新年メッセージ

2007.1.1(SUN)
新城教会 滝元 順師

 新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 人間は神なしでは生きることができません。常に絶対者を意識し、目指して生きています。日本人は大変信心深い民族であり、新年には多くの人々が初詣に出かけます。正月くらいは神様と向き合おうという気持ちを持っているようです。そのような欲求があること自体、どこかに絶対者なる神がおられる証拠です。私たちの心の中から、神という存在を取り去ることはできません。

 クリスチャンは、イエス・キリストを神として信じています。イエスさまは実在した人物です。十二月二十五日にイエスさまのお生まれをお祝いしますが、誕生日については聖書に記されていません。しかしイエス様は実際に、この地上にお生まれになったお方です。イエスさまは、普通の人間では絶対に語ることはできない言葉を語られました。「イエスさま語録」が聖書に記されています。
 代表的な言葉に、『わたしが道であり、真理であり、いのちです。』というものがあります。あなたはこの言葉を語ることができるでしょうか。豊橋駅前の高いところに立ち、新年早々、「みなさん!私が道であり、真理であり、いのちです!」と叫んだら、みんなはなんと思うでしょう。
 「大変な人だ。早く病院に連絡してあげた方が良いのではないか」と言われると思います。「私が道であり、真理であり、いのちです」と語れるのは、頭が狂った人か、本当の神のどちらかだと思います。
 またイエスさまは、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と語られました。
 この言葉を誰かから聞いたら、どうでしょうか。多分、「あなたが疲れているんじゃあない?」と言って、引くと思います。
 しかしイエスさまは、この言葉を全世界の人々に語られています。そして二千年の間、否定されていないのです。イエスさまは、頭が狂った人物か、または神様のどちらかです。
 しかし歴史を見るときに、イエスさまに従った人は絶えることがありません。イエスさまがご自分の生涯を人々の前に現わし、教えを説かれたのは三十三年の生涯のうち、たったの三年間でした。それにも関わらず、今は全世界の人々がイエスさまを信じています。世界人口の三分の一がキリスト教圏と言われています。イエスさまとは、神が人となられた方であり、神ご自身です。

 日本の神々とは、「陰陽の神々」です。神社に行くと、まずあるのは「狛犬」です。狛犬は「あうん」と言い、二つで対になっており、一体は口を開いており、もう一体は口を閉じています。これは二匹でセットです。仏教にしても、神道にしても、根源にあるのは陰陽の理論です。陰と陽によって世界が成り立っていると考えます。それは良い神様と悪い神様が戦って、互角の戦いをしているときに人は幸せだという考え方に基づきます。人々は初詣で、みくじを引いて、「吉」と出るか「凶」と出るかで、ドキドキします。吉が出たらうれしい反面、気にもなります。吉が出たら必ず凶もあるからです。新年早々、吉が出たら、「今年は吉から始まり凶に向かっていくから危ない」と不安になります。凶が出たら「最悪だ」と言いますが、「もしかしたら、今年は最初の日が凶だから、段々吉になっていくかも」と考えます。
 仏教も神道も根源は「吉凶の神々」です。それは、鬼にもなれば神にもなるという存在です。よく拝めば神になるが、ある時には鬼にもなる神々、すなわち、陰陽の神々が日本宗教の根底にあるのです。

 案外クリスチャンになっても、昔の宗教概念がなかなか消えません。イエスさまについても、同様に考えてしまいがちです。
 しかし聖書が教える神とは、第一ヨハネ一章五節に、

『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。』

とあります。またヤコブ書一章十六節から十七節に、

『愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

とあります。私たちの神は光であって、暗いところが何一つ無いと教えています。吉にもなり凶にもなるような神ではないのです。
 ということは、イエスさまに従っていくならば、今年は最高の年となります。来年はさらに、最高の年となります。そしてその次の年には、さらに、さらに、良い年となります。

 神々の選択は、人間側に任されています。皆さんは吉凶の神を選びますか。それとも、移りゆく陰のない良い神を選ばれますか。人間側にその決定権があります。
 私たちクリスチャンは、光なる神、移りゆく陰のない神を選んでいます。ですから、イエスさまを信じる者たちにとって、明日は恐くありません。イエスさまは、良いものだけを提供してくださいます。しかし神社や仏教の神々は、吉凶の神々なので、終わりなき戦いに引き込まれます。
 仏教や神道の根源にはヒンズー教があり、日本の霊的ルーツを現代にまで残している、バリ・ヒンズーでは、ランダとバロンという善神、悪神が永遠に戦い続けるという宗教観があります。そんな戦いの中には入りたくありません。聖書の神さまには、暗いところはないのです。私たちは常に明るい光の中を進むことができます。この新年、まず、イエスさまを自分の神として歩むならば、必ず、祝福されます。

