日まで、塩をまいていたおばさんが、目の前で祈りを受けている姿を見て、「これはみ言葉の実現だ!」と感動しました。壁が崩れている証拠だと思いました。攻め上らなければなりません。どんなに動かないような家族でも、心配しなくて良いです。イエスさまが、必ず働いてくださいます。しかし、語り続けることが大切です。少しは嫌みを言われますが、気にしないで語り続けるときに、主がともに働いてくださるのです。

 この教会には、五十数年の歴史があります。五十年以上経つと、教会に通っている人たちがどんなふうに人生を歩んだのか、見えてきます。教会に来て、ただ、スタミナ・ドリンクを飲んだときのように、一時的に元気になるだけでなく、長い歴史の中で教会に通っている人々が、どんな人生を送っているかを見て評価することも大切です。それを見ると、神が生きておられるという証拠がわかります。五十数年も経つと、三代、四代とクリスチャンの家庭が続き、だいぶ結果が出てきます。
 私は牧師の息子として生まれ、それを見ています。この教会に、長い年月来てくださっている方々を見て、イエスさまに従っていけば、間違いないことがわかります。

 先週、ある家庭で嬉しいことがありました。それは、一人の青年が若くして司法書士試験に合格しました。それもほとんど最年少で、トップ合格しました。それでなんと、二十代で司法書士事務所を開きました。その事務所開きの祈りに私は行きました。そこの家族は、皆クリスチャンです。彼らは教会に来て、三十年以上になると言われていました。子どもたちも立派に成長し、このたび事務所を開くことになり感動しました。
 彼らの三十年のクリスチャン生活でも、時には辛いこともありました。しかしイエスさまに頼っていくときに、悪く見えるような事柄でも、後から祝福となって帰ってきます。

 その家族の隣に、少しおかしな人が住んでいて、あるとき一家はいろいろと隣人からいじめられ苦しめられました。家族は皆、弱ってしまいました。しかし、教会には問題を解く鍵があるので、お隣から悪く言われても、隣人の祝福を祈りました。「神様。その人を祝福してください」と祈りました。同時に、背後で働く悪霊を打ち砕く祈りをしました。教会からとりなし手たちを遣わし、隣人のために祈りました。
 もちろん、敵は悪魔ですが人が使われるのです。人にも責任があります。そして、神の民をいじめすぎてはいけないのです。神は、神の民を特別に扱われます。あまりやりすぎると、神の手が人に重くのしかかります。お隣は始めは元気よく、クリスチャンホームを苦しめました。しかし段々、その家族に問題が起こりました。知らないうちに、その家の人たちは、どこかに引っ越していきました。神様が自然に問題解決をなされました。そして、隣の家は他人の手に渡りました。
 しかし、また不思議なことが起こりました。家が他人の手に渡りましたが、「すみませんが、この家を買っていただけませんか。」と、回り回って別のところから話が来たのです。そして、最終的には、かつていじめていた人の家は、長い間いじめを受けていた、クリスチャン・ホームのものとなりました。
 先日私は、その家に入って、そこで働いた悪霊を打ち破る祈りをしました。今度は、その家が、神のために用いられるようにと祈りました。

 時には、問題解決に時間がかかることもありますが、主に信頼していくならば、見たことも聞いたことも、思いに浮かんだこともないような方法で、問題を解決してくださるのです。イエスさまに信頼するならば、必ず、壁が崩され、神の栄光が現されます。だから、決して諦めたり、ひるんだりしてはいけません。エゼキエル書に、『彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。』とあります。ひるまずに、戦い続けるならば、必ず今後も主は素晴らしいことをしてくださいます。

 続いて滝元明先生が、エレミヤ書五十一章十四節から語りました。

『万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」』

 新城教会の週報の祈りの課題の最初は、「日本のリバイバルのために」とあります。日本が主を恐れる国となること、リバイバルのために私たちは祈っています。この教会はリバイバルのためにある教会だと思っています。ですから、リバイバル・ミッションをサポートしています。来年はハワイでリバイバル・ミッションが行われます。ハワイには日系人がたくさん住んでいます。また、ハワイはアメリカに属しています。リバイバルとは、すべての民が主を信じる為の働きです。『必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。』とあります。
 こんなローカルな新城教会においても、近頃、多くの人が教会に来られます。クリスマスにも、多くの人が来てくださり、叫び声を上げていました。ゴスペル・コンサートでは、イエスさまを知らない人たちが、「イエスさま!」「ハレルヤ!」と叫び声を上げている姿を見ました。み言葉の通りだと感謝しました。

