Praise the Lord!
〜主をほめたたえよ〜

2007.1.7(SUN)
新城教会牧師 滝元 順師

旧約聖書 詩篇144篇1節〜15節
ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また外国人の手から、私を解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。神は王たちに救いを与え、神のしもべダビデを、悪の剣から解き放されます。私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。

 ハレルヤ!新しい年になって、すでに一週間が経ちますが、どのようにお過ごしでしょうか。月日が流れるのは早いので、あっという間に今年も過ぎてしまいそうです。今日は大変寒い中、教会にお集まりくださり、ともに主をほめたたえることができ、感謝します。
 今日は詩篇一四四篇から学びます。これは私自身と新城教会に、今年のテーマとして与えられているみことばの一つです。

 一四四編は、『ほむべきかな。わが岩である主。』というくだりから始まっています。英語の聖書(TEV)では、『Praise the Lord, my protector! 』となっています。「神をほめたたえよ。私を守ってくださる方。」という意味です。
 二〇〇七年が始まりましたが、人間の力が及ばない領域は、主に助けていただかなければなりません。
 私たちはなぜ、神をほめたたえるのでしょうか。理由はたくさんありますが、その一つは、神は私の助け主であり、守って下さるお方であるからです。ゆえに、私たちは神を心からほめたたえます。一四四篇一節から二節に、

『ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。』

 今年もイエス様が私たちを守る方であることを信じ、感謝し、宣言していきたいと思います。
 先週の日曜日は二〇〇六年の最後の日曜日であり、「Thank you Jesus!〜イエスさまありがとう〜」というタイトルで、メッセージを語らせていただきました。そして、今年は、「主をほめたたえよ!」から始めたいと思います。私たちは、心から主をほめたたえ、賛美しながら歩みたいと願います。

 詩篇一四四篇はダビデが記しました。彼はこの詩をどんな状況の中で詠んだのでしょうか。
 ダビデの生涯は戦いの連続でした。ダビデ王がイスラエルを統一したと言っても過言ではありません。彼は一生涯を戦場で過ごした人物でした。そのような中、彼は幾度もいのちの危険にさらされる体験をしました。しかしそのような中でも、神は彼を助けました。ですから彼は、「あなたをほめたたえます!」と叫ばざるを得なかったのです。
 皆さんも、イエス様によって助けていただいたという体験を持っていると思います。それゆえに、主を心からほめたたえます。

 ダビデは戦場で多くの友や兵士たちが敵弾に当たって倒れ、死んでいく姿を間近で見ていたと思います。しかし、そのような中でも、主が彼を守ってくださいました。詩篇一四四篇三節と四節は、

『主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。』

 先ほどまで生きていた人が、戦場であっという間に死んでいく姿を見て、「人とはいったい何者だろうか・・・」と問いかけています。
 先週一週間は大変忙しかったです。二〇〇六年最後の礼拝があり、越年の集会があり、数時間後、新年礼拝があり、続いて二十四時間のPPHがあり、目まぐるしい毎日でした。毎日が日曜日のようでした。毎日、メッセージをしなくてはならず、話すネタがなくなるような一週間でした。そして、一月五日には、「記念会」がありました。これは天に帰った方を記念するための集まりです。
 教会では、仏教で言う一周忌のようなものはありません。召天者記念会をします。一月五日は中島家の記念会をしました。それはとても良い集まりでした。写真やビデオを見ました。懐かしい映像を見ました。ある意味で、悲しみが新たにされましたが、私たちクリスチャンは天国でまた会えるという、永遠の希望を確認する時となりました。
 人生には、時として悲しみがありますが、主は私たちを守り、永遠の国まで導いて下さいます。感謝なことです。
 今年私は、一四四篇の十四節のみ言葉を受け取っています。

『私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。』

 このみ言葉が教会に実現することを祈っています。『哀れな叫び声が私たちの町にありませんように』とあります。町とは人であり、また、家庭です。皆さんの家庭に、今年は哀れな叫び声がないように、誰も死ぬことがなく、哀れな叫び声がないようにと祈ります。このみ言葉を握って歩んでいきたいと願っています。

 ある少年が言いました。「これでやっと、おじさんは安らかに眠れる」「えっ、おじさんが亡くなったの。知らなかった。」すると彼は答えました。「いや、死んだのはおばさんだよ。」