 日本の宗教には占いがあります。今年はどういう年になるだろうかと、暮れから新年にかけて占いがなされます。私の知り合いに占い師の親族の方がいます。占い師は、暮れから占いに明け暮れて一喜一憂しているそうです。クリスチャンになると、占いに頼らなくても良いのです。なぜならば、未来は明るいからです。
 聖書は占いではなく、真の神様がみ言葉を通して、私たちを預言的に導いてくださいます。過去に失敗があり、取り戻せないと言う人がいますが、神様は過去、現在、未来を現在形で持っておられ、過去も現在形でもっておられるので、取り返すことができます。未来さえも、現在形でもっておられるので、イエスさまの中に生きるときに、神のみ手の中で、預言的に生きることができます。神が定められた計画書の中を歩むことができます。

 昨晩、六名の牧師副牧師たちにより、メッセージが語られ大変恵まれました。私はその中で語られた言葉をまとめる役割です。それは神からの励ましの言葉であり、預言的な言葉です。聖書の言葉は、励ましの言葉であり、吉凶の神々とは一線を画した、光の言葉です。

 最初に、四元雅也先生が語ったのは、ヨシュア記一章九節からです。

『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』

 聖書は、私たちがどこに行っても、天地宇宙を造られた神が一緒であると教えています。時々、一人で行くのが恐くて、友達についてきてもらうことがあります。友達について来てもらっても、状況はあまり変わりませんが、励まされます。人間同士でもそうなら、天地宇宙を造られた神様が共におられたら、どんなにか力強い事でしょう。どこに行っても、「わたしはあなたがたとともにいます」と、み言葉から語ってくださいました。

 イスラエルの人たちは荒野で四十年間過ごしましたが、それは、やがてカナンの地に入るための訓練の期間でした。カナンの地は、約束の地でありながら、依然として敵が支配している地でした。

 カナンの地に入ったときに、荒野で訓練を受けた精鋭たちも、訓練を受けなかった人たちも、同時に全体が戦いの中に入ったと話されました。それを新城教会と重ねて、十五年前に主が霊的戦いを開かれましたが、今までは訓練の時であったかも知れません。しかし、二〇〇七年はカナンの地に入国するように、新しい地に踏み込むときであると語られました。教会に属するすべての人々が、その中に入りますが恐れないでください、それは勝利の瞬間であり、一人ひとりに主が役割を果たさせ、「あなたを勇士とする」と語られました。

 今年は、一人ひとりが主の勇士なのです。勇士として、一年を始めていきたいと思います。

 二番目に公畑フェルナンド先生が語りました。ピリピ三章十三節から十四節、

『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』

 「新しい年を喜びをもって迎えよう」という主題で語りました。
今朝、皆さんには喜びがありますか?ある方は、今日は喜びがないと言われるかも知れませんが、今年はあなたにとって喜びの年となるように、と語られました。なぜならば、光なる神がおられるからです。ゆえに、後ろのものを忘れて、ひたむきに走ってくださいと語りました。そして、今年は「昨年よりも更に良いことが起きる」と語られました。
 また、「立ち止まってはいけない。ゴールはもうすぐであり、二〇〇七年は神が超自然的な働きをしてくださる」と、とても励まされるメッセージでした。
 教会に来ると自然だけではなく、自然を超える超自然的なことを体験できます。二〇〇六年にも超自然的なことがたくさん起こされました。神様以外に起こし得ないとことが、たくさん起こりました。私は牧師ですので、いつも最前線でそれを見て感動しています。
 国家が一丸となって立ち向かっても、ビクともしない問題が多いのです。しかしイエスさまがその問題を解いてくださいます。それは超自然的なことです。今年はそれが加速度を増して行われると語りました。

 三番目に滝元開先生が、ヨエル書三章十三節から語られました。

『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。』

 「来て踏め」という主題でメッセージを語ってくださいました。神様は、私たちが考えている以上に、既に働いておられる語りました。「ざわめき」の働きや、中高生の「レッツプレイズ」、そして「刑務所でのコンサート」の証の中で、神が働いておられる事実を語りました。自分が予測していないことが多く起こるのを見て、私たちの思いを超えて、既に、主が働いておられるのがわかります。
 既に実は熟しているから、「来て、踏んでください」と語られました。時々、「私の時はまだ来ていない、いつ主はくるのだろうか」と考えます。
 しかし「あなたの時はもう来ている」と、チャレンジと希望に満ちたメッセージでした。また同時に、三つの踏むべき事柄について語られました。