 四元雅也先生がイザヤ書五十一章一節から語られました。

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』

 私の両親が伝道を始めて、五十六年が経ちました。しかし一九九二年に激しく教会が変化しました。それは、主が訪れてくださったからです。そのことについて詳しく知りたい方は、私の書いた『主が立ち上がられた日』をぜひお読み下さい。それは、九二年、「甲子園ミッション」の働きの準備のただ中で起こされました。祈りの中で聖霊様が激しく臨まれ、新しい扉が開かれました。ひとりひとりに聖霊の油が注がれ、霊的戦いについて教えられました。今まで魂が救われないのは、文化的、習慣的、宗教的理由と共に、私たちの伝道が下手だからと思っていました。しかし、「目に見えない霊的な壁を打ち破らなければ光は届かない」と教えられたのです。
 いくら天気が悪く、黒い雲が街を覆ってたとしてもその上には、常に太陽が照っています。黒い雲さえなくなれば、いつでも光は届きます。けれども、雲があったら一日中暗いのです。
 同様に、福音を閉ざす黒い雲が地域を覆っていたら、いくら神様が働こうとしても働くことができないのです。福音を伝えるためには、まず、雲を取り除くことです。それが霊的戦いであり、とりなしの祈りです。

 新しく新城教会に来られた方々は、「この教会では、色々な祈りをしているな」と感じるかも知れません。とりなしの祈りに、何の意味があるのだろうかと思うかも知れません。しかし、そこには大きな意味があるのです。それは、黒い雲を打ち砕く祈りです。打ち破るためには、霊的戦いの祈りが必要です。

 語られたメッセージは、特に、『切り出された岩、掘り出された穴を見よ』ということは、「聖霊の油そそぎ」と「霊的戦い」という、二つの穴から離れてはいけない、この原点を忘れてはいけないというメッセージでした。その中で、神が新しいことをしてくださると語られました。
 また、上條先生は、エレミヤ書三十一章十五節から十七節から語りました。

『主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 敵とは悪魔・悪霊の支配であり、そこから解放される時に、喜びと慰めが与えられ、涙が止められというメッセージを語りました。そして、リビング・バイブルも引用しました。

『神様は私に、再びお語りになりました。 ラマ(バビロンの捕虜となったユダヤ人が集合させられた場所)で激しい泣き声が聞こえる。 ラケル〔ヤコブの妻。 イスラエル王国の母として象徴的に言われている〕は子供のために身もあられもなく泣いているが、どうしても慰めることはできない。 それもそのはず、子供がいなくなったからだ。しかし、神様は約束なさいます。 もう、泣かなくていい。 確かにおまえの祈りを聞いた。 おまえはまた子供に会える。 彼らは遠い敵の国から、おまえのふところへ帰って来る。おまえの将来には希望がある。 おまえの子供は生まれ故郷へ帰って来る。』

 二〇〇六年は、今まで泣いてきた人たちの祈りを聞く、また、失敗していた人たちを回復すると語りました。
 「ラマ」とは、バビロンの捕囚となったユダヤ人たちが集合させられた場所でした。そこからバビロンへと連行されたのです。敵国の捕虜となった人々の収容所は嘆きと悲しみの叫びに満ちていました。
 しかしそのラマがなくなる、嘆き悲しみから解放される年となる、と語りました。

 聖霊の油そそぎにより、とりなしの祈りにより、ラマが砕かれ、人々が敵の国から帰ってくると教えています。これは継続して主が与えて下さっている言葉です。
 皆さんにも、ラマがあるかも知れません。悲しみの拠点があるかも知れません。しかし神はそのラマを破壊し、回復されるのです。「あなたは泣かなくても良い、あなたの名誉を回復してあげる」と語られます。

 今から三年ほど前、この近くで大きな事件がありました。それは、当時二歳の男の子が殺されたとされる事件でした。車の中から誘拐され、海に投げ込まれたというものでした。父親がゲームセンターで遊んでいたときに、子どもを車中に寝かしておいたら、いなくなって何キロも離れた海で遺体で発見されたのです。そのような事件があったら、教会はすぐに祈らなければなりません。
 私たちは翌日、霊的戦いの勇士たちとともに、現場に行って祈りました。真実が現されるようにと祈りました。
 すると、事件の九ヶ月後に犯人が逮捕されました。逮捕された人物はゲームセンターの駐車場で寝泊まりしていた人でした。彼は逮捕され、二年八ヶ月ほど拘置され、裁判を受けていました。
 しかし先日、名古屋地方裁判所で無罪判決が出て、彼は釈放されたのです。事件を調べた裁判官が、「この事件はおかしい、彼がやった形跡はない」と判断し、殺人事件では異例の無罪の判決が出たのです。