 おばさんは相当うるさかったようです。このようには言われたくはないと思います。クリスチャンでも、時々、自分の無力さを感じます。自分の力ではどうすることもできないという、無力さを感じることがあります。今年一年の中でも、ある時には自分の無力さを感じることがあるかも知れません。ダビデは大変力強く、権威ある王でしたが、彼は戦場の経験から自分の無力さを感じていたと思います。
 「人とはいったい何者なのだろうか。私たちの人生はどういうものか・・・」しかしそのように落ち込んでいる中で、再び神が語られました。「わたしがあなたを守ります!」

 全く落ち込まない人はいないと思います。私も時々落ち込みます。牧師という職業をしていると、第一報はほとんど落ち込む事ばかりです。しかしそのまま落ち込んでいたら仕事になりません。一度落ち込んでも、イエス様が私たちを助けてくださる方であるというみ言葉を握って立ち上がります。
 皆さんも同じだと思います。「駄目だ・・・」と落ち込むこともあるかも知れません。しかし、このみ言葉を握って立ち上がって下さい。
 イスラエルに王制がしかれる前に、「サムエル」という、偉大な預言者がいました。サムエルの時代には、周りに多くの敵たちがいました。ご存知のように、イスラエルは四百年間にわたるエジプトの奴隷生活から解放され、その後、約束の地「カナン」に入りました。それは「乳と密の流れる地」と約束されていましたが、実際には多くの敵がおり、多くの苦しみがありました。そして度々、イスラエルの民たちは、周辺から攻撃され苦しめられました。
 そんな中、サムエルは苦しんでいる民をミツパという場所に集め、一つの事を語りました。「神の前に祈ろう、悔い改めよう」と語りました。特に、カナンの人々は偶像礼拝に陥っていました。そしてカナン人が拝んでいた偶像を、イスラエルの民たちも拝んでいたのです。彼らはサムエルからその罪を指摘され、神の前に悔い改めました。その時、主は素晴らしい勝利を与えてくださったと記されています。
 第一サムエル記七章十二節から十三節、

『そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。』

 イスラエルの人たちがミツパにおいて、偶像礼拝の罪を悔い改め主を求めたときに、神はイスラエルを助けました。それを記念してサムエルは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味の「エベン・エゼル」と名付けた石を立てました。

 私たちも、今年、神の前に正しい生活をすることが大切です。人生が攻め取られずに守られる秘訣は、「きよい生活」です。時々私たちには、神から罪に対する指摘があります。教会に来ると、やってはいけないリストがたくさんあって大変だと思うかも知れません。なぜ神様は「これはやっても良い、これはやってはいけない」と区別されるのでしょうか。それは、私たちが平安で、祝福された生活をするための基準なのです。
 道路交通法がありますが、これには速度規制など細かい規定があります。最近の車のスピードメーターは、二百キロくらいまでついています。出そうと思えば、百キロでも、二百キロでも、ちょっと踏み込めば出すことができます。しかし一般の道路は、性能に反して四十キロ、五十キロ、六十キロです。性能の何分の一しか実力を発揮できないのです。しかし規則以上にスピードを出したら危ないのです。事故に遭う危険性が高くなります。
 今年は交通事故に遭わないように祈ると共に、交通ルールも守らなければなりません。これは自分自身に言い聞かせていますが、私は近頃、数年に渡って警察に捕まったことがありません。しかしそれは、交通ルールを守っている事とは別問題です。
 今年、誰も交通事故に遭わないよう、祈らなければなりません。しかしそれと共に、規則を守るところに安全があります。

 人間はかなり広範囲の活動ができますが、神が与えた規制をしっかりと守らなければ事故に遭ってしまいます。
 そんな中、最も大きな人生事故を起こしす条件が「偶像礼拝」です。偶像礼拝が一番大きな人生事故を引き起こす原因となります。イスラエルの歴史を見ても、偶像礼拝をしていたときには必ず、敵が攻め込んできました。