 まず、「平和の神はあなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる」とあるので、「悪魔のかしら」を踏みつぶすこと。そして第二は、「占領するべき地を踏む。」また第三は、イスラエルの民が奇跡を体験する前に踏んだのは「ヨルダン川」でした。ヨルダン川を踏んだときに、ヨルダン川が裂けたという記述から、神様の常識は常識を超えた超常識のところにあるという事でした。
 私たちには、常識に生きるという考え方があります。それは、これまでの経験から物事を判断し、未来を予測する方法です。もちろん、常識は安全に生きるために大切ですが、神様の働きは、常識を少し超えたところにあります。それが「信仰の世界」です。皆さんの常識を、非常識ではなく、「超常識」という、神の基準で行動できるように祈っていきましょう。『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。』と主は語られています。

 四番目に上條実先生でした。詩篇五十八篇十節から十一節に、

『正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』

 今年は回復が起こり、それも、「絶対に回復不可能だ」と考えているような致命的領域に神が回復を起こしてくださると語られました。これも超常識の領域です。
 「あれは致命傷だ。これだけは回復できない」と思われているかも知れませんが、今年神はそこに触れてくださると語られました。
 『正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。』というのは、皆さんに致命傷を与えた、サタンの力が打ち破られ勝利することを意味します。
 また、『正しい者には報いがある』とあります。今年は、復讐と報いが来ると教えています。復讐とは、人に対するものではなく、目に見えない敵、悪魔に対するものです。
 今年皆さんの致命的な傷が癒されますように、復讐と報いが来ますように、というメッセージでした。

 五番目に滝元明師は詩篇二十三篇から語られました。

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 上條先生のみ言葉と共通点がありました。『私の敵の前であなたは食事を整える』とありますが、これは品素な食事を並べるのではなく、「宴会」だと語りました。敵の前で宴会が催されると教えています。今まであなたに、致命傷を与えていたような敵の前で、宴会がなされる、そして、敵の前で油が注がれる年になると語りました。

 あなたは今まで敵前で恐れていたかも知れません。しかし、今年は敵の前で宴会が催され、敵を見下す素晴らしい年になると語りました。そしてまた、

『私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。』とあります。

 一般的には、幸せは追い求めるものだと考えますが、イエスさまを知ると、幸せは追い求めるものではなく、ついてくるものだと知ります。私たちが歩む方向に、幸せがついてくるのです。どこに幸せがあるのだろうか、あの山の彼方に幸せ住む国があるのかと、山を越え、谷を越え、幸せを探す物語のような人生が多いのですが、聖書は、「あなたが行く先々に、幸せがついてくる」と教えています。そんな人生を送りたいです。

 最後に岡本信弘先生が、エペソ人への手紙一章十四節から語られました。
 毎回、メッセージを語るときに、語る順番をくじ引きで決めます。それも神のコントロールの中にあると感じます。なぜか毎年、岡本信弘先生が最後になって、決め言葉を語ってくださいます。このみ言葉が途中で入っても、浮いてしまうような所がありますが、最後に語られると、全体がうまく着地するからです。エペソ一章十四節に、

『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。』

 人生に幸せがあること、良いことがあるのは、とても魅力的です。しかし、そこに最終的ゴールを置いてはいけない、私たちの人生は、神の栄光のためにあると語られました。
 時々私たちは、自己実現的な意識で神様と向き合ってしまいますが、それではいけません。イエスさまを信じると、祝福から祝福、勝利から勝利へと素晴らしいことが起こりますが、その目的はあくまでも、「神の栄光のため」なのです。

 また、ある人は年をとって弱く、「私には何もできない」と言われます。特に、信弘先生のお母さんが時々、「私は年を取って弱いから何もできない。天国に行った方が良い」と話すそうです。ある人は、「弱いから何もできない、教会で講壇に立っているような人たちはそれが仕事だから良いけど、私には何もできない…」と、もどかしさで嘆いている人もいるかも知れないと語られました。
 しかし神様の採点方法は、人のものとは違うと語られました。人間の採点方法と神様の採点方法は違い、目立たないような働き、小さいと思われる目立たないような働きが、なくてはならない重要なものなのです。人間的な視点で物事を受け取らないようにと語られました。そして今年、すべての人を通して、神の栄光が輝くように、というメッセージでした。
 聖書に、『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』とあります。私たちの生活全般が、神の栄光の為なのです。

 さて、私は詩篇一四四篇一節から十五節が与えられています。

『ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また外国人の手から、私を解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。神は王たちに救いを与え、神のしもべダビデを、悪の剣から解き放されます。私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。』