 その報道と記者会見を、この教会のある女性が見ていました。無罪になった男性の姿を見てたいへん強く印象に残ったそうです。
 しばらくして彼女が駅構内を歩いていると、駅の待合室に、どこかで見たことのある人が座っていました。一度通り過ぎましたが、引き返し声を掛けたのです。
 「ちょっとすみません。あなたをどこかで見たことがありますが…。あなたは、ひょっとして、あの事件の人ではないですか?」と聞きました。
 すると彼は、「はい。そうです」と答えたのです。すると彼女は、「私は新城教会に行っているクリスチャンです。あなたは、教会に行って祈ってもらうと良いですよ。人生が新しくなりますから。教会の電話番号を教えます。それと牧師の電話番号も教えます。私の電話番号も教えます。あなたも、電話番号も教えてください。」と言ったそうです。
 そしてすぐに彼女から私に電話がありました。「今、Kさんという人に出会ったので、電話があると思います。」
 何と強引にも、彼は教会に導かれたのです。(神様は性格の賜物を十分に用いてくださいます)
 Kさんは伝道礼拝に来られました。そして、イエスさまを救い主として信じ、帰られたのです。そのKさんが、先週、解放の祈りを受けるために教会に来られました。

 彼さんが犯人にさせられたのは、事件の前後から現場となった駐車場で寝泊まりしていたからでした。事件の夜も、その翌日もずっと同じ場所に駐車して、車中で寝ていました。それで、彼のことが捜査線上に浮かび、逮捕されたのです。彼は二十日間警察に拘置され、締め上げられフラフラになり、自分がやったとサインをしてしまったのです。そして長い間、拘置所に捕らえられてました。
 しかし今回、彼は無罪となり出てこられ、先週は一緒にお祈りをしました。「なぜ、あなたはそんな疑われるような場所で生活していたのですか。」と聞くと、「家内とちょっとしたことがあって、寝る所がなかったので…」と言われました。
 警察の調書では、Kさんが駐車場から子どもを連れ出し、数キロ離れた海に連れて行って子どもを海に投げ込んで殺し、元の場所に戻って来て寝ていた、となっていたようです。私は犯人が、同じ場所に戻るはずはないと思いました。

 彼が問題に巻き込まれた背景に、夫婦の仲が悪かったという事がありました。それが罠となって事件に巻き込まれたのです。
 今回は、夫婦関係が回復できるようにと祈りました。彼は関係を回復したいと言われました。今、高等裁判所に上告されていますが、完全無罪なったら、家族と共に教会に来たいと言われました。
 私は彼を駅まで送っていきました。その時、ふっと思いました。「彼と一緒に事件現場に行って祈ろう」
 私は、彼が一番行きたくない現場に一緒に行き、そこで働いた悪魔の力を打ち砕く祈りをしました。彼は、「悪霊とのつながりを断ち切ってください」と真剣に祈っていました。
 そしてもう帰ろうと思いましたが、彼は自ら、子どもが死んでいた現場にも行って祈って欲しいと言われたので、そこにも行き悪霊との断ち切りを一緒に祈りました。もう二度と、悪魔によって人生を陥れられないようにと祈りました。

 三年前、主が、事件後「すぐに現場に行って祈りなさい」と語られたときには、あまり意味がわかりませんでした。しかし、今回、「あのときの祈りは、この時のためであった」と感謝しました。主は素晴らしいと思いました。
 しかし現実には一人の子どもが亡くなっています。もしかしたら、それは事件ではなく事故だったかも知れません。すぐ近くには川があって、二歳ならよく歩けるので、一人で出て行って落ちて流されれば、ちょうど発見された場所に流れ着くからです。また、もしかしたら、他に犯人がいるのかも知れません。何れにしても、主がKさんに到達させてくださり、救いと解放を祈らせてくださったことに感謝します。
 また現在、彼の名誉も回復されつつあり、家族も教会に連れてきたいと願っていることは、イザヤ書五十一章のみ言葉と、エレミヤ書のみ言葉の成就であると感動しました。

 み言葉通りに主が働いてくださり、ラマが打ち破られ、勝利が現されると信じます。その内、彼はバプテスマを受けると思いますので、その時には、皆さんに紹介したいと思います。

『あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 岡本信弘先生は、ピリピ二章十三節から十四節を語ってくださいました。クリスチャン生活は自分の描いた夢が実現することではなく、神の目的の実現だと語りました。
 教会に来ると、色々な問題解決や祝福がもたらされることも事実ですが、究極的な目的は、神の目的の実現です。そこに照準を会わせなければなりません。時には、私たちの働きの中で、つぶやきや疑いが出てしまうことがあります。しかし、聖書は「つぶやかず、疑わずに行いなさい」と告げます。そして必ず、神の目的が達成されると語られています。

 私たちは、新しい年に向かい、すべてを喜びを持って受け入れることはできないかも知れません。時には辛く、逃げ出したいと思うことがあるかも知れません。しかし神の目的ならば、事は必ず達成されます。ですから、つぶやかず、疑わずに行うようにと語られています。そもそも、志を与えるのは神なのです。
 二〇〇七年はハワイで「リバイバル・ミッション」が行われます。異国の地でわからないことがたくさんありますが、きっと主が大きな事をしてくださると信じています。ぜひ、み心が現されるようにお祈り下さい。
 私は二〇〇六年に対して、出エジプト記三章十四節のみ言葉をいただきました。

『「わたしは『生ける神、創造者』だ。 『「わたしはある」(イスラエルの神の名、主のもともとの意味)という方に遣わされた』と言えばよい。』

 神様の名前は「ある」と話しました。時々私たちは「何もない」という概念に支配されます。私たちは数字を使い、ゼロという数字があります。しかしゼロは数学的な概念ではなく、宗教的概念です。人間は生まれたら、一才でも良いのですが、ゼロ才から始まります。私は年の数え方にも悪魔の策略があるように思います。人はゼロから始まりゼロになると言うのです。悪魔は人には何もないという概念を植え付けます。
 一億にゼロをかけると、瞬間的に一億がゼロになってしまいます。ゼロは瞬間的にすべての数字を無くします。これはヒンズーの考え方です。ゼロが神としてあがめられています。
 先日私はバリに行きました。そこで現地の人に、「あなたの神様は何ですか?」と聞きました。すると、「私の神様はゼロです。私たちの心にはゼロが住んでいます。」と答えました。
 ゼロは一瞬にしてすべてを消し去り、微少でも量が出るならば、つまりゼロを分母にして割り算をするとエラーになりますが、少しでも量が出るならば、結果は無限大(∞)になります。ゼロは全てを無にし、無限大にも変化させるゆえに「神である」という概念です。これは聖書の神様とは違います。私たちの神は、ない方ではなく「ある方」であり、あなたは既にある方とともにあるのです。悪魔はあなたには何もないと語りかけますが、その言葉に惑わされてはいけません。わたしはあると言われるお方が、私たちとともにおられます。
 悪魔が、「お前はゼロから生まれたので、最終的に死んでゼロになる」と語りかけるので、多くの人が自殺していきます。多くの人が死んだらゼロに戻ると思っています。しかし死後の世界があります。わたしはあると言われる神様が、私たちとともにあることを知ることが大切です。
 エペソ人への手紙一章三節から五節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』

 私たちはこの地上に生を受けたときに、存在したのではなく天地宇宙の基が置かれる前から、既に神があったように、私たちも神のうちにあったのです。神が私たちを造られたと言うことは、元々、私たちもあったのです。何もないことはありません。神は無から有を創り出すお方ですが、実は、神には無はありませんので、私たちもあったのです。
 そんな神様がともにおられたら、私たちは、将来に不安を持つ必要はないのです。あるという方とともに生きる人生は、将来どんなに社会が変化しても、恐れる必要はないのです。これが、二〇〇六年に主が教えてくださった事でした。

 さあ、二〇〇七年に向けて、主はどのように語られるのかわかりませんが、神の言葉は皆さんのうちに実現し続けていきます。
 二〇〇七年に向けて、主が私に与えてくださっている言葉は、詩篇一四四篇です。詩篇一四四篇十二節から十五節に、

『私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。』

 二〇〇七年は、『私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。』
 来年は新しい世代を用いてくださると思います。年代と言うよりも、新しく造られる民、新しいゼネレーション、今まで眠っていた賜物が目を覚ます年になると信じます。
 主が幾千、幾万にも増やしてくださり、死ぬこともなく、出て行くこともなく、哀れな叫び声もない年になるよう、祈っていきなさいと語られています。そのために戦って行かなくてはならないと思います。

 二〇〇六年に主が成して下さった事柄を感謝し、栄光を主におささげし、主が良くしてくださったことを何一つ忘れないで行きましょう。
 また主に期待して進んでいきたいと願います。これから聖餐式をしますが、主に感謝する聖餐式でありたいと願います。お祈りします。


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