 この教会に来ると、偶像礼拝とは何かがはっきりしますから、人生事故から守られます。日本は文化、習慣の中に偶像礼拝的要素が多く隠れているので、切り分けが難しいですが、しっかりと目を開いて偶像礼拝から離れることが大切です。
 人生の中で事故を発生させる三大要素は、「偶像礼拝、憎しみ、性的な罪」です。これらの罪を犯さないできよく歩むならば、守られます。これは守りのための鉄則です。罪を犯したら赦されるという恵みがありますが、赦しに至るまでに悪魔の攻撃を受ける場合が多いからです。罪から遠ざかることが大切です。偶像礼拝は絶対にしないことです。誰かを憎むと悪魔が関わって来ます。性的な罪は国を滅ぼします。現代はそのような罪がはびこっていますが、罪を悔い改め、罪から離れることが自分自身の守りとなります。

 サムエルは民に悔い改めを説きました。その時、神はイスラエルを守りました。敵が領内に入れないように「神の手が防いだ」とあります。私たちも主の手に防いでいただかなくてはならない領域が多くあります。そのためにも、条件を満たすことが大切です。
 二〇〇七年十二月三十一日に、「ここまで主が助けてくださった。エベン・エゼル」と感謝の賛美ができたら素晴らしいです。

ここまで 主が我らを助けてくださった
主の偉大なる 御力に支えられて
ここまで 主が我らを助けてくださったt
主の臨在に 包まれて導かれて

エベン・エゼル エベン・エゼル
主はともに 
エベン・エゼル エベン・エゼル
我らの助け
エベン・エゼル エベン・エゼル
ふと見上げれば 主はここにおられる

 サムエルが民に対してきよめの聖会を開き、民が悔い改めたときに、敵が侵入出来なくなりました。主の手が敵を防いだことを記念して、石を立てたというみ言葉です。
 私たちも今年一年、サムエルと同じように「ここまで主が助けてくださった」と賛美できる一年でありたいと願います。

 旧約聖書中の戦いは現実的な敵との戦争でした。しかしこれが新約聖書に移ると、戦いが福音を伝える「宣教の戦い」であり、それは同時に「霊的戦い」です。
 特に新約聖書では、パウロという人物が多くの地域を巡って福音を語りました。彼には権威があり、神が共に働かれました。しかし、彼の宣教の歴史を見ると、かなり苦しい目にも遭っています。
 私たちは今年、神様のための働きをしますが、色々、困難があるかも知れません。パウロ自身が次のように語っています。第二コリント一章七節から十一節に、

『私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』

 この中で、『アジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。』 とあります。究極の困難に直面したと語っています。
 「ついにここまでだ。もう駄目だと・・・」というところまで追い込まれる経験をしたと記しています。

 二〇〇〇年に東京で「スーパーミッション二〇〇〇」という、四十日間連続のリバイバル・ミッションがありました。その時のテーマのみ言葉は、「エレミヤ書二十九章十一節」でした。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 「将来と希望」というテーマで、「スーパーミッション2000」が開催されました。素晴らしいみ言葉を掲げて行われました。しかし、これまでのリバイバル・ミッションの働きの中で最も私にとって辛かったのが、「スーパーミッション2000」でした。二〇〇〇年という記念すべき年に行われたのにも関わらず、集まりも悪く、お金もたくさんかかりました。開催地が東京でしたので、物価も高く、何もかも予想外でした。私は田舎に住んでいますので、常に、前後左右に一メートルほどの空間がないと生きていけません。しかし東京はそうはいきません。電車はいつも満員で、噛みつき合うのではないという所まで人が接近します。しかし、意外に人々は平然としています。田舎者の私は、「東京は人の住むところではない」と思いました。駐車場を一ヶ月借りようとすると、一ヶ月六万円だと言われました。新城ならば、普通の家を一軒借りることができます。私は家内とともに、ウィークリー・マンションに泊まり込んで働きました。
 しかし、うまくいかず大変落ち込んでいました。「これでリバイバル・ミッションも終わりだ・・・」と思いました。「将来と希望と言いながら、夢も希望もないではない・・・」と落ち込みました。