 このみ言葉は、昨年の暮れから私の心に響いています。「人とは何者なんでしょう。人とは息に似ています。」とあります。
 人は鼻と口を押さえられ、五分も経ったら死んでしまいます。この地上から出て行かなければならない弱い者です。しかし神が人間を造られたのには、一つの目的がありました。それは、「地を支配しなさい」ということでした。その後出現したのが蛇でした。
 人類は目に見えない敵を支配するために造られました。ですから人間の使命は、目に見えない敵と戦うためにあります。人間には戦いの本能があります。
 有史以来、人類はずっと戦争をしてきました。これは人間の中に戦いの本能があるからです。しかし本来、その本能を、目に見えない霊的な敵に向けなければなりません。向かわせる方向を間違うと、国と国、民族と民族との戦いになってしまいます。しかしその本能を、目に見えない敵に向けていくならば、その力は破られます。ですから、『主は戦いのために私の手を、戦のために指を鍛えられると』とあるのです。

 今年皆さんを、神が戦いのために鍛えてくださいます。人の生きる目的がそこにありますので、そこに照準をあわせると、主が天を押し曲げて下りてきて、私たちを援助してくださいます。

 日本は敵だらけです。悪魔・悪霊どもが真剣に働いています。毎日のテレビや新聞を見るとよくわかります。悪魔・悪霊どもが破壊した痕跡を多く見ます。悪魔・悪霊は家庭や学校、社会に侵入して人々を束縛し、死に追いやっています。それは日本特有の悪霊のように思うかも知れませんが、実は、海外から入ってきたものです。
 日本列島に元々住んでいた人は誰一人いません。皆、渡来人です。日本を束縛しているのは外国の神々です。仏教、神道と言いますが、その源流はヒンズー教です。人を陰陽の理論で縛り上げて、吉凶の「吉」も偽りの右の手なのです。光のように見えますが、偽の光であり、偽りの右の手です。そこから救い出してくださるときに、私たちの息子ら娘たちがよく育っていくとあります。

 今年は、この教会の中で、子どもたち、若者たちが祝福されると信じています。社会にどんな問題があっても、主を信じる子どもたちはすくすくと育っていきます。教会にお子さんたちを連れてきてください。神が祝福してくださいます。『羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。』
 また一四四篇十四節に、

『私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。』

とあります。今年、皆さんの町、家庭、教会の中に、この言葉が実現することを祈っています。死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が家庭の中に、教会の中にないように祈っています。神が私たちを守り、すべての人を祝福してくださいます。そして、『幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。』と結ばれています。

 最後に、今まで語られたみ言葉を、二〇〇七年の預言的な言葉として受け取り、「預言的まとめ」として紹介したいと思います。

(二〇〇七年に対する預言的まとめ)

 イスラエル民族の荒野での40年間は、約束の「カナンの地」に攻め込むための訓練期間でした。
 新城教会の霊的戦いは、今年で15年になりますが、その期間はある意味、荒野での訓練でした。けれども、2007年は、新しい地に攻め込む年となります。イスラエルが、カナンの地に侵入したとき、民全体が戦いの中に入りました。同様に、2007年は、教会に属する全てが、その役割を果たす年となります。わたしは、あなたを勇士として用います!

 今年は昨年にまして、良いものが来ます。立ち止まってはいけません。ゴールはもうすぐです。わたしは超自然的な事を起こします。 
 すでにあなた方は、思いもよらない領域でわたしが働いている現実を目にして、驚いているでしょう。そうです。わたしはあなた方が思っている以上に、働いているのです。
 時が来ました。あなたは来て、サタンの頭を踏みつぶすのです。わたしは、常に、常識を超えたところで働きます。わたしの働きに、信仰を働かせてついてきなさい。
 今年は、今まであなたが、「回復不可能」と考えていた領域に回復をもたらします。かつて致命傷を負った部分に、「復讐」と「報い」が来るのです。わたしは、敵の面前で宴を設けます。いつくしみと恵みがあなたを追ってくるでしょう。
 ある人は、「私は役に立たない、何も出来ない」と、もどかしさを覚えているのかも知れません。
 しかし、わたしは言います。神の採点方法は、人の採点方法とは違うのです。あなたが「小さい」と思っているような働きが、かえって重要なのです。
 今年は、あなた方を戦いのためにさらに鍛えます。なぜなら、人は戦いのために創造されたからです。神の目的である、神の栄光を取りもどすために人が働くなら、わたしは、天を押し曲げて降りて行きます。
 今までにも教えたように、日本の束縛は、海外からもたらされたものです。人々は外国からの「偽りの右手」により騙されています。その束縛を解くために、今年、わたしは、「新しい世代」を立ち上がらせます。
 こうして2007年は、群れ全体が祝福され、祝福の上に、祝福が増し加えられるのです。なぜなら、わたしは光であって、その中に、何の暗い部分もないからです。」

 主が語られた言葉の通りになるように、お祈りしましょう。2007年最後の礼拝の時に、この言葉を検証してみたいと思います。
 昨年、語られたことばも、まだ継続されています。神の導きの中を生きることができますよう、お祈りしましょう。


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