 そんな時に主が、「将来と希望」の意味について教えてくださいました。それが、第二コリント一章でした。それまでの私は、将来と希望について、「これがあなたの将来です。希望です」と、神がなにかプレゼントを与えてくださるようなイメージでとらえていました。しかし、聖書が告げている将来と希望とは、パウロの発言にもあるように、「今度こそ駄目だ。これは死ぬしかない」というような状況の中で、主は今までも助けてくださった、ゆえに将来も救い出してくださるはずだという「信仰」、それが「将来と希望の意味」であると教えられました。
 クリスチャンは将来に希望を持って生活しますが、時には、私たちの意思に反するような状況が起こるかも知れません。
 皆さん自身の歴史の中でも、「駄目だ、絶体絶命だ」という中から、「イエス様が助け出してくださった」という経験があるとしたら、「今回の問題からもきっと助けてくださるに違いない」という「信仰」が、将来と希望につながると教えています。
 『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな』というみ言葉がありますが、今まで主が良くしてくださったことが、未来への鍵となっていきます。「あの時に助けてくださった主は、今回も助けてくださるはずだ!」と、パウロは信仰を持ちました。

 私も「スーパーミッション2000」で、「もう駄目」だと思いましたが、神様は絶妙に助けてくださり、必要もすべて満たされ、最終的には着地は素晴らしい集会となりました。
 人生は着地が重要です。どんなふうに展開したとしても、必ず良い着地が必要です。

 去年の暮れから、私たちは『神は光であってその中に暗いところは何一つない』というみ言葉を教えられています。神は「イエス」と言っておいて、同時に「ノー」と言われる方ではありません。しかりと否が同時存在する方ではないと告げています。イエスならば、イエスだけです。必ず、勝利を与えてくださいます。今の状況がどのような状況だとしても、今まで助けてくださった主は、あなたをこれからも助けて続けてくださると信じ、進むことが大切です。
 「信仰」とは、まだ見たことがない領域を先につかむことです。この二〇〇七年は必ず、主が光の中を導いてくださいます。現在、問題があったとしても、それは必ず祝福への扉となり、鍵となっていきます。
 教会に最近来られる方々は、色々な問題を持って来られる事が多いです。どうにもならない問題が、それが二転、三転しているうちに、信じられない領域の勝利へとつながっていくのをいつも見ています。常に私たちは、将来に対して希望を持つと共に、信仰を持たなければならないことを教えられます。
 またパウロは一章十一節で、

『あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』

 それと共に、「祈りが必要」だと教えています。今日午後から、県民の森祈り会にぜひ行ってみてください。年の初めに、祈りから始めると祝福されます。信仰とともに、祈りが必要です。神は人間と交わるための法則として「祈り」を準備されました。祈りがあると扉が開かれます。人は祈る必要があります。
 また「多くの人々の祈りによって」とあります。周囲の人たちが誰かのためにとりなして祈ると、将来と希望への扉が開かれると教えています。色々な人々にとりなして祈ってもらうことは大切です。とりなして祈ってもらうことによって、それまで動かなかった領域が動き始めるのです。

 さて、パウロが死を覚悟するほどの問題が、アジヤで起こったと語っていますが、それはどんな問題であったのでしょうか。
 聖書は立体的に読まないとわからない面があります。この箇所と、使徒の働き十九章を合わせて読んでみるとよくわかります。使徒の働き十九章二十一節から二十八節に次のように記されています。

『これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。そこで、自分に仕えている者の中からテモテとエラストのふたりをマケドニヤに送り出したが、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまっていた。そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と叫び始めた。』

 小アジヤ(現在のトルコ付近)付近でパウロが活動したことによって、多くの人々が偶像礼拝から離れ、主に立ち返りました。アジヤの中心的都市は「エペソ」でした。そこにはアルテミス神殿があり、「ダイアナ」という女神が祀られていました。そこから、ただならぬ騒動が起こりました。それは、アルテミス神殿の模型を作っている業者たちが、模型が売れなくなったと言って騒ぎ出したからです。そして、それがパウロたちのせいだと騒ぎ立ち、「これでは大女神アルテミスの威光が地に落ちてしまう」と最終的には群衆を巻き込み、パウロらを捕らえて殺そうとしました。
 その体験が、アジヤで死にかけたという、パウロの記述につながりました。それは宣教の働きの中で、彼らにとって一番大きなインパクトとなりました。

 この問題は、「物が売れなくなった」という経済的理由でした。それは見える問題であり、パウロは「あなたたちの祈りによって助けられた」と理解しました。
 さてパウロは、「ローマに行く」と言っていました。やがて様々な戦いを経て、最終的にローマ帝国の中枢であるローマへ入りました。しかし捕えられ、牢屋に閉じこめられました。そこで彼は晩年を送ります。元気よく働いている渦中においては、落ち着いて物事を考えることができなかったことでしょう。しかし、ローマで軟禁状態となり、自分の人生を振り返ったことでしょう。人生の中で色々な圧迫を受け、死にかけたようなことをも思い出し、助けられたことを感謝して祈ったことでしょう。

 そのとき、神が一つの事を彼に教えました。エペソにおいての騒動は、銀細工人たちの商品が売れなくなったという、経済的理由で騒ぎが起こったのではない、ということでした。彼はそれまで表面的理解しかなかったのかも知れません。
 ローマで彼は幾つかの手紙を書いています。その一つがエペソ人への手紙です。エペソ人への手紙は、ローマの獄中で書かれたと言われています。彼がそんな中で、エペソの教会、諸教会に書き送った内容がエペソ六章十節から十八節にあります。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 彼が晩年になって知らされたのは、「エペソでの騒動を、あなたは表面的にしか考えていなかったかも知れないけど、実は、それはただの騒動ではなかった。霊的な戦いであった。あなたは死ぬほどの強い圧迫を受けて、大変な目にあったかも知れないけど、それは悪霊どもの働きであった」と教えられたのです。
 もしかしたら、パウロは騒動の渦中では、現実的状況しか見ていなかったのでしょう。目に見えない世界について考える余裕がなかったのかも知れません。しかし、神の前に出て、「あれはまさしく、血肉の戦いではなかった。霊的な戦いであった」と気付かされ、急遽、手紙をエペソ教会をはじめ諸教会に送ったと私は理解してます。

 私たちは強い圧迫、問題の背後に霊的な力が関わっていることを理解しなければならないのです。今年一年間守られるためには、霊的戦いについてよく理解することです。
 詩篇一四四篇一節から二節に、

『ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。』

 神様が守って下さればすべて良しではありません。『戦いのためにあなたを鍛える』と教えています。私たち自身が戦わなければなりません。なぜならば、『人とは何者なのでしょう。』という問いかけの中で、『人は神よりもいくらか劣る存在』として造られたからです。詩篇八篇三節から六節に、

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

 人間が造られて、最初に神様から受け取った言葉は、創世記一章二十七節から二十八節、

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 『地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』とあります。人間が造られた目的は、「地を従える」ため、「地をはう生き物を支配するため」とあります。創世記三章では、蛇が出てきました。それは単なる蛇ではなく、悪魔の象徴です。私たちがなすべきことは、地を従えることなのです。私たちは神よりもいくらか劣る存在として、地を従えるために造られました。人類は霊的戦いのために、それも神の栄光を持ち去った悪魔・悪霊どもを打ち破るために造られました。霊的戦いに気付くならば、詩篇八篇一節から二節は素晴らしいみ言葉です。

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』

 霊的戦いに関して、色々な問題があってから気づくのも良いですが、その前に知っておくなら安全です。もしも私たちが戦うために造られた存在であるならば、何と、幼子や乳飲み子の口でさえも敵の力を破るほどに、「人類は権威ある存在」と教えています。

 だから、詩篇一四四篇で語られています。『人とは何者なのでしょう・・・』それは、「神よりもいくらか劣る存在として、地を従え、特に、地をはう狡猾な生き物である悪魔・悪霊を支配するために造られた存在」なのです。それを知るならば、主は戦いのために、私たちの手を、戦のために指を鍛えてくださり、主自ら天を押し曲げて下りてきて、いなずまを放って敵を蹴散らし、主ご自身がともに戦ってくださるのです。

 素晴らしい主のみ業を見ることができるゆえに、私たちは心から主をほめたたえるのです。今年、先に、戦いのポジションに着くことです。エペソ六章では、そのように勧められています。

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。』

 神が今までも助けてくださったから、これからも助けてくださるという「信仰」、それは「大盾」です。それによって、悪いものが放つ火矢を全て、とどめることができるのです。その矢に当たらなくなると教えています。

 み霊の与える剣である、神の言葉を受け取るようにとあります。聖書六十六巻がありますが、サヤに納まっている言葉ではなく、抜き身の剣として使えるみ言葉の剣を受け取らなくてはいません。

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 聖霊によって祈ることが大切です。御霊による祈りは、預言的祈りです。神は私たちに預言的祈りを与えてくださいます。私たちが常に、ファイティングポーズを取っているときに、悪魔が私たちを攻撃しようとしても、事前に察知して打ち破る祈りが与えられるのです。それは「邪悪な日」を事前に打ち破る祈りです。

 ぜひ新城教会のために祈ってください。教会の機能はみ霊による祈りにかかっています。皆さんが祈ってくださると、教会全体が聖霊によって預言的に活動します。その結果、敵は打ち破られ、教会に属する全てが守られます。ですから、み霊による祈りを受け取ることが大切です。教会が預言的になると、悪魔が打ち破られますので、教会は権威ある場所となります。そのような場所は社会のどこにも、教会以外ないのです。普通では解けない問題が、教会の中で解かれるようになっていきます。その鍵が聖霊による祈りです。ひとり一人が聖霊によって祈り、主が預言的に教会を導いてくださるように祈っ下さい。

 一二月三十一日に、六人の牧師、副牧師がみ言葉を語ってくださいました。その時の記録が今日、皆さんに配布されましたのでぜひ、お読みください。

 また私は、六人の先生方が語ったことと、私が新年礼拝で語ったみ言葉を合わせる役割です。それを読むと、二〇〇七年に対して、主が預言的に導かれていると感じます。けれども、それに安住するのではなく、日々祈り、信仰をもって歩んでいかなければならないと思います。そうすれば、主が語られた事柄が実現すると信じます。

 多くの人々は暮れから新年にかけて占いをします。それは「偽りの右の手」です。いくら占いが当たったとしても、それは偽りの右の手なので、やがてそれを餌として暗やみに引き込まれます。しかし私たちの神様は良い方であり、すべてを支配されている方ですので、必ず勝利へと導いてくださいます。偽りの右の手ではなく、真理の右の手であるみ言葉を受け取りましょう。

 

(2007年に対する預言的まとめ)
 
 イスラエル民族の荒野での40年間は、約束の「カナンの地」に攻め込むための訓練期間でした。
 新城教会の霊的戦いは、今年で15年になりますが、その期間はある意味、荒野での訓練でした。けれども、2007年は、新しい地に攻め込む年となります。
 イスラエルが、カナンの地に侵入したとき、民全体が戦いの中に入りました。同様に、2007年は、教会に属する全てが、その役割を果たす年となります。わたしは、あなたを勇士として用います!
 
 今年は昨年にまして、良いものが来ます。立ち止まってはいけません。ゴールはもうすぐです。わたしは超自然的な事を起こします。
 すでにあなた方は、思いもよらない領域でわたしが働いている現実を目にして、驚いているでしょう。そうです。わたしはあなた方が思っている以上に、働いているのです。
 時は来ました。あなたは来て、サタンの頭を踏みつぶすのです。わたしは、常に、常識を超えたところで働きます。わたしの働きに、信仰を働かせてついてきなさい。
 
 今年は、今まであなたが、「回復不可能」と考えていた領域に回復をもたらします。かつて致命傷を負った部分に、「復讐」と「報い」が来るのです。わたしは、敵の面前で宴を設けます。いつくしみと恵みがあなたを追ってくるでしよう。
 
 ある人は、「私には役に立たない、何も出来ない」と、もどかしさを覚えているのかも知れません。
 しかし、わたしは言います。神の採点方法は、人の採点方法とは違うのです。あなたが「小さい」と思っているような働きが、かえって重要なのです。
 
 今年は、あなた方を戦いのためにさらに鍛えます。なぜなら、人は戦いのために創造されたからです。神の目的である、神の栄光を取りもどすために人が働くなら、わたしは、天を押し曲げて降りて行きます。
 
 今までにも教えたように、日本の束縛は、海外からもたらされたものです。人々は外国からの「偽りの右手」により騙されています。その束縛を解くために、今年、わたしは、「新しい世代」を立ち上がらせます。

 この言葉を、主が今年のために与えてくださった、預言的な言葉として受け取りたいと思います。2007年に神がすべての方々に圧倒的勝利を与えてくださるように!

 今年一年、主をほめたたえ、信仰をもって前進していきましょう。ここまで主が私たちを助けてくださったゆえに、「Praise the Lord!」、主をほめたたえます。

 また私たちが神の創造物として、敵と戦うために造られたゆえに、主をほめたたえます!神の栄光を取り戻すために造られたことを感謝しましょう。お祈りします。


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